フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

はじめに

Edmund Husserl 1910s.jpg フッサール最晩年の著作。

 なぜ諸学問は危機に陥ったのか。そしてそれを、なぜ現象学が救うことができるのか。フッサールの筆が冴え渡る。 

 面白いのは、どのように自然が数学化、つまり、世界はすべて数値化できる、といった考えが発生してきたのか、仔細に明らかにしてる点だ。

 諸学の目的は、そもそも人間的生の意味をより深く理解し、よりよい生をめがけることにあったはずである。

 それが、数学化してしまった学問は、むしろ今日、人間的生の意味をないがしろにする方向へとその歩を進めている。

 学問の本質とその最も根本的な方法は、現象学によってこそ十全に解明される。

 諸学の原理としての現象学の本質が、本書では極めて明晰に論じられている


1.学問の危機とはなにか

 まずフッサールは次のようにいう。


「ここでいう危機とは、それぞれの個別科学の理論的、実践的成果を問題にするのではなく、その真理の意味の全体を徹底的にゆるがすような危機なのである。」

 つまり、科学が進歩していないとか、そういうことをいいたいわけではない。

「世界がその意味を得るところの『絶対的』理性への信頼、歴史の意味への信頼、人間性への、人間の自由への信頼が崩壊するのである。人間の自由とは、人間の個体としての存在、また普遍的人間としての存在に理性的意味を与えうるという人間の可能性にほかならない。」

 科学の進歩によって、世界はすべて数学的に説明できるという信憑が一般に広がった。

 そしてそのことが、われわれの生の意味というものを、侵すことになってしまった。

 つまり学問は、意味世界を排除し、絶対的に客観的な世界を説明するものとなってしまったのだ。

 このことは、たとえば一昔前の医療などをみてみればよくわかる。

 ある医者からみれば、病気の原因となっているものが根絶されることが科学的に正しいのだから、そこに患者の希望など聞き入れる余地はない。

 末期ガン患者が、別に完治を望みはしないから、せめて苦痛のない余生を送りたいと考えたとしても、それは医療の敗北を意味することになる、とある種の医者は思うかもしれない。

 これはある意味極端な例だが、学問というのは、多かれ少なかれ、こうした「客観性」を追及するあまり、人間的生というものをないがしろにしてしまう傾向がある。

 これこそが、フッサールのいう諸学問の危機なのだ。

 そもそもは人間的生をよりよくしたいという動機から生まれたはずの学問が、なぜ、真理それ自体をめざすようになったのか?(哲学的には、「真理それ自体」などというものはそもそもない。この点については、フッサール『イデーン』のページなどを参照されたい)。そうして、人間的生をないがしろにしてしまうことになったのか?

 フッサールはまずそのことを明らかにしようと試みる。


2.自然の数学化

「ガリレイ的な自然の数学化によって、新たな数学の指導のもとに、自然自体が理念化されることになる。現代的に表現してみれば、自然自体が数学的多様体になるのである。」
 
 近代科学の誕生によって、あらゆるものが数値化できるようになった。

 長さや重さだけでなく、それは匂いや明るさといったものにまで及ぶ。

 フッサールによると、われわれはこうして、自然というものはそもそも数学的法則に基づいてできあがっているものなのだ、という確信をもつことになった。

 フッサールは、その起源を測定術にみる。

 より正確な測定、より正確な測定、という欲望によって、(現代の科学をもってしても)絶対的な測定など実は不可能であるにもかかわらず、われわれの理性は、カントのページでもみたように、絶対的な地点を想定してしまうわけだ(カント『純粋理性批判』のページ参照)。そうして、自然それ自体は完璧な数学体系である、と考えてしまうわけだ。


 こうして、自然が完璧な数学体系であるとするなら、数値化できないものは一段劣ったものだという観念が生まれることになる。


 「生の意味」などの人間的価値は、こうして近代科学が隆盛をきわめて以降、ないがしろにされることになってしまったのだ。


 フッサールはいう。

「ガリレイは、発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもあるのだ。」
 

3.生活世界は学に先立つ

「生活世界は学に先だって、人類にとっていつもすでに存在していたし、それが学の時代になってもまた、そうした在り方をとりつづけてきたのである。」

 そもそも人間の必要に応じて世界を把握してきたのが学なのだから、われわれは、自然それ自体が絶対客観的なものとしてある、という自然主義的態度を、まずは生活世界へと還元する必要がある。

 それが本書におけるフッサールの最初の主張だ。

 客観的な世界それ自体などといったものはない。世界(自然)は、常に「生活世界」という土台の上に成り立っているのだ。

 さらにつきつめると、哲学的には、この生活世界はさらに「超越論的主観性」にまで還元される(現象学的還元)必要がある。

 しかしこの点については、ここでは詳論するのを控え、『イデーン』『デカルト的省察』のページを参照していただければと思う。


4.諸学問の危機をどう克服するか

 では現象学は、意味世界を捨象してしまった諸学問の危機を、どのように乗り越えるのだろうか。

 ポイントは「本質学」にある。(以下、『本質学研究』第1号に寄稿したコラムから一部改訂して引用)

 本質学とは何か。わたしなりにひと言でいうと、それは「意味世界」の本質を解明する学である。



 大ざっぱにいうと、わたしたちは、「事実世界」「意味世界」の二つの世界を同時に生きている。

 「事実世界」というのは、物を手放せば落ちるとか、DNAは二重らせん構造を成しているとか、人が恋愛している時には脳の腹側被蓋野が活性化しているとかドーパミンが分泌されているとかいった、文字通り「事実」の世界のことである。

 この事実の世界のメカニズムを明らかにするのが、科学(事実学)の仕事だ。そしていうまでもないことだが、科学は、自身の仕事が常に仮説であり続けるということを、たえず自覚していなければならない。

 その一方で、わたしたちは、世界を独自に意味づけ、味わいながら生きている。たとえば、事実の世界においては恋は化学物質によって説明できるかもしれないが、わたしたちは同時に、この恋のいわば人間的な“意味”を味わいながら生きているのだ。

 哲学の本領は、この「意味世界」の本質を明らかにすることにこそある。もっといえば、哲学とは、物事(意味世界)の本質を洞察することで、その諸問題を力強く解き明かす原理(考え方)を出す営みである。

 先の例でいえば、たとえば恋がわたしたちにとってもっている“意味”の本質は何かを洞察すること。あるいは、「よい社会」の意味本質を洞察すること。そしてそのことで、ではそのような社会はどのようにすれば実現可能かという原理(考え方)を提示すること。こうした「本質洞察に基づく原理の提示こそが、哲学の最も重要な本質なのだ。


 ところで、先にわたしは、わたしたちは「事実世界」と「意味世界」の二つを同時に生きている、といった。

 しかし原理的には、実は「意味世界」は「事実世界」に先立つものである。

 なぜなら、そもそも事実の世界とは、わたしたちにとって意味ある事実として立ち現れた世界であるからだ。

 わたしたちは、最も根源的には、つねにすでにわたしたちの意味世界を生きている。したがって、この意味の世界に捕えられないかぎり、どんな事実もそもそも事実として認識されない。

 もしもわたしたちが、恋愛に何の意味も見出していなかったなら、恋愛現象の事実などというものは存在しない。ニーチェが言うように、「まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」であり、「事実がありうるためには、一つの意味がまず置き入れられていなければならない」のである(『権力への意志』)。その意味で、意味の世界(本質学)はつねに事実の世界(事実学)に先立つのである。

 にもかかわらず、フッサールがいうように、現代学問は事実の世界が意味の世界と独立して実在していると思い込み、長い間意味の世界をないがしろにしてきてしまった。

 その理由は、一つには、フッサールがいうように、事実学が事実学としてきわめて大きな成功をおさめてきたからだ。現代科学の目覚ましい進歩が、わたしたちに、むしろ意味の世界を軽視させることを可能にしてしまったのだ。

 しかしそのことが、気づいてみれば学問の危機をもたらした。そうフッサールは訴えた。そしてその深刻さは、今なお、彼の時代とあまり変わらないように思われる。

 わたしたちは時として、何のための科学かというその意味の“本質”を見失い、ただ科学技術の発展にのみ心を奪われてしまうことがある。

 社会科学も同様、たとえば教育学は、そもそも何のための教育かというその意味の“本質”を探究することを、長い間怠ってきた。

 経済学もまた、少なくともつい最近までは、そもそも何のための経済学か、どのような経済システムなら「よい」といえるのかといったその“本質”を十分探究することなく、多くの場合、今ある経済活動の分析――すなわち事実学――に終始してきた感がある。

 しかし、あらゆる「事実」は、繰り返すがつねにすでに「意味の世界」において成立するものなのである。現代学問は、今、本質学という学問の最も根本に敷かれるべき底板を、失ってしまっているのだ。

 それゆえわたしたちは、本質学としての哲学を、もう一度根本からやり直す必要がある。

 たとえば、よりよい社会の本質、教育の本質、幸福の本質……。探究すべきテーマは数限りない。フッサールの言葉を借りれば、わたしたちの眼前には「無限の領野が広がっている」のだ。


 これら「意味の世界」の本質を探究すること、そしてそのことで、諸事実学の成果をさらに活かせるような学問的土台を築くこと。それこそが、本質学、すなわち哲学の本質なのである。

 こうした本質学の営みに支えられた時、「ヨーロッパ諸学の危機」は克服されるだろう。

 フッサールはそう考えたのだ。



(苫野一徳)



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フッサール『デカルト的省察』





はじめに

Edmund Husserl 1910s.jpg パリでの講演をもとにした、フッサール晩年の著作である本書では、『イデーンⅡ』でも展開された、間主観性他我についてが論じられている。

 後期フッサールは、『イデーン』などの中期から大きく変化した、とたまにいわれる。形而上学へ近づいたとか、独我論を抜け出すために間主観性という考え方を提示したとか、そんな風にいわれているようだが、実はそんなことはまったくない。

 彼のモチーフは、終始一貫、認識論を徹底させて認識論の難問を解消することにあった。エポケーと現象学的還元という重大な方法によってそれが可能であることを示したフッサールは、ただひたすら、その精度を高めようと、あれこれ偏執的なまでに細かく細かく論じ続けていたにすぎない。

 ハイデガーとは違い、形而上学に近づいたことなど一度もないし、方法的独我論を捨てて間主観性へと逃避したというようなことも決してない。

 本書を精読すれば、そのことがわかるはずだ。

 そして相変わらず、この真摯に真剣に哲学する男の姿は、度外れてかっこいい。


1.新デカルト主義

「たとえ超越論的現象学が、まさにデカルト的な動機を徹底して展開するために、デカルト哲学のよく知られている学説全体をほとんど拒否せざるをえないことになろうとも、この超越論的現象学を、新デカルト主義と呼ぶことができる。」

 フッサールがデカルトの方法を哲学上の偉大な出発点として評価していたことは、『イデーン』でもみた(フッサール『イデーンⅠ』のページ参照)。

 それは、デカルトの見出した決して疑い得ないコギト(我)という考え方が、確かに誰もがそうだと納得せざるを得ないほど、原理的なものだったからだ。

 デカルトの過ちは、しかしこの「コギト」を、絶対的な「実在」「実体」としてとらえてしまったところにある。『イデーン』でも、フッサールはそのように言っていた。

 この過ちを徹底的に訂正し、もう一度デカルトのモチーフをさらに原理的なものとして鍛え上げる。それが本書におけるフッサールの目的だ。



2.第1省察 超越論的我への道

 誰もが疑い得ない原理、これをフッサールは必当然的(アポディクティッシュな)明証という。

 これは絶対的「真理」という意味ではない。これまでカントのページでも『イデーン』においてもみたように、われわれにはそれは決して把握しえないのだ(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 したがって、絶対的「真理」ではなく、誰もがそうだと言わざるを得ない、疑い得ない原理を見出すこと。そうした明証は、

「少なくとも認識可能で疑いの余地がない内容を、すなわち、疑いの余地がないがゆえに断固として絶対的に確実な存在内容を、持っているはずである。」

 ちなみに、フッサールは「絶対的」とか「純粋」とかいう言葉をよく使う。それが、結局現象学は形而上学だという批判を浴びる原因のひとつになっているのだが、彼の言わんとしていることをしっかりと読み取れば、まったく的外れな批判であることが理解されるはずだ。


3.第2省察 超越論的な経験の場を、その普遍的構造にしたがって開示する

「およそいかなる意識体験も、それ自身で何ものかについての意識である。」

 これを志向性という。

 『イデーン』のポイントを思い出してみよう。

 われわれは、世界が絶対的に実在するかどうか、どこまでも疑いうるのだった。だからこそ、世界それ自体の実在は、一度括弧に入れる(エポケー)必要がある。

 そうしてみると、世界のすべては「私」にとって現われ出た「確信」「現象」であることがわかる。

 この「確信」の成立する場が、超越論的主観性と呼ばれ、一切をこの超越論的主観性に還元することを、現象学的還元という。

 さて、以上のように、一切はこの超越論的主観性における確信構造であることがわかったが、ではこの確信は、本質的にいかなる構造をもっているだろうか。

 フッサールはそれに、志向的に、という答えを与えるのだ。

 超越論的主観性の意識は必ずある対象(コギタートゥム)を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に相関的に現象している。

 たとえば目の前にグラスがある。

 このグラスそれ自体の実在性はエポケーされているから、現象学においては、この存在はわれわれの「確信」として捉え直される。

 ではこの「確信」はどのような構造をもっているか。

 それはハイデガー的にいえば、われわれがどのような「視」を向けるかによって変わってくる(ハイデガー『存在と時間』のページ参照)。

 上から見れば、丸く見える。横から見れば、長方形に見える。触ってみれば、重さも感じる。

 このように、グラスはそれ自体として存在しているのではなく、常にわれわれの志向性に相関的に認識されているわけだ。



4.第3省察 構成に関わる問題圏。真理と現実

 第3省察は、前の続きのようなものだ。

 絶対的真理という考えは背理だ。われわれの現実は、超越論的主観性によって志向的に構成されているのだ。

 だからこれがどのようにして構成されているかを分析しよう。それが超越論的構成の分析という課題である。

「それは、非常にはっきりした課題であり、精確な意味での、存在する対象の超越論的構成という課題である。」


5.第4省察 超越論的な我自身の構成という問題の展開

 そこで、まずその構成された構造を明らかにしなければならないものは、「自我」である。

 この場において、一切が構成されているからだ。

 ところで、このブログでも、デリダ『声と現象』におけるフッサール批判について紹介・解説しているが、その批判のポイントは、絶対的な「今」「ここ」などそもそもありえないということだった(デリダ『声と現象』のページ参照)。

 しかしこれは、実はまったく的外れな批判である。



 フッサールは、「実体」としての超越論的主観性を論じたのではない。われわれがいつでもある確信構造をもっている以上、その確信を成立させる場を「超越論的主観性」と名づけただけであって、これが世界内に実在するなどとはひと言も言っていない。



 確かに、「今」「ここ」の私が、次の瞬間もまったく同じ私であるかどうかはわからない。

 しかしそれでも、そう確信しているのは、「今」「ここ」の私であると言うほかない。

 ではこの「私」は、どのようにして「私」と確信されているのだろうか。それを現象学的に分析してみよう。

 フッサールが言っているのは、そういうことなのだ。

 そうして取り出した構造が、習慣の積み重ねや、豊かな具体性、といった形で提示されている。

 この豊かな具体性を伴った自我を、フッサールはモナドとしての具体的な我と呼ぶ。

 たとえばこういうことだ。

 お腹が痛い。ずっと痛い。いつまでも痛み続ける。

 この連続性という具体性が、私の連続性、つまり私の同一性を確信させる。

 このような経験の具体性が、「私」といったものの存在を確信させるわけだ。

 こうしてフッサールは、超越論的主観性の構造を分析することが現象学の重要な課題であるというのだが、私の考えでは、それはハイデガー現存在分析として見事に結実している。

6.第5省察 超越論的な存在の場をモナドの関主観性としてあらわにする

 第5省察で、フッサールは間主観性他我の問題を取り上げる。

 エポケーと還元を施された今、「他者」の実在は「括弧に入れられ」、今やそれは超越論的主観性における「確信」となっている。

 ではこの「他者」は、どのようなものとして確信されているのだろうか。

 フッサールは手始めに、「他者」とは関係のない、「私」に固有なものを見出そうと試みる。

 そうして見出されたものが、己の身体だ。

 フッサールによれば、他者の存在は、この己の「身体」との類比からまず確信される。そして「私」は、「他我」が自分と同じように現存在していることを確信する。

 そのような「他我」は、大変に重大な意味をもった存在だ。

 なぜなら、この「他我」が、われわれのあらゆる存在確信に大きな影響を及ぼすからだ。

 フッサールは次のように言う。

「私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻って来ることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには、他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。」

 これは「知覚」においても言えることだが、よりわかりやすいのは「意味」の領域だろう。

 われわれは、あらゆる物事にいつも「意味」を捉えている。

 しかしこの「意味」構成は、他者の捉えた「意味」が大きく影響してくる。

 たとえば、私個人の原初的感覚として、「この人美しいかも」と思ったとする。周りの意見を聞いてみると、皆、「この人はとても美しい」と言う。すると、ますます自分はその人を美しいと思うようになる、といった具合だ。

 他者だけが、超越論的主観性に絶大で特別な影響を与える存在者なのだ。

 だからこそ、フッサールは間主観性の重要性を説くわけだ。

「それは、言うまでもなく、純粋に私のうち、つまり省察する我うちで、純粋に私の志向性という原泉から、私にとって存在するものとして構成される。にもかかわらず、それは(「他者」という変様をもった)それぞれのモナドのうちで、異なる主観的な現出の仕方をもちながらも、同じものとして構成される。しかも、同じ客観的世界を必然的に自らのうちに担ったものとして構成されるのである。」

 だからこそ、超越論的主観性におけるあらゆる確信構造を記述する上で、間主観性の分析は特別な意味をもつわけだ。

以上のようにして、フッサールは、現象学の重要な課題として、
超越論的主観性の志向的分析と間主観性の志向的分析を挙げた。

 前述したように、私の考えでは、この課題はハイデガーの『存在と時間』によって、見事に果たされることになる。


(苫野一徳)


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