竹田青嗣『欲望論 第2巻:「価値」の原理論』(その3)



1.芸術の「本体」論

 続いて、竹田は「芸術」の本質へと筆を進める。

 従来、哲学的芸術論には何かしらの「本体論」がつきものだった。

 たとえばカントは次のように考えた。

「芸術の与える感銘の本質は、神のみが造り出しうる自然の形象の驚くべき美(合目的性)を、特別の才に恵まれることで人間も創出しうることへの驚きであり、それゆえ天才のみが芸術の担い手である——。カントのこの見解は、芸術とは神の業の人間的模倣であり、それ自体が一つの賜物であるという観念に支えられている。」

 カントにおいては、芸術は神の業の模倣とされたのだ。

 ショーペンハウアーは、カントの「物自体」「盲目の意志」に置き換えたが、彼によれば、この「意志」がさまざまな仕方で客観化されたものが「イデア」であり、芸術はその純粋な観照においてのみ可能になるものである(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』のページ参照)。

「われわれに現われ出ている無数の個体はいわば客観化された「意志」であり、その諸相はそれぞれの個体の到達しえない模範、あるいは「事物の永遠の形相」として存在する。個体がたえず発生消滅を繰り返すのに対して、この根本的意志の客体化としての「永遠の形相」は決して消滅しない。こうして人間の認識は本質的に「イデア」の認識にかかわり、主体の主体性を消し去ったところに生じる純粋な観照によってのみ可能となる。」    

 ここにもまた、芸術のあからさまな「本体」論がある。

 ハイデガーの芸術論はどうか。

 後期ハイデガーの『芸術作品の根源』には、彼の後期作品に特有の「空け開け」とか「明るみ」とかいった言葉が連発されている(ハイデガー『芸術作品の根源』のページ参照)。

 これらの言葉は、哲学的にはただ1つのことを言っているにすぎない。

「それは、ニーチェの力相関性(欲望-身体相関性)のハイデガー的変奏、すなわち「気遣い」相関性の寓喩である。「明るみ」「空け開け」は後期ハイデガーにおいて用いられる「無」や「贈与」の概念とほぼ等価だが、これを簡潔に命題化すれば以下となる。第一に、あらゆる存在者はただ人間における「現」という「空け開け」の場所においてのみ自らの存在とその存在意味を開示する。第二に、「存在の真理」は、本来的な実存への企投という「明るみ」の場面においてのみ自らを開示する。ハイデガーは、第一の命題から第二の命題を取り出すが、前者は存在審級論の根本テーゼであるのに対して、後者はその形而上学的な真理本体論への差し戻しである。」


 「気遣い相関」というすぐれた認識論を展開したハイデガーだったが、後期において彼は、「存在の真理」は本来的実存の「明るみ」においてのみ開示されるという独自の形而上学を繰り広げることになったのだ。

 そして芸術は、ハイデガーに言わせればこの「存在の真理」を開くものである。

「芸術は一つの「世界」を、すなわち「まことの世界」を開き、うち立てる。この世界は現実世界に対抗する基盤としての「大地」である。作品は「大地」としての世界を開くことで、現実世界に対抗する。芸術は、現実世界とのこの闘いを通して、人びとに「存在の真理」を勝ちとらせる。」    

 ここにもまた、芸術のあからさまな「本体」論がある。

 ハイデガーを継承したガダマーなどの解釈学は、ある意味ではさらにタチが悪いと竹田は言う。

 ガダマーの芸術論およびその基盤となる認識論について、竹田は次のように言う。

「一切の認識には主体の解釈(企投)がかかわる。主体の解釈は正しい実存企投か誤った実存企投のいずれか、つまり本来的な了解であるかそうでないかのいずれかである。正しい実存企投においては「存在の真理」が開示され、誤った実存企投による解釈からは通俗的客観的な対象認識が結果する——。
 これは、形而上学的認識論であることを超えてもはや、神学的認識論の基本型というほかはない。そして、ガダマーとハイデガーがその隠語的謎言話法で覆い隠そうと努めるのは、動かしようもなく明らかな神学的真理認識のロジックにほかならない。」


2.相対主義的芸術論

 これまでのさまざまな認識論、存在論、言語論が、例外なく「形而上学的独断論」と「相対主義」の対立に行き着いたように、芸術論もまた、正確に同じ対立を繰り返してきた。

 先に見たショーペンハウアー、ハイデガー、ガダマーらの「本体論」的芸術論があれば、これをとことん相対化する芸術論もまた存在してきたのだ。

 芸術論における独断論と相対主義について、竹田は次のように言う。

「現代の芸術論の舞台は、「テクストに虚心に耳を傾けよ、「真理」が君の耳に届くまで」という形而上学的芸術的司祭たちの教説と、「テクストからどんなものも好き勝手に解釈することができる」という知的相対主義の僧侶たちとで、足の踏み場もないほど混雑をきわめている。」    


3.芸術の現象学

 独断論にも相対主義にも陥らず、芸術の本質を洞察してみよう。

 竹田はまず次のように言う。

「多くの若者は、ある時期にさしかかって特定の音楽家、歌手、作家、詩人、画家などになぜか強く引かれ、その作品のみならず、その芸術家、アーティストに強く憧れるという体験をもつ。この独自の表現的結晶作用の体験は、美的体験と同じくその由来を誰も現前意識の直接性としてたどることができず、まさしくその理由で未知性、稀少性、不思議さと背後世界性を直観させるようなものとして現われる。」

 芸術作品は、わたしたちに強い偉力を感じさせる。それゆえわたしたちは、その背後に何か「本体」があるのではないかと直観することがある。

 しかし芸術の背後に「本体」などはない。わたしたちが探求すべきは、美的・芸術的現象の普遍的構造の解明である。

 ここで竹田は、「作品的感銘」「表現的偉力」という概念を提示する。

「われわれは、以後、作品に向き合う人間を鑑賞者と呼び、作品に異例の仕方で動かされることを、さまざまな日常的、関係的な出来事によって生じる「感銘」とは区別して「作品的感銘」と呼び、その強度を「表現的偉力」と呼ぶことにしよう。」    

 これは芸術である、とわたしたちが感じるとき、わたしたちは必ず、そこに「作品的感銘」と「表現的偉力」を感じ取っている。竹田は続ける。

「この芸術体験に出会った者のうち、ある者は自ら「表現的偉力」を再現したいという欲望に駆られる。この動機に押されて創造を試みる者は「作品」を模倣するが、この模倣の企投は、作品が自らに与えたあの「作品的感銘」を再現することを目がける。作品とその創造行為の偉力が引き起こす憧れと羨望を経験して、自分もまた創造者たろうとする人間は、この場面ですでに「芸術」とは何かについての最も基礎的な本質をつかんでいる。ある音の響き、旋律と律動性、ある言葉の不思議な連なり、物語が紡ぎ出す仮想の出来事の連鎖、それらが生み出す夢想、情緒、感情の高揚、幻影、色彩、深い情感、自分の琴線に触れ心の深部を揺り動かしたあの何かを自らが再創造すること、それが問題のすべてである。創造を試みる者にとっては、事態はこの上なく簡明であって、この作品的感銘の体験の再創造が芸術、あるいは表現作品の意味にほかならない。」

 この感銘と偉力に打たれた者のうち、この感動を自らもまた生み出したいと思う者が創造者の道を進もうとする。

 また一方で、多くの者は、この感銘と偉力は一体何なのか、語りたくなる。

 ここに、批評のゲームが登場することになる。

「一般に、作品的感銘に打たれその偉力に動かされたものは、この偉力についての語りの欲求に駆られる。作品の偉力についての語りの欲求が現われなければ、そもそも批評は生じない。」

「作品への感銘に打たれたものは、その体験の稀有性を語りたいというだけではなく、この作品の感銘の内実、それがいかに自分の心をつかみ、動かしたかを誰かに語り了解してもらいたいという欲求に駆られる。〔中略〕それゆえこの感銘の内実についての語りの欲求は、感銘についての単なる報告なのではなく、感銘の本質を言い当てたいという欲求、作品の偉力の本質探求の欲求であるとともに、それを他者と共了解したいという欲求でもある。」

 こうして竹田は、芸術作品体験の本質契機を次の3つ提示する。

「作品体験における本質的契機。第一に、作品的感銘、第二に芸術の本質探求、そして第三に芸術的判定。」    

 芸術作品は、わたしたちに「作品的感銘」を与え、それゆえその本質を探求したいと欲求させ、そしてその上で、「これは芸術である」と判定させるようなものなのだ。

 言うまでもなく、この判定において、芸術の絶対的基準などはない。そこから、芸術など徹頭徹尾相対的なものであるなどという相対主義的芸術論が生まれるが、これほど馬鹿げた芸術論はない。

「ある仕方でタイピングされたアルファベットの並びを、なんらかの暗号やアナグラムとして解読しようとする試みは、それがいかに何らかの隠された意味を含んでいるように見えようと、たとえばそれがチンパンジーによって打たれたアトランダムな記号配列にすぎないことが明かされるや否や、まったく無意味なものとなる。同様に、何か意味ありげな抽象画が、ブタの尻尾で描かれた色彩画であることが判明するや否や、この絵に対する「本質探求」は無意味なものとなって停止する。言語現象においては話者の意の志向的信憑が不可欠であるように芸術現象においては作者の創造的膂力への志向的信憑が、不可欠の本質契機だからである。「作者の死」の観念は、芸術相対主義の観念から捏造された帰謬論的誤謬の一典型にすぎない。」    

 芸術作品において、わたしたちは必ず、何らかの創造的膂力への感銘を感じ取っているはずなのだ。

 その本質、その普遍性は一体どこにあるのか?

 わたしたちはその問いをこそ問わねばならない。言うまでもなく、「本体論」に陥ることなく。


4.芸術の普遍性

 竹田は言う。芸術作品が芸術であると普遍的に判定されるのは、徹頭徹尾「芸術–批評のゲーム」においてである、と。

「芸術作品がまず存在し、その後に、その卓越性、真正性の判定についての批評のゲームが現われるのではない。ある創作物から何かを感じ取ったものがそれについて語り、これについての異なった語りの多数性が現われることで批評のゲームがはじまり、この批評のゲーム、すなわち作品が与える感銘の卓越性や優劣をめぐる言説のゲームの中で、あるものが「芸術作品」と呼ばれる。このゲームの関係的集合性が芸術というジャンルを形成する。」    

 芸術の判定は、どこまでも間主観的な信憑において成立するのだ。

「こうしていまや、芸術作品の起源が理念、絶対者、理、存在といったものに還元されえないことは明らかである。これが真の作品であるという個々「確言」の集合性が芸術作品を生み出し、芸術的価値なるものを集合的信憑として生み出す。あるいは、これこそ「真の作品」であるという批評、この判定についてのせめぎあい、そこから現われる間主観的な信憑だけが「芸術」を生み出すのである。」    

「芸術-批評ゲームは作品の真正性、卓越性についての「確言」のゲームである。ここでは作品が比べられ、「真正性」に達しているか、またどれがより優れているかが「確言」されなければならない。作品の卓越性についてのこの「確言」、どれがより優れた芸術であり、どれが「真の作品」であるかを表明することが芸術-批評ゲームの基本ルールである。」    

 芸術の普遍性は、こうした「芸術–批評ゲーム」において、間主観性に成立するものなのだ。

 もっとも、芸術の判定に絶対的な基準がないがゆえに、「芸術–批評ゲーム」にはいくつかの困難がつきまとうことになる。

 たとえば、「権威主義」。誰か権威ある「批評家」が、不当に力を持ってしまうことがある。

 あるいは、「政治的利用」。かつてのマルクス主義のように、芸術を政治利用する動きが時に起こる。

 そしてまた、「サクセスゲーム」。資本主義社会においては、芸術作品は商品となる。それゆえ作品は、「芸術–批評ゲーム」のうちに止まらない様相を呈することになる。

 相対主義的芸術論は、ここに目をつける。

「普遍性探求のゲームである芸術-批評の制度は、文化的なサクセスゲームと明確に区分することがますます困難になる。こうなると、作品を創造する人間、批評する人間、享受する人間の三者の間でヘーゲルが示唆したような「相互的欺瞞」、作品創造者も批評者も享受者も表向き芸術の普遍性を強調しているだけで、実質上互いに文化的サクセスゲームとしてそのうちを生きているにすぎないのではないか、という相互的不信と欺瞞の戯れが生じる。そしてこういう場面では、芸術相対主義は、権威化しサクセスグゲームと区別のつかなくなった芸術-批評のゲームに対して、普遍性の根拠についての疑義の声を上げるという役割を果たす。」


 芸術など、結局普遍的なものではなく人びとの幻想的な商品にすぎないのではないか。

 相対主義的芸術論はそのように主張するのだ。

 しかしこれは、やはり本質を取り違えた考えだ。

 多くの政治権力が正当性を欠いたものであるということと、権力の正当性の原理を哲学的に導出しうることとが別問題であるのと同じように、芸術ゲームが時に商品ゲームになってしまうということと、芸術の普遍性の原理がありうることとは別問題なのだ。


 芸術の普遍性は、長く広範な「芸術–批評ゲーム」を通して獲得されていくものである。そしてこの構造は、動かしがたいものなのだ。



(苫野一徳)

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竹田青嗣『欲望論 第2巻:「価値」の原理論』(その2)



1.価値審級の源泉=「母」–「子」における「言語ゲーム」

 これまで「母」(養育者の総称)と「子」における「言語ゲーム」について見てきたが、竹田によれば、これは人間的価値審級の源泉と言うべきものである。

「われわれの仮説は、言語ゲームという成育の環境を欠くなら、「子」は定常的な「関係的身体性」の形成を損なうだけでなく、そのことによって人間的価値審級「よい–わるい」「きれい–きたない」の形成を欠くということ、すなわち、「母–子」の言語ゲームは人間的価値審級の源泉にほかならない、という仮説である。」

 人間は、この原初的な「言語ゲーム」を通して、人間的価値の審級を自らのものにしていくのだ。

 以下、その「言語ゲーム」が「母」–「子」においてどのように展開されていくかを見てみよう。

 最も原初的な「母」–「子」の「言語ゲーム」は、まず「要求–応答」関係として現れる。

 しかし、ここにやがて「禁止」の項が登場することになる。

「「母–子」間の要求–応答関係は、はじめは完全に一方向的なものとして、つねに「子」が要求し「母」がこれに応答する関係として進む。しかし、ある時点でこの関係は逆転する。それが母親によるはじめの「禁止」(初期禁止)である。」 

「「子」が親の禁止を理解し、またそれに続く諸要求に従うことができるようになるや、「子」にとって世界は新しい分節を形成する。それまで中心をなしていた「母–子」の親密かつ内閉的世界、すなわち「安心–不安」(母親の現前と不在)「愉楽–退屈」という基礎的分節の中心は、「禁止–許可」という新しい世界分節の中心性によってその基本形式を一変する。」   

 「禁止」の登場によって、「子」の世界はガラリと変わる。彼は世界に、「禁止–許可」という新しい世界分節を見出すことになるのだ。


3.善悪の起源

 竹田によれば、ここにこそ人間的「善」–「悪」の価値審級の源泉がある。

 つまり、「母」によって「許可」されているものが「善」として、そして「禁止」されているものが「悪」として分節されるのだ。

「「母」の言葉「よい」は、一切の肯定性を示す言葉を代表する。「よい」は、「快い」「おいしい」「うれしい」「たのしい」「きれい」「やさしい」「かわいい」「まちどおしい」「やわらかい」「明るい」「できる」を代行しうる。「わるい」は、その反対の意味をもつ語のほぼすべてを代行しうる。すなわち、「よい」と「わるい」は、世界のうちで生じる一切の情動様態をその肯定性と否定性において二分する。」

 言われてみれば当たり前のように思える。しかしここには、実は哲学的善悪論の新たな展開がある。

「本体」論に支配されていた従来の哲学は、結局のところ、これまで「善悪」の「本体」を暗黙のうちに探求していたからだ。

 しかし竹田は、善悪の起源は「言語ゲーム」のほかにないことを論じるのだ。

 さて、「母」–「子」の「言語ゲーム」は、「子」の成長につれてより広い「言語ゲーム」へと開かれていくことになる。

 端的に言えば、「子」は「家政のゲーム」に参加していくのだ。

 ここにはある種の「競合関係」が登場する。

「初期禁止を転回点として「母–子」の要求–応答の言語ゲームは大きく展開し、やがて複数の主格、すなわち父親やきょうだいが参入する「家政のゲーム」となる。 〔中略〕「母–子」の内密的な親和的応答の関係は後退し、「子」は家政の掟のうちで位置を与えられ、家族の成員のうちではじめの競合関係を生きねばならない。」

 こうして、「子」は「母」–「子」の言語ゲームから「家政のゲーム」へ、そしてさらに広い「言語ゲーム」の世界へと開かれていくことになるが、この諸々の関係性のうちで、彼はさまざまな「自己ロマン」を育て上げていくことになる。

 つまり「子」は、この関係性の中で自己価値承認欲求を持ち、「このような自分でありたい」「あのような自分でありたい」というロマンを描くようになるのだ。

 このロマンには大きく3つの範疇があると竹田は言う。

「自己ロマン化の三つの大きな範疇。「卓越性のロマン」「道徳と正義のロマン」「美的ロマン(挫折と屈折を養分とする、「道化」や「悲劇」のロマン化もある)。この岐路がいかに現われるかについは判明である。自己意識は本質的に自己価値承認の欲望であり、「自己ロマン」は他者の承認が集まる可能性の場所で結晶化する。すなわち自分のうちの他に抜きん出ている点の感度が、未来の自己像への憧憬を育てる。」

 自己のロマンもまた、わたしたちは徹頭徹尾「言語ゲーム」の中で育んでいくのだ。


4.美とは何か

 「善–悪」の審級の源泉が「母」–「子」の言語ゲームにあったように、「美–醜」の審級の源泉も、基本的には「母」–「子」の言語ゲームにあると竹田は言う。

 しかしこのこともまた、哲学史において十分洞察されてこなかった。

 ここで竹田は、カントの美的認識論や、それを継承したシラーの美学、さらに新カント派の美学等を批判的に検討するのだが、ここでは割愛することにしたいと思う。

 従来の哲学的美学を総覧した上での竹田の結論は次のようだ。

「ここまで来てわれわれは、「美の謎」の核心にあるのが「美の普遍性」の問題であることを理解せねばならない。あるいはまた、近代哲学における美学的探求の努力が、根本的には、美の普遍性をいかに根拠づけうるか、という主題をめぐっていたことを再確認せねばならない。」    

 なぜ、わたしたちはあるものを「美」と認識しうるのか。しかも、なぜそこにある種の普遍性を見出しうるのか。

 これが、哲学的美学における核心的問いである。

 この問いをさらに展開すれば次のようになる。


「第一の問題。プラトンによる美の知覚–感覚性と美的感受性の矛盾。なぜ単なる知覚(視覚・聴覚)が美的感受の能力をもつのか。
 第二の問題。美は主観性だが普遍性を要求する(カント)。しかし美の感受ははたして普遍性をもつか。もつとすればその根拠は何か。
 第三の問題。美と芸術の本質的区別。
 第四の問題。最後に、美と善の関係的本質。」


1.なぜある種の知覚が美的に感受されるのか、2.美はなぜ普遍性を持つのか、3.美と芸術とは何が違うのか、4.美と善とはどのような関係にあるか。

 これらの問いに、以下で竹田は挑んでいく。


5.美的感受

 まず第1と第2の問いについて。

 ここでも、考えるべきは「母」–「子」の言語ゲームだ。

 この言語ゲームにおいて、先行するのはまず「きたない」であると竹田は言う。

「ここではごく一般的な経験的洞察として、はじめに「きたない」が、つぎにその反対概念としての「きれい」が「子」に了解されること、この意味了解の基礎の上に、われわれの主題である美的な感受性としての「きれい–きたない」の分節が了解されていくということが重要である。」    

 嘔吐物や排泄物などを、「母」は「きたない」と名指しこれを禁止する。「きれい–きたない」の審級は、こうしてまず「きたない」という言葉によって分節されるところから始まるのだ。

 では、「きれい」はどのように「子」において分節されることになるのだろうか。


「「母」がどのような対象を美的な意味で「きれい」と呼ぶのかについて、さらに考察してみよう。「母」が、「きれい」という言葉で指し示す範例的な対象は以下である。花、衣服の色や柄、絵本の色調、とくにキラキラと光るもの、色ガラス。磨き上げられたもの、等々(総じて、視覚主導)。そしておそらくは、少し後になって、夕焼けや星空などの自然の情景や風景。」


「ここでは、「きれい」は「きたない」を予想せずその対立項ではない。また「きたない」がもつ禁止・抑止の指示性をもたず、「よい」がもつ、触れたりそれで遊んだり食べたりしてよいという許可の意味をもたない。ここでの「きれい」は、ある対象をともに見ること推奨されており、そのことでそこで生じる感情の共有を促す、といった意味をもっている。」

 これは非常にすぐれた洞察だ。

 「きれい」は、「きたない」の反対項として分節されるわけではないし、「許可」としての「よい」として分節されるのでもない。

 この言葉は、「母」との間のある種の感情の共有を促すものとして「子」に訪れるのだ。

 このあと竹田は、「きれい」が「美」へと転移されていく道筋や、様々な美的対象についての考察を展開するのだが、ここでは省略する。

 ともあれ、竹田によれば、ある知覚が美的に感受され、かつまた普遍性を持ちうる根拠は、上に見てきたように、美がそもそもにおいて、「母」との間の感情共有として「子」に訪れるものであるからなのだ。


竹田青嗣『欲望論 第2巻:「価値」の原理論』(その1)



1.「快−不快」「エロス的予期−不安」

 第1巻の最後に、竹田は「身体」の本質を、1.エロス的感受、2.存在可能、3.能う、として描き出した。

 続く本巻では、まずこれら3つの本質契機の内実および発生論が展開される。

 はじめに、身体における最も原初的な「エロス的感受」としての「快」の本質について。

「身体的エロスの本性において、「快」の本質は第一義的に「貪ること」すなわち「享受」であって、「回復すること」、定常状態への復帰ではない。快の本性はいわば「もっと」を求める「力への意志」であって、回帰への欲望とはいえない。いいかえれば、快の第一義的本性は、「乗り越え」であって「打ち消し」ではない。」

「このことは、不快や苦痛からの解放が快(エロス)であるか否かは、その定常状態への回復の速度が問題であることを示している。ある原因で不快や苦痛を抱えている者からこの原因となるものを瞬時に取り除いてやるなら、たとえばひどい苦行の時間が終わったその瞬間には、苦痛からの解放は大きな快(エロス)であるに違いない。しかし不快や苦痛が長い時間をかけていつの間にか消失するという場合には、それが消え去っていることにふと気づいたとき、ただ「苦痛」が消失したという意識においである種の「快」が現われるが、それは身体的なエロスの生成とはいいがたい。」

 快とは不快からの回復である、としばしば言われるが、それは違うと竹田は言う。

 快の本質は「貪り」「享受」にあるのであって、不快からの「回復」にはない。もし不快からの「回復」において快を感じることがあったとしたら、その本質はその「速度」の享受にあるのだ。
 
 「快」についてのすぐれた本質洞察だ。

 ところで、このような「快」(=エロス的欲求)を人間が求めるのは、種の保存のためである、としばしば言われるが、これについても竹田は次のような的確な批判を行っている。

「エロス的欲求は、結局のところ生き物の死の衝動に奉仕しているのだという推論的空想は、人間が恋をするのは人類の種の保存の欲動の現われであるという空想的推論と同種である。人間的事象の「本質」について洞察することが問題である場面では、こうした一切の種類の空想的仮説をエポケーする習慣を身につけねばならない。」

 哲学的には、このような言説はどこまでも可疑的な仮説であって、ここを始発点にして思考を始めることは許されない。

 わたしたちに疑えない思考の始発点は、われわれはこのようなエロス的欲求を持った存在であるということまでであって、その根拠を「意識の背後に回って」突き止めることはできないのだ。

 続けて竹田は次のように述べる。

「人間では、定常状態に立ち戻ると存在は飽満し退屈が生じる。そして身体的な欠如のない定常状態それ自体が一つの欠如であるかのように、新しいエロスを、何らかの能動的エロスを求める。」

 こうして、人間のエロス的力動の根本は「快-不快」「エロス的予期不安」にある。

 人間は絶えずエロス的予期をめがける存在であり、またそれが満たされない不安を抱える存在である。

 この両者を始原的な根拠にして、わたしたちは世界を分節しているのだ。



2.ハイデガーの「不安」とレヴィナスの「享受」

 ところで、エロス的力動の根本(根本情状性)と言えば、ハイデガー「不安」の概念が思い浮かぶ。

 これについて竹田は次のように言う。

「その全体構想には、暗黙の形而上学的理念化が前提されている。人間実存の根本的本質として「情状性」「了解」が措定され、根本情状性としての「不安」の根底には「死」の観念が想定される。さらに、死の観念、不安(存在不安)の情状性、不安の打ち消しとしての配慮的気遣い、死の観念あるいは実存の一回性の隠蔽、頽落、非本来性と存在忘却、という下図の上に、死の自覚、良心の呼び声、先駆的決意性、本来的な実存への企投、といった実存理念の全体像が描かれる。」

 これまでに見てきたように、ハイデガーの「気遣い相関性」の原理は、フッサール現象学を大きく前進させるものだった。

 しかしその先に、やはりこれまで見てきたように、ハイデガーは彼特有の形而上学的「本体」論を忍ばせていた。

 根本情状性としての「不安」の概念は、この本体論と密接に関係している。

 ハイデガーによれば、人間は死のゆえにその根本に「不安」を抱えている。そしてそれゆえに、その不安を打ち消し「頽落」しながら生きている。

 この頽落から脱却し、本来的な生き方をせよ。これが、ハイデガーの本来的生き方の形而上学なのだ。

 このハイデガーの「不安」に対抗したのがレヴィナスだ。

 彼が人間の生の基底としておいたのは「享受」である(レヴィナス『全体性と無限』のページ参照)。

「レヴィナスはむしろ、人間の生の基底を、存在不安としてではなく、エロス性、糧、味わうこと、すなわち「享受」としておく。」

 しかしこれもまた、レヴィナスの独自の形而上学と結びついた概念なのだ。

 レヴィナスが打ち立てたかったのは、「私」に決して取り込まれることのない絶対的な「他者」の概念である。レヴィナスは、この絶対的な他者を「迎えいれよ」「享受せよ」と説くのだ。

 竹田は言う。

「ハイデガーでは人間に本来的な実存可能性を贈与する「存在」概念が捏造され、レヴィナスでは人間の「徹底的エゴイズム」を審問する超越的根拠としての「他者」概念が贋造される(このような独断論的理念設定は、二〇世紀に入っても、シェーラー、ブーバー、西田、ドゥルーズなどに典型的に見出される)。」

 竹田によれば、根本情状性はハイデガー的「不安」でもレヴィナス的「享受」でもない。

 むしろ、「不安」と「享受」の二元性こそが根本情状性であり、世界分節の原理なのである。


「「快–不快」と「エロス的予期–不安」は、あらゆる生き物(意識生)にとって、世界分節の根源的契機である。実存的な「内的体験」の世界は、客体化され客観化された世界に対する発生論的先行性をもち、その洞察上の順序的優位を逆転させることはできない。論理的に「同一性」を「差異」に先立てたり、「差異」を「同一性」に対抗させて理念的優位を与えたりすることが無意味であるように、不安にエロス的享受に対する優位を与えることも、あるいはエロス的享受を不安に先行させることも無意味である。このような優位の付与はただ秘匿された理念的動機からのみ現われる。」

「この二元性こそが世界分節の根本原理だからである。」

 
3.存在可能、能う

 続いて、身体の本質の第2契機である「存在可能」と第3契機である「能う」について。

 その原初的現象を、わたしたちは乳児の「泣く」という行為に見ることができる。

「乳児が身体の否定的ノイズへの反射として泣くとき、「母」はこれを一つの要求と理解する。「母」の応答がエロスの満足と飽満を生み出すと、乳児は身体的定常性をえて眠り込む。このことが何度か反復されるや変化が生じる。第一に、身体的ノイズの反射としての泣くことは、「母」を呼ぶ一つの企投的手段へとその意味を変える。「泣く」は「子」にとってはじめの「能う」となる。第二に、飽満による定常状態への復帰はつねに眠りへと移行するわけではなく、「子」に退屈をもたらす。「子」は何らかの身体的行為を試みるが(手足の屈伸、手を握ること、手(指)を口に持ってくる、後には目で何かを追う、ほか)、この身体的運動自身が一つのエロスとなる。」    

 乳児の「泣く」ことは、はじめは身体的ノイズの反射としての「泣く」だったが、やがて「母」を呼ぶ企投的手段(存在可能の手段)へと発展する。

 身体は、この存在企投を可能にする当のものである。

 親子関係はやがて「言語ゲーム」へと展開する。

 はじめのうちは、それは一方的な「言語ゲーム」である。

 この一方的な「言語ゲーム」を通して、「子」は自身の内的情動の世界を分節することを覚える。

「初期的な「要求応答」ゲームにおいては、そこで生じる関係に、「母」がたえずさまざまな言葉を呼び与える。名前に加えて、「いい子だ」「かわいい」「お腹空いた?」「ねむい?」「さむい?」「おいしいね」「いやいや?」「うれしい?」「おもしろいね」等々。始発点では一方向的なこの「言語ゲーム」の意義は小さくない。母の一方向的言語ゲームによって、「子」は、外的世界とその諸対象をしだいに分節するのみならず、自己の内的情動の世界をも分節化するからである。」

 言うまでもなく、この一方的な「言語ゲーム」は、やがて相互的な「言語ゲーム」になっていく。

 ここに、人間的エロスが「関係感情のエロス」として開かれていく土台がある。「子」は「母」(養育者を総称して本書ではこう呼ばれる)との間に関係感情のエロスを築くよう、自らのエロス性を絶えず改変していくのだ。

「はじめはほぼ全能的であった「子」の「泣く」と「むずかる」的要求は、やがてその全権性を奪われ、「子」は我慢しなければならなくなる。象徴的には、「子」はどこかの時点で、「母」の不在を泣かずに待つことを学ぶ。このとき耐えること、我慢することは、直接的な身体エロスを代償として、関係感情のエロスを確保するための一つの「能う」となる(泣かずに我慢して待つ「子」には、母親の優しさと、「よい子」という褒賞の言葉が与えられる)。」    

「ここではすでに要求–応答関係の逆転ということが生じており、「子」が対象としての「母」を独占するには、その承認をうるための「能う」が問題となる。」    

 それまでは全能だった「子」の要求は、やがて「母」からの承認を必要とするようになる。

 「子」は、この承認を得ることが「能う」存在にならなければならなくなる。全能性は挫折させられるのだ。

 こうして、このエロス性は、やがて自己価値承認のエロスとして展開されることになる。

「エロス中心性が関係感情のエロス(母親との共–情動的エロス)からさらに「自己欲望」(自己意識の欲望)へと転移する上での最も本質的な契機は、ルールや規範の受け容れの理由が、直接的な「母親から愛されるために」から「私はよい子だ」(みなから承認される)という自己価値承認へと転移することである。」    


4.深層文法

 以上、身体の3つの本質契機(エロス的感受性、存在可能、能う)それぞれの内実および発生論を見てきた。

 この後、竹田はフロイトラカンの批判を繰り広げるが(フロイトについては半ば評価しつつ)、ここでは詳細は省略する。

 一言だけ書いておくと、精神分析学的議論を、竹田は「深層文法」と呼び次のように述べる。


「君は君の真の欲望を知らない」

 これが「深層文法」の常套句だが、「深層文法においては、「自我」とは自由な意志の自立的かつ始発的原因ではなく、むしろ反対に、それを規定する隠された諸原因、その諸契機の結果、所産となる。」

 しかしもはや言うまでもないが、これもまた、意識や欲望の背後の「本体」を想定した思想なのだ。

 竹田は言う。

「われわれはいまや「深層文法」の本質を了解する。それは、人間の心的領域の「不可視箱」の中の真実の見者たろうとすること、さらにその真実の見者であると僭称することにほかならない。」

 確かに、わたしたちは「無意識」の存在を確信しうる。しかしわたしたちは、意識は「無意識」に規定されていると独断的に断じることは決してできない。

 なぜなら、「無意識」もまた、結局のところ「現前意識」において確信されるものでしかないからだ。

「「私」にとって自覚的でない(とくに否定的な)傾向性が他者によって指摘されるか、あるいは何らかのきっかけで自覚され納得的に了解されるとき、はじめて「無意識なもの」が存在するとみなされる。」

 先に見た竹田の身体の本質論は、欲望や意識の背後を想定することなく、欲望や意識の現前において捉えられた身体本質論なのだ。