ホッブズ『リヴァイアサン』


はじめに

 旧約聖書に登場する海獣リヴァイアサンにちなんで名づけられた本書は、絶対王政を基礎づけるものとして批判的に受け取られてきた経緯がある。

 しかし私は、そのような批判に抗して、ホッブズの思想にはきわめて原理的な洞察があったことを主張したいと思う。

 ホッブズという人は、おそらく非常な人間通で、バランス感覚に富み、しかもかなりユーモアのセンスもある人だっただろうと思う。絶対王政の擁護者、という評価が先走ってきた感の否めないホッブズだが、本書冒頭から長きにわたって続く彼の「人間分析」は、相当のものだ。

 一流の思想家の思考回路を生々しく実感できる、近代政治思想の名著だと私は思う。


1.ホッブズの人間論

「善、悪、軽視すべき、といったことばは、つねにそれを用いる人間との関連において用いられるものであり、単純に、そして絶対的にそうだというものはありえない。」

 これは、いかにして絶対的に正しい知識に到達するか、という、それまでの哲学の問いをくつがえす画期的なものだ。あまり注目されてはいないが、ホッブズは認識論においても、ロックヒュームカントに先立つ先駆者だったといえるのではないだろうか(ロック『人間知性論』ヒューム『人性論』カント『純粋理性批判』のページ参照)。


 絶対の価値などはない。それは常に、観点によって変わるものなのだ。

 さらにすごいのは、人間の価値は、彼の力の使用に対して支払われるであろう額である。したがってそれは絶対的なものではなく、他人の必要と判断に依存している。と言っている点だ。

 近代というのは、人間はその存在それ自体において価値がある、という人権の考え方がはじめて登場した時代だ。ホッブズのあとに登場するロックには、この思想が色濃くみられる(ロック『統治論』のページ参照)。

 しかし、近代政治哲学の祖ホッブズは、本書の冒頭から、人間の価値すら相対的だといってのけるのだ。


 一見、やはり「人権」思想以前の野蛮な思想だ、と思われるかも知れない。

 しかし考えてみると、これは現実を鋭くついている。人間は皆その存在それ自体に価値がある、とお題目のように言うことは簡単だ。しかし現実において、人間の価値はどうしても相対的なものとならざるを得ない

 ホッブズはこの現実認識から、ありうべき「国家」のあり方を考えていく。ホッブズの哲学が空理空論に終わらない理由は、こうした透徹した現実感覚にあると私は思う。

 そうした彼の鋭い現実認識は、次の言葉に結実している。

「人間の本性には、争いについての主要な原因が三つある。第一は競争、第二は不信、第三は自負である。そして自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は各人の各人にたいする戦争状態にある。」

「だからといって、人間の意欲やその他の情念は、それ自体としてはけっして罪ではない。それらの情念から生じる行為も、それを禁じる法の存在を人が知るまでは罪ではない。そして法が禁じていることは、法が作られるまでは知りえないし、またいかなる法も、それをつくる人格について人々が同意するまではつくりえない。」

 「自然状態」において、各人は各人にたいする戦争状態にある!!

 そしてホッブズは言う。誰もが身を守るためには相手を殺す権利がある。しかしこのいつ殺されるかわからない恐怖状態をなんとかしたいと思うのなら、そのための原理は一つしかない。その原理を私が言い当てよう、と。



2.各人の各人にたいする戦争状態の終結原理

 ホッブズの答えは次のようだ。

第1の自然法「各人は望みのあるかぎり、平和を勝ち取るように努力すべきである。それが不可能のばあいには、戦争によるあらゆる援助と利益を求め、かつこれを用いてもよい。

第2の自然法平和のために、また自己防衛のために必要であると考えられるかぎりにおいて、人は、他の人々も同意するならば、万物にたいするこの権利を喜んで放棄すべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである。」(しかし、もしも他の人々が彼のように自らの権利を放棄することを欲しないならば、だれもその権利を放棄すべき理由はない。)

 もし誰もが平和と自己防衛を望むのなら、各人の人を殺すという権利を放棄せよ。

 そうホッブズはいう。

 そして、皆の合意によって、これを強力な権力者に譲り渡せ。

 そうすることで、ひとりひとりの安全を、この権力者に守ってもらうのだ。

 ホッブズの唱えた原理は、無秩序な戦争を終結させるための原理である

 これが、絶対王政を正当化する理論だと批判されていることは先述した。

 しかしホッブズは、たとえ強力な権力者といえども、生殺与奪の権利は持ち得ないと強調している。そもそも各人の安全を保障するために合意によってこの権力を作り出したのだから、絶対権力が人民の命を奪うことは許されないのだ。

 確かにホッブズは、君主政を擁護している。
 
「コモンウェルスには3種類しかない。「君主政」「民主政」「貴族政」である。君主政においては、私益は公益と合致する。君主の財産、栄誉は、国民が財産と力をもったとき初めて生まれる。他方、民主政や貴族政においては、公共的な繁栄は、不実な忠告、内乱などによってもたらされる。」

 しかしこれはホッブズの時代を考えれば当然のことだ。

 十分に民意を反映させる選挙制度も、また民衆一人ひとりのリテラシーもきわめて低かったこの時代においては、「民主政」も「貴族政」も、私利私欲をもった人たちによる政治へと傾きがちだった。


 人々の合意をしっかりと代表しうるのは、この当時においては「君主」しか存在しなかったのだ。

 ホッブズの最大の功績は、無法状態において人は身を守るため殺し合いをしてしまうということ、そして、この殺し合いを終結させたいのであれば、相手を殺す権利を強力な権力に譲りわたし、この権力によって各人が安全に暮らせるよう統治してもらうということ、この二点を明確に指摘した点にある。



 しかしこのホッブズの思想には、大きな弱点があったことが後に分かる。

 確かに、君主による統治を通して内乱は激減した。しかし今度は、人口の数パーセントの王侯貴族による、大多数の人民の支配という、新たな問題が深刻化するようになったのだ。

 この問題に立ち向かったのが、後のルソーだった(ルソー『社会契約論』のページ参照)

 ホッブズの思想は、ルソー、そしてヘーゲルへと発展的・批判的に受け継がれ、今日の民主主義の基礎となった(ヘーゲル『法の哲学』のページ参照)。

 近代政治哲学の大きな一歩を踏み出したのが、ホッブズなのである。
 
(苫野一徳)

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デカルト『省察』


はじめに



 神についての問題と精神についての問題の2つは、神学によってよりはむしろ哲学によって論証されねばならない。そうでないと、信仰なき人々を納得させられないからである。

 こう言って、神と精神の問題を哲学的に解明することを試みた本書。

 世界の実体は精神物質の2つからなると論じた、いわゆるデカルト的二元論が展開された本としても有名だ。

 ちなみにこの二元論は、その後スピノザライプニッツによって克服が試みられることになるが(私の考えではそれは決して成功しているとは言えないが)、デカルト自身も、その『情念論』によって一定の解決を試みている。(スピノザ『エチカ』ライプニッツ『モナドロジー』デカルト『情念論』のページ参照)

 以下では、本書においてデカルトが哲学的命題として著した、6つの「省察」を紹介しよう。


省察1

「私がかつて真であると思ったもののうちには、それについて疑うことの許されないようなものは何もない。そこで私は、真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊がわたしを誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。」

 私が見ているものは、もしかしたら「悪い霊」に見せられている幻想であるかも知れない。

 私たちは、そのように一切を疑うことができる。

 一切は懐疑可能であるという、デカルト的懐疑を象徴する一節だ。


省察2

 しかしデカルトは、続けて次のように言う。

「私はある、わたしは存在する。これは確かである。」

 『方法序説』でも見たように、一切は懐疑可能だが、しかしこの「疑っている私」自身を疑うことは、どうしてもできない。(デカルト『方法序説』のページ参照)

 しかし「私」の存在は、いついかなる時も確かであるというわけではない。

 「私」の存在が確かなのは、私が考えている間だけである。

「それゆえ、厳密に言えば、私とはただ、考えるもの以外のなにものでもないことになる。いいかえれば、精神、すなわち知性、悟性、理性にほかならないことになる。」

 こうしてデカルトは、「私」を身体からは切り離された精神として捉えることになる。

 ここでデカルトは、有名な蜜蝋の例について述べる。

「たとえば蜜蝋をとってみよう。この蜜蝋を火に近づけてみるとどうであろう。これでもなお同じ蜜蝋か。そうである。ではこの蜜蝋においてあれほどはっきり理解されたものはなんだったのか。おそらくそれは、今私が考えているものだったのである。しかし私がこのように想像するところのものは何であるのか。」

「結局、こう認めるほかない。この蜜蝋がなんであるかを、私は結局想像するのではなく、精神によってとらえるのである。」

 さらに彼は続いて、やはり有名な帽子と衣服の例を挙げている。

「今通り行く人を窓越しに眺めてみる。しかし私が見るのは帽子と衣服だけではないか。しかし私は精神のうちにある判断の能力によって、それを人間だと判断しているのである。」


省察3

 さて、以上のようにきわめて原理的な哲学原理を提示したデカルトだが、ここへ来て、『方法序説』でも試みられた「神の存在証明」がなされることになる。

「無からは何も生じ得ないばかりでなく、より完全なものはより不完全なものからは生じ得ない。したがってより完全な存在者の観念は神から与えられたものである。」

「この神の観念も、生得的である。神の観念を持つものとして存在することは、神もまた存在するのである。」

 しかしこれは、結論ありきの誤謬推理だというほかない。デカルトにおける神の存在証明は、決して成功しているとは言い難い。


省察4

「神は私を欺かない。」

 にもかかわらず私たちが無数の誤謬にさらされているのは、私の意志の不完全さのゆえである。

 続いてデカルトはそのように言う。

「私が意志を、悟性と同じ限界内にとどめおかずに、私の理解していない事柄にまでおよぼすとき、誤謬が生じるのである。そこで、意志の決定にはつねに悟性の把握が先行していなくてはならない。」

 これは後のカントにも通ずる洞察と言えるだろう(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 私たちが自らに可能な認識の限界を超えて何かを意志する時、私たちはいわば、身の程をわきまえない過ちの罠に自らかかってしまっているのである。


省察5

「物質的な事物が私の外に存するかどうかを問う前に、事物の観念を、私の意識のうちで考察し、どれが判明でどれが混乱しているかを見ておこう。
 まず私は、量を判明に想像する。さらに形、数、運動、その他同様のものについて、無数の特殊な事柄をも認識する。
 また、私の外にはどこにも存在しないであろうが、しかしそれでも無であるとはいえないものがある。たとえば三角形の観念である。」

 これは、人間の認識にもともと備わっている認識枠組みを明らかにしようとした試みと言っていいだろう。その後カントが純粋悟性のカテゴリーとして描き出したものと、相当に似通っている。


省察6

「感覚は欺く。が、私はただ思惟するものである。身体なしに存在しうるのである。身体は過分的だが、精神は不可分である。」

 これが、デカルトにおける身体と精神の二元論である。

 しかしデカルトは、続けて次のようにも言っている。

「神は欺かない。よって、感覚を偽だと気がかりになる必要はないのである。」

 「我惟う、故に我あり」の原理に比べれば、心身二元論や神の存在証明は、デカルト哲学の極めて問題の大きい難点だ。

 私の考えでは、デカルトの最大の功績は、懐疑主義を論駁し、哲学的な思考の出発点を「私」の観念に定めた点にこそある。

 ただしこのデカルトの思想は、独我論として、今日激しく批判されてもいるものである。

 この点については、私の考えでは、20世紀、デカルトを継承しつつフッサールが最も先鋭な形で回答を与えている(フッサール『イデーン』のページ参照)。

 また、神の存在証明は18世紀のカントによって否定され、心身二元論は、やはりフッサールによって克服されることになる(心身論は一般にフッサールを継承したメルロー=ポンティが展開したとされているが、私の考えではフッサールの方がその克服の仕方は原理的である。〔フッサール『イデーン』およびメルロー・ポンティ『知覚の現象学』のページ参照〕)

(苫野一徳)

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デカルト『情念論』

はじめに

 『省察』において身体精神の峻別を論じたデカルトは、しかしその後、この両者が、どのように相互に作用しあうかを論じる必要を感じるに至る。

 その成果が本書である。キーワードは、身体と精神の、いわば中間項としての「情念」だ。

 「情念」とは、passionのこと。語源的には精神の受動を意味する。情念とは、いわば「惹き起こされる」ものなのだ。

 何によって「惹き起こされる」のか?それは身体によってである。そうデカルトは言う。

 デカルトの身体論は、現代からみればかなりメチャクチャだ。神経の中を動物精気なるものが通っていて、この何らかの動きによって、さまざまな情念を感じる、と彼は言う。

 今ではこの学説(?)をまともに取り合う必要はないだろう。しかし続いて彼が展開するさまざまな情念についての洞察は、今も注目に値する。

 われわれはさまざまな情念に悩まされたり鼓舞されたりするものだ。これをどのように活用することで、より豊かな生を生きられるか。

 デカルトの最大の関心は、そこにある。そしてその洞察の数々は、さすが近代哲学の父、天才の名にふさわしい、と私は思う。


1.心身二元論

 まずは、デカルトの基本的な心身二元論についてみておこう。

 彼は言う。身体とは自動機械である。

「わたしたちが意志の関与なしに行うすべての運動(呼吸、歩行、食、その他すべてわたしたちが動物と共通の活動をする多くの場合のような)は、ただ、肢体の構造と精気の流れ、つまり、心臓の熱によって刺激された精気が脳、神経、筋肉のなかを自然にたどる流れ、だけに依存する。それは時計の運動が、ただバネの力と歯車の形だけによって生じるのと同様である。」

 それに対して、精神は「思考」である。

「わたしたちのうちには、わたしたちの思考以外に、精神に帰すべきものは何も残らない。その思考には主として二種がある。第一は精神の能動、第二は精神の受動である。わたしが精神の能動とよぶのは、意志のすべてである。〔中略〕これに対して、わたしたちのうちにあるあらゆる種類の知覚ないし認識は、一般に精神の受動とよべる。」

 そしてデカルトは、この受動的な知覚を「情念」と呼ぶ。


 要するに、意志能動的精神情念が、受動的精神なのだ。





2.情念とは何か


 したがって、情念はさしあたり次のように定義されることになる。

「情念を一般的に次のように定義できると思われる。すなわち、精神の知覚、感覚、情動であり、それらは、特に精神に関係づけられ、そして精気の何らかの運動によって引き起こされ、維持され、強められる。」

 さて、この精神の受動たる情念を、われわれは中々コントロールすることができない。

 それはなぜか。デカルトは言う。

「情念はほぼすべて、心臓のうちに、したがってまた血液全体と精気のうちに、なんらかの興奮の生起をともなっており、そのために、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。」

 つまり、情念は身体条件に大きく影響されてしまうのだ。だから、意志の力だけでは中々御しがたい。

 そこでデカルトは言う。意志の強さとは、この情念をコントロールする力のことなのだ、と。

「わたしが意志固有の武器とよぶものは、意志がそれに従ってみずからの生の活動を導こうと決意した、善悪の認識についての堅固な決然たる判断である。そして最も弱い精神とは、意志が一定の判断に従おうと決意せず、たえずその場の情念に引きずられたままになる精神である。」

 この意志の力を鍛えることは可能だ、とデカルトは言う。そのために、本書ではひとまず、われわれはどのような情念を持っているかを検討しようと言う。いわば、敵を知ることで敵との戦い方を考えてやろうじゃないか、というわけだ。


3.6つの基本情念

 デカルトによると、基本情念は6つだけである。

「単純で基本的な情念は、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみの六つだけであり、他のすべての情念は、これら六つの情念のいくつかの複合、あるいは種である。」

 一番単純な、まさに受動的情念は驚き。ここから、その対象への好き嫌い(愛憎)が生まれ、好きなものを欲望し、嫌いなものを嫌悪する(欲望)。そうすると、欲望を叶えられた喜びと、その逆としての悲しみが起こる。というわけだ。

 かなり恣意的な気もするが、ひとまずOKとしよう(笑)。

 さて、デカルトは続けて、これらさまざまな情念がいったいどういうものであるか、実に深い洞察を繰り広げていく。いくつか拾い上げてみたい。

 たとえばについて、彼はこんなことを言う。

「愛の対象を自分以下に評価するとき、その対象にはたんなる愛着を持つだけだ。対象を自分と同等に評価するとき、それは友愛とよばれる。対象を自分以上に評価するとき、ひとの持つ情念は献身とよべる。」

 あるいは、不快(嫌悪)については、こんなことを言う。

 善への愛と、悪への憎悪は、まあ悪くない情念である。人は理性的に、それを判断しているからだ。しかし快不快の場合は、たぶんに感性的なものである。それゆえ間違うことがしばしばだ。しかもこれはまた、特に強い情念として私たちの判断を鈍らせる。だから特に、何かへの快感情や嫌悪感には、注意せよ。

 中々の洞察だろうと私は思う。


4.情念をコントロールする

 そうしてデカルトは、次のように言って本書を締め括る。

「血液がそのように激動するのを感じたときは、想像に現れるものはすべて、精神を欺く傾向があ〔中略〕ることに注意して、これを想起すべきことである。〔中略〕即座に判断をくだすのを差し控え、時間と静止によって血液中の動揺が完全に鎮められるまで他のことを考えて気を紛らわさねばならない。」

 理性の人デカルトは、どこまでも、われわれが情念に支配されることで、自らの生や他者との関係をスポイルしてしまうことを、厳しく戒めたかったのに違いない。あまりに理性的、と、おもしろみを感じない人もいるかも知れないが、しかしそうしてどこまでも冷静に考え抜いた近代哲学の父デカルトが、私は好きだ。

「知恵の主要な有用性は、次のことにある。すなわち、みずからを情念の主人となして、情念を巧みに操縦することを教え、かくして、情念の引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、さらには、それらすべてから喜びを引き出すようにするのである。」

(苫野一徳)



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