真木悠介(見田宗介)『自我の起源ー愛とエゴイズムの動物社会学』


はじめに

 人間的「自我」とは何か。それは、生命体の長い歴史において、いったいどのように誕生したのか?

 真木悠介(=見田宗介)は、この問いにあまりにもスリリングな仕方で挑む。

 まず参照されるのは、『利己的な遺伝子』で知られるリチャード・ドーキンスだ。

 生物は、遺伝子が自らを複製し続けるための乗り物である。

 今では広く受け入れられた説ではあるが、見田はこの説を大筋では受け入れながら、しかし人間は、そのような自然(遺伝子)の摂理からの「二重の超越」を果たしたのだと主張する。

 第1に、わたしたちは、必ずしも遺伝子を残すことにこだわらない、生物学的な意味での「エゴイスティック」な自我であるという点において。

 さらに第2に、わたしたちは、この「エゴイズム」を乗り越え、真に「利他的」に生きることもできる存在であるという点において。

 前者を「エゴイズム」、後者を「愛」と呼ぶとするなら、わたしたちはこの超遺伝子的事実を、いったいいかに説明することができるのか?

 1992年当時の最先端の社会生物学、動物行動学、進化生物学等の研究を自家薬籠中のものとしながら、真木は独自の理論を展開していく。

 それはすべて、仮説の上に仮説を重ねたものである。おそらく十分に検証することも難しい。下手をすれば、いくらかオカルトな印象さえ与えかねない。

 しかし真木は、その博識と独創とをもって、人間存在の深奥をどこまでも真摯に考え抜こうとする。その情熱と気魄は、さすがは現代日本が誇る天才学者の面目躍如と言うべきだ。

 縦横無尽に繰り広げられる真木(=見田)ワールドを、存分に堪能することができる名著である。


1.動物の利他行動

 真木は、まず『利己的な遺伝子』の著者リチャード・ドーキンスらの説を参照しつつ、動物たちの一見「利他的」に見える行動が、遺伝子の自己複製という水準によって統一的に理解されることを述べる。


「たとえばミツバチのワーカーは遺伝子の12しか共有しない自分自身の子を産むよりも,遺伝子の34を共有する妹たちを育てた方が, より多くの自己遺伝子を再生産する. ミツバチがそう「考えて」行動を選ぶのではない。そのような行動性向をプログラムされた個体を形成するような遺伝子の方が, そうでない遺伝子と比して有利に(高い確率で)増殖するので,結果としてこのような「利他性」をもつ個体が増加するという方向に,進化の連鎖が進行するのだ.」

 要するに、動物たちの一見自己犠牲的な「利他的」行為も、遺伝子レベルで見れば、それが最も「利己的」な行為であることが理解できるのだ。


2.ドーキンス批判

 もっとも、真木はここでドーキンスの初歩的な誤りについても指摘している。

第1にドーキンスが遺伝子レベルの「利己性」と,個体レベルの「利己性」を混同していること.
 第2にドーキンスが,上位システムの創発的emergentな自律化と,それによるシステムのテレオノミー的々重層化(後述)を理論化していないことである.

 第2については後述するとして、第1について見てみると、真木によれば、ドーキンスや彼のフォロワーたちは、個体的な利己性と遺伝子レベルの利己性とを混同しているきらいがあるという。

 つまり、生物が「利己的」な行動を取るのは、そもそも遺伝子が利己的であるからだと彼らは考えるのだ。

 しかし、生物はまさに文字通り「利他的」な行為を取ることがある。とりわけ人間は、それが遺伝子の自己複製にまったく資することがなかったとしても、「利他的」な行動を取ることがある。

 わたしたちは、個体レベルの利己性と遺伝子レベルの利己性を混同してはならないのだ。

 そこで人間の利他性について見てみよう。

 真木はこれを「二重の超越」と呼ぶ。

 まず、人間のエゴイズムは、考えてみればきわめて高等な能力である。と言うのも、それは自身の遺伝子的な使命を否定する行為であるからだ。

エゴイズムはむしろ高等な能力である.産卵死する宿命を拒否し,大海にひとり悠然と遊ぶ紅鮭はいるか.」

 さらにその上、人間はこのエゴイズムを超越することもできる生物である。

人間の主体性は,エゴイズムとは反対の方向に,つまり遺伝子が方向づけている限定された利他性ではなく,純粋の他者や他種の個体にさえ向けられた愛という方向に超越することもできる.それは二重の超越である.つまり第1に,その身体を形成している遺伝子たちの決定論からの「個体の自立化であり,第2にこの「個体」水準の自己絶対化からの自己超越である.

 これは、ヘーゲル弁証法言うところの「否定の否定」の論理と同じものと言えるだろう。

 人間は、まず自身の遺伝子的自然を否定して、個体的エゴイズムを獲得した。しかしその上でさらに、このエゴイズムを否定して、真の利他性に達することもまたできるのだ。


3.生成子

 続いて真木は、遺伝子の悠久の旅を追いながら人間的「自我」の起源に迫ろうとする。

 まず彼は、ここで遺伝子のことを「生成子」と呼びなおす。その理由は次のように語られる。

「「遺伝子」とはgene に対して,個体中心主義的なドグマから翻訳された日本語である〔再翻訳すればtransmitter〕.つまり個体の何かの形質を次世代の個体に遺し伝える「ための」メディアという考え方だ.〔中略〕しかし西欧のgeneGen, gène)は幸いに,「生成するもの」という中立的な,(個体に先立つ自立性としても把握されうる)原意を保存している.命名者ヨハンセンは,当時まだ正体不明のこの因子に対して,余計な意味の倍音が生じないように,意図的にこの「裸の接尾語」を選んだと記しているという.現在の視点に立つなら,それは志の語の直訳である「生成子」とでもよぶべきものである.」    

 生成子について考えるに当たって、真木は、すべての竹が地下茎でつながり合っている竹林や、同じく地下茎でつながり合ったクローバー畑などの例を挙げる。

 さらに彼は次のような例も紹介する。

「生物の「個体」というユニットがふつう考えられているほどに自明なものでないことは,今日では生物学者でない人びとにもよく知られている.一方にはアリやミツバチの「社会」を,一個の個体と考えるという着想もある.アリのワーカーや兵隊たちの全き「無私」の行動も,女王を生殖器としワーカーや兵隊をその肢体とする「個体」を考えれば納得しやすい.われわれがとっさの危機に顔面を肘でかばって防ぐとき,肘が目のために「利他行動」をしていると考える人はいないからである.」

カツオノエボシは一匹のクラゲのように浮遊するが,クダクラゲの群体である.

「海綿の集塊は「個体とも群体とも呼ばれ,明らかに組織レベルで中間段階にある.

 生物において、「個体」は必ずしも1つの1つの個体レベルで考えられる実体ではないのだ。


4.個体性の起源

 では、わたしたち人間のような「個体」はいったいどのように誕生したのか?

 ここで真木は、マーグリス『細胞の共生進化』を次のように要約し思考の拠り所とする。

 1.最初の生物は,非生物的につくられた有機物を食物としてエネルギーを得た.

 2しかしこの非生物的な有機物は,やがて食べつくされて不足する.

 3.生物は炭素とエネルギーを自分でつくり出す方法を探る.最初に無機物からエネルギーと必要な有機物をつくったのは,メタン生成微生物だったけれども,やがて太陽光を利用して,大気中の炭酸ガスを有機化合物に変える「光合成」が発明された.

 4.光合成をする細菌は最初,硫化水素を使って硫黄を出したりしていたが,やがて地球上の最大の資源=を利用するタイプが現れる.光と水と炭酸ガスさえあれば繁茂するこの青いバクテリア(シアノバクテリア=「藍藻」)は圧倒的な成功を収め,昔の地球の地表を覆う.

 5.この卓抜な生物の唯一の根本矛盾は,その頃のすべての生物と同様,酸素が多いと生きられないのに,水を使う光合成はこの毒物=酸素を放出することである.青いバクテリアの大繁栄自体によって,大気中の酸素の濃度は,本来の0.0001 %から,21%にもなった!「これは地球に起こった最大規模の汚染である.」20億年前のことである.

 6.全地球的規模のこの公害に多くの生物が死滅した.全生物がこの酸素への抵抗力の獲得を試行錯誤する中で,ついにこの毒を逆利用し,酸素自身からエネルギーをつくり出す「呼吸」機構をもつバクテリアが現れる.「呼吸とは要するに有機物を酸化して炭酸ガスと水に変え,大量のエネルギーをひき出す反応である.」

 7ある微生物はこの魅力的な他者を愛するあまり,体内に取りこんでしまう.この共生関係の調和が. 「2元ゲノム性の」細胞という複合生物をうみ出すにいたる.このように他の生物中に取りこまれた呼吸生物が,ミトコンドリアである.

 8さらにある微生物は,スピロヘータと連合して運動性を獲得する.

 9このような,宿主生物,呼吸生物(ミトコンドリア),スピロヘータ(鞭毛・繊毛等々)という3つの異なるゲノムを含む共生体が1つの生物体として,真核細胞を形成するにいたる. 〔動物は,この共生体がさらに多細胞化したものである.

 10さらにこの共生体に,光合成する生物が取りこまれたものが,光合成真核細胞である.光合成生物はこの共生体の内部で,葉緑体,その他の色素体となる. 〔植物は,この系列の共生体が多細胞化したものである.

 以上をもとに、真木は次のように言う。


「われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な歩は,みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり,つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての真核細胞の形成である.この〈真核細胞が,相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の,複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集積体となる.個体という共生系の形成ののちも,その進化的時間の中で,それは数知れぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し,多様化し豊饒化しつづけてきた. 「私」という現象は,これら切の不可視の生成子たちの相乗しまた相剋する力の複合体である.    

 わたしたちの「個体」は、原始生命の時代から連綿とつづく、あらゆる生成子からなる複合体である!

 これが真木のさしあたっての結論である。わたしたちの内部には、いわばあらゆる生命があらかじめ住み込んでいるのだ。


5.主体性の起源

 これまで見てきたように、生物は本来、利己的な生成子の乗り物であるはずだ。

 ところが人間は、生成子を後世に残さないという選択を主体的に取ることがある。そうして自分1人の生を楽しむことがある。

 それはいわば、産卵のために川を遡上することを拒否した鮭のようなものである。

 このような主体を、真木は「テレオノミー」的な主体と呼ぶ。生成子の複製のためではなく、自分自身の目的を持ち、その目的のために生きる主体のことだ。

 このような主体の誕生には、おそらく次の4つの条件があると真木は見る。

1.哺乳、2.保育期間の延長、3.学習能力とシミュレーション能力、4.群居と社会性、である。

 一般に、哺乳類以外は生殖年齢をすぎるとすぐに死ぬ。これはまさに、個体が遺伝子の乗り物であることを象徴している。

 しかし哺乳類は、哺乳と保育の必要から、子どもを生んだあともしばらく生き続ける。

 真木はここに、テレオノミー的な主体が生じる1つの条件があると言うのだ。

 さらに、学習しなければ生きていけないことや、何より社会に生きる存在であるということが、人間をテレオノミー的な主体へと展開せしめたと真木は言う。


6.エクスタシー

 さて、ところが人間は、このテレオノミー的な、つまりエゴイスティックな「個体」であることを、時に自ら否定することができる存在である。

 それはいったいなぜなのか?

 このことを考えるにあたって、真木はまず次のようなことを述べる。

生成子が他の個体に働きかける最もすぐれた方法は,働きかけられる他個体が歓びをもって,すなわち能動的な「熱意」をもって,利他行為を行ってくれるように形成することであった.〔中略〕かんたんにいえば「愛される」個体をつくりあげる力をもった生成子こそが勝ち残る.」


「小さい子供の「かわいさ」に思わず貴重な食物や時間を割いてしまったからといって, 「操作された」という屈辱や不幸を感じる人はいない.

 生成子は、「愛される」個体を作り上げた時に勝ち残る。

 その1つの現れとして真木が着目するのが、フェロモンアロモンカイロモンである。

 フェロモンは、よく知られているように同種間の関係性物質だ。

 それに対してアロモンやカイロモンは、異種間における関係化学物質である。

「異種間の関係化学物質をブラウンとアイスナーはアロモンと名づけ,のちにこのうち,発信者にとって適応的なものをアロモン,受信者にとって適応的なものをカイロモンとした.」    

 アロモンやカイロモンは、種の異なる生物を何らかの仕方で惹きつけるのだ。

「アロモンやカイロモンは現在のところ,ごく密接に適応し合っているいくつかの種間で確認されているだけだけれども,次第に一般的な現象として認知される可能性は大きいと思う.森林浴の「大気のビタミン」,発散されるテノレペン類等の中には,治癒,強壮,生長,敏活化等々の作用が実験的に検出されている.芳香も放つ.植物が未知の必要のために動物たちを引きよせるカイロモンが存在するかもしれない.」    

 真木は、ここにエクスタシーの秘密があるのではないかと考える。

「われわれの経験することのできる生の歓喜は,性であれ,子供の「かわいさ」であれ,花の彩色,森の喧噪に包囲されてあることであれ,いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである.つまり何ほどかは主体でなくなり,何ほどかは自己でなくなることである.」

Ecstasyは,個の「魂」が,〔あるいは「自己」とよばれる経験の核の部分が,〕このように個の身体の外部にさまよい出るということ,脱・個体化されているということである.」

 人間「個体」は、あらゆる生命の生成子を自らのうちに持った存在であり、そしてそれゆえにこそ、さまざまな「他」なるものと、フェロモンやアロモンやカイロモンを通して通じ合うことができる。

 この脱・個体化こそ、エクスタシーの正体にほかならない。

 真木はそう言うわけだ。


7.まとめ

 最後に本書のまとめを引用しておこう。簡潔に知りたい方は、青字の引用を飛ばして、黒字の要約部分だけをお読みいただければと思う。

第1にわれわれの〈個体〉という存在仕方は,生成子たちの永劫の転生の旅(eternal caravan of reincarnationの一期の宿として,そして幾十万という生成子たちがそこに来会し集住する共生態として派生してきた.個体は共生系である.われわれの身体はこの共生する生成子たちの再生成によりふさわしいような仕方で,幾億年来たゆみなく進化してきた.」

 人間の個体は、あらゆる生成子からなる共生系である。

「第2に,けれどもこの〈個体〉というシステムはそれがいったん形成されるや,進化の派生的自立態として主体化する.〔中略〕とりわけ脳神経系の高度化は,おそらく社会性を前提とする個体の対他的意味の多次元化と共に,個のテレオノミー的な主体化を出現するまでに至る。とはいえ〈個体〉のこの目的論的な自立化の進化の日付は以外に新しく,ヒトという種の出現をまってはじめて確立するもののように思われる.」

 しかし種々の条件から、人間はテレオノミー的な主体を実現した。

「第3に,けれども個体は形成され主体化された後も,この幾重もの「自己化」の装置にもかかわらず,なお幾重にも外部の生成子たちに向かって開かれている.〔中略〕「高度化」した個体は次第に自己の自己性を明確にするが,なおフェロモンやアロモンやカイロモンおよび,それらと等価な視覚的,聴覚的感覚交信を媒介として共生する.他者たちのテレオノミーの回路の内にも自己をおく.あらゆる他者たちや動物たちや植物たちがわれわれの身体にその遠隔の作用をおよぼし,身体がそれらと共に在ることに,時にはそれらの〈ために〉行動することにさえ歓びを感ずるように構成している.」

 しかしなお、この「個体」は他のさまざまな生命とつながり合っている。

「第4に〈個体〉がそれ自体派生的なものの自立化,自己=目的化であるということは,個体というユニットもまたみずからを超えたものに向かって,テレオノミー的に開かれた存在であるということである.

 それゆえ人間「個体」は、常にこのエゴイスティックな自我を超越しうる存在なのである。


「このように〈個体〉のテレオノミーは非一義的であり,重層的に非決定である.〈私は何のために生きるか〉という問いへの答えは,〈個体〉のこのような起原に由来する非決定=脱根拠性,あるいは重層・交錯根拠性のために,やがて人間の〈文化〉をとおしての選択が,ほとんど際限もないまでに多様であるように開かれている.

(苫野一徳)

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C・S・ルイス『四つの愛』


はじめに

 名作『ナルニア国物語』で知られるC・S・ルイス(1898〜1963)は、熱心なキリスト教徒として、数多くの宗教的著作も残している。

 本書もその一つ。

 ルイスは本書で、「愛着」「友愛」「エロース的愛」そして「恵愛」の4つの愛について論じる。

 キリスト教的愛(神の愛=恵愛)が理想化されすぎている嫌いはあるが(当然のことだが)、全体として、愛についてのすぐれた洞察が展開されている。

 中でも「友愛」についての考察は、古今の数ある「友愛」論の中でも一級品と言うべきだろう。


1.「与える愛」と「求める愛」

 よく言われるように、愛には「与える愛」(アガペー)と「求める愛」(エロース)の2つがある。

 ルイスは、当初、前者の「与える愛」こそが尊く、「求める愛」は異教的であると考えていた。

 しかしその後、考えを改めるようになったと彼は言う。

「実際問題としてわれわれが互いを必要としているのは確かであるから(「人が一人でいるのは良くない」創世記18節)、この必要性が心のうちに「求める愛」として現れないことは、言い換えればわれわれが一人でいることは良いことだという錯覚をもつことは、精神的に良い兆候ではあり得ない    

 「求める愛」は、蔑まれるべき異教的な愛ではなく、むしろキリスト教の神によって人間たちに与えられたものであるとルイスは言うのだ。

 さらに彼は次のように言う。

「人が神に対して持つ愛は、神に対する愛である以上、「求める愛」としての性格を強く持たざるをえないだろう。」

 人間は、神に愛を求めないわけにはいかない。だから「求める愛」は、「与える愛」とともに、人間にとって本質的な愛の形態なのである。


2.評価愛

 さらに、愛には3つめのものがあるとルイスは言う。

 それを彼は「評価愛」と呼ぶ。

「愛には第三の要素があり、それは他の二つと同様に重要であることが判明する。〔中略〕あるものが極めて良いという判断、そのものに注目すること(むしろ敬意を払うこと)が一種の義務であるという感情、われわれ自身がそのものから快楽を得ることはないとしても、それが存在し、そのままで存在し続けることを願うこと、これらの感情は事物に向けられるだけでなく人間にも向けられ得る。」

「求める愛」はわれわれの窮乏の底から神に向かって叫びを上げる「与える愛」は神に仕えること、あるいはそれ以上に神のために苦しむことを切望する評価愛」は神に向かって「あなたの大いなる栄光のゆえにあなたに感謝を献げます」と言う「求める愛」はある女性について「私は彼女なしでは生きることができない」と言う。「与える愛」は彼女に幸福と安楽と保護を――できれば富も――与えることを熱望する。「評価愛」は見つめ、固唾を呑み、沈黙する。そのように素晴らしい人が存在することが彼のためではなかったとしても喜び、彼女を失うことになっても完全に落胆することはない。彼女を失うことを悲しむよりも、彼女と出会えたことを喜ぶ。」

 「求める愛」や「与える愛」とは異なり、「評価愛」は対象の存在そのものをただ受け入れ、喜び、感謝する。そうルイスは言うわけだ。

 なるほど、確かに愛にはそのようなものもある、と思わされる。


3.愛着(Affection)

 以下、ルイスは4つの愛について述べていく。

 まずは「愛着」について。

 愛着とは、なじみあるものについての愛情のことだ。

 しかしそれは、時にその対象をないがしろにしてしまうこともある。

 たとえば、教師が生徒をいつまでも自分のものと考えてしまうような場合だ。

 これについてルイスは次のように言う。

少しでも良い教師であるためには、われわれの生徒たちがわれわれに対する批判者、好敵手として独立する瞬間を目指して働き続けるのでなければならない。その瞬間が来るとき、われわれは喜ぶべきである。あたかも、フェンシングの指南が教え子に突かれ、剣を打ち落とされる時が来るのを喜ぶように。    


4.友愛(Friendship)

 続いて、友愛について。

 先に言ったように、このテーマについてのルイスの洞察は傑出している。

 まず彼は次のように言う。

「「友愛」はすべての愛のうちで最も「自然的」ではない(だから悪いと言っているのではない)。それは少しも本能的ではないし、有機的生物学的ではない。集団形成的ではないし、生命維持のために必要なものではない。」    

 議論の余地がある気もするが、この観点からルイスはさらに続けて次のように言う。

「「友愛」が持つこの(言わば)「非自然的」特質は、「友愛」が古代や中世では称賛されながら現代では軽視されるようになったのはなぜかを、充分に説明している。古代社会や中世社会を最も深く長く支配した思想は、禁欲的思想、世界否定的思想であった。自然や感情や肉体はわれわれの魂にとって危険なものとして恐れられた。あるいは人間の身分・品位を貶めるものとして蔑視された。」   

 友愛は、古代においては称揚されたが今日では軽視されている。

 なぜか? それは、まず古代人(ギリシア・ローマを指していると思われる)にとって、「自然的」であることは軽蔑されるべきことだったからだ。

 彼らにとって、人間の自然的(=動物的)な部分は、克服されるべきものだったのだ。

 だから古代人にとっては、「非自然的」な「友愛」こそが最も価値の高いものだった。

 しかし現代人の考えは異なっている。

「しかし次にロマン主義の時代になり、「お涙ちょうだいのメロドラマ」と「自然に還れ」と「『感傷』至上主義」の時代が到来した。それに続いて興奮した感情を尊ぶ運動の大きなうねりが押し寄せてきた。この運動は繰り返し批判を受けることになるが、今でもすたることなく続いている。最後に血の中の暗黒の神々、すなわち本能を高揚する時代が来た。」    

 ロマン主義は人間の自然性を称揚した。そして今日、人びとはさらに自然的な「本能」を称揚している(おそらくフロイトが意識されている)。

 こうして現代においては、自然的なものを称揚するあまり、非自然的な「友愛」が軽視されるようになったのだ。

 さらに言えば、「友愛」とは単なる「同性愛」のことであるとさえ考えられるようになってしまった。

 しかし「友愛」と「同性愛」とは似て非なるものであるとルイスは言う。

 なぜなら、「エロース的愛」と「友愛」は、それぞれ異なる本質を持ったものであるからだ。

「愛し合う者たちは通常顔と顔を向き合わせ互いに相手に夢中になている「友人」は肩を並べ共通の関心事に夢中になっている。何よりも「エロース的愛」は(継続する間は)必然的に二人だけの間にしか存在しないしかし「二」という数字は「友愛」にとって必然的は数字でないだけでなく、最良の数字でもないその理由は重要である    

「チャールズがいなくなた今、私はロナルドを「独占」しロナルドをより多く楽しむことができるということには全然ならないチャールズがいなくなってしまった結果ロナルドは私にとって小さくなってしまったつまり真の「友愛」はすべての愛のなかで嫉妬心の最も弱い愛である。二人の友人は第の友人が加わること、またその三人に第四の友人が加わることを喜もちろんその新参者が真の友人になる資格を有する人であることが前提されるが。その時彼らはダンテが描く祝福された魂と共に「われらの愛を増し加えることのできる者が現れた」と言うことができる。    

 エロース的愛(恋)は、排他的な二者関係において生ずるものだ。

 それに対して「友愛」は、仲間が増えることに喜びを覚える。

 なぜなら「友愛」とは次のようなものであるからだ。

「「友愛」が成立するときに交わされる典型的言葉は、「何だって? 君も? 私だけだと思った」のようなものであろう。」    

「友愛」が生まれるのは、人々がおいを発見し合いヴィジンを共有するときである

この種の愛においては、エマンがうように「君は私を愛するか」と問うことは「君は私と同じ真理を見ているか」と問うことである。あるいは少なくとも「君は私と同じ真理に『関心を寄せる』と問うことである

 友愛、それは同じ「真理」を見る者同士の間に抱かれる感情なのだ。

 もちろん、この友愛が「エロース的愛」へと発展することはある。あるいは逆に、「エロース的愛」が友愛へと展開することもある。

秘密を共有することを発見した二人が異性同士である場合には、彼らの間に生じる友愛はすみやかにエロス的愛に移行するであろう(恐らく初めの三十分以内に)実際二人が互いの容貌を嫌悪するのでない限り、あるいはどちらかに既に愛し合う人がいるのでない限り、早晩エロ的愛をもって愛し合うようになることは確実であるまた逆にエロス的愛が愛し合う者たちの間の「友愛」に発展する場合もあるしかしこのことはこれら二つの愛の間には違いがないということを意味しないむしろその違いをはっきりさせることになるもしある人が初めは深く十全な意味において「友人」であったのに、徐々に、あるいは突然に愛人でもあることが分かったときには、この「最愛の人」のエロース的愛を第三のいかなる人とも共有したいとは思わないに違いないしかし最愛の人」との間にある「友愛」を他の人と共有してもまったく嫉妬を感じないだろう。    

 エロース的愛の中にもし友愛があったなら、私たちはその友愛部分に関してのみは、排他的な二者関係であることを必ずしも望まない。

 友愛は「真理」の共有拡大を求めるものなのだ。

 彼は続ける。

「友愛」は「エロス的愛」と異なり詮索好きではないあなたがある男の「友人」になるとき、彼が結婚しているか独身か、あるいは何を職業としているかなどを調べたりしない。これら「どうでもよい事柄、散文的な事実」が、核心的な問いつまり「あなたは私と同じ真理を見ているか」に何の関係があろうか。真友人」たちの交わりにおいては各人はあくまで自分自身であり、何かほかのものの代弁者ではない。誰も「友人」の家族や職業、階級、収入、人種、あるいは履歴などについて何の関心も持たない。」   

 エロース的愛は、相手のすべてを所有することを欲する。

 それに対して、友愛にとって重要なのは、ただ「真理」を共有することのみなのだ。


5.エロース的愛(Eros)

 続いてルイスは、エロース的愛(恋)について筆を進める。

 このテーマについてのルイスの論述は、やや平凡な感を免れない(恋については、竹田青嗣『恋愛論』がすぐれた哲学的恋愛論になっている)。

 と、それはともあれ、まずルイスは、恋につきもののエロティシズムを「ヴィーナス的愛」と呼んで次のように言う。

 多くの人が、人間がもともと持っているのはこのヴィーナス的愛(エロティシズム)の方であり、エロース的愛(恋)はその結果であると考えている。しかしそれは間違いである、と。

「男によっては、女を見て初めは単なる性欲を起こし、後の段階で「その女と恋に落ちる」という経験をする者もあるだろう。しかしそれが普通一般であるとは思えない。ほとんどの男の場合、最初に起こることに単純に心奪われることである相手の女性全体について曰くい難いほど全体的に心を奪われることである。このような状態にある男には性行為について考える余裕はな。」    

 男は、女性にエロティシズムを感じる前に、相手に心のすべてを奪われてしまうことがある。

 この時、私たちは、恋の相手はほかならぬこの人でなければならないと思う。

 この点、ある一定の条件さえクリアしたなら、どんな人に対しても抱けてしまうエロティシズム(ヴィーナス的愛)とは対照的だ。

「男は「エロス的愛」によって女を欲するのではなく一人の特定の女性を欲する。    

 しかし恋において、わたしたちは「ヴィーナス的愛」(エロティシズム)もまた同時に抱く。

 それは実に不思議なことだとルイスは述べる。

「エロース的愛」のように天翔ける激情が、そして見るからに超越的な激情が、肉体的欲望と切っても切れない関係で結ばれているということは、神が楽しまれる冗談だとしか私には思われない。〔中略〕「エロス的愛」に燃えるときわれわれは空を飛んでいるかのように感じる。しかし「ヴィーナス的愛」はそんなわれわれをぐいぐい引っ張って、われわれが紐付きの風船であることを思い起こさせる。それはわれわれが複合的な生き物であって理性と動物性とを兼ね備えており、一方では天使に似ていながら、他方では猫に似る存在であるという事実を繰り返し明らかにする。    

 ルイスの、エロース的愛とヴィーナス的愛の関係についての考察は、私には非常に物足りない。この点、やはり竹田青嗣『恋愛論』が深く掘り下げて考えているので、ご興味のある方には参照していただきたい。


6.恵愛(Charity)

 本書の最後に、ルイスは「恵愛」について述べる。

 端的に言えば、これは「神の愛」のことだ。

 まずルイスは、神は私たちに「与える愛」と「求める愛」を与えたもうたと述べる。

 まず「与える愛」についてから。

神はご自分の「与える愛部を人間に分け与え給うこれは神が人間の本性のうちに組み込んでくださった諸々の「与える愛」とは異なる。〔中略〕神の「与える愛」――人のうちに働き給う愛なる神ご自身――は完全に無私のものであって、愛の対象にとって最善のことだけを欲する。」    

 ルイスによれば、私たちは絶対的に無私な「与える愛」を持つことが可能なのだ。

 しかもそれは、「愛されるに値する人たち」への「与える愛」だけではない。

「神の「与える愛」が人に与えられるとき、自然的観点から見るとまったく愛らしくないものを愛することを可能にする。人から忌避される病者、犯罪者、敵、愚か者、捻くれ者、お偉方、自大主義者等々を愛することを可能にする。」

 ルイスはさらに言う。

「最後に、これは逆説の極みであるが、神は人間がご自身に対して「与える愛」を向けることを可能にしてくださる。」    

 私たちは神に対しても「与える愛」を向けることができる。

 もっとも、神は完全であるので、別段何を与えられることを望むわけでもない。

 ここでルイスの言う「与える愛」とは、私たちが神が望むことをなすことなのだ。

われわれが見知らぬ人に食べ物を与え着物を着せるとき、その見知らぬ人はキリストである(マタイによる福音書253140)。これはわれわれが自覚していてもいなくても、明らかに神に対する「与える愛」である。    

 さて、ルイスによれば、神は私たちに、「与える愛」だけでなく「求める愛」をも与えたもうた。

 まず神に対する「求める愛」がある。

 私たちは神の恩寵を求めざるを得ない。この恩寵(愛)を求めない者は傲慢である。そうルイスは主張する。

 次に、人々に対する「求める愛」がある。

「神はわれわれ人間同士が互いを必要とする「求める愛」をも変革してくださる。そこではすべての人々の間に平等な変革が要求される。「恵愛」は「愛なる神」ご自身であるから、愛すべからざる者を愛する。現実社会において、われわれは誰でもこの「恵愛」を他の人々から受けることを求めるときがある。」    

 最後にルイスは次のように言う。

われわれが持つ諸々の自然的愛を「恵愛」に転換せよとの誘いに事欠くことはない。〔中略〕目が曇らされているとき、われわれはそれらの摩擦や挫折について理不尽なことを考える「もし私の子どもたちが良い子だったら(日ごとにあの子たちは父親のようになっている)、私は完全にあの子たちを愛することができるのに」〔中略〕れらの徳を実践する必要性はまずわれわれを駆り立て強制し、われわれの愛を「恵愛」に転換する努力に向かわせる(より厳密に言えば、神が転換してくださるのを願う)ものである。    

 私たちの中には、「愛よ、完全なものであれかし」という願いがどこかしらあるものだ。

 恵愛の求めは、まさにこの願いの内にこそあるのだ。

(苫野一徳)

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