フロイト『自我とエス』

はじめに

 自我は、外界からの刺激、内側からやってくるリビドー、そして、同じく内側に内面化された権威的な自己ルールである超自我によって苦しめられている。

 人間存在を、自我と奔放なエスとの相克として描き出した後期フロイトの代表作。

 他ページでも述べたように、フロイト理論は彼自身認めているようにあくまでも仮説の域を出ない。

 しかし私たちは、自らを振り返った時、私たちを突き動かす欲望や、私たちを時に苦しめる内面化された当為(〜すべし)の存在を、十分自覚することができるだろう。

 この欲望と当為の自覚へと向かう必要性を教えてくれるところに、そしてその自覚が、フロイト流に言えば神経症や性倒錯からの快癒の大きなきっかけとなることを教えてくれるところに、フロイト理論の今日的意義がある。


1.意識、無意識、前意識

 フロイトは本書で、まず次のように言う。

「精神分析では、心的なものの本質は意識のうちにはないと考えている。」

 つまり心的なものの本質は、無意識にある。

 しかし無意識にも2つある。

「潜在的ではあるが、意識化することが可能なものと、抑圧され、それ自体においてはどうしても意識化することができないものである。」

 フロイトは前者を前意識、後者を無意識と呼ぶ。

 こうしてまず、「意識的なもの(Bw)、前意識的なもの(Vbw)、無意識的なもの(Ubw)」という概念が出そろうことになる。


2.エス

 フロイトはここに、さらにエスという概念を登場させる。

「知覚システムから発生し、当初は前意識的(vbw)であるものを〈自我〉と名づけ、無意識的(ubw)なものとしてふるまうものを〈エス〉と名づけることを提案する。」

「自我はこのエスの一部であり、〔中略〕さらに、外界の影響をエスとその意図に反映させようと努力するのであり、エスを無制限に支配している快感原則の代わりに、現実原則を適用させようと努めるのである。」

 つまり、われわれの内部における、快感原則に支配された無意識的なものを、フロイトはエスと呼ぶのである。自我はこのエスを、何とかしてコントロールしようと努力する。


3.超自我

 続いて登場する概念が、超自我である。

 フロイトによれば、これは男の子におけるエディプス・コンプレックスから登場してくるものである。有名なエディプス・コンプレックスとは、次のようなものである。

「ごく早い時期に、母に対する対象備給が発展する。これは最初は母の乳房にかかわるものであり、依託型対象選択の原型となる。一方で少年は同一化によって父に向かう。この二つの関係はしばらくは併存しているが、母への性的な欲望が強まり、父がこの欲望の障碍であることが知覚されると、エディプス・コンプレックスが生まれる。父との同一化は、敵対的な調子をおびるようになり、母との関係において自分が父の場所を占めるために、父を排除したいという願望に変わる。これからは父との関係はアンヴィヴァレントなものとなる。同一化の中に最初から含まれていたアンヴィヴァレンツがあらわになったかのようにみえる。父に対するアンヴィヴァレントな態度と、情愛のこもった対象として母を獲得しようとする努力が、少年の単純で積極的なエディプス・コンプレックスの内容となるのである。」

 要するに、男の子は母親に性愛を向けるが、父親の存在がこれを許さない。そこで男の子は父親を憎悪するが、同時に自身を父親のような存在たらしめたいと願うようにもなる。これがエディプス・コンプレックスと呼ばれるものである。

 超自我は、このエディプス・コンプレックスが抑圧されて登場するものである。

「自我に対する超自我の関係は、『おまえは(父のように)あらねばならない』という勧告に尽きるものではなく、『おまえは(父のように)あってはならない』という禁止、すなわち、『父のすることすべてを行ってはならない』という禁止を含むものである。自我には多くのことが禁止されたままなのである。」

 それに従うのであれ逆らうのであれ、自らの中に作り上げられた父親こそが、私たちの道徳的な理想となる。フロイトはそのように主張するのだ。

「子供が以前は父の強制のもとにあったように、自我はその超自我の絶対的な命令に服従するのである。」

 こうして自我は、次の3つの不安に苦しめられることになる。

「自我は三つの仕事を請け負わされていると同時に、三つの脅威に脅かされているのである――外界からの脅威、エスのリビドーからの脅威、苛酷な超自我からの脅威である。この三種類の脅威に対応して、自我は三種類の不安に悩まされている。」

 私たちは、外界からの様々な刺激に対処しなければならない以上に、リビドーとどう向き合うか、そして厳しい命令を課す超自我とどう向き合うかという、3つの脅威と共に生きている。そうフロイトは言うのである。

(苫野一徳)


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フロイト『快感原則の彼岸』

はじめに

 性の欲動(リビドー)に加えて、死の欲動(タナトス)の存在を主張した本書。

 『性理論三篇』のページでも書いたように、フロイト自身、これが仮説であることを十分認めている。

 しかしこの理論が、後期フロイト理論の重要なキー概念になっていく。

 人間存在をリビドーとタナトスの葛藤から考えるという後期フロイトの理論は、やや極端にも思えるが、人間洞察の一観点としては今も十分示唆的である。


1.反復強迫

 フロイトは本書で、まず次のような反復強迫にとらわれた人たちに着目する。

「他者との関係がいつも同じ結末に終わる人がいるものである。庇護した相手に去られて、恨みを抱く慈善家たちは、その他の面ではさまざまに異なるとしても、どれも忘恩の苦渋を味わう宿命を背負っているかにみえる。どんな人と友情関係を結んでも、最後に友人に裏切られる人々。ある人を自分や世間にとっての大きな権威として祭り上げながら、しばらくするとこの権威を自ら崩し、別の権威を祭り上げることを繰り返す人々。女性との愛情関係が、つねに同じ経過をたどって、同じ結末に終わる人々。」

 そして言う。

「反復強迫を想定するのは妥当なことと言える。反復強迫は快感原則を凌ぐものであり、快感原則よりも根源的で、基本的で欲動に満ちたものと思われる。」

 一般に、人は快感原則によって生きていると思われている。しかしフロイトは長い臨床経験を通して、実は快感原則のほかに、いや、むしろもっと根底に、快感原則をもしのぐような欲動があるのではないかという着想を得た。


2.無意識の探究

 そこでこの欲動を探るべく、フロイトは無意識について考察を深めていく。

 まずフロイトは次のように言う。

「無意識のプロセスを研究しているうちに、意識は心のプロセスのもっとも一般的な特徴ではなく、その特別な機能の一つにすぎないという印象が生まれる。」

 つまり私たち人間を大きく拘束しているのは、実は意識であるよりも無意識なのだ。

 そこでこの無意識的な欲動を、人は何とか克服しようと様々な方法を(無意識的に)採用することになる。フロイトは言う。

「この拘束がうまくゆかないと、外傷神経症に似た障害を引き起こすことになる。拘束に成功した後に初めて、快感原則の支配(およびそれを現実原則に修正する作業)が妨げられずに貫徹されよう。」

 内的な欲動をうまくコントロールできるようになって、人は正常な快感原則や現実原則に従うことができるようになる。対してこれに失敗すると、人は異常な快感を求めたり、うまく現実になじめなくなったりしてしまう。そうフロイトは言うのである。

 さて、この快感原則をより根底で支える欲動を、初期フロイトは性欲動(リビドー)に見出していた。ところが後期になって、彼は次の驚くべき仮説を提示することになる。


3.死の欲動

 「死の欲動」(タナトス)がそれである。

 フロイトによれば、これは生命体である以上不可避的に持たざるを得ないものである。

「過去のある時点において、現在もなお想像できない力の影響によって、生命のない物質の中に生命の特性が芽生えた。〔中略〕最初の欲動が生まれた――生命のない状態に還帰しようとする欲動である。」

 生命は、できることなら、生命のなかったあの原始の頃に戻りたいと願うのだ。そうフロイトは言う訳だ。

 これは、検証することが決してできない、完全に仮説の域を出ない考え方だ。実際フロイト自身、次のように言っている。

「わたし自身がここに示された想定を信じているかどうか、またどの程度まで信じているかが問われることがあろう。わたしは、〈わたし自身はこれを信じていないし、人にも信じてもらいたいと考えているわけではない〉と答えざるを得ない。正確には、わたしがこれをどの程度まで信じているか、自分でもよくわからないのである。」

 しかしこの死への欲動を想定することで、様々な現象にうまく説明がつくようになる。そうフロイトは言う。

 つまり、様々な性倒錯は、性欲動と死の欲動のせめぎ合いとして考えることができるのである。

「性欲動は固有の生の欲動である。性欲動は、死に導く機能をもつ他の欲動の意図を阻むものであり、性欲動と他の欲動の間には対立関係が存在する。」


 こうしてフロイトは、「快感原則の彼岸」に死への欲動を見出した。「快感原則は実際には、死の欲動に奉仕するものと思われるのである」

(苫野一徳)


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フロイト『性理論三篇』

はじめに

 サディズムマゾヒズムフェティシズムといった性目標の倒錯が、誰にでもある普遍的なことであることを指摘しつつ、その理由を、そもそも乳幼児期からわれわれの中に存在する性欲動(リビドー)に見出そうとする本書。

 幼児性愛を指摘し、大きな波紋を呼んだことで有名な本だ。

 フロイトの理論は、彼自ら強調しているように、完全に検証することは不可能な仮説である。

 一切を性欲動に還元しようとする彼の仮説群には、その後様々な批判が寄せられることとなった。

 しかし私としては、フロイトの類い稀な人間洞察力に感銘を受けずにはいられない。特に、それが性的関係であるかどうかはともかくとして、私たちが親子関係から半ば必然的に受けざるを得ない大きな影響関係を、これでもかというほど見事に描き上げたフロイトの理論には、今なお引き継ぐべきものが多くあるように私には思われる。


1.第1篇「性的な逸脱」

 フロイトはまず、性的な逸脱を性対象の倒錯性目標の倒錯とに分ける。
 性対象の逸脱は、同性愛両性愛をさす。
 性目標の逸脱は、性器によるセックスではなく、性器以外を性行為の目標とすることをさす。

 ここでフロイトが考察するのは、主として性目標の倒錯である。

 それはたとえば、サディズムマゾヒズム、またフェティシズムなどに顕著に見られるものである。

 ちなみにフロイトによれば、マゾヒズムとは自分に向けられたサディズムに他ならない。

「多くの場合、マゾヒズムとは自分に向けられたサディズムの延長に他ならないことが確認されている。この場合は、自分が性対象の位置に立つわけである。」

 さて、フロイトは続けて次のように言う。 

「どのように健全な人でも、正常な性目標にはつねに性目標倒錯の要素がそなわっているものである。」

 なぜなら、人間の「性欲動」はもともとはっきりした対象や目標を持たないものであるからだ。

「われわれが『欲動』という言葉で理解しているものは、さしあたっては、つねに流動し続けている体内の刺激源の心的な代表である。〔中略〕この欲動の性格についてのもっとも単純でわかりやすい定義は、欲動はそれ自体はいかなる性質ももたず、心的な生の作業を進める条件尺度としてだけ理解できるということだろう。」



2.幼児の性愛(第2篇)

 そこでフロイトは続けて、幼児にそもそも備わっているとされる性欲動にについて考察していく。

 しかしこの性欲動は、いずれ「抑圧」される運命にある。

「新生児は、誕生の時点ですでに性的な興奮の萌芽をそなえていること、この萌芽はしばらくの間は発展し続けるが、その後持続的に抑制されるのは確実なことと考えられる。」

 なぜ抑圧が起こるのか。フロイトは言う。

「まず、生殖機能が停止しているため(これが潜在期の主要な特徴である)、小児は自分の性的な興奮を利用できない。また、こうした性的な興奮はそもそも倒錯したものである。すなわち、これは性感帯から生まれるものであるが、個人の発達方向においては、不快な感情しか生み出さないような欲動に支えられているのである。このように、小児の性的な興奮は心的に反対の力(反動興奮)を呼び起こすのであり、この力がこうした不快感を効果的に抑制するために、上記のような心的な堤防、すなわち嫌悪感、羞恥心、道徳心などを構築するのである。」

 幼児期においては性的な能力がないので、性欲動を満足させることができない。そこでこの不快感を抑圧することで、エネルギーは別の方向へと向けられることになる。これをフロイトは「昇華」と呼ぶ。

 ではこうした子どもの性的発達は、どのように起こるのか。

 まず、前性器的段階がある。いわゆる口唇期肛門期である。子どもは、唇や肛門において性的興奮を得る。

 この状態を経て、子どもたちはいよいよ性器的な発達を迎えることになる。



3.思春期における変化(第3篇)

 思春期を迎えると、子どもたちは性器における快感を覚えるようになる。

 しかしその前に、性器以外における快感も知る。これをフロイトは、前駆的快感と呼ぶ。対して性器による快感を最終快感と呼ぶ。そして言う。

「正常な性目標を達成するという目的からみると、前駆快感が感受されるメカニズムには、危険な要素があるのである。性目標が達成される前の段階で、前駆快感があまりに大きくなり、性的な緊張が小さくなりすぎると、この危険性が発生する。この場合には性プロセスをさらに促進させるための駆動力が失われ、全体のプロセスが短縮され、性目標を準備する営みが、正常な性目標の代用となる。」

 前駆的快感があまりに大きくなりすぎると、性目標が正常な地点にまで到達しない。そうフロイトは言うのである。

 そこでフロイトは、私たちにそもそも備わっているとされる性欲動(=リビドー)について考察を深めていく。

 リビドーは、まずは自我リビドーとしてある。自体愛的なリビドーがそれである。

 自我リビドーはやがて何らかの対象に向かい対象リビドーとなるが、しかしフロイトによれば、これはやがて再び自我へと連れ戻され、ナルシシズム的リビドーとならざるを得ない。

「対象リビドーの運命を考察すると、これが対象から引き離され、特別の緊張状態において動揺しながら維持され、最後には自我の中に連れ戻されることが明らかになる。ここでこのリビドーは、再び自我リビドーとなる。」

 先述したように、対象リビドーは決して満足させることができないからである。

 フロイトによれば、対象リビドーがまず向かう先は、母親である。母親は自らを子どもにとっての性的対象とすることで、子どもの性的発達を促しているというのである。

「子供が自分の世話をしてくれる人に感じる濃やかな情愛や評価と、性的な愛が同じものであると考えることに抵抗を感じる人もいるだろうが、さらに精密に心理学的な研究を進めれば、この二つが同一のものであることは、疑問の余地なく確認できるはずである。」

 しかしこの母親への性的興奮は、まず叶えられることがない。そしてこれは、新たな苦悩へと展開することになる。

「このように明らかに近親相関的な空想を克服し、放棄すると同時に、思春期においてもっとも重要で苦痛な心的な営みが行われる――両親の権威からの離脱である。」

 ここで問題が生じる。

「両親の権威を克服することができず、自分の情愛を両親からまったく回収することができないか、不完全な形でしか切り離すことができない人々もいるのである。」

 フロイトによれば、こうした幼少期の性的不満足、それに伴う両親に対する不安定な感情が、ヒステリーや神経症の最大の原因である。

(苫野一徳)


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