竹田青嗣『欲望論 第1巻:「意味」の原理論』(その3)



1.現代の相対主義

 先述したように、現代哲学は今なおゴルギアス・テーゼの枠内を出ておらず、「本体論」とそれに寄生する「相対主義」との対立を繰り返している。

 まず、論理実証主義による形而上学的観念論批判。

 しかし彼らは、ニーチェやフッサール的観念論の真の意義を見誤っている。

「ムーアやエイヤーのいう「観念論」はせいぜいスピノザ、パークリー、シェリングの独断論的観念論をしか意味しない。論理実証主義者たちは、そもそも近代観念論の核心的意義、すなわち認識の問題を解明するには、客体を前提する思考から始発するわけにはいかないという根本原則の意義を捉え損ねている。しかも、繰り返すが彼らの観念論反駁の論法は、部分的にゴルギアスの帰謬論的反駁の応用である。」    

 その論理実証主義もまた、さらに強力な相対主義の出現によって今日瀕死状態である(これについては次のページで詳述する)。

「じっさい、ウィーン学団を中心とする論理実証主義者たちは、やがてそれが観念論−形而上学を反駁したと同じ論法によってすなわち、ゴルギアス的帰謬論によって相対主義者たち(クワイン、ストローソン、クリプキ、クーン、フアイヤアーベントなど)から論駁される。以後、この相対主義的認識批判主義が現代分析哲学の主流となる。」    

 以上のような現代の相対主義は、しかし2つの重大な問題を抱えることになる。

 前回も述べたように、相対主義は、その相対化の論理による限り、自らの論拠もまた相対化せざるをえない。

 さらに悪いことに、相対主義は、「正しさ」や「確かさ」を相対化することで、ただ力が強い者だけが力を得る、「力の論理」「パワーゲーム」を招来してしまうのだ。

「相対主義=懐疑論は一切の現実論理を相対化しようとするが、原理上、現実世界が代表する「力の論理」に打ち勝つことはできない。現代思想における批判的相対主義者たちはこのことに無自覚なのである。」    


2.現代の形而上学

 相対主義が勃興する一方で、現代における形而上学もまたかまびすしい。

 今日において、その寓喩−説話的世界理説は、難解化韜晦化謎言化という著しい特徴をもつ。


「現代思想もまた多くの寓喩−説話的世界理説をもつ。ハイデガーの「存在」理説、ラカンの「現実界−想像界−象徴界」理説、ドゥルーズの差異の世界理説、レヴィナスの絶対他者の形而上学——。」

「これら現代の寓喩−説話的世界理説は、例外なく精緻、難解、膨大、そして謎言的秘教性を特徴とする(これは普遍的根拠づけの原理をもたない仏教諸理説の基本戦略でもあった)。この膨大、精緻、難解、秘教的理説からその真意を取り出すには、多大な時間と労力を必要とする。多大な時間と労力とによってようやく取り出された理説は、そのこと自体によって深遠な「真理」のように見えてくる。これもまた長く維持されてきた秘教的世界理説の伝統的戦略である。」

 ニーチェによる「本体論」の解体以降、「世界はこうなっている」と主張する「本体論」は、大手を振って歩けなくなっている。

 しかし、それでもなお「本体論」を展開したい哲学者たちは、一見そうは見えないような仕方で、極めて難解複雑なレトリックをもって、独自の世界理説を述べ立てるのだ(その実例は次のページで詳述する)。


3.現代の実在論

 以上見てきたような形而上学的独断論と相対主義の対立の問題圏を抜け出るべく、近年さまざまな哲学的試みが現れ始めている。

 その1つの代表が、メイヤスー思弁的実在論

 彼は、単なる独断論とは違った仕方で、「本体」を思弁的に論証しようとする。

 その要諦は次のようだ。

「メイヤスーの論理の要点はこうである。「死後の世界がどうあるか」という問いを極限的な仕方で問うと、いくつかの決して確証されえない独断論的推論が現われる。これらの独断論的推論を打ち破るためには、われわれは世界の絶対的な「非理由律」を、すなわち世界の存在が偶然であるという絶対的な必然性を前提しなければならない——。」

 世界の偶然性という必然性という絶対的実在。これがメイヤスーの結論だ。 

 これに対して竹田は次のように述べる。

「しかしこのメイヤスーの思弁的弁証は、万人にとって妥当性をもつだろうか。われわれはまずこういわねばならない。世界の存在の可能性、偶然性、必然性についての思弁的論証から、世界の存在の実体性(それがどのようなものとして存在するのか)について何か確実なことを言うことは、原理的にできない、と。」

「彼の思弁論は独自のものであるとはいえ、本質的に、相関主義(あるいはむしろ相対主義)に対抗する反駁的帰謬論という性格を出てはいない。」

 メイヤスーは、相対主義に抗して確実な「実在」を論証しようとするのだが、結局のところ、その論証の仕方もまた、相対主義と同じ帰謬法に頼るほかなくなっているのだ。

 われわれは、どう頑張っても「本体」などにたどり着くことはできない。

 一切の「本体論」を解体せよ。これが本書の第1のメッセージなのだ。


4.ニーチェにおける最後の「本体論」

 さて、先にニーチェによる本体論の解体を見たが、実はこのニーチェにも、「本体論」の最後の残滓が見出せる。

 「力への意志」仮説がそれである。竹田は言う。

「あらゆる生き物の生成変化はその根本動因として「生への意志」あるいは「力への意志」を内存するという仮説は、妥当だろうか。」    

「この仮説は、ニーチェ思想における〈何ものも、思考や感覚という出発点の背後にまわってみることはできない〉という根本ルールに背反しないだろうか。」    

 先述したように、欲望=意識存在である私たちは、その欲望=意識を「可能にするもの」を同定することなどできない。

 同定しようとした瞬間、それはさまざまな「本体論」の乱立となってしまうのだ。

 われわれの欲望=意識を可能にしているのは、「神」である、「存在」(ハイデガー)である、「差異」(ドゥルーズ)である、「遺伝子」である……etc。

 しかしどれひとつとして、その真を証明することなどできない。

 竹田は言う。

「現代科学では「遺伝子」が同種の根本原理、根本動因を意味するが、ニーチェの仮説は、力の拡大の原理が組み込まれた遺伝子という観念にほぼ等しい。」

 ニーチェの「力への意志」もまた、結局のところ確かめ不可能な仮説にすぎないのだ。

「要するに、快−不快、情動、衝迫、すなわち生き物における「エロス的力動」の生成は、欲望−実存論的には本質的に一つの絶対的起点であって、これに何ものかを先構成させることはできない。」

 欲望(エロス的力動)こそが、これ以上遡ることのできない「確かめ可能」な底板である。それゆえ、一切の思考をこの底板から始発せよ。

 これが竹田「欲望論」の最重要テーゼである。


5.情動所与

 前述したように、「本体論」の解体はフッサールによって徹頭徹尾完遂された。

 しかし竹田によれば、フッサールには残念ながらこの欲望論的観点が欠けている。

 それを端的に表すのが、フッサールによって「諸原理の原理」と呼ばれた「個的直観」「本質直観」だ。

 一切は主観の確信でしかないが、その最も原理的な所与を、フッサールは「個的直観」と「本質直観」として提示する。

 「個的直観」とは、何かが「見えてしまっている」といった知覚直観のこと。この直観を、私たちはどうしても(どのような相対化の方法によっても)否定することはできない。

 他方の「本質直観」は、その対象の意味の直観のこと。私は今水の入ったグラスを見ているが、それを「飲み水」という意味として見てとっている。そしてこのこともまた、私たちはどうしても否定することができない。

 しかし竹田は言う。原的な直観はこの2つにとどまらない。

「むしろ実状は、「私」があるものを果物として見るとき、この「見ること」(知覚像)、その対象意味、さらにこの対象が喚起する情動が、ほぼ同時に所与されているのではないだろうか。」

 「個的直観」「本質直観」には、同時に必ず「情動所与」もまた伴っている。竹田はそう言うのだ。

「たとえば、われわれが花を見るとき、知覚像がまずそれを「花」という「ノエマ」として示し、そのあとで花の美しさが所与されとはいいがたい。花を見ることにおいては、一般には、知覚像、対象意味、そしていわば情動所与が一瞥のうちに所与されるといえる。さらに音楽体験の場合では、奏でられる旋律は、それが対象ノエマを所与する以前に、第一義的に、一つの情動(情緒性)を所与してこないだろうか。」

「現象学的−欲望論的な内省的洞察の基本的原則からは、一つの知覚体験に本質的に属するのは、フッサールが規定する「個的直観と本質直観」(『イデーン』)ではなく、「個的直観」(知覚像)、「本質直観」(対象意味)、そして「情動所与」の三つの契機であるといわねばならない。」   

 これは、フッサール現象学をさらに発展させる極めて重要な指摘だ。

 なぜならこの「情動所与」の契機が理解されることで、フッサール現象学は、人間的意味や価値の原理を問うための、欲望論的射程を持つことができるようになるからだ。

 と、それについてはまた後のページで詳述することにして、まずはこの「情動所与」について。

 この「情動所与」が原的な所与であることは、夢について考察すればより理解されることになるだろう。

「夢の世界が日常的な現実体験と比べて欠く第一の契機は、明確な自己意識の希薄化である。夢においては「私は誰それである」という自己対象化的意識がその強度を失う。このことは、自−他の対象的な関係意識の希薄化をも意味する。第二の契機は、時間・空間的因果的秩序の整合性と連続性の曖昧化そしてその解体。〔中略〕第三の契機は、出現する対象・事象・出来事の知覚所与、意味所与、情動所与の間の、定常的結びつきの不安定と変転である。」

 夢においては、自己意識や時間・空間秩序の整合性が失われるだけでなく、「情動」もまた不規則に変化する。

 そしてこの不整合こそが、私たちが現実と夢とを区別する本質契機にほかならない。

 したがって、逆に言えば、私たちは現実知覚において、必ず「情動所与」をその認識の根拠にしているということだ。

 夢でなくても、私たちの認識に情動が所与されていることは次のような例から理解することができる。

「いつも通っていてよく知っているはずの街路がなぜかふと馴染みないものに見えて道を間違えたかと思うようなケース、見慣れている文字をじっと眺めているとそのなじんだ「感じ」が剥落して、奇妙な文字に見えるという場合、あるいはまた疲労がひどいとき、突然周りの世界から「生き生きした現実感」が失せて、離人症的感覚におちいるような場合。」    

 私たちの原的な直観(認識)は、個的直観、本質直観に加えて、情動所与を伴っているのだ。

 この「情動所与」の発見は、のちに展開される竹田欲望論の序奏をなすことになる。



『欲望論 第1巻』(その1)
『欲望論 第1巻』(その2)
『欲望論 第1巻』(その3)
『欲望論 第1巻』(その4)
『欲望論 第1巻』(その5)


(苫野一徳)



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竹田青嗣『欲望論 第1巻:「意味」の原理論』(その2)



1.ニーチェによる「本体論」の解体

 こうして、ついにニーチェによる「本体論」の解体が哲学史に登場する。

 竹田はまず次のように言う。

「忘れるべきでないのは、あらゆる種類の本体論の背後にはつねに内的動機が潜んでいるということである。ある場合には敬虔な信仰、ある場合には美しき世界への憧憬、ある場合には世界の現状に対する倫理的抗議、またある場合には、単なるシニシズムあるいはデカダン。
 ニーチェによる本体論の解体の遂行には、つねに本体論を支える動機についての鋭い本質的洞察第がともなっている。」

 ニーチェは、世界理説としての本体論がなぜ人間によって描き出されてしまうのか、その動機を描き出す。
 
 それは、彼のルサンチマン分析に見事に結実している(ニーチェ『道徳の系譜』のページ等参照)。

 たとえば、『権力への意志』における次の有名な言葉(ニーチェ『権力への意志(2)』のページ参照)。

形而上学の心理学によせて。――この世は仮象である。したがって或る真の世界がある、――この世は制約されている、たがって或る無制約的な世界がある、――この世は矛盾みちている、したがって或る矛盾のない世界がある、――この世は生成しつつあるしたがって或る存在する世界がある、――これらの推論はまったくの偽りである〔中略〕。こうした推論をなすよう霊感をあたえるのは苦悩である。〔中略〕すなわち、現実的なものに対する形而上学者たちのルサンチマンがここでは創造的となっているのである。 

 「世界がかくかくでなければよかったのに」。このルサンチマンが、人びとをして「真の世界」という「本体論」にいたらしめる根本的なものなのだ。

 ではニーチェは何を説いたか?

 「世界それ自体」といった「本体」などどこにも存在しない。それは徹頭徹尾「遠近法」的なものである。

 これがニーチェの「遠近法主義」である。

 ポストモダン思想家らによって、これは従来相対主義の根拠として受け取られてきた。

 しかし竹田は次のように言う。

「ニーチェの「遠近法主義」は認識相対主義をまったく意味しない。〔中略〕ニーチェがおいた「原理」はむしろ、一切の認識は欲望相関的−目的相関的である、と総括されねばならない。認識が欲望相関的であること、このことは認識の相対性ということ以上に、認識の普遍性の可能性の条件を示すのである。」

「ここには完全に新しい一つの存在論が、全哲学史のうちではじめてその姿を見せている。すなわち「存在」とはわれわれの(生き物の)生それ自身が構成するものにほかならないという存在論、力の相関者としての「世界」こそが存在の第一審級である、という新しい存在論が現われている。」

 一切は「相対的」なのではなく「欲望相関的」なのだ!

 ここにこそ、単なる相対主義から、普遍洞察性を問う哲学原理への転換の可能性がある。

 「本体」などどこにもないし、客観認識のために必要でもない。

 私たちは、世界が欲望相関的に現象すること、そしてその現象の仕方の普遍性を洞察することで、独断論にも相対主義にも陥ることのない道を切り開くことができるのだ。

 それに対して、ニーチェから相対主義的観点のみを受け取った現代の相対主義は、未だに存在・認識・言語の不可能性ばかりを鬼の首を取ったかのように主張し続けている。

「二〇世紀の初頭には、ヨーロッパの全体主義思想への対抗を一つの動機として、ムーア、シュリック、エイヤー 、カルナップ、ノイラートなどによる論理実証主義が登場して論理学的文脈における形而上学批判を開始する。さらにこの論理主義的合理主義を実在論的独断論であるとして、分析哲学およびポストモダン思想による相対主義的な形而上学批判が現われる。ウィトゲンシュタイン、クワイン、デイヴィッドソン、ストローソン、ダメット、パトナム、ローティ、サール、クリプキ、フーコー、デリダ等々。この二〇世紀における哲学、思想の変転は、じつのところすべて、昔ながらの普遍主義対懐疑主義の対立の現代的変奏にほかならないのである。」    

 これら相対主義的哲学を、「欲望論」によって終焉させる必要がある。竹田はそう述べる。


2.フッサール現象学

 ニーチェの本体論解体は、その後のフッサール現象学によって完遂されることになる。

 ところが従来、現象学はおびただしい誤解にさらされてきた。しかも、互いに相反する主張と共に。

 すなわち、一方においては、主観主義として。他方においては、厳密な客観主義として。

「二つの異なった陣営からの二つの異なった現象学批判がある。一方は、ルーマンやハーバーマス、つまり実証主義的客観主義からの批判。ここで現象学は伝統的近代観念論、つまりドイツ観念論哲学の継承とみなされ、形而上学的観念論として批判される。他方は、デリダ、フーコー、ローティなど、相対主義=懐疑論からの批判。現象学を伝統的形而上学における認識論的基礎づけ主義の後継とみなして、その厳密認識主義、真理主義を批判する。この両極からの現象学批判という現象には理由がある。」


「現象学は本質的に二つの批判対象をもつ。第一に、伝統的な主観−客観構図の上に公然あるいは暗然に基礎をおく哲学的、論理的立場、形而上学的独断論と論理主義的、実在論的独断論。第二にその対抗者としての現代的相対主義=懐疑論。それゆえ、現代におけるこの両極の思考が現象学を敵視するのは必然的な帰結である。一方はそれを、世界の実在を認めない主観主義、意識主義、観念論として批判し、もう一方はまったく逆に、それを客観主義−真理主義を擁護する形而上学への復古として批判するのである。」

 つまり、客観主義の側からすれば現象学は単なる主観主義であり、相対主義の立場からすれば、現象学は「主体の形而上学」と受け取られてきたのだ。

 しかしこれらは、どちらも現象学の真のモチーフと意義がつかみ取られていないがゆえの誤解にすぎない。

 現象学の核心を竹田は次のように述べる。

「なにより重要なことは、フッサール現象学とその方法原理の中心動機を、ヨーロッパの認識問題の完全な解明として受けとること。そのためには現象学の根本方法を、「内在的意識」における「世界確信」の信憑構造の解明の方法として、すなわち存在対象の信憑形成の条件と構造の解明の方法として受けとること。「確信成立の条件」の解明の学として現象学を理解すること。」

 現象学は「確信成立の条件」の解明の学である。

 それは一切の「本体」を前提しない。しかしなお、私たちにある確信が到来していることについては疑えない。であるなら、その確信はいかに成立し、さらに他者と共有することができるのか。

 この「確信成立の条件」解明の学としての現象学理解こそが、フッサール現象学の核心を最も的確に捉えた現象学理解なのだ(フッサール『現象学の理念』『イデーン』のページ等参照)。

 その要諦を竹田は次のように言う。

「フッサールの方法によって導かれる、認識論の解明の根本課題は二つ。
(1)ある領域で普遍認識が成立するその条件と構造を解明すること。
(2)なぜこれまで普遍認識が自然科学、数学の領域に限定されていたかを解明し、ついで、人文科学の領域でこのことが可能となるその可能性の条件を解明すること。」

 そしてその方法の要諦は次のように整理される。

(1)「主観−客観」の一致は検証されえないが、「内在−超越」の一致ならばこれを検証しうる。言いかえれば、認識がいかに客観(対象そのもの)に一致するかは決して言えないが、それがいかに「確信として成立するかはいえる。

(2)「現象学的還元」の方法。認識の外部に想定される伝統的な「超越存在」、すなわち世界自体、対象自体、性質自体、つまり「客観存在」自体、「本体」の観念の中止。これをフッサールは、遮断、括弧入れ、判断中止、エポケーなどの語で呼ぶ。つまり世界の客観存在の想定は停止され、世界はただ、“私によって生きられているもの”としてのみ存在するとみなされる。

(3)超越論的現象学における「超越論的構成」は、カント的な世界の先験的構成論とは異なり「私の意識」の地平における「世界確信」の構成の本質構造論を意味する。すなわち「超越的構成」とは、「対象確信の一般構成」の原理論、あるいは「確信成立の条件の解明」の理論を意味する。この理解においてはじめて現象学的還元の方法は、「本体論」の解体の上にたつ認識問題の原理的解明の方法として理解されうる。

(4)この方法を通してのみ、なぜ主−客一致の不可能にもかかわらず「客観認識」(=普遍的認識)が可能であるかが説明され、同じことだが、「本体」や「真理」の観念を排除したまま「普遍的認識」の可能性の条件が明示される。さらに、この方法を通してのみ、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ウィトゲンシュタインにおいても達成されなかった、相対主義=懐疑論の完全な克服と解体(すなわち認識論的解明をともなう解体)が成し遂げられる。

(1)は、客観(本体)など知りえないが、内的「確信」ならば私たちはいつでも確かめられるということ。(「主観−客観」図式から「内在−超越」図式へ)

(2)は、世界はまさに私の内的「確信」として存在するほかないということ。(現象学的還元

(3)現象学は、この「確信」がいかに成立するかを解明するものであること。

(4)普遍認識は、この内的「確信」が「共同確信」たりうるところに成立するということ。したがってそれは、「本体」の認識を何ら意味しない。


3.ハイデガー存在論

 このフッサール現象学の功績を、さらに一歩進めたのが弟子のハイデガーだ。

「ハイデガーの「存在配慮相関性」は、人間の身の回り(周囲世界)の諸対象の存在意味(ノエマ)を欲望相関的存在者として把握した点で、フッサール現象学に対する一つの決定的な優位をもつ。〔中略〕さらに彼は、世界の「客観認識」一般が人間の実存的世界了解を基底とし、その一般化として成立することを明瞭に理解していた。ハイデガーの功績は決定的であり動かしえないものである。」

 世界は欲望・関心相関的存在者として現れる。

 フッサールにはほとんどなかったこの「欲望論」的観点を、ハイデガーは現象学にもたらしたのだ。

 これはニーチェが先駆け、フッサールを経てハイデガーによって再定式化された原理であると言っていい。

 しかしその一方で、ハイデガー哲学には隠しようのない「本体論」への意志があった。

 彼は現象学を一歩おし進めたと同時に、二歩も三歩も退行させてしまったのだ。

「一方でハイデガーは本質観取の方法を見事な仕方で人間存在の分析に適用するが、しかし他方で、ニーチェ−フッサールによって敢行された「本体の解体」の仕事を、ふたたび存在の形而上学探求へと差し戻す。この奇妙な二重の意義性において、ハイデガー哲学は二〇世紀最大の問題的哲学となる。」

 後期になればなるほど、ハイデガーのその傾向は強くなる。

「ハイデガーの「存在」の本体性は、一切の存在者の存在を可能にするものとしての本体、すなわち一切の存在根拠の根拠性を意味する。それは伝統的形而上学における事物存在の総体(存在者の総体)でも、その究極原因としての存在者(絶対者至上者)でもない。むしろ、これら伝統的な「本体」概念の、現代的に極限化された理念にほかならない。」

 一切の存在者を可能にするものとしての「存在」。これはまさに、かつてニーチェによって解体されたはずの「本体」にほかならない。

「ニーチェの思考の原則をなすものも「先構成の禁止」である。それはつぎのように言い表される。《思考が導出されえないものであることは、感覚と同様である。しかしこのことで、思考が根源的であるとか「それ自体で存在するもの」であるとかが、けっして証明されているのではない! そうではなくて、私たちは思考し感覚するはたらき以外には何ものをももってはいないがゆえに、その背後にまわってみることができないということが確立されているにすぎない》『権力への意志』」

 われわれが欲望=意識存在である以上、この欲望=意識の背後に回って、それを「可能にしているもの」(先構成しているもの)を知ることはできない。

 この先構成を問うた瞬間、哲学は再び「本体論」へと逆戻りする。

「何がわれわれの思考(意識)や感覚を可能にしているかが、何がわれわれの意識のあり成しているのか。この問い、原因の原因を、根拠の根拠をわれわれの「意識」の背後にまわって把握しようとする思考こそ、あらゆる形而上学的、あるいは客観主義的(実証主義的)独断論の源泉である。存在論的現象学者たちは、「存在の深さの次元」に降りて行こうとする。つまり、われわれの意識、思考、感情を可能にしているもの、つまり現象の根拠の根拠であるものを探求しようとする。しかしまさしくここに「本体」の思考が現われるのである。」    

 ハイデガー存在論は、こうして現代哲学における「本体論」を再び延命させることになってしまったのだ。


『欲望論 第1巻』(その1)
『欲望論 第1巻』(その2)
『欲望論 第1巻』(その3)
『欲望論 第1巻』(その4)
『欲望論 第1巻』(その5)


(苫野一徳)



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竹田青嗣『欲望論 第1巻:「意味」の原理論』(その1)



はじめに

 21世紀、ついに日本から、哲学史を塗り変える革命的な哲学書が登場した。

 そう断言したいと思う。

 古代ギリシアや古代インド・仏教哲学などから、現代の最新哲学にいたるまで、「ほとんどの」と言っていいほどの膨大な哲学およびその周辺領域を総覧し、現代にまで続く哲学最大の問題を明らかにするとともに、その問題を、自身の「現象学欲望論哲学」こそが徹底的に解明しうることを論証する。

 その歴史的インパクトは、近代におけるカント『純粋理性批判』に匹敵する。さらにその内容は、カント三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)をカバーする。壮大さにおいては、ヘーゲル『精神現象学』をさえ思わせる。

 100年後、現代哲学の本流は、ニーチェフッサール(部分的にハイデガーウィトゲンシュタイン竹田青嗣と言われることになるだろう。そのためにも、できるだけ早い英訳が望まれる。


 哲学最大の問題とは何か?

 ひと言で言うなら、それは「形而上学的独断論」とこれを相対化する「相対主義」の終わりなき対立だ。

 古代哲学は言うにおよばず、現代の最新哲学もまた、この対立図式を一歩も抜け出すことができていない。

 これを竹田は、本書において「本体論」の問題として提示する。

 ありていに言うなら、「本体」とは「絶対の真理」のこと。

 神、世界それ自体、物自体、語りえぬもの……

 哲学史において、「本体」はさまざまな形で変奏されてきた。

 哲学の歴史は、この「本体」を何らかの仕方で表現しようとする形而上学的独断論と、その不可能性を主張し続ける「相対主義」の対立に溢れている。

 相対主義は、一見「本体論」を解体しているように見えるが、その基本的戦略は「帰謬法」を用いて「本体」の認識不可能性を主張することにあり、そのため実態は「本体論」と表裏一体のものである。

 つまり相対主義は、一見そうは見えないとしても、「本体」を想定しつつその不可能性を暴くという方略をとっているのであり、その意味で、形而上学的独断論と支え合っているのだ。

 そしてこの相対主義は、相対化の論理による限り、自身の正当性もまた相対化せざるを得なくなるというパラドクスと同時に、人間的言説の世界を、結局のところ「パワーゲーム」に帰結させてしまうという重大な問題を抱えている。

 「確かなものは何もない」と言い続けることは、結局のところ、現実世界においては「力ある者」の理屈だけが跋扈する事態を招来してしまうのだ。

 哲学史上、この問題を原理的に終わらせる可能性を持っていたのは、ニーチェフッサールの哲学だった。

 しかし残念ながら、ニーチェには「本体論」の最後の残滓をなお見て取ることができる。

 また、フッサール現象学は、徹底的な「本体論」の解体を完遂したが、「本体論」解体後に本来であれば可能になるはずの、人間的「意味」や「価値」の原理論の展開にまでは至らなかった。

 なぜなら、フッサールには竹田が本書で展開する「欲望論」的構えがほとんどなかったからだ。

 ニーチェとフッサールによって切り開かれた新しい哲学を、竹田が徹底する。そして、「本体論」の徹底的な解体後にその可能性が開かれる、人間的「意味」と「価値」の原理論を展開する。

 すなわち、とは何か、とは何か、芸術とは何か……

 本書では、これら人間的価値の本質解明も展開される。


 「大物」哲学者が登場しなくなって久しいが、この同時代に、今後200年の哲学の基礎を打ち立てるような著作が出たことを心から喜ばしく思う。

 と同時に、われわれ後続世代は、そのバトンを真摯に受け取る必要がある。

 竹田哲学を批判的に吟味検証し続けるとともに、彼が切り開いた原理を土台に、21世紀の新しい哲学を展開すること。

 かつてフッサールが述べた表現を借りるなら、今わたしたちの目の前には、新しい哲学の「無限の領野」が広がっている。

 この長大な著作を読み通すには、哲学や哲学史にかなりの程度精通している必要があるが、以下ではできるだけ分かりやすく、本書を紹介・解説していくことにしたいと思う。

 ちなみに、現在第3巻に向けての準備が進められているとのこと。テーマは「倫理」の原理論になりそうだ。


1.哲学と普遍戦争

 まず本書序文において、竹田は本書のモチーフをこう述べる。

「哲学は世界から「暴力原理」を縮減するための戦いを闘ってきたし、その対抗原理を時間に耐えて徐々に創り出してきた。人間のこの歴史を理解するものは、現在、哲学が立っている重要な岐路を理解するであろう。その第一の意義は、形而上学的独断論と懐疑論=相対主義を終焉させ、そのことによって、人間の本質的自由の条件である理性の集合的探求としての「言語ゲーム」の本義を再生することにある。」 

 前述したように、哲学の歴史は形而上学的独断論と相対主義の対立に満ちている。

 前者は、「世界の真理はこうなっている」と主張し、後者は「それは決して分からない」と言う。

 前者が行き着くところまで行けば、全体主義となる。

 後者はそれを相対化するが、しかし「正しいものは何もない」と主張し続ける限り、自身の相対主義もまたその確かさの根拠を失うというパラドクスに陥ってしまう。

 さらに悪いことには、相対主義は、この現実世界における「パワーゲーム」を招来することになる。

 「正しさ」の根拠がなくなってしまえば、世界は「パワーゲーム」、すなわち「普遍戦争」状態に陥るほかないからだ。

 独断論にも相対主義にも陥らず、普遍的で共通了解可能な哲学原理を提示することは可能か?

 可能である。

 竹田はそう述べる。

 そのためには、まずは一切の「本体論」と、これと対をなす「相対主義」を終焉させねばならない。


2.ゴルギアス・テーゼ

 「相対主義」とは何か? 

 竹田はその方法を、ゴルギアス・テーゼと呼んで次のように総括する。古代ギリシアの相対主義者、ゴルギアスによって示された3つのテーゼだ。

(1)およそ何も存在しえない。あるいは存在は証明されない。
(2)万一存在があるとしても、決して認識されない。
(3)万一存在が認識されたとしても、決して言語化されえない。

 竹田は言う。

「ゴルギアス・テーゼこそは、ヨーロッパ哲学を通して存続するすべての懐疑論=相対主義の論理的原理を体現するものであり、その後現われた一切の懐疑主義、相対主義思想(ポストモダン思想・現代分析哲学を含む)の源泉である。」

 現代の相対主義哲学もまた、どれほど精緻化されているように見えようとも、結局のところこのゴルギアス・テーゼの枠内にある。

 以下、竹田は2500年以上におよぶ哲学の歴史を総覧し、独断論と相対主義の対立を克服する原理を提示する。


3.世界理説の対立

 「形而上学的独断論」同士の対立は、哲学史において至るところで見られるが、その最も典型的にして最初の対立を、私たちは古代ギリシアにおいて見ることができる。

 パルメニデス「存在」ヘラクレイトス「生成」がそれだ。

「パルメニデスの思考の方向転換から取り出されたものは、第一に、世界の全体存在の「一」性。第二に、無から存在、存在から無への転移の不可能性、その帰結としての、世界の不変性と不滅性、そして生成、消滅の観念の仮象性である。パルメニデスのこの諸帰結が、後続するギリシャの哲学者たちの思索に決定的な方向づけを与えたことは、ただちに明らかになる。」

「この観念は、ギリシャ哲学における「存在」の概念の思考を一歩先の地平へと推し進める。すなわち、「存在」と「生成」という新しい対立の地平を創り出す。」

 一方に、「一」にして不変の「存在それ自体」という観念が登場する。しかしそれには必ず、たえず変化し続ける「生成」としての世界というヘラクレイトス的観念が対立する。

 エンペドクレスレウキッポスデモクリトスらは、この対立を克服すべく努めた。

 一方に不変の「原子」があるが、この原子は「運動」する。彼らはそう考えたのだ。その推論は次のように要約できる。

(1)「原子」はそれ以上不可分な充実するもの(=ある)の最小単位である。
(2)諸事物の多様性と生成変化は、原子の形態、配列、位置関係の変化によって現われる。それを促すのはなんらかの「力」(動因)である。
(3)原子の生成変化が生じるには、充実体(ある)とともに空虚(ならぬ)が並存しているのでなければならない。

 しかし言うまでもないが、これもまた1つの検証不可能な「世界理説」にすぎない。


4.懐疑論=相対主義

 「世界は本当はどうなっているのか」という問いは、以上見てきたようにさまざまな「世界理説」を生み出すことになる。

 これら理説には、次の4つの主要な類型があると竹田は言う。

「哲学的思考が生み出す四つの主要な理説上の対立。始元原理(要素)としての一元論と二元論(多元論)、存在原理としての「存在」と「生成」、認識原理としての実在論と観念論、感覚論と超感覚論、そして普遍主義と相対主義。なにより注意すべき点は、ギリシャ哲学において、これらの対立は純粋な論理的対立として追いつめられることで、明瞭に「認識の謎」へと、すなわち、認識の「正しさ」を何が保証しうるか、という問いへと、ゆきついたということである。」    
 
 一元論と二元論。存在と生成。実在論と観念論。普遍主義と相対主義。

 このように対立する世界理説が次々に現れると、ことの当然の成り行きとして、哲学者たちは「世界の真理など本当に分かるのか?」と問うようになる。

 こうして、「真理など分かるはずがない」と主張する懐疑論=相対主義が登場する。

 典型的なのは、「アキレスと亀」などのパラドクスで知られるゼノン。そして先に述べたゴルギアス。

 ゴルギアスは、『自然について』(現存せず)において、先述したように次の3つを証明したと言われている。

「第一に、なにものも「存在」しない。あるいは「ある」(存在する)という述語をつけることのできるものは何もない。
 第二に、およそどんな認識も不可能である。たとえ存在があるとしてもわれわれはそれを正しく認識することはできない。
 第三に、仮に何かが存在し、またその認識が可能だとしても、この認識を言葉によって表現することは不可能である。」

 これについて、竹田は次のように言う。

「第一のテーゼは存在の謎を示し、第二のテーゼは認識の謎を、そして第三のテーゼは言語の謎を表示する。ギリシャ哲学における世界の存在についての理説はこうして哲学の本質的謎を生み出すところで第一の円環を閉じる。」

 相対主義は、その帰謬論的論証を駆使して、認識の不可能性をひたすらに主張するのだ。


5.ソクラテス、プラトン、アリストテレス

 しかし私たちは、この世界の一切合切を相対化してしまうことなどできるのだろうか?

 相対主義の論理は、「善悪」や「美醜」、「ほんとう嘘」といった、人間的意味や価値を問うことを無効化してしまう。

 しかし本当にそれでよいのだろうか。

 この相対主義に抗して、人間的意味や価値の普遍性を問い直そうとしたのがソクラテスプラトンだった。

 彼らの哲学には、人間的意味や価値の本質を解明するための方法論の萌芽があった。

 すなわち「対話」

 これは、のちのフッサールの「本質観取」に通ずる重要な方法だ。人間的意味や価値は、「本質観取」を通してのみ解明することができるのだ。

「「本質観取」の方法の要諦は、内省によって経験からことがらの核心をなす本質を取り出し、それを間主観的に検証して共通了解へと持ち込むことである。」    

 しかしソクラテスとプラトンのモチーフは、次のアリストテレスによって「自然主義」化され、哲学史において十分に展開されることがなかった。

「アリストテレスのイデア批判の要諦は、「イデア」を天上に座するあらゆる存在の「本体」とみなす哲学的思考を、われわれの日常的、良識的な事物観へもういちど再転換しようとする視線にある。」   

 自然主義的なものの見方は、現代人にはフィットするように思われる。

 しかしそれは、行き着くところ「唯物論」と「観念論」の対立を再び生み出すことになる。

 世界は、私たちの精神も含めて一切合切「物質」なのか? それとも私たちの「観念」こそが世界を生み出しているのか?

 ここに、私たちは再び、確かめ不可能な「世界理説」の対立が再演されるのを見る。

 さらに、自然科学主義的世界観は、一切を物質原理に還元して考えることで、人間的「意味」や「価値」の探究を無効化してしまう。

 後述する現代の物理学主義的哲学のように、それは人間的意味のすべてを脳信号などに帰するのが関の山なのだ。

 しかし、人間的意味や価値の世界の一切が脳信号に還元されるなどと、いったい誰が「確かめる」ことができるのだろうか。


6.カントの「物自体」

 近代になって、「本体」の観念はカント「物自体」の概念によく表されるようになった(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

「カントの「物自体」とは何か。絶対的認識も経験もされえず、しかしその存在の想定なくして「われわれの世界」の存在自体が考えられないもの、われわれの世界の総体を絶対的に可能にしているものとしての「真なる存在」。それは完全にアクセス不可能であるがゆえに「語りえぬ」ものであるが、われわれがこの世界に生きて経験する限り、その存在を否認することが決してできない「何かあるもの」。」
  
 この「物自体」の観念を徹底的に破壊したのはニーチェだったが、ニーチェ以後もなお、この観念はさまざまに形を変えて現代哲学の中に忍び込んでいる。
 
「この「世界それ自体」、「本体」としての世界という観念は、キリスト教の「超越神論」が滅んだ後、近代哲学の観念論哲学の全体を貫く一つの根本観念となるが、ニーチェ「神の殺害」の一撃の後も生き続け、二〇世紀の現代思想にまで及ぶことになる。たとえば、ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」、あるいはポストモダン思想における「表象不可能なもの」の観念。そして、フロイトの「無意識」、ハイデガーの「存在」、ラカンの「現実界」、さらに、ドゥルーズの絶対的な「差異」、デリダの「アルシ-エクリチュール」。これらは、一見奇異に聞こえようと、どれも「世界それ自体」(=本体)の観念の現代的な変奏形態に他ならない。これらどの観念も、人間の経験世界(=現象)の背後にあって現象一般を可能にしている何ものか、しかしそれ自体は決して認識も表現もされえない何ものか、を意味する。」
 

7.ドイツ観念論

 カントの後のドイツ観念論において、「本体論」に関する議論は前進と後退の双方を見せる。

 まずフィヒテ。彼には大きな功績がある。

「彼の第一の功績は、カント超越論的観念論をさらに「観念論」の根本意義を徹底化するところまで推し進めた点にある。ここでは一切の「存在」はただ「自我」(意識)と相関的にのみ措定され、「物自体」あるいは「本体としての世界」をはじめに前提することは厳密に禁止される。」    
 
 フィヒテにおいては、「本体」の前提の禁止という、のちのニーチェやフッサールに先駆ける洞察が見られるのだ。

「第二の、これはほとんど注目されていない功績。フィヒテの「自我」ではなく自ら思惟の運動を遂行する「事行」である。この概念は、ニーチェ的な「力」の概念、「我欲す」としての主体の概念を先駆する。」 

   こうしてフィヒテは、いわば「欲望論」的構えの先駆でもあった。

 世界それ自体などはない。それは徹頭徹尾、主体の欲望に相関して分節・認識されるものなのだ。

 ところがシェリングによって、このフィヒテの功績は後退させられてしまう(シェリング『人間的自由の本質について』のページ等参照)。

 フィヒテの「主観的観念論」を、シェリングは「客観的観念論」へと差し戻してしまう。

 それはつまり、あの古い「本体」を再び想定するということだ。

「第一に、世界は聖なる「絶対的同一者」であるという宣言。第二に、それは「語りえぬもの」「不可解なもの」であり、知的直観においてのみ到達される、という託宣。」   

 これはもはや「預言者」の言葉である、と竹田は言う。

「ハイネの証言はここでも興味深い。ロマン主義的汎神論のスターとなったシェリングについて彼はつぎのように書く。ここまでくるとシェリングは哲学者というよりむしろ酔狂な「詩人」となった。シェリングはそのことで「たくさんの馬鹿者」から絶大なる喝采を受けている(たくさんの馬鹿者は、後にヘーゲルが「美魂」の語で呼ぶ宗教的熱狂者たちを指す)。」    

 ハイネを受けて、竹田も次のように言う。

「哲学が思考の原理的方法を見失い、世界についても人間についても新しい原理的な思考を創設できないとき、哲学的思考は、一方で挫折の意識からくる相対主義=懐疑論と「アイロニズム」を、他方で韜晦と謎言的話法によって虚妄な希望と救済を説く「予言の学派」を沸き立たせるのである。」    

 哲学の敗北は、単なる相対主義に陥ることに加えて、その反対に、「世界の真理はこうなっている」と、検証可能性を度外視して述べ立てる「予言の言葉」としても現れるのだ。

 続いてショーペンハウアーについて。

 彼の哲学は、従来の「神」という「本体」を「意志」に変えたものと言っていい。

 ただし、この「意志」は「盲目の意志」であるとしたところにショーペンハウアーの面白さがある(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』のページ参照)。

 彼は、「神」という「本体」が持っていた目的論的世界像を解体したのだ。

 とはいえ、それが「本体論」であることに変わりはない。

「この意志は世界の本体ではあるが盲目の意志である、すなわちここには究極目的も究極的価値も消え失せ存在しない。この独創的推論によってショーペンハウアーは、ヨーロッパの汎神論論的世界像の終焉を推し進める役割を果たしたが、ただしそれは、インド的世界像を介した厭世主義的観念の色調によって、ヨーロッパ的な本体観念を脱臼させたにとどまる。ヘーゲルはショーペンハウアーの人間哲学を指して「浅薄な思想家」と呼んだが、ヘーゲルのような本質洞察の力をもつ哲学者からは、人間の諸相についての彼の皮相的、厭世的、独断的論評がそのように映るのは理由のないことではない。」    

 以上見てきたようなヨーロッパにおける「本体論」は、19世紀末のニーチェによって、やがて徹底的に解体されることになる。

『欲望論 第1巻』(その2)
『欲望論 第1巻』(その3)
『欲望論 第1巻』(その4)
『欲望論 第1巻』(その5)


(苫野一徳)


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