エピクロス『教説と手紙』



はじめに


 エピクロス主義(エピキュリアニズム)と言えば、美食や性的快楽を求める、快楽主義の思想として知られている。

 しかしそれは大きな誤解で、そのおおもとは、彼の論敵たちのでっち上げにあるらしい。

 エピクロス自身は、むしろ「むなしい欲望」にとらわれない、体の健康と心の平静を説いた人だった。

 エピクロス主義は、欲望の限りをつくせと説く思想ではなく、むしろ、苦しみがないことこそが究極の快楽だと説くものなのだ。

 エピクロスは300巻にもおもよぶきわめて多くの本を書いたが、残念ながらそのほとんどは今日失われている。

 残っているのは、3つの手紙(そのうちの1つはニセ物とも言われている)と、弟子たちの集めた『主要教説』だけだ。

 35歳の時、エピクロスはアテナイに「庭園学校」を作った。「隠れて生きよ」という有名な言葉を残したエピクロスだが、その言葉の通り、彼はここで、弟子たちと質素で友情に溢れた生活を過ごしたのだった。

 老若男女問わなかっただけでなく、奴隷や遊女までも、エピクロスはこの庭園学校に受け入れた。庭園には、著作を書いた女性も、さらには子どもたちまでもいたという。

 そんな多様な人々が集ったこの庭園学校は、この時代、プラトンのアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンをもしのぐ、学問の中心地になっていく。

 「死は恐れるにたりない」とエピクロスは言う。

 死はやがてやってくる苦しみだから恐ろしい、などという人は愚かだ。なぜなら死とは、一切の苦しみや不安がなくなってしまうことだから。

 そんな風に、自身の死の恐怖さえ吹き飛ばしてしまったエピクロスが死んだのは、72の時。

 2週間の病気の後、熱い湯に入りその中でワインを飲み干すと、弟子たちに自分の教えを記憶せよと言い残して死んだと伝えられている。

 以下、エピクロスの代表的な言葉を紹介していこう。


1.死は恐れるにたりない

「死はわれわれにとって何ものでもない、なぜなら、(死は生物の原始的要素への分解であるが)分解したものは感覚をもたない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである。」 


2.快楽とは苦しみがないことである   

「快の大きさ(量)の限界は、苦しみが全く除き去られることである。」

「正しい人は、最も平静な心境にある、これに反し、不正な人は極度の動揺に満ちている。」


3.隠れて生きよ

「人々からの損われることのない安全は、煩いごとを排除しうる何らかの力(個人的または社会的な力)によっても、或る程度までは得られるけれども、その最も純粋な源泉は、多くの人々から逃れた平穏な生活から生まれる安全である。」


4.自然で必須な欲望、自然だが必須ではない欲望、自然でも必須でもない欲望

「欲望のうち、或るものは自然的でかつ〈必須であり、或るものは自然的だが〉必須ではなく、他のものは自然的でも必須でもなくて、むなしい臆見によって生まれたものである。」

 エピクロス主義を象徴する、有名な言葉だ。

 1つめの「自然で必須な欲望」は、たとえば質素な食べ物や渇きをいやす飲み物を求めること。

 しかしこれが、贅沢な食べ物や飲み物への欲望になると、2つめの「自然だが必須ではない欲望」だとされる。

 そして3つめの「自然でも必須でもない欲望」には、たとえば社会的な成功をおさめる欲望とか、世界征服の欲望とかがあげられる。

 この3つめの「むなしい欲望」は、追い求めればきりがないものだ。そして多くの場合、それは私たちをただただ苦しめる。

 だから、足るを知り、苦痛や不安をできるだけなくしてしまおうとエピクロスは言う。これこそが究極の快楽なのである。

 そしてエピクロスにとっては、そのような「快楽」の状態にある人こそが、同時に「正しい」人なのである。


 5.見せかけでなく、真に哲学をせよ

「われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである、なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということではなく、真の意味で健康であるということなのであるから。」    


(苫野一徳)

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鈴木大拙『禅』


はじめに

 禅を世界に広く知らしめた鈴木大拙(1870-1966)が、ヨーロッパ世界に向けて英語で書いた作品。

 禅とは何か、その答えが、非常に分かりやすくシンプルに解き明かされている。


1.禅の起源

 禅は、伝説ではインドに起り、6世紀のはじめに菩提達摩によって完成した形で中国にもたらされたと考えられている。

 しかしその事実上の起源は中国にあり、中国禅宗の第六祖と称せられる慧能(638-713)に始まる。

 慧能は、禅定に偏ったそれまでの禅に対して、「智恵」(プラジュニャー)の喚起を主張した。

「ディヤーナ(禅那、禅定)をのみ重んずる考えに対し、強くプラジュニャー(般若、智慧の喚起を主張したのはかれ慧能であって、この事実が、それ以来禅として知られてきたものの起源をなすのである。」


2.プラジュニャー

 プラジュニャー(智慧は、単なる一般的知識としてのヴィジュニャ知識に対するものである。

「もしヴィジュニャーナ(知識)をわれわれの相対的に限定された知識を意味するものとするならば、プラジュニャー(智慧) は最高度の直観に相当する。」

 このプラジュニャーに目覚めることが禅の目指すところであるが、鈴木はその知恵を「般若直観」とも呼び次のように述べる。

「一切智者の有する智慧を、自分は「般若直観」と呼ぶ。それは、一切のものをその総体性と一体性において受けとる智慧であり、あらゆる個別の知識の根底によこたわる智慧である。それは、われわれの相対的知識を可能ならしめるところのものであり、したがって、「すべて悪しき思い」のかげも残さず、完全に自由である。そのような智慧は、問いと問う者の区別の存せぬ人、すなわち正覚者仏陀にして、はじめて持ち得る。」    

 これが一体どういうものであるかを知るには、わたしたちはまず仏陀の悟りがどんなものであったかを知る必要がある。


3.般若直観

 仏陀の第一の関心は、生死の束縛から解き放たれることであり、存在の手かせ足かせから自由になることにあった。

 鈴木によれば、これは行き着くところ「実在とは何か」という問いである。

 仏教は、この問いを、己自身において見、答えようとする。

「問いはけっして問う者から引き離さるべきではないとするのが、仏教の行き方である。両者が分たれているかぎり、問う者に解決はもたらされないであろう。」

 この問う者と問われるものとが一体になるところ、主客未分の状態、一切のものをその総体において見ること、ここに、悟りの境地があると鈴木は言うのだ。

 それはいわば、余計な理知を働かせず「あるがまま」を生きることにある。

「禅によれば、事実そのものの中には何の葛藤もない。有限と無限の葛藤もなく、肉と霊の葛藤もない。これらは、知性がおのれの興味のためにかりに作り出した無意味な区別にすぎない。〔中略〕われわれはひもじい時には食べる。眠い時には横になる。どこに無限や有限が入ってこようか。わたしはわたし自身で完全であり、かれはかれ自身で完全ではないか。人生はこの生きているままで満ち足りている。そこに人騒がせな知性が入ってきて、人生を破壊しようとする。」    

 鈴木は禅の究極の見地を次のように述べる。

「かくて、禅の究極の見地はこうである。われわれは無知のゆえにさまようて、自己の存在に分裂をきたした。そもそものはじめから、有限と無限の葛藤などは必要でなかった。われわれがあがき求めている平和は、つねにそこにあったのである。」    

 とはいえ、この「あるがまま」は、単なる怠惰や懶惰によって知られるものではない。

 禅とは性格の改造を目指す厳しい修行でもあるのだ。

「貧の平和(けだし、平和はただ貧においてのみ可能である)は、あなた方の全人格の力をつくしてのはげしい戦いをたたかい抜いてのちに、はじめて得られるものである。怠惰や、放任安逸な心の態度から拾い集めた満足は、もっとも嫌悪すべきものである。そこには禅はない。ただ懶惰と、無為の生があるのみである。戦いは、はげしく雄々しく戦われなければならない。これなくしては、どんな平和が得られたにしても、それはみな偽物である。」

「したがって、倫理的見地からは、禅は性格の改造を目指す修行であると考えられよう。」


4.禅の分かりにくさ

 このような禅の態度には、合理的理解の及ばない「分かりにくさ」があると鈴木は言う。

 たとえば、足を失った雲門のエピソード。

 雲門は、その師睦州に目通りが叶うまでに、3度門を叩かなければならなかった。

 しかしその3度目、雲門は、睦州によって無慈悲に閉じられた門に足を挟んで、片足を失ってしまうことになる。

 しかしこの激痛によって、雲門は禅の真理に目覚めた。

「これが禅のもっともわかりにくいところである。〔中略〕師は三たびかれを閉め出し、門が半分開いた時、それをもう一度乱暴に、情け容赦もなく閉めてしまった。そうすることが師の禅の見地からして、本当に必要だったのだろうか。これが雲門の熱心に求めていた仏教の真理なのか。ところが不思議なことに、その結果は双方の望んだ通りになった。師の方では、弟子が自己の存在の秘密を洞見し得たことを認めて満足した。弟子はというと、自分になされた師の仕打ちのすべてに対して感謝でいっぱいであった。たしかに禅は、この世でもっとも非合理で、想像を絶するものである。    


5.禅の指導方法

 では、このような禅は、師からどのように指導されるのだろうか。

 鈴木は、口頭による方法と直接的方法の2つを挙げる。

 口頭による方法には、1.逆説、2.反対の超越、3.矛盾、4.肯定、5.反復、6.叫び、の6つがある。

 いずれも、一般的な通常論理からはかけ離れた論法である。

 1の「逆説」は、有名な「花紅にあらず、柳緑にあらず」などに見られる論法。

 2の「反対の超越」は、肯定も否定もしない論法。

 3の「矛盾」は、ある時は肯定し、ある時は否定する論法。

 以上は比較的「否定」的な論法だったが、しかし禅の特異性はむしろ「肯定」的論法にあると鈴木は言う。これが4の「肯定」である。

「禅匠たちも、否定や、拒絶や、矛盾や、逆説をもっぱらにしている間は、まだ思弁のしみが完全に洗い落されたとはいえない。」    

 それはどのような論法か?

「ひとりの僧が趨州に問うた、「経典によれば、万物は“一”に帰す、と言います。しかしその“一”はどこに帰するのでしょうか。」師は答えて言った、「わしは青州にいた時、衣を一枚作らせたが、その重さは七斤だった」。香林は、菩提達摩が西方から中国にきたその意は何か、とたずねられて、こう答えた、「長く坐った後では疲れを覚える」。問いと答えの間に、いかなる論理的関係があるのか。」    

「「一切諸仏の師は誰か」とたずねられて、睦州はただ口で調子をとった。「タタン・タンタン、チチン・チンチン。」」    

 恐るべき論理的脈絡のなさ。しかしここには、禅の本質がよく表れている。

 5の「反復」は、文字どおり同じことを繰り返す論法。

「投子大同は九一四年に没した唐朝の禅匠である。「仏とは何か」と問われて、かれは「仏」と答えた。問いが「道(tao)とは何か」という時には、「道」と言った。「法(dharma)とは何か」という問いには、「法」と答えた。」    

 そして、通常論法を無視する禅は、行き着くところ6の「叫び」へと至ることになる。

「よく叫び声を発した禅匠たちの中で、特に有名なのは雲門と臨済である。雲門は「関」で名高く、臨済は「喝」で知られている。」    

 続いて、言葉によるのではない「直接的方法」。これは次のようなものである。

「禅匠たちがとった直接的方法の真意は、この矢のように過ぎゆく生命を、それが駈け去ってしまってからではなく、去りゆくままに捉えることにあった。生命が走りゆく時、記憶を呼び起したり、思想を築いたりするいとまはない。」
 
 具体的にはどういうことか?

「それはやさしい身振りであり、呼び声に応えることであり、流れのささやきに、また小鳥の歌に耳を傾けることであり、そしてまた、われわれの毎日の、平凡きわまりない生命の主張のあれこれである。」

 もっとも、禅の修行は、このような平凡な生をただ生きるだけにとどまらない。

 それは時に、尋常でないほど荒々しくもなるのだ。

「禅匠たちは、必要と考える時には、弟子たちを乱暴にこづき廻すことをいささかも躊躇しない。そのひとり臨済は、その直截痛烈な接得で知られている。かれの万の尖は、相手の心臓を突き通す。かれの弟子のひとりに、定上座という僧がいた。かれが師に、仏教の根本的原理は何か、と問うたところ、臨済は籐椅子から降りてきて僧をとらえ、一掌を与えて突き離した。定上座は、この行為の終始をどう受けとってよいかわからぬまま、じっと立ちつくしていた。するとかたわらにいた僧が、どうして師に礼をしないのかと注意した。言われたとおりに礼をしながら、突然、定上座は禅の真理に目覚めた。」    

(苫野一徳)

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和辻哲郎『風土』



はじめに

 20世紀の日本を代表する哲学者、和辻哲郎1889~1960)。

 本書で彼が説くのは、それぞれの風土のあり方に強く規定された、人間の存在仕方の本質である。

 ここで「風土」というのは、「気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称」のこと。

 わたしたちの思想、文化、芸術等は、わたしたちを取り巻く「風土」にいったいどのように規定されているのだろうか?

 実証的な研究と言うよりは、いくらか「思弁的」な本書の主張に対しては、今日いくらでも反証することが可能かもしれない。

 しかし総体的に見て、和辻の主張にはきわめて深い説得力があるし、随所に見られる洞察も非常に見事だ。

 高校の教科書にも載る本書の内容を、以下で詳しく紹介しよう。


1.モンスーン

 和辻は、まず世界の風土にモンスーン砂漠牧草の3つの類型を置く。

 モンスーンは、日本や中国も含む東アジアの沿岸一帯のこと。砂漠はアラビア、アフリカ、蒙古。そして牧草はヨーロッパである。

 まずモンスーンの風土について。

 その本質は、「暑熱と湿気の結合」にあると和辻は言う。

 湿気は、あらゆる環境の中で最も防ぎがたいものである。

 と言って、モンスーンの自然は人々に抵抗を呼び覚ますほど過酷なわけではない。

 なぜなら、陸においてはこの湿潤が自然の恵みもまたもたらすからだ。

「湿気は最も堪え難く、また最も防ぎ難いものである。にもかかわらず、湿気は人間の内に「自然への対抗」を呼びさまさない。その理由の一つは、陸に住む人間にとって、湿潤が自然の恵みを意味するからである。」

 しかし同時に、モンスーンの自然環境は、人々に対抗を断念させるほど荒々しい。

「暑熱と結合せる湿潤は、しばしば大雨、暴風、洪水、旱魃というごとき荒々しい力となって人間に襲いかかる。それは人間をして対抗を断念させるほどに巨大な力であり、従って人間をただ忍従的たらしめる。」

 こうして和辻は、モンスーン域の人々は一般に「受容的・忍従的」性格を獲得することになると言う。

「かくて我々は一般にモンスーン域の人間の構造を受容的・忍従的として把捉することができる。この構造を示すものが「湿潤」である。」    


2.インド

 その例として、まずインドを見てみよう。

 インドは、四季豊かな日本とは異なり「単調な夏」である。

 それゆえ和辻によれば、インドは発展のない固定的な文化にとどまった。

「我々はこれによって南洋的人間が何ゆえに文化的発展を示さなかったかを理解し得るであろう。南洋の風土は人間に対して豊かに食物を恵む。人間は単純に自然に抱かれておればよい。しかも人と自然との関係は、あらゆる移り行きを含まないものである。人間はその受容的・忍従的な関係において固定する。〔中略〕そうして文芸復興期以後のヨーロッパ人に易々として征服され、その奴隷に化したのである。」


 インド人は極めて受容的だが、その第一の理由は、モンスーンにおける雨季とそれゆえの飢饉にあると和辻は言う。

 この、受容的かつ不安動揺的な生のあり方が、インドにおける歴史感覚の欠如と感受性の敏活をもたらした。

 絶えず受容的であることが歴史(の発展)の感覚の芽生えを妨げ、生における不安動揺が人々の感受性を高めたのである。

「インドにおいては受容的な関係が常に不安動揺を含まねばならぬ。受容的であってしかも動くということは、受容性を活発ならしめること、すなわち感受性の敏活である。そこで自然の力の横溢は人間の感情の横溢となって現われる。」

 それゆえ宗教もまた、理論的と言うよりはきわめて抒情的なものとなる。

 もっとも、インドの宗教にはすぐれて思惟的な側面もある。

 が、この思惟も、神々を秩序立てて体系化する合理的(ギリシア的)な思惟とは異なっている。

「多数な神々は、血統的に一つの家族としてまとめられるということもなく、また自然現象の関連をモデルとして一つの体系に統一されるということもなかった。」

 興味深いのは、あの輪廻転生の思想である。

 当初において、この思想は世界の様々な現象を底で統べる原理とされていた。

「我々は今人間にあっても次の世には牛として生きるかも知れない、また前の世には蛇であったかも知れない。従って今牛であり蛇であるものもかつては人間であり、また他日人として現われ得るものである。しからばこれらの衆生は、現象的形態においてさまざまに異なるにしても、本質においてはすべて同一でなくてはならぬ。」    

 しかしやがては、この統一原理も打ち捨てられ、インドの宗教思想は夢幻的な世界観へと展開していく。

 大乗仏典がその典型である。

「そこには感覚的な形象が無限に豊富に積み重ねられ、百千万億の菩薩の行動さえも描かれる。それは人間の直観能力を麻痺せしめるような形象の横溢である。言葉をもって描かれるにかかわらず、ただ巨大な交響楽にのみ比せられ得るような、動ける横溢である。我々はこの形象の横溢に酔わされて、夢幻的な世界に引き込まれて行く。しかしこのような形象の横溢は、全体を統一する構図への無関心や、個々の姿の彫塑的な鮮やかさに対する無関心によってのみ可能となっている。すなわちこの様式は総じて「まとまり」を持たない感情の横溢の表現である。」    

 こうして、インドにおける思弁的哲学の傾向は打ち捨てられていくことになる。

「インドの哲学がさまざまの輝かしい発展を経た後に結局密教やインド教の象徴主義に堕して行ったのも、情的思惟の当然たどるべき道であったと見られ得る。インドの人間はその思弁への強い性向にもかかわらず、再び咒術の信仰に帰ったのである。やがて哲学的なる仏教は圏外に放逐された。」   


3.砂漠

 続いて砂漠的人間について。

 ここで想定されているのは、アラビア、アフリカ、蒙古である。

 砂漠の本質は「乾燥」にあると和辻は言う。そしてその生活は「渇き」にある。

 ここにおいて、人々は次の2つの性格を得る。

「(一)人と世界との統一的なるかかわりがここではあくまでも対抗的・戦闘的関係として存する。」

「(二)自然との戦いにおいて人は団結する。人間は個人としては沙漠に生さることができぬ。従って沙漠的人間は特にその共同態において現われる。草地や泉を自然から戦い取るのは共同態における人間である。しかしこの戦いにおいて人間はさらに他の人間と対立しなくてはならぬ。一つの井戸が他の部族の手に落つることは、自らの部族の生を危うくする。」

 対抗的・戦闘的性格、そして、団結的性格。これが砂漠的人間の本質規定なのだ。

 この自然への対抗的性格は、アラビア芸術にもよく表れていると和辻は言う。

「この特性はそのままアラビア美術として結晶した。あの華麗なアラビア風の装飾模様がいかに著しく人工的であるか、あるいはまたあの簡素と力強さとを輪郭に現わしたモスクがいかに著しく夢幻的であり離自然的であるか、それを正しく理解せしめるものは、沙漠的人間の自然への対抗である。」

 遊牧という生活様式にも、その対抗的性格は顕著に表れている。

「人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。」    

 そしてその絶頂は、彼らの「人格神」に見ることができる。

「沙漠的人間の功績は人類に人格神を与えたことにおいて絶頂に達する。」


「神は「自然と対抗する人間」の全体性が自覚せられたものであり、従って自然の力の神化の痕跡を含んではいない。自然は神の下に立たねばならぬ。」

 自然は神によって征服されるのだ。


3.牧場

 続いて牧場的人間について。

 これは端的にヨーロッパのことである。

 牧場の本質は湿潤と乾燥との総合」にある。


 夏の乾燥において、雑草のない牧場ではモンスーン域と異なり草取りが不必要である。

 それはつまり、自然との戦いがないことを意味する。

 風も弱いので、草木は規則正しく生える。

 ここに、ヨーロッパの自然に対する合理的理解の根があると和辻は言う。

「わが国においては人工的と合理的とが結びつきヨーロッパにおいては自然的と合理的とが結びつくということも言い得られる。ルネサンスのイタリアの絵に背景として描かれるシンメトリーの樹の姿はイタリアにおいては自然的でありつつ合理的な印象を与えるが、桃山時代の襖絵に描かれるうねった樹の姿は日本において自然的でありつつ非合理的な統一を表現している。いずれも自然の生の体験から創作しつつその現わすところが異なって来るのである。」    

「かく見ればヨーロッパの自然科学がまさしく牧場的風土の産物であることも容易に理解せられるであろう。」    


4.ギリシア

 まずギリシアについて見てみよう。

 そこにあるのは、澄みわたる碧空、輝き透る天日である。まさに「明朗なる合理的な自然」。

 ギリシアは、その歴史の始まりにおいて部族闘争を繰り返していた。そのため、彼らは戦闘団体となり、それがのちのポリスとなり、人々は競闘の精神を育んでいった。

 それゆえ彼らの価値観は次のようなものになる。

「生命を賭するという活動そのもの、それによる征服、及び被征服者に対する権力、それらがそれ自身において貴いとせられるのである。〔中略〕ここにギリシア人の性格の顕著な特徴としての競闘の精神が見られるのである。」

 戦闘に敗れたものは奴隷となる。そしてこの奴隷の存在のゆえに、上流階級の人々は「観照」的生活が可能になった。

 「観る」ということについて、和辻は次のような興味深いことを言う。

「自分はかつて津田青楓画伯が初心者に素描を教える言葉を聞いたことがある。画伯は石膏の首を指さしながら言った、諸君はあれを描くのだなどと思うと大間違いだぞ、観るのだ、見つめるのだ。見つめている内にいろんな物が見えて来る。こんな微妙な影があったかと自分で驚くほど、いくらでも新しいものが見えて来る。それをあくまでも見入って行くうちに手がおのずから動き出して来るのだ。——この言葉は恐らく画伯自身が理解していたよりも一層重大な意味を含んでいるであろう。「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである。だから観ることは直ちに創造に連なる。しかしそのためにはまず純粋に観る立場に立ち得なくてはならない。単に手段として観るのならば、目的に限定せられた範囲以上に観る働きは進展しない。観の無限の発展は手段的性格からの解放、従って観の自己目的性を前提とする。ギリシアの市民はちょうどこの立場に立って、互いに観ることを競ったのである。」    

 この「観る」ことを根本とすることで、ギリシアの芸術や思想はその明朗さやイデアの思想に到達することになったのだ。

「明朗なる自然をながめる立場は直ちに明朗なる主体的存在を発展せしめたのである。そうしてそれが明朗なる「形」として、あるいは彫刻や建築に、あるいはイデアの思想に、表現せられたのであった。」    

 しかしこの「明朗さ」は、そもそもギリシアの風土的条件がなければ生まれなかったであろうと和辻は言う。

「自然はすべてを露出している、そうしてそこには一定の秩序がある。この考えは自然哲学者を支配していたとともにまた芸術家を動かす力でもあった。ギリシア彫刻の最も著しい特徴は、その表面が、内に何物かを包める面としてでなく、内なるものをことごとく露わにするものとして、作られていることである。」

「このような合理性は、自然が予料し難いものを内に隠して不規則的に現われてくる地方においては、容易に見いだされ得ないものであった。そこでは植物や山野の形が不規則的であるのみならず、人体もまた均斉や比例を示していない。」

 ではローマはどうか?

 ローマは、ギリシアより一層自然を人工的に支配した帝国である。

 それはあの水道網に顕著に見られる。

 なぜ、ローマではこれほど人工支配が盛んになったのか?

 和辻は言う。

「そこはギリシアと異なってもと森林に覆われていた。しかもそれが開墾されて畑となり果樹園となり牧場となるに当たって、人工の支配が一層有効に行なわれ得たのである。だから人工的・合理的な自然の支配という点においては、イタリアはギリシアに優ると言ってよい。これがローマ人をして人工の支配を無制限に押し進めるという傾向を持たしめたのである。」    


5.西洋の憂鬱

 夏の心地よい乾燥に比して、ヨーロッパの冬は一般に非常に寒い。

 しかしその寒さは、しのぎにくいほどのものではないと和辻は言う。

「一言にして言えば西欧の寒さは人間を萎縮せしめるよりもむしろ潑剌たらしめる。それは人間の自発的な力を内より引き出し、寒さに現われた自然の征服に向かわしめ、そうしてそれを従順な自然たらしめている。」    

 ここにもまた、規則に従う従順な自然という概念が芽生える土壌があった。

 他方、ヨーロッパの冬は日照時間が短いのが特徴である。「西洋の憂鬱」と呼ばれるものだ。

 ここに、和辻はヨーロッパにおいてキリスト教が大成功を収めた理由を見出す。

 西洋の憂鬱が、砂漠の恐怖と共鳴したと彼は言うのだ。

「それは陰惨の苦闘がちょうど沙漠の恐怖と共鳴したからなのである。意志的・人格的な唯一神を西欧人ほどよく受け容れたものはなく、また旧約の予言者たちの意志的・倫理的な情熱を西欧人ほどよく理解したものもないであろう。」    

 この点、どれほど信憑性があるものか、若干疑わしくも思うのだが……

 ともあれ、ここで和辻は次のような非常に重要なことを言う。

「比論をもって語るならば、聴覚の優者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。〔中略〕ちょうどそのように、牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光の最もよく輝くところから己れの理性の開発を学び、感情的洗練の最も現せられるところから己れの感情の洗練を習うべきではなかろうか。風土の諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。またかくすることによって我々は風土的限定を超えて己れを育てて行くこともできるであろう。」

「牧場的国土はある意味では楽土であるが、しかし我々は己れの国土を牧場に化することはできない。しかも我々は牧場的性格を獲得することはできるのである。」

 それぞれの風土において育まれる長所がある。わたしたちはそれを真摯に学び合おうではないか。

 和辻はそう言うのだ。


6.中国

 ここで再びモンスーンに戻って、中国について。

 その風土的本質は単調空漠にあると和辻は言う。

「揚子江とその平野との姿が我々に与える直接の印象は、実は大陸の名にふさわしい偉大さではなくして、ただ単調と空漠とである。茫々たる泥海は我々に「海」特有のあの生き生きとした生命感を与えない。また我々の海よりも広い泥水の大河は、大な「漫々として流れる」というあの流れの感じを与えない。同様に平べったい大我々の感情にとって偉大な形象ではない。〔中略〕従ってシナ大陸の大いさは、直接にはただ変化の乏しい、空漠たる、単調な気分としてのみ我々に現われる。」    

 したがって、中国人は動じにくく、きめの細やかさがなく、芸術においても大掴みのものが一般的である。

 同じくその大帝国も、きめの細やかさを欠いていた。

「ヨーロッパでこれに桔抗し得るものはただ最盛期のローマ帝国のみであるが、シナでは秦漢以来あとからあとから現われ、最後の大清帝国は近いころまで続いていた。この点のみを見ればシナ人はすぐれた政治家のように見える。しかしこの大帝国なるものは、国土のすみずみまで統治の行きわたったきめの細かな国家ではなかったのである。外観は整然たる大帝国でありながら、民衆は本来無政府的であり、国内の匪賊は常に百万乃至二百万を数える、それがシナの本来の姿なのであった。」    


7.日本

 日本はどうか。

 日本は、モンスーン域の中でも、熱帯寒帯の両者の特徴を持つ特殊な地域であると和辻は言う。

「大雨と大雪との二重の現象において日本はモンスーン域中最も特殊な風土を持つのである。それは熱帯的・寒帯的の二重性格と呼ぶことができる。」

 それゆえ日本人の性格は、受容的・忍従的なモンスーン域の人間の特徴の上に、熱帯と寒帯を行き来する「突発性」が加わることになる。

「四季おりおりの季節の変化が著しいように、日本の人間の受容性は調子の早い移り変わりを要求する。だからそれは大陸的な落ちつきを持たないとともに、はなはだしく活発であり敏感である。活発敏感であるがゆえに疲れやすく持久性を持たない。しかもその疲労は無刺激的な休養によって癒されるのではなくして、新しい刺激・気分の転換等の感情の変化によって癒される。」    

「あたかも季節的に吹く台風が突発的な猛烈さを持っているように、感情もまた一から他へ移るとき、予期せざる突発的な強度を示すことがある。日本の人間の感情の昂揚は、しばしばこのような突発的な猛烈さにおいて現われた。」    

 日本人は、移り変わりを好み、そしてまた突発的な猛烈さもまた好むのだ。

 急激な社会変革が起こりうるのはそのためだ。そしてまた、「桜」に日本人の魂が投影されるのもそのためである。

 モンスーン的な忍従もまた、日本人のそれは独特である。

「暴風や豪雨の威力は結局人間をして忍従せしめるのではあるが、しかしその台風的な性格は人間の内に戦争的な気分を湧き立たせずにはいない。だから日本の人間は、自然を征服しようともせずまた自然に敵対しようともしなかったにかかわらず、なお戦闘的・反抗的な気分において、持久的ならぬあきらめに達したのである。日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)は、右のごとき忍従性を明白に示している。」

 日本人の忍従には、台風的なヤケが時に伴うのだ。

 また、このヤケは執拗であってはならず、突発的なものでなければならない。日本人にとっては、きれいにあきらめることが美徳なのである。

「反抗や戦闘は猛烈なほど嘆美せられるが、しかしそれは同時に執拗であってはならない。きれいにあきらめるということは、猛烈な反抗・戦闘を一層嘆美すべきものたらしめるのである。すなわち俄然として忍従に転ずること、言いかえれば思い切りのよいこと、淡白に忘れることは、日本人が美徳としたところであり、今なおするところである。」    

 これを和辻は、「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」と表現する。


8.日本の家族

 日本人の家族観も、その他の地域のそれとは当然異なっている。

 牧場(ヨーロッパ)の家族は、基本的に核家族である。

(もっとも、本書における和辻のヨーロッパのまとめ方は雑すぎると言わざるを得ない。ヨーロッパや世界の家族のあり方の多様性については、エマニュエル・トッド『家族システムの起源』『世界の多様性』などのページを参照されたい)。

 砂漠の家族は、基本的に部族家族だ。

 それに対して、日本人は「家」に最も重要な価値を置く。

「親のために、また家名のために、人はその一生を犠牲にする。しかもその犠牲は当人にとって人生の最も高い意義として感ぜられていたのである。」

 なぜか?

 「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」は、まさにこのような「家」においてこそ発揮されるものであるからだ。

「かくして「家」としての日本の人間の存在の仕方は、しめやかな激情・戦闘的な恬淡というごとき日本的な「間柄」を家族的に実現しているにほかならぬ。

 「お家のために」は、和辻によれば「しめやかな劇場、戦闘的な恬淡」を象徴するものなのだ。

 もっとも、急激な西洋化に伴って、このような家族観は徐々に廃れていっているのではないかと人は言う。

 しかし和辻は、人々の生活様式に、このような家族観は今も染み付いていると主張する。

 なぜなら日本人は、今なお「家」(うち)と「外」とを截然と区別して暮らしているからだ。

「まず第一に「家」はその内部において「距てなき結合」を表現する。〔中略〕たとい襖や障子で仕切られているとしても、それはただ相互の信頼において仕切られるのみであって、それをあけることを拒む意志は現わされておらぬ。」

「第二に「家」はそとに対して明白に区別せられる。部屋には締まりをつけないにしても外に対しては必ず戸締まりをつける。のみならずその外にはさらに垣根があり塀があり、はなはだしい時には逆茂木や濠がある。そとから帰れば玄関において下駄や靴をぬぎ、それによって外と内とを截然区別する。」

 それに対して、ヨーロッパでは家の中にも鍵がついている。これは個人主義を育む建築様式である。

 その代わり、ヨーロッパには公共の場があり、公園があり、個々人はそこで互いに出会うことになる。

「人はきわめて個人主義的であり従って距てがあるとともに、またきわめて社交的であり従って距てにおける共同に慣れている。すなわちまさしく「家」に規定せられるということがないのである。」


9.未熟なデモクラシー?

 和辻によれば、ここにこそヨーロッパでデモクラシーが起こった土壌がある。

 逆に言えば、これが日本でデモクラシーが育まれない理由である。

 日本では、個々人が出会う公共の場がなく、むしろ求められるのは家族の団欒なのだ。

「洋服とともに始まった日本の議会政治が依然としてはなはだ滑稽なものであるのも、人々が公共の問題をおのが問題として関心しないがためである。」

「それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって争闘的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるのである。」


10.皇室について

 続いて和辻は、彼の天皇肯定論を象徴するとされる考えを披露する。

「いわく、日本の国民は皇室を宗家とする一大家族である。国民の全体性は、同一祖先より出づるこの大きい家の全体性にほかならない。そこで国家は「家の家」となる。」    

 皇室は、日本人にとって「家の家」なのである。

 もっとも、それは理論的には整合性のない考えであると和辻は言う。

「この忠孝一致の主張が理論的にも歴史的にも多くの無理を含むことは一見して明らかである。家の全体性は決してそのままに国家の全体性ではあり得ない。家族は直接の生活の共同として人間の共同態の初めであり、国家は精神的共同態として人間の共同態の終わりである。前者は最も低次の全体性であり、後者は最高の人間全体性である。連帯性の構造が両者において異なっている。だから人間の構造として家族と国家を同視するのは間違いである。」

 しかしそれでもなお、日本人は皇室を「家の家」として表象してきたのであり、そうである以上、ここには歴史的意義を認めなければならないと和辻は言う。


「にもかかわらず我々は、家のアナロギーによって国民の全体性を自覚しようとする忠孝一致の主張に充分の歴史的意義を認める。それはまさに日本人がその特殊な存在の仕方を通じて人間の全体性を把捉するその特殊な仕方にほかならぬのである。」


11.芸術について

 続いて、それぞれの風土における芸術の特徴について。

 先述したように、ヨーロッパはその自然の規則性・合理性のゆえに、規則的・合理的な文化を持った。

 それは芸術においても例外ではないと和辻は述べる。

「ヨーロッパ的なる美術は、それが優れたものであるときにもまた浅ましいものである時にも、同じように規則にかなうことを重大視するものとなった。」

「ローマ人は、その発明した円形劇場や公衆浴場などが示しているように、風景の美を顧みないでただ人工的なものの内に享楽することを特徴とした。」

「庭園において人が喜んだのは、自然を支配する人工の力のよろこびにほかならぬ。」

 それに対して、日本の芸術は、もともと無秩序な自然を理想化するという、「自然の理想化」の方向に発展した。

「無秩序な荒れた自然のうちから秩序やまとまりを作り出すという努力が、日本人をして造園術についての全然異なった原理を見いださしめた。自然を人工的に秩序立たしめるためには、自然に人工的なるものをかぶせるのではなく、人工を自然に従わしめねばならぬ。人工は自然を看護することによってかえって自然を内から従わしめる。」

 ここにおいて重視されるのは、シンメトリーのような合理的なバランス(つりあい)ではなく、「気合いによるつりあい」である。

「かかる絵の構図にはシンメトリーというごときことはいかなる意味でも認められない。しかもそこには寸分の隙間もない釣り合いが感ぜられる。何ものも描かれざる空白が、広い深い空間として濃い雀の影とつり合い、この雀の持つ力が、淡い竹葉のうちに特に際立って濃くされた二三の竹葉の力と相呼応する。こうしてそれぞれのものが動かすことのできない必然の位置を占めている。このような気合いとしてのつり合いの関係によって、物象がただ片隅に描かれているようなこの画面をも豊かなまとまりあるものとして感ぜしめるのである。」    

 また、日本の絵画には、絵巻物に顕著に見られる「時間性」を表現する特徴がある。

 この一枚の絵に時間性を流し込む表現方法もまた、「気合いによるつりあい」の一種と言える。

「我々の絵画においてはさらに時間的な契機を入れた特殊なまとめ方が重要な位置を占める。すなわち絵巻物のまとめ方である。西洋の絵画においては物語を題材とした続きものを描く場合でも、続いているのはただ物語の内容だけであって、絵自身は一々独立した構図を持つか、あるいは一々独立しつつ装飾的な大きい全体にまとめられているかである。しかるに絵巻物においては構図そのものが時間的に展開し行くように作られている。」

 さらに、連歌にいたっては「気合いによるまとめ」が最高潮に達している。

「この種の特殊なまとめ方を思うとき、連想は我々を文芸の一つの特殊な形式「連句」に連れて行く。連句においてはおのおのの句は一つの独立した世界を持っている。しかもその間に微妙なつながりがあり、一つの世界が他の世界に展開しつつ全体としてのまとまりをも持つのである。〔中略〕全体としてのまとまりは「偶然」の所産であるが、しかもそのために全体はかえって豊富となり、一人の作者に期待し得ぬような曲折を生ずるのである。しかしながら「偶然」がどうして芸術的な統一を作り出し得るであろうか。ここでも答えは気合いである。しかも人格的な気合いである。一座の人々の気が合うことなしには連句の優れたまとまりは得られない。人々はその個性の特殊性をそのままにしつつ製作において気を合わせ、互いの心の交響・呼応のうちにおのおのの体験を表現する。かかる詩の形式は西洋人の全然思い及ばなかったものである。」    

 日本の芸術は、偶然性をもまた「気合い」によってまとめてしまうのだ。

 こうして和辻は、機微に富んだ東洋の芸術と、単調な西洋の芸術という対比を描き出す。

「湿気の乏しいヨーロッパの大気は、単調な露あるいは霧を作り出しはしでも、それによって我々の気分に細かい濃淡を与えるほどの変化には富んでいない。北欧の特徴である単調に陰惨な曇り日、南欧の特徴である常持心晴朗な晴天、——この単調さが確かにヨーロッパの特徴であると言えよう。これはまた気温の変化とも密接に関係する。寒暖計はヨーロッパの一日にも気温の高低のあることを示してはいるが、しかしそれはただ物理的な事実であって、我々の気分の上には決して顕著でない。湿気と温度との相関関係から起こるあのさま、ざまな現象、——たとえば夏の夕方の涼しさ、朝の爽やかさ、秋には昼間の暖かさと日暮れ時の肌寒さとの聞に気分を全然変化させるほどの烈しい変化があり、冬でさえも肌をしめるような朝の冷たさの後にほかほかとした小春日の暖かさが来る、——そういう変化に富んだ現象を我々はヨーロッパにおいて経験することができない。」    

 そう単純にまとめてしまっていいかどうか、疑問も残らないわけではないが、和辻の巨視的な世界の構造化の能力については、高く評価しないわけにはいかないだろう。

(苫野一徳)




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