アウグスティヌス『神の国』

はじめに

 地上の国神の国について論じた長大な書。

 正直言って、私の読書経験の中でも最も読むのに苦労した本だった。

 難しいのではなく、つまらない・・・(笑)そして長い・・・(岩波文庫で全5巻)。読んでいる間は苦行だった。

 いや、所々興味深い箇所はある。さすがは古代キリスト教神学最大の知識人、当時としてはほんとうに恐るべき博識を披露してくれている。

 しかしほとんどが、異教の神々を批判しつつキリスト教の優位を説く、実に見事な詭弁で貫かれている。その論法は、今読むと色んな意味で面白い。キリスト教が絶対という結論ありきの論だてだから、強引な辻褄合わせや歴史の歪曲(?)など何でもありだ。

 しかしキリスト教圏の文化に、本書は絶大な影響を与えたらしい。そして西洋思想に、今もなお色濃い影響を与え続けている。(W. コノリーによると、「個人の自己責任」といったアイデアはアウグスティヌスまでさかのぼることができるらしい。『アイデンティティ/差異』のページ参照。)

 キリスト教を何としても絶対のものとして打ち出してやろうとする、ただならぬ気迫に満ちている。当時の時代の息吹が感じられる、その意味では心に残る大著だと思う。


1.キリスト教批判に抗して

 410年、ゴート族によってローマが陥落した。キリスト教徒たちは、なぜ神は自分たちを守ってくれなかったのかとキリストの神に疑念を抱くようになった。

 本書は、そうしたキリスト教批判を退けるために書かれたものだ。

「それらの人びとは、その邪悪な行状のゆえに当然こうむるべき災厄をキリストに帰して、神を汚すのであるが、しかしかれらがそのように邪悪なものでありながら、キリストのゆえにゆるされたことについては考慮に価すると考えない。」

 アウグスティヌスは言う。あの蛮族ゴート人たちは、しかしローマにおいて残虐の限りを尽くしたわけではなかったではないか、と。

「このことは、キリストの御名に、キリストの御代に帰せられるべきであるが、それがわからないものは盲目であり、それがわかっていながら賞めたたえないものは忘恩であり、またそれを賞めたたえるものに逆らうものは不健全である。」

 のっけから物凄いレトリックだ。災厄があっても最悪というほどじゃない。それは神のおかげなのだ。



2.なぜ神の慈悲は不敬者にも及ぶのか

 アウグスティヌスのこの問いが面白いので、紹介しよう。彼はこの問いに、次のように回答する。

「神のむちうちが善きものに忍耐を教えるように、神の忍耐は悪しきものを悔い改めにみちびくのであり、また、神のきびしさが悪しきものを罰するために叱責するように、神の慈悲は善きものを養護するために抱擁するのである。」

 善人には忍耐を教え、悪人は悔い改めへと導くために、というわけだ。

 神がいるのになぜ悪はなくならないか、という、古くから続く神学的論争に対するアウグスティヌスなりの答えと言えるだろう。


3.神の名のもとの戦争

 アウグスティヌスは、自殺は厳しく禁じるが、戦争や殺人については、それが神の命令であればよしとする。

「神の命令によって戦争をしたり、あるいは公けの権力を代表して、神の律法すなわち、もっとも公正な命令の理由にしたがって、極悪な罪を犯したものらを死をもって罰した人びとの行為は、『殺してはならない』といわれている誡命にけっして反したものではない。そしてアブラハムもまた、自分の息子を殺そうとしたのは、邪心からではなく、神の命令にしたがってであったから、ただ残酷の罪をとがめられないだけではなく、敬虔の名をもってほめられたのである。」
 
 なかなか「やばい」レトリックのように感じるが……。

 これが、後の宗教戦争を正当化する論拠になったのではないかと邪推してしまう。


4.自由意志とは何か

 『神の国』の1つの山場が、このテーマだろうと思う。(『告白』でも同じテーマが取り上げられている。)

 一切が神によって決められているなら、自由意志などないはずだ。そう考える者たちがいるが、それは間違いだ。そうアウグスティヌスは主張する。

「神にとって、原因の秩序が定まっていても、そのゆえになにものもわたしたちの意志の自由な選択によるものがないという帰結は生じない。じっさい、わたしたちの意志自体も、原因の秩序に属するものであり、この秩序は、神によって定まっていて、神の予知のうちに生れているのである。というのは、人間の意志は人間の行為の原因であるからである。」

 神の意志に包含されながらも、なお人間には自由意志がある。アウグスティヌスはそのような論法によって、人間の自由意志を担保した。かなり苦しい理屈ではあるが、ひとまずこの辻褄合わせで決着をつけたというところか。


 この後、ギリシャローマの歴史が語られる。プラトン聖書を読んだのではないかとか、ローマの繁栄は神のおかげとか、興味深いくだりがいくつかある。



5.神の国

 原著第11巻から、アウグスティヌスはいよいよ「神の国」について論じていく。神の国とはつまり、聖書に記されている国のことだ。

「わたしたちが神の国とよぶのは、聖書の証言するところの国である。」

 以下のアウグスティヌスの記述は、すべてが聖書の注釈となっている。あるいは、聖書に反論する人への反批判である。

 興味深い箇所をいくつか紹介しよう。

 まず、この世は神が創造したものではなく、永遠に続いてきたものである、という者への批判。

「世界は永遠であって、はじめがなく、したがって、神によってもつくられたとは考えられないと主張するなら、そういう人びとは、ひどく真理から離れ去って、不敬の致命的な病に狂うものである。〔中略〕かれらは、それ以前にけっして存在しなかった新しい不幸がどうして魂に起こったかを説明できないであろう。」

 今われわれの世界には不幸がある、もしも世界が永遠に続いているのなら、不幸なんてないはずじゃないか、と、アウグスティヌスは言うわけだ。中々興味深いレトリックだ。

 ちなみにカントは、世界に始まりがあるかないかという形而上学的問いは、人間の理性の本性からいって絶対に答えられない問題である、と「証明」したが、カントも間違いなくアウグスティヌスのこの箇所を読んでいただろう。(『純粋理性批判』のページ参照)

 続いて、かなり無茶苦茶な歴史解釈も紹介しよう。

 聖書の記述から計算して、アウグスティヌスは、自分たちの時代が天地創造から約6000年後にあると言っている。

 もちろん、現代では地球は46億年の歴史を持っていると言われているわけで、アウグスティヌスの計算はさすがに信憑性に欠ける。しかし彼はさらに、エジプトの歴史文書を読んで、こんなことまで言ってしまうのである。

 エジプトの歴史文書によると、アッシリア王国5000年以上も続いたとされている。しかしそれでは聖書の記述に合わない。だからこう考えよう。

「エジプト人は昔、四か月をもって一年とするという短い年をもっていたのではないかと報ぜられる。」

 何とも強引な解釈だ。現代のわれわれが笑うのは容易いが、アウグスティヌスには切実な問題だったのだろう。

 あるいはアウグスティヌスは、あのアダムイブのいた楽園では、性交は情欲なしに行われたはずだと主張する。もっとも性交の前に失楽園があったから現実には行われなかったのだが、と。中々無茶苦茶だが面白い。

 最後に、地上の国と神の国の違いについて引用しておこう。

「このようにして、二種の愛が二つの国をつくったのであった。すなわち、この世の国をつくったのは神を侮るまでになった自己愛であり、天の国をつくったのは自己を侮るまでになった神の愛である。一言でいえば、前者は自己自身において誇り、後者は主において誇るのである。」

 以上、かなり私の関心に沿うように『神の国』を散歩してきたので、ここに神学的、歴史的価値を見出す専門家の方たちからはお叱りを受けるかも知れない。私としては、むしろそうした専門家の方たちに、本書の現代的意義を教えていただきたいと願っている。

(苫野一徳)



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アリストテレス『政治学』



はじめに

「人間は本性上、政治的(ポリス的)動物である」

 という言葉で有名な本書。

 分類の天才アリストテレス、と『形而上学』の紹介・解説ページでは書いたが、本書などを読むと、実はなかなかに人間通で、ユーモアもある一面が見えてくる。

 『政治学』というタイトルだが、原語では「ポリスに関すること」というくらいの意味。だからというわけでもないかも知れないが、あいかわらず国制にはどんな種類があって、それはそれぞれ何種類に分けられて・・・云々、と、ただひたすら分類ばかりし続ける、現代のわれわれからすれば実に退屈な章も多い(歴史的価値はあるだろうけれど)。

 しかし、どのような生き方を人間は目指すべきか、そしてそのために、ポリス(国〔都市国家〕)はどうあればよいかというテーマに至ったときの、アリストテレスの筆は冴え渡る。

 国家(ポリス)とは、ただ必要を満たすためだけに存在するのではなく、「よく生きる」ために存在しているのだ。

 そうアリストテレスは主張する。

 古代ギリシアにおける生き方の理想が、本書から生き生きと伝わってくる。


1.共同体は「善」のため。ポリスは最高最上のもの

「国家はいずれも、われわれの見るところ、一つの共同体であり、共同体はいずれも何かよきこと(福利)のために出来ている〔中略〕そのうちにおいてもまたあらゆる善の最高最上のものを目標とするのは、他のすべての共同体を自己のうちに包括する最高最上の共同体がそれであるということになる。そしてそれこそが国家(ポリス)と呼ばれているもの、すなわち国家共同体にほかならないのである。」

 国家は、わたしたちが「よく生きる」ためにこそある。

 アリストテレスは冒頭からこの言葉を繰り返す。そして8巻からなる本書第1巻では、ポリスがどのようにして成立してきたのかが説かれる。すなわち、必要を満たすために家族が集まり、やがて家族が集まって村落ができ、そして「よく生きる」ために、これらが集まってポリスとなったのだ、と。

 それゆえアリストテレスには、国家(ポリス)は個人よりも優れたものである、という確信があった。その理屈は、今の時代からみるとなかなか無理があって面白い。

「国家は、家族やわれわれ個人よりも、自然の順序において先のものでもある。なぜなら、全体は部分よりも先でなければならないからだ。」

 この言い方には何となく無理を感じるが、しかし次の言葉はなかなか含蓄に富んでいる。

「徳がなければ、人間は不敬野蛮の極に堕し、性的なことでも飲食のことでも、およそ下劣きわまるということになる。これに対して、法的秩序を保ち正義を行なうことは、国家の仕事なのである。」

 ただ生きるためにではなく、「よく生きるため」に国家がある。その理由を、十分に伝えてくれる一文だ。


2.市民が「共有」すべきものとは何か?

 第2巻では、財産の共有についての知見が述べられている。現代にも生きる知恵が繰り広げられていて、興味深い。

 アリストテレスは基本的に、財産の共有を認めない。

「何故なら大多数の人々にとって共同なものは気遣われることの最も少いものだからである。何故なら彼らは自分のものといえば最も多く気にかけるが、しかし共同のものは余り気にかけないか、或はそれぞれの人に係わりのある範囲において気にかけるかであるから。」

 まったくその通りだろうと思う。

 しかし財産の私有化は、過度の欲望をかき立て、ゼロサムゲームを引き起こす。そうして深刻な貧富の差を生み出してしまう。

 それでも、やはり財産を共有してはならないとアリストテレスは主張する。

 その代わりこうしてみよう。アリストテレスは次のように言う。

「かようなことがらの源は、財産を平均化することよりも、むしろ策を施してその本性の優れた人々は、これを余分のものを取ることを欲しないような者にし、賤しい人々は、これをそれの出来ないような者にすることである。」

 要するに、教育によってがつがつしない徳高き人を育てよう、というわけだ。

 現実的効果がどれほどあるかは分からないが、「徳」を重視したアリストテレスの人間観がみてとれる。


3.市民とは何か

 第3巻のテーマは、「市民」とは何か、そしてどのような「国制」があるか、である。

 まず「市民」について、アリストテレスは次のように言う。

「国政審議と裁判の役職にあずかることが許されている者は、すでにそれだけでその市民国家の市民なのであり、かかる者が集まって、生活上の自足ができるほどの大きさの然集団なすとき、簡単にいって、これが市民国家なのだとわれわれはいうわけである。」

 要するに、自分たちのことを自分たちで共同して決定できる者。これをアリストテレスは市民と呼ぶのだ。

 ちなみに、当時は生活に必要なことは全部奴隷に任せていたが、こうした奴隷たちは、当然市民とは見なされていない。

 ではよき市民とは何か。

 その答えは多数ある。アリストテレスはそのように言う。なぜなら「国制」は多数あり、それぞれの「国制」によって「よい」市民の性質は異なるからだ。

 こうしてアリストテレスは、多種多様な「国制」の分類・分析を開始する。


4.よい「国制」とは何か

 そもそも「よい」国とは、私利私欲のためでなく、公共の福利のために治められている国だ。そしてこれを達成しうる国制は3つある。

 王政貴族制共和制である。

 しかしこれら国制は時に堕落する。その形態は、それぞれ上の3つに対応して僭主独裁制寡頭制民主制と呼ばれる。

 もっともここでいう民主制とは、現代のわたしたちの感覚とは違って、アリストテレスにおいては、無産者が多数集まって無産者の利益だけを考えて営まれる国家のことを言う。

 では、国は少数の優秀者によって支配されるべきか、それとも一般大衆によって支配されるべきか。

 アリストテレスの答えは、まあほどほどに一般大衆を巻き込みましょう、というものだ。

 アリストテレスの文章からは、それでも優秀者に支配してもらいたい、というニュアンスが伝わってくるが、しかし一般大衆もあなどれない、と彼は言う。それは、一般大衆も人数が集まれば、少数の優秀者に勝ることがあるからだ。

 しかし「徳」においてだけは、どれだけ一般大衆が集まっても、1人の「徳」ある人にはかなわない。そうアリストテレスは主張する。

 そのことを説明する際の彼の比喩が、なかなかにウィットに富んでいる。

「しかるべき徳をそなえたりっぱな人々が多数のなかの個々の人と違っているのは、美人が美人でない人たちと、また芸術作品として(美しく描かれた)絵が実物と異なるといわれるのとまさに同じ点においてである。すなわち個個に分散している要素がここでは一つにまとまっているという点にある(そして重要なのは、この一つにまとまっているという点なのだ)。」


5.最善の国家体制と、その現実可能性を探究しよう

 やはりアリストテレスは1級の思想家だ、と思える言葉が、第4巻冒頭にある。

「われわれが考察しなければならないのは、単にどんな国家体制が最善のものであるかということだけではなく、さらに現実に可能なのはどんなものかということも、また同様に、どの国家にとってもより容易に達成しうる、より共通なものはどれかということもなのである。」

 本書には師プラトン批判がよく出てくるが、これもプラトン批判として解釈してよさそうだ。プラトンは理想の国を掲げたが、その現実可能性にはあまり立ち入ることがなかったからだ。


6.「善」とは何か

 第7巻は、アリストテレスの倫理学がよくうかがえる箇所である。そのテーマは、「最も望ましい生活とは何か」

 その答えは「徳」である。

 どんな「よきもの」も、それが「有用」であるという意味において「よい」のである限り、限界がある。

 どんな有用なものも、それが過度になれば害悪に変わってしまうからだ。

 それに対して、「徳」はどれだけあっても「善」である。つまり「有用」な「よきもの」によってわれわれは幸せになるのではなく、「徳」によって幸せになり、「よきもの」もこれにあずかるのだ。

 その例として、アリストテレスはを挙げる。

「神は幸福であり至福であるが、しかし外的な善の何ものによってでもなく、自分自身によってであり、またその本性が或る性質のものであることによってである。」


7.どうすれば人間は有徳になるか?

「人は三つのものによって善くて有徳な者になる。その三つとは生れつきと習慣と理とである。」

 したがって、まずは生まれつきを利用し、これをよく習慣化し、そして理知によってみずからを有徳なものたるよう律せられるようにしなければならない。彼はこれを、次のように言う。

「なお教育は、理よりさきに習慣によって、また精神よりも先きに身体についてなされなければならないのは明らかである故、これらのことからして子供たちは体操術や訓練術に委ねられなければならないということは明らかである。何故ならこれらの術のうち一方は身体の状態を、他方は身体の活動をそれぞれ或る性質のものにするからである。」

 なかなか現実的な教育観、教育方法と言えるだろう。

 以上、本書におけるアリストテレスの基本的構えは、国家とは人が「よく生きる」ためにある、ということに尽きる。そして「よく生きる」とは、有徳たる、ということである。

 しかしこの有徳であるために、アリストテレスは日常的な日々の労働を軽蔑する。当時、それは奴隷の仕事だったからだ。日々の生活に追われていては、とても「有徳」たりえない、というわけだ。

 だから価値あるのは、仕事より閑暇、戦争より平和である。

 有徳な人は、そのような生活を目指さなければならない。

 古代ギリシアの人間観が、よくうかがえる。
 
(苫野一徳)

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