シュッツ『生活世界の構造』


はじめに

 現象学的社会学の創始者として知られるシュッツ(1899-1959)。

 フッサールが創始した現象学を、社会学に応用した。

 本書は、シュッツの未完の集大成を、高弟トーマス・ルックマンが編んだもの。日常生活世界についての、分厚い現象学的記述が続く。

 しかし、本書で明らかにされていることのほとんどは、私には改めて叙述するまでもない自明のことであるように思われる。これほど細かな記述をすることに、一体どれほどの意味があるのだろうか。

 本家フッサールの「知覚」の本質分析、その弟子ハイデガーの「実存」の本質分析、メルロー=ポンティの「身体」の本質分析など、名だたる現象学者の現象学的本質分析に比べて、シュッツのそれは、ただ細かいだけで、一部の例外を除いて深い洞察がほとんど見られない(フッサール『イデーン』、ハイデガー『存在と時間』、メルロー=ポンティ『知覚の現象学』のページ等参照)。

 ともあれ、以下シュッツの「日常生活世界」分析を追っていくことにしよう。


1.生活世界とは何か

 まず、シュッツは生活世界を次のように定義する。

「日常生活世界とは、常識的態度のうちにいる十分に目覚めた通常の成人が、端的な所与として見出す現実領域のことであると理解されるべきであろう。」    

「生活世界は、何よりも実践の領域であり、行為の領域なのである。それゆえ行為と選択の問題は、生活世界の分析において中心的な位置を占める。」

 こうしてシュッツは、生活世界における私たちの「行為」と「選択」にフォーカスしてその本質構造を明らかにする。


2.生活世界の成層化

 現象学的な考えに従えば、私たちは客観世界それ自体を前提してはならない(フッサール『イデーン』のページ参照)。

 それゆえ、ここで言われる生活世界は、私たちの主観的経験に現れる意味的世界のこととなる。

「何よりも重要なのは、様ざまな現実秩序を成しているのは客体の存在論的な構造ではなく、われわれの経験のもつ意味だということを重視することである。」    

 私たちは、日常生活において様々な意味領域を絶えず行ったり来たりしている。

「ある意味領域から別の意味領域への移行は、唯一、「飛躍」(キルケゴールの意味での)をとおしてのみ成し遂げられるのである。ここで「飛躍」とは、ある体験の様式を別の体験の様式に取り替えることにはかならない。」    

 それはえたとば、「仕事にとりかからねばならない」という動機によってだったり、「科学的観照をしている際の突然の空腹」によってだったりする。

 また私たちは、時に空想の世界や夢の世界とも行き来する。


3.世界時間

 さて、私たちは、このように極めて主観的な経験の意味世界を生きているのだが、また同時に、客観的な時間の中を生きているとも確信している。

 この時間を、シュッツは「世界時間」と呼ぶ。

 たとえば私たちは、眠りによって意識が中断するものの、目覚めたときにはまだその世界時間が続いていることを確信している。


 さらに言えば、自分が生まれる前、あるいは死んだ後にも、世界は続いていることを確信している。

 この、自身の時間の有限性を根拠に、私たちは1日、あるいは人生のプランを計画するのだ。


4.主観的時間

 その一方で、私たちは自身の主観的時間をも生きている。

 そして私たちは、この主観的時間における経験の意味を、絶えず反省を通して理解している。

「デューイの言葉は、経験の意味構成の時間構造を明確にするうえでなお有益であろう。ある経験の意味は、経験「それ自体」に備わっているわけではなく、むしろ反省的な対向によって付与されるのである。」

 この反省的理解には、2種類の仕方があるとシュッツは言う。

 複定立的な把握と、単定立的な把握である。

「過ぎ去った経験の意味を「把握」するには二種類の仕方がある。すべての経験は、もともと内的持続のうちで一歩一歩——フッサールがこの過程をそう名づけたように複定立的に——形成される。私は、実際の意識におけるこの複定立的な形成過程を、反省的対向によって追遂行することができる。」

「だが、〔中略〕、複定立的に形成されてきた経験の意味を一瞥のもとに——フッサールがそう名づけたように単定立的に——捕捉することができるのである。」   

 要するに、一歩一歩順を追って把握することもあれば、それを一瞥のもとに把握することもあるのだ。


5.他者

 自然的態度において、私たちは、私たちと同じような「他者」が存在していると確信している。また、その他者と私たちが同じ世界を共有していると確信している。

 では、その他者を私たちはどのように経験しているのだろうか?

 シュッツは、他者関係には「汝指向」「われわれ関係」と、「彼ら指向」「彼ら関係」があると言う。

 ブーバーの言う、「我と汝」の関係と「我とそれ」の関係に若干近い。もちろん、ここにおけるシュッツの理論には、ブーバー理論のような倫理的含みは一切ないが(ブーバー『我と汝』のページ参照)。

「われわれが汝指向という表現によって指示するこの対向は、他者が「人格」として経験される一般的な形式なのである。これ以降、汝指向において現出してくる他者のことを共在者と呼ぼう。」    

「彼ら指向の準拠点は、類型的な同時代者の意識過程に関する類型であり、具体的かつ直接的に経験される他我の現存在でもなければ、一歩一歩形成される主観的意味連関を伴った他我の意識生でもない。彼ら指向の準拠点は、社会的世界一般についての私の知識から派生してくるのである。したがってそれは必然的に、ある客観的な意味連関のなかに位置している。」    

 「われわれ関係」が人格同士の関係であるのに対して、「彼ら関係」は、客観的な意味連関における関係(あの人は教師である、警察である、子どもである・・・など)である。


6.生活世界についての知識

 続いてシュッツは、私たちがどのように生活世界についての知識を得ていくかを明らかにする。

 私たちは、様々な類型を元に世界を見ている。そしてその類型をはじめにもたらすのは、まずやはり両親である。

「客観的な社会的現実との最初の出遭いにとって決定的な共在者は、もちろん年長者であり、そしてなかでもとりわけ、また類型的にいっても、社会的に定義された両親である」    

 私たちが知識集積をしていくにあたっての第一の基本要素は、世界時間と身体であるとシュッツは言う。

「状況は、内的持続がそれを超越する世界時間のなかに埋め込まれることによって、また身体が、体験する主観に賦課された生活世界の構造のうちに組み込まれることによって、変わることなく「境界づけられる」ことになる。」    

 私たちの知識は、世界時間と自らの身体という条件に規定されているのだ(たとえば、もし仮に30次元の世界があったとしても、私たちは身体能力的にそれを認識することができない)。

 このように、私たちの知識はいわば客観的に制限されているものの、同時に私たちは、様々な知識を主観的条件において獲得していく。

 例えば、ルーティン化した経験を通して、私たちは様々な知識を自明のものとして獲得していく。

 ところが、このルーティンを破る「問題的状況」が生じたとき、私たちは新たな知識を獲得しようとするのだ。


7.親近性、規定性、信憑性

 先述したように、私たちは、知識を様々な類型に応じて獲得する。それゆえ「親近性」とは、自らの経験がその類型に当てはまることを言う。

 たとえば、「犬」という類型を私は持っているが、この類型にあった動物を私が見たとき、私はその動物に親近性を覚える。

 この「類型」は、私にとって「規定」されたものだ。したがって「規定性」と「親近性」には密接な関係があるとシュッツは言う。

 しかし、私たちの生活経験を記述する上で最も重要なのは、「規定性」や「親近性」よりも「信憑性」である。私たちは自らの生活経験を、絶えず何らかの「信憑性」に基づいて送っているからだ。

「知識要素の信憑性が、ある意味ではもっとも重要な次元である。他の諸次元にくらべて信憑性は、生活世界における行為とはるかに直接的に絡み合っている。信憑性は、行為企図の実行可能性に関する比較衡量を規定するからである。」    

言語は、きわめて高い信憑性(「私は間違いなくそれを知っている」)から、様ざまな中間段階(「非常に蓋然的に」「おそらくは」「もし私に間違いがなければ」)を経て、ごくわずかない信憑性(「私にはそう思える」「そうかもしれないが、あるいはまたそれは」……など)にいたるまで、この次元の段階を特徴づける多くの言い回しを提供している。」



8.レリヴァンス

 「レリヴァンス」は、シュッツ理論の重要概念の1つである。

 もっとも、シュッツ自身はこの言葉を十分に定義づけていないため、その本質を理解するのはやや困難だ。

 ここでは、さしあたり様々な「相関性・関係性」と考えておけばよいだろう。
 
 私たちは、様々なものに対して様々な形の相関性を見てとっている。

 シュッツは、この相関性には大きく主題的レリヴァンス、解釈的レリヴァンス、動機的レリヴァンスという区分を設けることができると言い、前の2つには「賦課されたレリヴァンス」「動機づけられたレリヴァンス」があると言う。

 何かを主題的に見ている時や解釈しようとしている時、私たちは、そのレリヴァンスが向こうからやってくる(賦課される)場合もあれば、能動的に見出す場合もあるというわけだ。

 賦課されるレリヴァンスは、たとえば、親近性のあったものが親近性を失った時に見出されるものだ。

 たとえば、家に帰った時、部屋の隅に見慣れないロープの束があったとする。その時、私たちは思わずそれに関心を惹かれる。

 動機づけられたレリヴァンスは、賦課されたレリヴァンスとは対照的に、主観的な動機を理由にレリヴァンスを発見することだ。

 さらにシュッツは、仮定的レリヴァンスというものも提示する。


「私が部屋で一緒に座って手紙を書いていると、突然、通りから大きな爆発音が聞こえてきた。その爆発音は私の注意を強引に惹きつける。私は手紙を書くのを中断する。〔中略〕それはどうも銃声か自動車のバックファイアであるようだと思いつく。もしそれが銃声だったら、私は何らかの対応措置を講じるよう動機づけられる。窓に近づき何も異常がないことがわかると、銃声という可能性をありそうもないこととして取り消す。」

Xが生じているのかどうか、主観的な確信をもって言うことができないのがいまの状態である。私はただ、その出来事は類型Xからのものであるかもしれないという知識をもっているにすぎない。精確に言えば、その出来事によってある「仮定的レリヴァンス」が私に「賦課」されたのである。」

 主題的レリヴァンス、解釈的レリヴァンス、動機的レリヴァンスのそれぞれは、互いに絡み合っている。

「経過のなかでは、これら三つのレリヴァンス構造のいずれかが「最初に」実効的に作動すると述べることは意味のないことであろう。ただ反省的に捕捉する場合に限って、いずれかのレリヴァンスが「最初に」現われ出てくることはあるだろう。」    


9.知識と社会

 以上のように、私たちは様々な仕方で知識を獲得するが、この個人的知識と社会的知識はどのような関係にあるのだろうか?

 社会的な知識は、決して主観的な知識の総和ではないとシュッツは主張する。

 それはむしろ、主観的な知識の「客体化」である。

 そのもっとも原初的なプロセスは、次のようである。


Aが鍋の水は熱いのか冷たいのかを知りたい場合、Aはここでもまた「自立した」一連の段階を試みるなかで、二つの可能性のどちらなのか決断を下すことができる。ところが、Bが鍋に指を入れ、すぐさま苦痛に顔をゆがめて指を引き抜くのを目にしたとしたら、ABの行動とその表情との結びつきを、Bが鍋の水を熱いとみなしたことの指標として解釈するだろう。」

Aは問題をめぐる巡回査察のある段階をBから「引き継いだ」、だがAはその「試みずに済ませた」諸段階を、多かれ少なかれ明確な類推の帰結を用いて自らの手で解釈しなければならない、ということである。この段階の「客体化」においてすでに、きわめて限定されてはいるが「知識の社会的な派生」が事実として関係してきている。」

 上の例では、AとBは互いを見知った間柄だ。

 しかし知識が社会化するとは、それが匿名化していくことである。

「主観的知識は記号体系という「理念化され」「匿名的な」意義母型へと移し替えられ、また、対応する意味へと移し戻されることによって、ふたたび主観的な知識へと変換される。」    

 さらに、この客体化に「世代を超えた伝達」が加わって、知識は社会化されたと言いうることになる。

 またその際、1.社会構造が長らく保持され、2.社会的知識がその社会にとってレリヴァントであり続けていることが、知識の社会化の条件となる。

 ただし例外として、宗教的知識などを挙げることができるとシュッツは言う。

「これまで述べてきたことが当てはまるのは、とりわけ日常生活の問題を克服するための明白でプラグマティックな技術に対してなのである。問題になっている知識が、たとえば宗教的知識のような非日常的な現実領域に関する知識に近ければ近いほど、形式は変化して場合によっては神話的な形式をとることがあるにしても、その知識が保持される蓋然性はますます高くなる。」    

 この、本書最後に書かれた「知識と社会」の章には、なるほどと唸らせてくれる知見がいくらかある。



(苫野一徳)

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ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』


はじめに

 ギデンズ理論の集大成、あるいは概説とも言える本書。

 「ポスト・モダン」が叫ばれて久しいが、ギデンズに言わせれば、私たちはむしろ近代が徹底化された「ハイ・モダニティ」の時代を生きている。

 しかしそもそも近代(モダニティ)とは一体何なのか?

 本書でギデンズは、その特徴を克明に描き出す。


1.近代の特徴

 ギデンズはまず次のように言う。

「手始めに、「モダニティ」とは、およそ一七世紀以降のヨーロッパに出現し、その後ほぼ世界中に影響が及んでいった社会生活や社会組織の様式のことをいう、と簡単に述べておきたい。」 

 この、17世紀ヨーロッパに始まり、今では世界中に広がった「近代」には、「速さ」「広がり」「全くの新規性」という特徴がある。

「関係する特徴をいくつか指摘できる。ひとつは、近代という時代が始動させた途方もない《変動の速さ》である。」

「二つ目は《変動の拡がり》である。地球上のさまざまな地域が相互連関に組み込まれていくにつれ、社会変容のうねりは、地球上のほぼすべての地域にすさまじい勢いで及んでいる。」

「三つ目の特徴は、《近代的制度の本質》に関係している。近代の社会形態のなかには——国民国家という政治システムや、無生物エネルギー源への生産の全面的依存、生産物と賃金労働の徹底した商品化のように——先の時代にはまったく存在しなかったものもある。」

 近代以前、人びとはそれぞれのローカルな時間・空間を生きていた。しかし近代以降、私たちは、世界的に均一化された時間・空間を生きるようになった。

 暦や世界地図を見れば、そのことは一目瞭然だ。

「そうした転換の主要な側面のひとつが、世界中に及んだ暦の標準化である。今日では誰もが同じ日付制度にしたがっており、たとえば「西暦二〇〇〇年」の到来は、地球規模の出来事である。」 

「地球全体が次々に地図上に示され、〔中略〕世界地図は、空間を、特定の場所からも地域からも「独立した」存在として確定していった。」    

 ここからさらに、ギデンズは近代の特徴として、1.脱埋め込み、2.合理化された組織、3.一元化された歴史、の3つを挙げる。


2.脱埋め込み

 脱埋め込みとは何か。

 それは、人びとがローカルな関係性から均質な時間・空間の世界に解き放たれることをいう。

 それはつまり、具体的な人間関係から「抽象的システム」への移行であるとも言っていい。

 そのシステムの1つの典型が専門家システムだ。

「専門家システムとは、われわれが今日暮らしている物質的、社会的環境の広大な領域を体系づける、科学技術上の成果や職業上の専門家知識の体系のことをいう。」    

 近代の人々は、この専門家システムを信頼しながら生きている。たとえば、「自宅の階段を上る際、たとえ建造物が原理的に倒壊しうることを承知していても、私はことさら何の懸念もいだかない。住宅の設計と建築について設計者や建築業者が用いる知識のきまりについて私はほとんど知らないが、それでも私は、その人たちのおこなったことがらを「信じて」いる。」


3.再帰的近代

 ギデンズによれば、近代の最大の特徴はその「再帰性」にある。

 前近代において、人びとは、家族、共同体、信仰、伝統など、あらかじめ決められたシステムに従って生きていた。

 しかし近代において、私たちは、多様で複雑な様々な状況を絶えず顧みながら、日々を再帰的・自己更新的に生きている。

「再帰性は、システムの再生産の基盤そのもののなかに入り込み、その結果、思考と行為とはつねに互いに反照し合うようになる。」    

「モダニティを特徴づけているのはより新しいものにたいする欲望であるとよく言われるが、こうしたとらえ方は、おそらくまったく正確ではない。モダニティに特徴的なのは、目新しいものをそれが目新しいという理由だけで取り込むことではなく、再帰性が——もちろん、省察それ自体にたいする省察も含め——見境もなく働くことである。」    

 この近代の再帰性に、社会科学もまた加担している。

「たとえば、今日、欧米のどこかの国で結婚生活をはじめようとする人は誰でも離婚率が高いことを承知している」

「そうした認識は、専門家でない一般の行為者の間に社会学の見解が浸透した結果、理論づけされていったものである。だから、結婚しようと考えている人は、事実上誰もが、家族制度の変化や、男女相互の社会的地位や勢力に生じた変化、性道徳の変化等について何らかに認識している——こうした認識がすべて、その後の変化過程のなかに入り込み、再帰的にその過程を形づくっていく。」


4.再埋め込み、顔の見えるコミットメント、素人による再専有、社会参加

 しかし、このような近代の特徴には、一見相反するように見える現象が交錯している。

 まず、近代における「脱埋め込み」には、同時に再埋め込み」の現象が交錯している

 たとえば、時間・空間が均一化され、私たちは世界のどこにでも行けるようになったが、そのことが、かえって私たちに「遠く離れた家族」との結びつきを強めさせることにもなった。

 このことは、別言すれば「顔の見えないコミットメント」「顔の見えるコミットメント」との交錯でもある。

 近代は、基本的に「顔の見えないコミットメント」からなる社会だ。前述したように、私たちは具体的な人間関係ではなく「抽象的なシステム」を信頼しながら生きている。

 しかし同時に、私たちは「顔の見えるコミットメント」の機会も豊富に持っているのだ。

「われわれは、たんに匿名的な、顔に表情のない世界ではなく、《人びとがともに暮らす》世界に生きており、抽象的システムがわれわれの活動のなかに入り込むことは、こうした世界を生みだすうえで本質的に重要である。」    

 「専門家システム」についても同じことが言える。

 先述したように、近代社会は「専門家システム」への信頼をもとに成り立っている。

 しかしこの専門知識は、素人によって再専有されるのだ。

「近代の社会生活は複雑であり、そこには、専門的知識を一般の人びとが何らかのかたちで再専有し、それらの知識を日々の活動のなかで決まりきったかたちで充当利用していく、そうした数多くの「フィルター・バック」過程が存在する。」    

 最後に、「脱埋め込み」によって私生活中心主義を送ることができるようになった私たちだが、そんな私たちは、また同時に、近代社会の様々な問題を前に連帯して社会運動を起こすこともできる。

「無関心や冷笑主義という態度を最もとりやすい人びとの側にさえ、さまざまなかたちの積極的社会参加がおそらくあちこちに生じていく。なぜなら、繰り返していえば、モダニティがわれわれの生活にもたらす安心と危険の差し引き勘定には、もはや「別の人たち」は存在しない——完全に局外者でいることは誰にもできない——からである。」    


5.リスク社会

 以上描き出してきた近代の特徴において、忘れてはならないのはその世界規模のリスクである。(cf. ベック『世界リスク社会論』

 グローバル化した様々な危険を、私たちはもはやローカルな形で制御していくことが不可能になった。

「資源やサーヴィスは、もはやローカルな統制を受けなくなるため、それゆえ、予期しない不測の事態に対処するために、そうした資源やサーヴィスを再度ローカルに統制していくことができなくなる。〔中略〕一九七三年の「石油危機」のような状況では、石油製品の消費者は誰もが影響を受けていく。」 

 そうした中では、専門家システムへの信頼も揺らいでしまうことになる。

「近代のリスク環境にたいする認識が一般の人びとの間に広く浸透していった結果、人びとは、専門家知識のもつ限界に気づくようになる。」

   核戦争やエネルギー問題などのリスクに常にさらされているこの社会で、私たちはどのような心構えで生きることができるのだろうか。

 ギデンズによれば、私たちの大半は、これらリスクから目を閉ざしたり、根拠のない楽天主義に頼ったり、あるいは逆に冷笑的なペシミズムに陥ったりしてしまう。

「核戦争の可能性にたいする認識が毎日の生活にどのような影響を及ぼしているかをドロシー・ロウが調査しているが、その研究によれば、典型的な反応は次のようなものになる。」

「核戦争の可能性を認めたままどうやって私が生きていけるのかとお尋ねですが、正直なところ、それにたいする答えはひとつしかありませんよ。そんな可能性など考えないことです。なぜって、考えることが怖いからです。」

 しかしそのような態度でいる限り、私たちは近代のリスク問題を克服していくことはできない。

 近代社会はジャガノートのようなものであるとギデンズは言う。

「私自身は、ジャガノートと通称される超大型長距離トラック——人類が団結してある程度まで乗りこなすことはできるが、同時に突然操縦が効かなくなる恐れもあり、みずからバラバラに解体しかねない、そうした巨大出力エンジンを装備して疾走する車——のイメージを用いたほうがよいように思う。ジャガノートは、立ちはだかるものを押しつぶし、定まった方向を着実にたどっているように見える時もあれば、突然気まぐれに向きを変え、見通しのきかない方向に突進する場合もある。ジャガノートに乗ることは、必ずしもまったく不快な、あるいはおこない甲斐のない経験ではない。多くの場合、気分を爽快にし、前途にたいする明るい希望にあふれでいる。しかし、モダニティの制度が存続するかぎり、われわれは、この旅のたどる道筋ももともペースに決して完全には統制できないであろう。さらに、ジャガノートが走り抜けようとしている一帯は重大な帰結をもたらす恐れの高いリスクにみちているため、われわれは、決して完全に安心感を得ることがおそらくできない。」    

 このじゃじゃ馬を、私たちは何とか乗りこなしていかなければならないのだ。


6.ユートピア的現実主義

 ではどうすればよいのか?

 この問いについて、ギデンズは具体的な回答をしていない。いくつか出しているアイデアも、これまでに様々な論者が繰り返し述べてきたことで新規性はない。

 まず、彼は自身の立場を「ユートピア的現実主義」と呼ぶ。

「必要なのは、《ユートピア的現実主義》というモデルの創造である。」

「批判理論は、国民国家の領域にもモダニティのどの制度特性にも制約されない《望ましい社会のモデル》を創りださなければならない。さらに《解放の政治学》が、《生きることの政治学》ないし《自己実現の政治学》と結びつく必要がある点を認識しなければならない。私の意図する解放の政治学とは、不平等や隷属からの解放に関心を寄せる徹底的な社会参加である。」

「生きることの政治学とは、すべての人のために、つまり、「別の人たち」など存在しないすべての人びとのために、満ち足りた、また納得のいく生活を送ることができ可能性を促進しようとする、徹底的な社会参加をいう。」

 ユートピア的現実主義に立って、「解放の政治学」と「生きることの政治学」を打ち立てよう。そうギデンズは言うのだ。

 それは安易な権力否定ではない。むしろこのような運動のためには、権力の一元的な行使が必要だ。

「グローバル化が強まっていく状況のなかで、好機を最大限に生かし、重大な帰結をもたらすリスクを最小限に抑えるためには、たしかに権力の一元化された行使が必要である。」

「権力は必ずしもつねに党派的利益のために利用されるわけではないし、抑圧手段として使用されるわけでもないため、したがって現実主義は、依然として権力の中心的要素を構成している。」

 その権力は、世界政府のようなものではないだろうとギデンズは言う。

 それはむしろ、協調的連合体の形を取るだろう。

「どのような形態のものであれ「文字どおり」国民国家に類似した世界政府が、さほど遠くない将来に出現するとは思えない。むしろ、「世界国家」は、超国家体を形成していく代わりに、それぞれの国家が全地球規模の政策を協調して確立したり、紛争解決のために協調戦略をとるかたちのものとなるのかもしれない。」    

 「ポスト稀少性」のシステムを考えることも重要だ。

 稀少性の問題を克服し、世界中に富が行き渡ったなら、あとはそれをどのようにフェアに再分配していくかが重要である。

 先進国は、経済成長一辺倒から脱却する必要がある。そして、富のフェアな再分配のための世界的組織を充実させていく必要がある。


「経済先進国の多くの人びとが「発達疲れ」を経験している証拠は一部にあるし、大多数の人びとの生活の質を積極的に向上させていかない限り、持続的経済成長はおこなう価値がない点を多くの人びと認識している証左も、数多く見いだすことができる。」

ポスト稀少性システムは、かりに当初は世界の裕福な地域で発達するにすぎないとしても、全地球規模で調整していく必要があろう。世界規模で社会化された経済組織はすでにいくつかのかたちで——金融や財の国家間の移動を管理しようとする、超国際企業間や政府間の協定に関して——存在している。こうした経済組織が、具体的にどんな形態をとるにせよ、今後増えていくことはほぼ疑いないように思う。」    

 さらなる技術革新による、地球を介護するという考えも重要だ。

「世界全体の生態系を健全な状態で保護しようとする、包括的な地球環境介護システムが創設されるかもしれない。」

   目新しい主張は1つもないが、これら提言をいかに具現化していくかがこれからの時代の急務と言えるだろう。


(苫野一徳)


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