コント『実証精神論』

はじめに

 実証主義の祖、コント。

 神学形而上学を廃し、究極原因ではなく法則を探究することを提唱した。

 その姿勢それ自体は、極めて妥当なものだ。

 自然や社会の法則を「実証的」に明らかにすることで、人間の未来に貢献すること。

 誠実で熱い夢だったと思う。

 しかし今日、コントが夢みたような実証主義の勝利は、さまざまな問題によって挫かれている。

 学問の新たなブレイクスルーを志すためにも、近代実証主義の精神がどのようなものであったか、よく知っておくことは重要だろう。そしてその問題点も含めて、以下かいつまんで見ていくことにしよう。


1.3段階の法則

「人間の思索はすべて必然的に三つの理論段階を通過する。神学的段階、形而上学的段階、実証的段階である。」
 
 かつてカントが明らかにしたように、人間の理性は必然的に究極原因を求めてしまう。そこから、神学形而上学(絶対を探究する学)が生じた。しかしやはりカントが明らかにしたように、究極原因など結局は人間には知りえない問題である(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 そこでコントは次のように主張する。

 われわれは、代わりに自然や社会の「法則」を探究しなければならないのだと。

 そしていう。

「これは決して絶対的になってはならないのであって、常に人間の内的組織や外的状況に対して「相対的」でなければならない。」

 実証主義の祖といえば、絶対不変の自然や社会の法則があって、これを認識すれば必ず人間の幸福が得られるのだ、といった、素朴な実証精神の持ち主を思い浮かべるかも知れない。

 しかしコントは、法則も結局は相対的なものであることをちゃんと認識していた。

 何と言っても彼の目的は、

「変化のただなかに安定を見出すことによって、秩序と進歩の同時的要求を等しく満たすことである。」

 だから法則が絶対的であろうが相対的であろうが、その認識によって安定が見出されればそれでいいのだ。

 とてもバランス感覚に富んだ指摘だと思う。


2.道徳について

 ところが道徳については、コントは次のように言っている。

「道徳秩序の問題は困難なものではあるが、正しく取り扱えば、幾何学の結論と全く同じように確実な結論を出すことができると、私はあえて断言するものである。」

 コントにとって、自然や社会の法則は相対的なものなのに、どうやら道徳だけは違うらしい。


 コントは、絶対不変の道徳法則がある、と考えていた節がある。これは後のデュルケームにもみられる構えだが、このあたりは、先の主張からすれば少し整合性に欠けているのではないかと思う(デュルケーム『道徳教育論』のページ参照)。





3.諸科学の序列

「これは、数学的段階から発して、天文学、物理学、化学、生物学、社会学、へと至る。」

 「実証度」の高いものから始まって、徐々に実証困難なものの「実証性」もまた上げていく。

 そうすれば、われわれは社会のあらゆる現象を。「予見するために見る」ことができるようになるだろう。

 そうコントは言う。

 なかなか説得力のある考えだし、今日の社会科学は、基本的にこの「実証主義」の精神を継承している。

 しかし現代では、何が「実証的」であるかをめぐる対立が大きくクローズアップされている。

 数学などの「実証性」は、かなりの程度万人に共通のものだ。

 しかし「社会」や「心理」などに関しては、それは観察する人の立場や考えや観点によって、その「実証性」が変わってくる。

 この問題は、今なお、実証学問のあらゆる場面で噴出しているものである。

 もっとも私の考えでは、この問題はフッサールの現象学によって原理的に解き明かされている。詳細は、ぜひフッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のページなどを参照していただきたい。

(苫野一徳)

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フロイト『自我とエス』

はじめに

 自我は、外界からの刺激、内側からやってくるリビドー、そして、同じく内側に内面化された権威的な自己ルールである超自我によって苦しめられている。

 人間存在を、自我と奔放なエスとの相克として描き出した後期フロイトの代表作。

 他ページでも述べたように、フロイト理論は彼自身認めているようにあくまでも仮説の域を出ない。

 しかし私たちは、自らを振り返った時、私たちを突き動かす欲望や、私たちを時に苦しめる内面化された当為(〜すべし)の存在を、十分自覚することができるだろう。

 この欲望と当為の自覚へと向かう必要性を教えてくれるところに、そしてその自覚が、フロイト流に言えば神経症や性倒錯からの快癒の大きなきっかけとなることを教えてくれるところに、フロイト理論の今日的意義がある。


1.意識、無意識、前意識

 フロイトは本書で、まず次のように言う。

「精神分析では、心的なものの本質は意識のうちにはないと考えている。」

 つまり心的なものの本質は、無意識にある。

 しかし無意識にも2つある。

「潜在的ではあるが、意識化することが可能なものと、抑圧され、それ自体においてはどうしても意識化することができないものである。」

 フロイトは前者を前意識、後者を無意識と呼ぶ。

 こうしてまず、「意識的なもの(Bw)、前意識的なもの(Vbw)、無意識的なもの(Ubw)」という概念が出そろうことになる。


2.エス

 フロイトはここに、さらにエスという概念を登場させる。

「知覚システムから発生し、当初は前意識的(vbw)であるものを〈自我〉と名づけ、無意識的(ubw)なものとしてふるまうものを〈エス〉と名づけることを提案する。」

「自我はこのエスの一部であり、〔中略〕さらに、外界の影響をエスとその意図に反映させようと努力するのであり、エスを無制限に支配している快感原則の代わりに、現実原則を適用させようと努めるのである。」

 つまり、われわれの内部における、快感原則に支配された無意識的なものを、フロイトはエスと呼ぶのである。自我はこのエスを、何とかしてコントロールしようと努力する。


3.超自我

 続いて登場する概念が、超自我である。

 フロイトによれば、これは男の子におけるエディプス・コンプレックスから登場してくるものである。有名なエディプス・コンプレックスとは、次のようなものである。

「ごく早い時期に、母に対する対象備給が発展する。これは最初は母の乳房にかかわるものであり、依託型対象選択の原型となる。一方で少年は同一化によって父に向かう。この二つの関係はしばらくは併存しているが、母への性的な欲望が強まり、父がこの欲望の障碍であることが知覚されると、エディプス・コンプレックスが生まれる。父との同一化は、敵対的な調子をおびるようになり、母との関係において自分が父の場所を占めるために、父を排除したいという願望に変わる。これからは父との関係はアンヴィヴァレントなものとなる。同一化の中に最初から含まれていたアンヴィヴァレンツがあらわになったかのようにみえる。父に対するアンヴィヴァレントな態度と、情愛のこもった対象として母を獲得しようとする努力が、少年の単純で積極的なエディプス・コンプレックスの内容となるのである。」

 要するに、男の子は母親に性愛を向けるが、父親の存在がこれを許さない。そこで男の子は父親を憎悪するが、同時に自身を父親のような存在たらしめたいと願うようにもなる。これがエディプス・コンプレックスと呼ばれるものである。

 超自我は、このエディプス・コンプレックスが抑圧されて登場するものである。

「自我に対する超自我の関係は、『おまえは(父のように)あらねばならない』という勧告に尽きるものではなく、『おまえは(父のように)あってはならない』という禁止、すなわち、『父のすることすべてを行ってはならない』という禁止を含むものである。自我には多くのことが禁止されたままなのである。」

 それに従うのであれ逆らうのであれ、自らの中に作り上げられた父親こそが、私たちの道徳的な理想となる。フロイトはそのように主張するのだ。

「子供が以前は父の強制のもとにあったように、自我はその超自我の絶対的な命令に服従するのである。」

 こうして自我は、次の3つの不安に苦しめられることになる。

「自我は三つの仕事を請け負わされていると同時に、三つの脅威に脅かされているのである――外界からの脅威、エスのリビドーからの脅威、苛酷な超自我からの脅威である。この三種類の脅威に対応して、自我は三種類の不安に悩まされている。」

 私たちは、外界からの様々な刺激に対処しなければならない以上に、リビドーとどう向き合うか、そして厳しい命令を課す超自我とどう向き合うかという、3つの脅威と共に生きている。そうフロイトは言うのである。

(苫野一徳)


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フロイト『快感原則の彼岸』

はじめに

 性の欲動(リビドー)に加えて、死の欲動(タナトス)の存在を主張した本書。

 『性理論三篇』のページでも書いたように、フロイト自身、これが仮説であることを十分認めている。

 しかしこの理論が、後期フロイト理論の重要なキー概念になっていく。

 人間存在をリビドーとタナトスの葛藤から考えるという後期フロイトの理論は、やや極端にも思えるが、人間洞察の一観点としては今も十分示唆的である。


1.反復強迫

 フロイトは本書で、まず次のような反復強迫にとらわれた人たちに着目する。

「他者との関係がいつも同じ結末に終わる人がいるものである。庇護した相手に去られて、恨みを抱く慈善家たちは、その他の面ではさまざまに異なるとしても、どれも忘恩の苦渋を味わう宿命を背負っているかにみえる。どんな人と友情関係を結んでも、最後に友人に裏切られる人々。ある人を自分や世間にとっての大きな権威として祭り上げながら、しばらくするとこの権威を自ら崩し、別の権威を祭り上げることを繰り返す人々。女性との愛情関係が、つねに同じ経過をたどって、同じ結末に終わる人々。」

 そして言う。

「反復強迫を想定するのは妥当なことと言える。反復強迫は快感原則を凌ぐものであり、快感原則よりも根源的で、基本的で欲動に満ちたものと思われる。」

 一般に、人は快感原則によって生きていると思われている。しかしフロイトは長い臨床経験を通して、実は快感原則のほかに、いや、むしろもっと根底に、快感原則をもしのぐような欲動があるのではないかという着想を得た。


2.無意識の探究

 そこでこの欲動を探るべく、フロイトは無意識について考察を深めていく。

 まずフロイトは次のように言う。

「無意識のプロセスを研究しているうちに、意識は心のプロセスのもっとも一般的な特徴ではなく、その特別な機能の一つにすぎないという印象が生まれる。」

 つまり私たち人間を大きく拘束しているのは、実は意識であるよりも無意識なのだ。

 そこでこの無意識的な欲動を、人は何とか克服しようと様々な方法を(無意識的に)採用することになる。フロイトは言う。

「この拘束がうまくゆかないと、外傷神経症に似た障害を引き起こすことになる。拘束に成功した後に初めて、快感原則の支配(およびそれを現実原則に修正する作業)が妨げられずに貫徹されよう。」

 内的な欲動をうまくコントロールできるようになって、人は正常な快感原則や現実原則に従うことができるようになる。対してこれに失敗すると、人は異常な快感を求めたり、うまく現実になじめなくなったりしてしまう。そうフロイトは言うのである。

 さて、この快感原則をより根底で支える欲動を、初期フロイトは性欲動(リビドー)に見出していた。ところが後期になって、彼は次の驚くべき仮説を提示することになる。


3.死の欲動

 「死の欲動」(タナトス)がそれである。

 フロイトによれば、これは生命体である以上不可避的に持たざるを得ないものである。

「過去のある時点において、現在もなお想像できない力の影響によって、生命のない物質の中に生命の特性が芽生えた。〔中略〕最初の欲動が生まれた――生命のない状態に還帰しようとする欲動である。」

 生命は、できることなら、生命のなかったあの原始の頃に戻りたいと願うのだ。そうフロイトは言う訳だ。

 これは、検証することが決してできない、完全に仮説の域を出ない考え方だ。実際フロイト自身、次のように言っている。

「わたし自身がここに示された想定を信じているかどうか、またどの程度まで信じているかが問われることがあろう。わたしは、〈わたし自身はこれを信じていないし、人にも信じてもらいたいと考えているわけではない〉と答えざるを得ない。正確には、わたしがこれをどの程度まで信じているか、自分でもよくわからないのである。」

 しかしこの死への欲動を想定することで、様々な現象にうまく説明がつくようになる。そうフロイトは言う。

 つまり、様々な性倒錯は、性欲動と死の欲動のせめぎ合いとして考えることができるのである。

「性欲動は固有の生の欲動である。性欲動は、死に導く機能をもつ他の欲動の意図を阻むものであり、性欲動と他の欲動の間には対立関係が存在する。」


 こうしてフロイトは、「快感原則の彼岸」に死への欲動を見出した。「快感原則は実際には、死の欲動に奉仕するものと思われるのである」

(苫野一徳)


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