ライプニッツ『モナドロジー』

はじめに

 17世紀ドイツにおける、知の大巨人ライプニッツ。

 スピノザと共に、大陸合理論の代表的哲学者として知られている。

 合理論とは、世界の真理を、合理的な推論によって描き上げようという企てのことだ。

 その際、スピノザは、唯一にして全であるに一切を還元した(スピノザ『エチカ』のページ参照)。

 対照的に、ライプニッツの思想は極小の「モナド」に辿り着く。

 スピノザ『エチカ』のページでも述べたように、彼らの思想は、いずれも「世界はこうなっているはずである」という推論の体系であり、決して検証することのできない「形而上学」だ。こうした形而上学は、彼らの後に現われたカントによって、その無効性が明らかにされることになる(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 それゆえ本書が描く世界像もまた、私の考えでは、とうてい現代に耐えうるものではない。

 しかしそれでもなお、スピノザ同様、世界のすべてを「合理的」に解き明かそうとした、人間の推論能力の執念のようなものは十分に感じられる。


1.モナド

「モナドとは、複合体をつくっている、単一な実体のことである。単一とは、部分がないという意味である。」

 イメージとしては、現代物理学における素粒子の概念、つまり物質を構成する最小単位のようなものといっていいだろう。

 このモナドは、神の創造によって生じ、絶滅によってのみ滅びる、とライプニッツは言う。

 世界はすべて神の創造なのだ。

 とは言うものの、このモナドは変化する。そしてその原因は、外的ではなく内的なものである。

 スピノザにとって、一切は神の定めの中にあった。しかしライプニッツの思想においては、神の定めに収まり切らない、自発的運動の可能性が含意されている。

「モナドには、そこを通って何かが出入りできるような窓はない。」
  
モナドは他の何ものとも無関係に、自らの内的原理によって変化することができるのである。

 


2.予定調和



「魂には魂自身の法則がある、体にも体自身の法則がある。それでいて両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだに存在する予定調和のためである、そしてその調和が可能なのは、どの実体も、みな同じ一つの宇宙の表現にほかならないからである。」



 デカルト二元論を、ライプニッツはこのような予定調和の思想によって乗り越えようと試みた(デカルト『省察』のページ参照)。

 精神の法則と物体の法則は、確かに別物であるかも知れないが、実はそれは神の世界において見事に調和している。ライプニッツはそのように言う。

 さらに彼は次のように言う。

「自然の物理的世界と恩寵の倫理的世界とのあいだに、もう一つ別の調和がある。」

 あらゆる法則が神のもとにすべて統一されている以上、道徳にも神の法則がある。したがってこれに従えば人は賞を受け、逆らえば罰を得る。

 一事が万事、検証不可能な形而上学だと言わざるを得ない。


 先述したように、こうした形而上学は、この後18世紀、ドイツの哲学者カントによって乗り越えられていくことになる。

(苫野一徳)

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スピノザ『エチカ』



はじめに

 唯一の実体であり、他のあらゆるすべてのものはその属性である。



 本書は、このことを幾何学的に、定義・公理・定理・証明、という形式で証明しようとしたものだ。 

 そんなこと、証明できるはずがない。


 現代のわたしたちならそう考えるはずだ。そして実際、スピノザがその証明に成功しているとは思えない。


 ライプニッツと共に、本書におけるスピノザのモチーフは、デカルトの二元論を克服するところにあった(ライプニッツ『モナドロジー』デカルト『省察』のページ参照)。


 デカルトは、世界は精神物体の2種類からなると考えた。しかしスピノザには、全く相容れない2つの世界があるとする考えが、どうにも不自然なことであるように思われた。


 むしろわれわれは、世界の実体を神のもとに一元化すべきなのではないか。スピノザはそう考え、精神と物体の2つを共に包括する哲学を打ち立てた。


 しかし先述したように、このことは決して証明することのできない「形而上学」(絶対的真理を問う学)だ。スピノザやライプニッツのようないわゆる大陸合理論(理性の推論によって世界の全体像を合理的に把握しようとする哲学)の哲学者たちが描き出した世界像が、決して証明することのできない形而上学であることを明らかにしたのは、この後18世紀ドイツに登場するカントである(カント『純粋理性批判』のページ参照)。


 カントによって、スピノザの世界像は突き崩された。そして今日、スピノザの形而上学的世界像が何らかの現代的意義を持ちうるとは、私には思われない(もっとも、スピノザの形而上学は、カントの後に現われたヘーゲルにおいて独自に継承されることになる。〔『精神現象学』のページ参照〕)。


 しかしその一方、本書で展開された人間論は、やはりスピノザが第1級の哲学者であったことを確信させる。


 今日なおわれわれが多くを学び取ることのできるスピノザの哲学は、その形而上学的世界観にではなく、類まれな人間洞察にある。私はそう考えている。




1.神について


定義6神とは、絶対無限の存在者である。
定義7自由はみずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ行動しようとするものである。必然的といわれるものは、一定の仕方で存在し、作用するように他のものによって決定されるもののことである。

 スピノザがいいたいのは、とにかく唯一の実体はであるということ、そしてその他あらゆるものはその属性であるということだ。

 だからわれわれには自由はない、というのがスピノザの考えだ。なぜなら神の必然性のなかにおいてわれわれは存在しているからだ。

定理11神は必然的に存在する。
証明神が存在しないと考えてみよ。そうすれば神の本質には存在がふくまれないことになる。
定理18:神は、あらゆるものの内在的原因であって超越的な原因ではない。
証明:存在するものはすべて神の中にあり、神によって考えられなければならない。
  
 こんな具合に、スピノザはひたすらに推論を重ねて神の存在を証明しようと試みている。

 しかし冒頭でも述べたように、これを「証明」というわけにはいかないだろう。結局のところスピノザの論述は、神は存在する、なぜなら神は存在しているからである、といった、トートロジー(同語反復)に帰着しているからである。





2.人間の感情について



 以上のように、スピノザは今日からみればかなりめちゃくちゃなことを言っている。しかし3部「人間の感情の起源と本性についてにおいて、彼は透徹した人間論を勢いよく展開することになる。

定理31:われわれが自分の愛するものをある人も愛すると想像するなら、その愛はいっそう不動なものになる。


 

 いわれてみればあたりまえなのだが、彼はこれを次のように「証明」する。



 

証明:だれかがあるものを愛していると想像するただそれだけのことから、われわれはただちにそれを愛するであろう。

 これも明らかにトートロジーで、証明になっているようには思われないが、それでもスピノザの洞察には見事なものがある。

 スピノザはさらに次のようにも言っている。

系:ここから、人は誰もが自分の愛するものを愛してくれるように可能な限り努める。  

注解:しかしこれは実は追従である。すべてのものがそろって同じようにこのことを要求することが、たがいに妨害となる。

 皆が皆を求め合うところに、お互いを妨げあう原因がある。



 さらにスピノザは次のように言う。

定理43:憎しみは、逆に憎み返すことによって増大させ、またによって反対に根絶することができる。
証明:自分の憎むものが自分にたいして愛に動かされていると想像するなら、彼は自分自身を喜びのうちに見つめるか、そのものに気に入られるように努めるであろう。
定理44:によって完全に克服された憎しみは、愛に変わる。しかもそのために、この愛は、憎しみが先行していなかったときよりも大きくなる。


 以下、スピノザの人間への慈しみが感じられる言葉を、いくつか引用しておくことにしよう。


定理18:喜びから生ずる欲望は、悲しみから生ずる欲望よりも強力である。

証明欲望は人間が自分の存在を継続しようとする努力である。

定理11:人の心を征服するものは、けっして武力でなく、愛と寛容である。




 世界を合理的な推論によって解明しようとした哲学者、スピノザ。しかし彼の本領は、その推論能力にではなく、人間的生の本質を見抜く、その「洞察」の力にこそある。私はそう思う。




(苫野一徳)





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ロック『統治論』


はじめに

 『人間知性論』のページでも書いたように、そしてまた以下で述べるように、ロックの政治思想、特に天賦人権は、ホッブズルソーに比べてやや劣るように思われる。

 しかしとはいうものの、アメリカ合衆国憲法をはじめ、彼が現代に及ぼした影響は甚大だ。そしてなにより、「人権」などという概念のない時代に、人間は平等な存在であるという思想を打ち出したことは、やはりきわめて画期的なことだった。


1.自然状態において、人間は平等である


「自然状態は、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人より多くもつ者は一人もいない。」


 ホッブズにとって、自然状態とは万人の万人にたいするたたかいだった(ホッブズ『リヴァイアサン』のページ参照)。


 しかしロックにとっては、それは自由平等な理想的状態だ。


「そうしてみれば、専制状態に比べれば、人々が他人の不正な意志に服従しなくてもよい自然状態のほうがはるかにまさっているのである。」


 しかしこの自然状態は不安定だ。だから人々は社会をつくったのだ。そうロックはいう。



2.所有権


「すべての人間は自分自身に対する所有権をもっている。そこで、自然が準備したものに労働を付け加えることで、それを自分の所有物とすることができるのである。」


 自分に対する所有権が根拠となって、自分で生産したものには所有権が発することになる。

 しかしロックは、ここに1つの留保をつけることも忘れない。


「一人の人間が耕し、植え、改良し、栽培し、そしてその収穫物を利用しうるだけの土地、それだけが彼の所有物である。」



 ロックによれば、この「所有権」はによって人間に与えられたものである。


 しかしそれは、今ではかなり無理のある考えと言わざるを得ない。

 後にルソーが言うように、所有権という考え方すら、合意によって生まれたと考えるほうが原理的だろう。


 確かに現代では、所有権(人権)は超越的な権利として保障されている。しかしこれは神によって与えられているのではなく、われわれ自身の、ルソーの言葉でいえば自己保存のために、相互の約束によって作り出された権利であるというべきだ。





3.市民社会




「市民社会の主要な目的は所有の保全にある。」



「したがって、すべての人が自然の法の執行権を放棄してそれを公共の手にゆだねるときにはいつでも、そこに、またそこにのみ、政治社会あるいは市民社会があるのである。」

 

 所有権という権利が根拠となって、これを守るために人間は相互に約束をして社会をつくる。


 それゆえ、この所有権を認めないような絶対君主制は、市民社会としてありえない。


 画期的な絶対君主制批判だ。



4.立法権


「最高の権力といえども、同意を得なければ、だれからもその所有物のどの部分も奪うことはできないのである。」


 ルソーに先がける「同意」の思想を、ここに見ることができる(ただし、ロックに先立つホッブズもまた、超越的権力への権利の委譲は、人民の合意によってなされる必要があると言っている)。




(苫野一徳)



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