ルソー『エミール』

 


はじめに

 言わずと知れた、教育学の古典的名著。

 激しく愛し、激しく憎み、激しく絶望し、激しく夢を見、おかたいモラリストでありながらも、性的倒錯者。

 すべてのベクトルにおいて究極までぶっ飛んだルソーの中に、私は「人間」を見る思いがする。

 この類まれなる個性的天才が、私はとても好きだ。


1.自然の教育、事物の教育、人間の教育

「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。」

 これが、ルソー教育論の最初のテーゼである。

 しかし人間は教育によってつくられる。自然のままではいられないのだ。

 よく言われる「自然に帰れ」というルソーの言葉とされるスローガン。

 しかしルソーは、実は「自然に帰れ」とはひと言も言っていない。

 人間は、教育されなければ人間たりえないのだ。


 ではわれわれはどのように人間を教育すべきか。教育には3種類ある、とルソーは言う。



自然の教育:私たちの能力と器官の内部的発展。わたしたちの自由にはならない。


人間の教育:この発展をいかに利用すべきかを教える。わたしたちの自由になる。


事物の教育:私たちを刺戟する事物について私たち自身の経験が獲得するもの。ある点では自由になる。

 これらは同じ目的に向かって一致していなければならないが、自然の教育が私たちの自由にならない以上、これにあと二つを一致させるほかない、とルソーは言う。

 ところで自然とは、「習性や理性によって変化する前の、わたしたちの傾向のことである。」

 つまりルソーの教育論の主眼は、人間の本性に従った教育を構想しよう、というものなのだ

 なんだ、あたりまえじゃないか。と思われるかも知れない。

 しかしこの思想は、ルソーの時代においては画期的なものだった。

 ルソーが生きたフランス絶対王政の時代は、人口のわずか2%にすぎない貴族と聖職者による、残り98%の民衆の支配と従属の時代だった。

 だから支配階級は支配階級であり続け、靴屋の子は靴屋、農民の子は農民であり続けなければならなかった。教育は、一部の特権階級だけが受けることができた。あとの子どもたちは、王様に従順な、靴屋なり農民なりになってさえいればよかった。つまり民衆に、今のような「自由」はなかったのだ。

 しかしルソーは言う。

「自然の秩序においては、人間は皆平等であって身分など関係がない。従って人はまず人間にならなければならない。生きること、活動することが大切なのだ。」

 教育によって、人間は自由になる。

 ルソーは新しい人間観、教育観を提示した。

 『エミール』が教育学における不朽の名著と言われる理由は、ここにある。


2.自由と幸福のために

「幸福のためには、能力を超えた欲望をなくし、力と意志とを等しくしなければならない。」

 人間は、やりたいことを何でもできるわけではない。

 やりたいことがあるのに、それをできない人間は不幸だし、不自由だ。

 だから重要なことは、「能力を超えた欲望をなくし、力と意志とを等しく」することなのだ。

 そしてそのような教育によってこそ、人間は自由になる。

 ルソーはそう考えた。
 
 ここには深い洞察がある。わたしたちの不幸は、欲望と能力とのギャップにある。このバランスをとって、「自由」を十全に実感できるようになること。教育によって、そのようなバランス感覚を養うこと。教育にとってはそれが大切だ。ルソーはそう言うわけだ。

 果てなき夢を追い求める理想主義者ルソーだったからこそ、かえってこんな思想を抱いたのに違いない。

 欲望ばかりが拡大する現代社会において、この考え方はひとつの知恵かも知れない。

 しかしもう一つ、忘れてはならない。

 教育によって、欲望や夢をかなえるための「力」もまた、私たちは身につけていくことができる

 私はそう考えている。それは教育の、一つの重要な本質である。


3.消極教育

「子どもには子ども特有の考え方、感じ方があるのであって、それを尊重しなければならない。」

 子どもに早いうちから「理屈」を教えてはいけない。

「それは子どもたちを欺瞞的にする。褒美をせしめるためや罰を逃れるため、ごまかし嘘をつくようになるのだ。」

 しかしだからと言って、子どものわがままを放任すればいいというわけでもない。そもそも道徳は上から押し付けられて身につくものではなく、子ども本来の感じ方から生じるのだとルソーは言う。

「子どものわがままや乱暴に対して、あなたがあなたの怒りや不快を示す。子どもは自己を改変させていく。道徳はこうして生じるのであって、約束や義務という考え方からではない。」

 理屈でよいことと悪いことを教え込むのではなく、それを人間関係を通して、心情から理解させていくということ。これがルソーにおける、道徳教育の方法である。


4.人間の根本は自己愛

「あらゆる情念の源は自己愛である。ここから、自らに近づく人たちへの愛が生まれる。」

 人間は利他的であるべきだ、という考えは、古くからずっと、今日にいたるまで存在する。しかしルソーは、人間の根本は自己愛にあると言う。

 しかしだからと言って、それがただちに「利己的」であることを意味はしない。人はこの「自己愛」のゆえにこそ、他者を愛し思いやることができるのだ。

「人が人間愛を感じるのは、わたしたちが弱いからだ。だから人といっしょになりたいと思うのだ。」  

 人間愛を育むためには、次の三つのことを知っておく必要がある。とルソーは言う。

 人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。

 人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

 他人の不幸に対して感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

 人はどうすれば互いに愛し合えるのか。どうすれば互いに思いやりあうことができるのか。

 他人を愛せとか、思いやりをもてとか、そんなことを言うだけでは何の解決にもならない。

 ルソーは人間愛の条件を、以上のように見事に描いてみせたのだ。


5.サヴォワ助任司祭の信仰告白

 『エミール』の途中に、〈サヴォワ助任司祭の信仰告白〉という有名な挿話がある。

 後にカントを感激させ、『実践理性批判』の構想を練らせることになったこの挿話には、第3信条として次のような言葉が記されている(カント『実践理性批判』のページ参照)。

「人間は自由だ。神は、人間が自分で選択して善を行うように、人間を自由なものにしたのだ。」

 近代以前は、すべては神に定められており、また絶対君主制下においては、そうした神によって王権を与えられた絶対君主によって、善悪が定められていると考えられていた。

 しかしルソーはいう。

 人間は、自ら善を意志することのできる自由な存在だ!

 ここに、近代の新しい人間観が生まれた。


6.おまけ(男女について)

 男と女の関係について、ルソーはおもしろいことを言っている。

「男女は平等だが、男は能動的で強く、女は受動的で弱くなければならない。だから女は男に気に入られるために生まれついている。」
 
 現代のフェミニストが聞いたら、顔を真っ赤にして怒るに違いない。しかしルソーは、ちゃんと次のようにも言っている。

「しかし実はみかけと違って強者は弱者に依存している。男性は女性に気に入られるよう努力しなければならないから。男はその欲望によって女に依存している。女はその欲望とその必要によって男に依存している。」

 結局あいみたがい、というわけか。

(苫野一徳)

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ルソー『社会契約論』

はじめに

 近代社会の基本を設計した、画期的な書物。フランス革命に大きな影響を与えたものとしても知られている。

 しかしこの本は、その後現代にいたるまで、賛否両論の大激論を生むことになった。

 哲学史上、ルソーほど極端に愛されまた嫌われた人はいないし、この本ほど、絶賛されまた罵倒された本もない。

 ある人は、本書を民主主義の宣言の書と言って賞讃する。またある人は、本書を全体主義の理論書と言って批判する。

 この真逆の評価は、いったいどういうことなのか。

 ルソーというこの人間力に溢れた天才の文章は、確かに私たちの魂に何かを訴えてくるような力がある。

 読み手によってその受け取り方が変わってくるのも、そうした魔力のゆえなのかも知れない。


1.本書の目的

「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。」

 有名な冒頭だ。

 自由であるはずの人間が、なぜ社会においてはくびきにつながれてしまうのか。

 どのような社会であれば、われわれはこれを正当といえるだろうか。

 ルソーはこうして、社会の「原理」論を開始する。


2.社会契約

「人間の最初のおきては、自己保存をはかることであり、その第一の配慮は自分自身にたいする配慮である。」

 ルソーはまず、人間は自己保存をはかるものだという事実から考察を開始する。このおきては誰にでもそなわっている。だからこのおきてが満たされていないと、社会は「正当」とは言えない。

 次にルソーは、最強者の権力について考察する。

 「最強者」は、残りすべての人間を支配しようと欲する。しかしいかに最強者といえども、他人をすべて自分に服従させることなど不可能だ。

 こうして、残るのは約束だけになる。「自己保存」を可能にするためには、相互に互いの「自己保存」を侵害しないという「約束」をしなければならない。


3.一般意志

「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。」

 一般意志とは、簡潔にいえば市民全員の合意のことだ

 各人は、それぞれに特殊意志をもつ。だから互いに争うことになる。

 しかしわれわれの社会は、どの「特殊意志」が正しいかと問うのではなく、それが「一般意志」に適合しているか、つまり合意可能なものかと問わなければならない。

 各人の「特殊意志」の対立を調停するために、その「特殊意志」が市民全員の合意を得られるかどうかという観点からはかるわけだ。

 したがってルソーは次のように言う。

「一般意志は、何らかの個人的な特定の対象に向かうときには、その本来の正しさを失ってしまう。そこで意志を一般的なものとするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利害であることが理解されなければならない。」

 社会権力は、ある特定の人の利害を代表するものであってはならない。

 それは、市民全員の意志、すなわち「一般意志」を代表している時にのみ「正当」ということができるものである。

 だから、多数決も必ずしも「一般意志」を代表しているとは言えない。

 むしろ、どうすれば互いの共通利害を取り出せるかを考えるべきなのだ。

 後にプルードンが、ルソーは多数決を説いたとして批判しているが、見当違いな批判だと私は思う(プルードン『19世紀における革命の一般理念』のページ参照)。

 こうして、「社会」の正当性、あるいは各人の「自己保存」を保障する「権力」の正当性の答えは、「一般意志」であるということになる。

「統治者の支配的な意志は、一般意志、あるいは法に他ならず、またそうでなければならない。」

 ルソーは続けて、民主政、貴族政、君主政のそれぞれを検討したり、代議士や投票のあり方についてなど詳細に考察しているが、この細々とした議論については、現代ではそれほど重要ではないと思う。

 今日なお色あせない、いや、むしろ近現代社会の「原理」として生き続ける思想は、何よりも一般意志の原理だ。

 われわれの社会には、超越的で絶対的な「よい」はもはや存在しない。

 社会(権力)が「正当」といいうるのは、ただ「一般意志」を代表している時にのみである。

 ちなみにこの「一般意志」の概念は、アーレントハーバーマスなどによって、「全体主義」の概念とほぼ同義であるとして批判されている(アーレント『革命について』ハーバーマス『公共性の構造転換』のページ等参照)。

 しかしこれは、かなり偏った批判であるというほかない。

 ルソーが「一般意志」の概念において主張したことは、すべての市民の意志を統一しなければならないなどということでは決してない。

 「一般意志」の概念が意味しているのは、社会(法・権力)をわれわれが「正当」といいうるのは、それがすべての人の意志を十分代表し得ている時のみである、という、社会権力の「正当性」の原理なのである。

 
 それは、絶対的に達成することはほとんど不可能なことであるだろう。しかしわれわれは、この「理念」による以外に、社会(法・権力)の正当性を吟味検証することはできないはずである。
 
(苫野一徳)




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