ヘーゲル『哲学史講義』(9)


1.中世の哲学

 哲学史の第2期は、ヨーロッパ中世の哲学を中心に展開する。

 新プラトン派は、真理を「三位一体」として捉えはしたが、それはまだイメージの世界を出るものではなかった。

 そこでキリスト教の哲学は、これを概念的に把握しようとする。


「新プラトン派の哲学的思索は、深く、まっとうなものだが、三位一体を真理だとするかれらの教説はいまだ証明されたものではなく、内的必然性の形式が欠けている。三位一体にしか真理がないことが、意識されねばなりません。」


「重要なのは、この世のものが直接の自然状態として捨てさられるのではなく、特殊でありながら、神に根ざし、神の真理を分有する普遍的な知的世界と見なされ、神が具体的に存在する場ととらえられることです。〔中略〕神のうちにあると知られるものは、とくに人間です。すでに見たように、人間とは、神に目をかけられた長男、アダム・カドモン、最初の人間の流れを汲むものです。神とアダムとのこの統一は、潜在的な統一——理念としては具体的だが、いまだ顕在化していない統一——と定義できる。」

 ヘーゲルによれば、キリスト教の「原罪」とは、本来神と統一しているべき人間が、未だそのあるべき姿にないことを意味している。

 それゆえ人間は、その統一へと向かっていかなければならないのだ。


2.スコラ哲学

 こうして中世のスコラ哲学が勃興するわけだが、ヘーゲルはまず、このスコラ哲学が抱えていた根本問題を次のように言う。

「現実を軽蔑すべきものとしてかたわらに置くだけで、それにまったく関心を示さない。というのも、理性が実現され実在するのは、この世界ではなく、べつの世界でのことだからです。」    

「スコラ哲学の思考は教会の教えという絶対の前提につきまとわれています。その教えは、哲学的ではあるが、外からおしつけられるものです。だから、思考は自由に自分から出発し、自由に自分の内部に根拠をもつものとは見えず、哲学的であるとはいえ、直接にそこにあるという形を取る、既成の内容に縛られている。その結果、思考はどうしてもこの前提に一致するように推論することになる。」    

 現実軽視と、教会の教義への拘束。ここに、スコラ哲学はそもそもの問題を抱えていた。

 ちなみに、スコラ哲学という名称の由来をヘーゲルは次のように解説している。


「スコラ哲学という名称は、カール大帝の時代以来、大教会と大修道院付属の学校にかぎって、生徒たちの監督をする監督者(僧侶や参事会員)がスコラスティクス(学僧)と呼ばれたことからきています(四、五世紀においては、教師も学僧と呼ばれていました) 。」

 以下、有名なスコラ哲学者たちをざっと見ていくことにしよう。

 まず、アンセルムス

 彼は神の存在証明を試みたが、ヘーゲルに言わせれば、それは単なる分析的推論であって、満足の行く論理は見られない。

「アンセルムスについては、そこに分析的思考にもとづくスコラ的論法が使われているのを、見おとしてはなりません。(α)最高のものという思考があり、その概念が第一のものとして前提される。(β)第二に、「思考されたものには、存在するものとしないものの二種類があって、それは対立している。思考されるだけで存在はしない対象は、内容の不完全なものである。同様に、存在するだけで思考されないものも、不完全な内容である。」〔中略〕(γ)最高のものは存在もしなければならない。」    

 それに対して、本来なされるべき論理展開は次のようなものであるとヘーゲルは言う。

「存在のもとにおいても、存在自身の弁証法が働いて、存在が自分を否定し、一般的な思考へと到達することが示されねばならない。——存在と思考の統一というこの真の哲学的内容を、アンセルムスは対象としてとらえながら、それを分析的思考によってしか把握できなかった。」    

 神の存在は、分析的にではなく弁証法的に証明されなければならないとヘーゲルは言うのだが、繰り返し述べてきたように、このように捉えられた「神」もまた、今では「フィクション」と言うほかないものだ。

 ヘーゲルの弁証法はきわめて優れたものではあるが、そこに「神」が登場すると、話は一気に怪しくなると言わざるを得ない。

 とまれ、続いてアベラール

 エロイーズとの熱烈な恋愛でも有名な神学者だ。

 ヘーゲルによれば、彼は博識で知られるだけでなく、神学に哲学を導入した人でもあった。

 ペトルス・ロンバルドゥスは、スコラ神学を方法化したとされる。

 そして、『神学大全』で有名なトマス・アクィナス

 彼は「実在論」の主唱者としても知られるが、これについては後述しよう。

 ヨハンネス・ドゥンス・スコトゥスも、非常に有名な神学者だ。

 彼は「秩序なき方法」の創始者とも言われている。

「かれはクオドリベット(混合) の方法の創始者とも見なされます。クオドリベットとは、個々の対象について、さまざまな論をごたまぜにして日常語で論争するもので、あらゆることが話題になりながら、体系的秩序もなく、全体がきちんと叙述されることもないような論じかたです。それと対立するのがスンマ(大全)です。」


3.実在論と名目論

 スコラ哲学を代表する論争といえば、実在論名目論との激しい論争がある。

 「実在論」とは、「青い」とか「重い」とかいった「一般観念」が、個々の事物とは独立してそれ自体として実在するという立場の思想だ。

「たとえば、わたしたちがある事物を思いうかべて、「それは青い」というとき、そこに一般概念がある。この一般概念は思考の外に実際に存在し、個々の事物とは独立に、また概念同士もたがいに独立して、個として実在するものなのか。一般概念が思考する主観の外に、個々の事物とは区別されて実在し、その理念だけがものの本質をなす、と主張する人びとが実在論者と呼ばれる。今日の実在論者とは正反対の意味なのですが。今日、実在論といえば、直接に目の前にある事物が現実にも存在する、と考える立場のことをいうので、それと対立するのが観念論です。」    

 それに対して「名目論」は、「一般観念」は主観の内側にあるにすぎないと主張する。

「名目論ないし形式論とは、一般概念は主観によって一般化された観念にすぎず、思考する精神の産物にすぎない、と考える立場です。類概念などが形成されるとき、それは形式的な名称にすぎず、魂によってつくられた主観的なもの、自分たちのつくった想像上のものにすぎず、個物だけが実在だ、という立場です。」    

 先述したように、トマス・アクィナスは実在論を主張した。

 他方、ドゥンス・スコトゥスは名目論を主張した。

 ここから、トマス派スコトゥス派の間に論争が繰り広げられることになる。

 有名なオッカムもまた、名目論に与した哲学者である。

 さて、しかし以上のようなスコラ哲学を、ヘーゲルは次のように批判する。

「かれらの探究の対象は宗教という高度なものですが、思考は重箱の隅をつつくようなものになっている。高貴で思慮深い個人や学者がいないわけではないが、全体は、分析的思考の支配するまったく野蛮な哲学で、現実の素材や内容が欠けています。それは心からの興味をかきたてるものではなく、わたしたちはそこに帰っていくことはできない。そこにあるのは形式のみで、空虚な分析的思考が、カテゴリーや分析的概念を根拠もなくむすびつけるだけです。〔中略〕思考はといえば、無味乾燥な分析的形而上学です。これらはすべてなんの役に立つのか。それらは過去のものとしてわたしたちの背後にあり、それだけでは使いものにならない、というしかありません。」    

 スコラ哲学は、キリスト教教義の限られた世界の中で、分析的思考を駆使した壮大な概念の遊戯をやっていたとヘーゲルは言うのだ。


4.世俗化

 そんなスコラ哲学は、やがて真に問うべき問題を見失い、醜悪な世俗化の道をたどることになる。

「スコラ派は教会の教義を、一方では深刻に論じながら、他方では、まったく不似合いな外面的関係をもちこんで教義を世俗化したため、そこに、考えうる最悪の世俗性があらわれているということができる。」    

 たとえば、トレドの大司教ユリウス

「つぎのような問いが投げかけられる。「死者はどの年齢で復活するのか。子どもとしてか、若者としてか、成人としてか、老人としてか。どんなすがたでか。どんな体格でか。太った人はまた太った人に、やせた人はやせた人になるのか。復活後も性別をもちつづけるのか。この世で失った爪や髪はもと通りになるのか。」」    

 あるいは、パスカシウス・ラドベルトゥス

「(イエスの)産婆役はだれだったか、といった、礼儀をわきまえた人なら思いつきもしないような多くの問いが、論争の種になりました。」    


5.宗教改革

 こうして、時代は宗教改革を迎えることになる。

 ルターが打ち出したのは、「主体性」の原理である。

「主観的なものの価値が完全に正当化され、絶対的な義務にまでなるためには、その価値をもっと強く、いや、最高度に証明する必要がある。」 


「この原理が絶対的に存在する神との関係において認識され、個々人の欲望や有限な目的を離れて、完全に純粋なものとしてとらえられたとき、原理ははじめて証明されたといえる。人間の内面的な確信が神との関係において価値を認められたといえます。」

「自身の心のなかに信仰があり、克己があればそれでよい、というのは、主体性の原理の証明として最高位に位置するといってよく、ここに、キリスト教的な自由の原理が、はじめて打ち立てられ、真に意識されました。」    

 ルターは、それまでの形式的な教義の哲学を大きく改革した。

 人間と神とのつながりが自覚され、そしてそれゆえに、ついに「主体」が大きな意味を持つようになったのだ。

 近代哲学の夜明けである。





(苫野一徳)

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ヘーゲル『哲学史講義』(8)


1.懐疑主義


 一方に独断主義が現れれば、他方には必ずそれを相対化する懐疑主義が登場する。

 古代哲学においても、御多分に洩れず、ストア派エピクロス派という両独断論に続いて、徹底的な懐疑主義が現れる。


 ヘーゲルは言う。



「懐疑主義とは全身麻痺のようなもので、真理が不可能なことが確信にまで至った思想ですもっとも、その確信は普遍的なものとはいえず、否定的な力しかもたないまま、個々の自己意識のなかに存在するものですが。」

懐疑主義の説くところは疑いの教えだとよくいわれるが、これは正確ないいかたではない疑いとは、なにかをよしとする考えに反対してその不確実をいうだけのもので、優柔不断態度です。〔中略〕古い懐疑主義はなにかを疑うものではなく、対象の非真理を確信している。古い懐疑主義真理たりうる可能性をもつ観念を相手にあれこれ検討を加えるだけでなく、対象の非真理をきっぱりと証明します。」


 古代懐疑主義は、「それは確かではない」とただ疑うだけのものではなく、真理などないことを強く主張するものなのだ(アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門』のページ参照)。


 懐疑主義の創始者とされているのは、アリストテレスと同時代の哲学者、ピュロン


 何でも疑ったピュロンは、自分の感覚も信用しなかったので、馬や車を避けようともしなかったとか、壁に向かってまっすぐ進んだとか、色々逸話が残っているが、このことについてヘーゲルは次のように言う。


「ちょっと考えてみれば、そうした逸話がかれの哲学を冷やかすためにつくられたこと、逸話の目的が懐疑主義の原を極端におしすすめて、懐疑主義を笑いものにするところにあることは、すぐにわかる。」    


 アイネシデモスも有名な懐疑主義者だが、ヘーゲルは、彼を哲学的教養を身につけた懐疑主義者と呼ぶ。


 そして、セクストス・エンペイリコス。彼は医者だったとも言われている。



2.新プラトン派


 しかし、こうして何でも懐疑する時代ののちには、やはりまた「客観」への揺り戻しが起こることになる。


 しかし今回は、単純な独断主義はもはや通用しない。


 真理は思考にあるのか(ストア派)、感覚にあるのか(エピクロス派)という問いは棄却されている。


 次なる哲学は、一方に思考するものがあり、他方に思考されるものがあり、そして第三に両者の統一があると考える。


 哲学は、こうして三位一体の思想へと展開するのだ。


 まずは、フィロン


 彼は、上の三位一体の思想をきわめてイメージ的に論じた哲学者だとヘーゲルは言う。


「一般にフィロンの哲学は概念や思考の形而上学であるよりは、精神をもっぱら純粋思考として取りだすことに重点があって、「ある」と「あらぬ」の対立はイメージとしても不明確で、概念や理念も独立の形態を備えていません。」    


 しかし新プラトン派(アレクサンドリア派)は、やがて高度な哲学を築き始める。


「アレクサンドリア派はプラトン哲学を下敷きにしながらも、プラトン以後のアリストテレスその他の哲学(ストア哲学)をも取りいれている。〔中略〕高い教養の核心をなすのは、絶対的実在が自己意識としてとらえられねばならないこと、自己意識をもつことが絶対的実在の本質であること、つまり、絶対的実在は個の意識のうちにあること、——そうした深遠な原理です。」    


 とはいえ、その中心的哲学者であるプロティノスの哲学は、未だイメージ優位と言わざるをえないとヘーゲルは言う(プロティノス『エネアデス』のページ参照)。



「プロティノスはこの実体にすべてを還元する。それだけが真理であり、万物のうちにあってまったくの自己同一を保ちます。が、この第一のものからすべてが生じるので、一なるものは関かれています(創造や生産とむすびついています) 。しかし、絶対的なるものが抽象的に定義されるだけで、内部に活動をもつ一としてとらえられなかったなら、創造や生産を絶対的なるものから引きだすことはできない。プロティノスにあっては、この第二段階への移行は哲学的ないし弁証法的におこなわれるのではなく、移行の必然性がイメージや像によって表現されるだけです。」

「自分を開いていく必然性が説き明かされることはなく、ともかくそういうことになっていて、そういうことがおこった、といわれるだけです。」

 それがプロクロスになると、思想の完成度は非常に高くなる。



絶対的な一が多くのにわかれて、多数の一というかたちで多が生みだされるこの多は概念であり、多くの物ではないから、それ自体は一であるいや、一般的にいえば二であって、限定なきものに対立する限定である番目にくるのが一つの全体であって、限定と無限定の統一ないし混合体で、ここにはじめて、存在、ないし、実体、ないし、多くの一があらわれる


3.哲学史第1期の概観


 以上、私たちは、古代ギリシャ・ローマの哲学第1期をこれまでに見通してきた。


 その流れは、ヘーゲルによると次のようになる。


 まず、外部の自然への関心(自然哲学)。


 それが、ソクラテスプラトンによって自己の関心へと移り、アリストテレスによって思考それ自体の概念的把握として完成する。


 ところがその後、哲学は何を真理とするかをめぐる独断主義に陥り(ストア派エピクロス派)、その帰結として懐疑主義が興隆する。


 が、さらにその帰結として、哲学は三位一体という仕方で再び真理を捉えようとする(新プラトン派)。


 こうして哲学史は、続く第2期に突入する。


 中世の哲学がそれである。





(苫野一徳)

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ヘーゲル『哲学史講義』(7)


1.独断主義

 ギリシャ哲学は、タレスらの自然哲学に始まり、プラトン、アリストテレスに至ってその最盛期を終える(前のページまでの時代)。

 それは、外部の自然世界から「自己」の内部へと関心が移り、そしてその自己の「思考」それ自体を把握していく営みだった。

 続く時代は、その後の独断主義懐疑主義を経てアレクサンドリア派へと至る時期である。

 独断主義は、思考それ自体を捉えようとする壮大さをもはや持たず、何が「真理」であるかをめぐる基準を問題とする。

「いまや主要な問題は基準をどう取るかにあります。プラトンやアリストテレスのような思索の大きさはもはやなく、哲学を導くのは分析的思考です。原理も抽象的・分析的な原理です。分析的な関係のもとでは、哲学の課題は真理の基準をどこに求めるかという問題としてあらわれる。というのも、思考と実在の一致、もしくは、主観的な概念と客観との同一性が真理と見なされるために、この一致を判定する原理が求められるからです。」    

 独断主義の2大巨頭は、ストア派エピクロス派

 ストア派は、思考された存在だけを真理と捉え、エピクロス派は、その対極に、感覚された個物だけが真理であると考える。

 どちらも、「これこそが真理である」と主張する点で独断的な哲学である。ここには、独断的な思考それ自体を省みる思考の運動がない。

 ヘーゲルは、これはいかにもローマ的な哲学であると言う。

「それらはたしかにギリシャの哲学ではありますが、ローマ世界に移しかえられた哲学です。〔中略〕ローマという抽象の世界では、個人は、現実があたえてくれそうもない満足を自分の内部に抽象的にさがし求めるほかはない。思想という抽象へ、実在する個人という抽象へ、——つまり、主観そのものの内的自由へ、——逃避するほかはありません。」    

 ローマが「抽象の世界」だというのは、ヘーゲルの『精神現象学』では次のように説明されている。

 すなわち、古代ローマ人は、個人の権利がローマ法によって保障されてはいるものの、それは実は抽象的な権利であって、本当に自由なのは皇帝ただ一人なのである、とヘーゲル『精神現象学(その3)』のページ参照)。

 それゆえローマでは、内的自由を確保するために、個人は自分の内部に「独断的」に引きこもるほかなくなってしまうのだ。


2.ストア派の汎神論

 ストア派の哲学の特徴は、まずその汎神論にある。

「要点は、理性(ロゴス)が世界を秩序立て、支配し、生みだし、一切に浸透し、すべての自然形態(理性の生産物)の基礎をなす実体であり原動力だということです。理性的に働く理性の活動が神と名づけられる。それは知的な世界霊魂であり、それを神と名づけるのは汎神論だといえる。汎神論といえば、概念や理性が世界のうちに存在すると考えるすべての哲学が汎神論です。」    

 世界には神の理性があまねく行き渡っている。ストア派はまずそう考える。

 ストア派の創始者ゼノン(前に見たエレア派のゼノンとは別人)は、万物の根源をヘラクレイトスを受け継いで「火」だと言ったが、それは火がさまざまな物質を特定の元素に変えると考えられたからである。

 つまり、「火」は「神」の活動と同等のものと考えられたのだ。

「ストア派にとっては、一切が「なりゆくもの」にすぎず、その際、火が活動の原理です。火が不定形の物質を特定の元素に変え、この元素の混合によって植物や動物が生まれる。が、それだけでは不十分で、さらにいえば、神が自然や火のすべての活動力であり、世界の魂です。だから、ストア派の自然観は完全な汎神論です。世界の魂である神は、火であると同時に理性であり、自然の理性的な秩序であり活動力です。」    


3.ストア派の論理学

 神があまねく行き渡っているこの自然世界は、それゆえに合理的な存在であるとストア派は考える。

 したがって大事なことは、この自然の合理性を思考によって捉えることである。そして、この思考によって捉えられた存在だけが真理である。

 この思考のプロセスを、ゼノンは次のような気の利いた比喩を用いて説明している。


「イメージをわがものとするこの過程をゼノンは「手の運動の比喩」によって説明した。開いた手を示して、これが直観(知覚、直接の意識)だとかれはいった。指を少し曲げて、これが心情の同意である(イメージがわたしのものになることだ) 。指を完全に曲げてにぎりこぶしをつくって、これが概念的にとらえることだ。(ドイツ語でも、概念的把握を似たような感覚的な比喩であらわすことがあります。)つぎに左手をもってきて右手のにぎりこぶしを強くはげしくにぎって、これが学問であり、学問は賢者しか手にできない、とかれはいった。」」

 このようなストア派の論理学(思考の原理)を、ヘーゲルは次のように批判する。

「ストア派は精神が自己のうちに帰るところでおわっていて、自己と対象の統一を確認し、一致を認識するにとどまる。そこからふたたび外に出て、みずから生みだした内容を相手に学問を展開するところには行っていない。」    

 ヘーゲルから見れば、ストア派の認識論には弁証法が欠けているのだ。


4.ストア派の道徳論

 ストア派といえばその道徳哲学が最も有名だが、その基本命題はやはり「自然に従え」である。

 自然的であることが理性的であることであり、そして理性的であることが道徳的である。

 しかし、一体何が自然的であるかについては、空虚な一般論が述べられるだけで十分明らかにはされていないとヘーゲルは言う。

 それでも、自らの堅固な意志に従って生きることこそが幸福であると論じるストア派の思想にはある種の偉大さがある。

「ストア哲学の偉大な点は、意志が堅固に保たれていれば、なにものもそこには侵入できず、すべてははねのけられるので、苦痛でさえもあえて排除すべき目的とはなりえない、と考えるところにあります。」    

 が、自らの意志を保ち続けるのはそう簡単なことではない。

 そこでストア派は、それを「賢者の理想」という形で描き出さざるを得なくなる(セネカ『生の短さについて』のページ等参照)。

 ヘーゲルはこのことについて次のように言う。

「ストア派の倫理的現実は賢者という理想にすぎず、現実ではない。」    


5.エピクロス

 ストア派が理性・思考を原理としたのに対して、エピクロスは感覚を原理とするエピクロス『教説と手紙』のページ参照)。

 快楽と満足こそが本来の感情であって、人はこれに基づいて行為すべきであるとエピクロスは言うのだ。

 ヘーゲルはこれについて次のように言う。

「これ以上に単純なものが考えられないほど単純で、かつ抽象的で、しかしきわめて平凡な説です。」    

 エピクロスの自然学もまた、きわめて素朴なものだとヘーゲルは言う。

 彼は、すべては原子の偶然的なぶつかり合いであると言うのだ。

「ストア派に受けいれられた世界の最終目的は創造主の知恵、また、ストア派によって多方面に開発された目的論的なもののとらえかたが、エピクロスには存在せず、すべてが、原子の偶然にして外的なぶつかりあいによって形成されるできごとです。あるのは偶然であり、外的必然であって、それがすべての相互関係をまとめあげる原理です。」    

 このような自然の姿を、人間はまず感覚で捉え、次に概念へと類推する。ちょうど、電気や磁気を「力」とか「法則」いった概念で捉えていくように。

 このこと自体は、近代の科学にも通じるものだとヘーゲルは言う。

「エピクロスは経験的な自然科学および経験的な心理学の発明者といえる。ストア派の目的や知性概念と反対の極をなす、なまの経験や感覚そこにはあります。」    

 もっとも、ヘーゲルは、エピクロスの類推は自由気ままなもので、思いつきの域を出ないものなのだがとも指摘する。

 最後にエピクロスの道徳哲学だが、ヘーゲルは、エピクロスの原理が感覚にある以上、道徳哲学も当然「まずい感情主義」にしかならないと批判する。

「エピクロスの道徳の抽象的原理を取りだしてみれば、その道徳はとてもまずいものだと思わざるをえない。〔中略〕いま、感情が行動の根拠だと主張されるとすると(「わたしのなかにそうしたい衝動があるから、それが正しいのだ」)、それがエピクロス的です。」    

 もっとも、エピクロスも実際は単なる感情主義であったわけではなく、そこには思索がちゃんと結びついている。

「どうしても見のがしてならないのは、満足感こそが目的だとエピクロスがいうとき、この満足感は哲学の結果としてしか得られないことです。思慮のない浮かれた男がなんにも考えないで快楽におぼれ、ふしだらな生活を送っているとして、しかし、その男をエピクロスの徒と見なすわけにはいかない。」    

 ではエピクロスは何を目指していたのかと言うと、それは実は、ストア派と同じ「アタラクシア(平静)」であったとヘーゲルは言う。

「エピクロス派の目標はストア派のそれと同じです。エピクロスは目標としてまたしても賢者の心の状態(アタラクシア)を、つまり、恐怖と欲望から自由になった、精神の自己同一な平静状態をもちだします。」    


6.新アカデメイア派

 以上のような、思考を独断的原理としたストア派と、感覚を独断的原理としたエピクロス派に反対したのが、プラトンの後継である新アカデメイア派である。

 有名なアルケシラオスは、確かなことなど本当は分からないのだから、「賢者は賛同ないし同意をさしひかえねばならぬ」と主張した。

 カルネアデスは、これをさらに推し進めて、真理の基準など絶対に存在しないと主張した。

「アルケシラオスは「それなりの根拠」といういいかたをしましたが、カルネアデスの主張する原理は、真理の基準というものは絶対に存在しない、と表現される。」    

 こうした新アカデメイア派の主張は、こののち自覚的な懐疑派として展開していくことになる。





(苫野一徳)

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