キルケゴール『死にいたる病』

はじめに

 実存主義の祖といわれるキルケゴール。

 激しいキリスト教への信仰心と罪への恐れ、そして、レギーネ・オルセンとの熱愛、婚約、しかし原因不明の一方的婚約破棄

 彼の著作のほとんどは、この2つの経験への「執着」をモチーフに、ひたすら自己について考え続けたものばかりだといっていい。

 キルケゴールの父は、自分の成功はいつか神から罰されるに違いない、という恐怖を抱き続けていたらしい。キルケゴールもまた、この気質を受け継いでいる。

 この徹底した自己の問題(=実存)へのこだわりが、しかし新たな思想潮流、すなわち実存主義の土壌を築いた。

 キルケゴール以前の哲学、とりわけヘーゲルの哲学は、人間と絶対者の関係を、いわば絶対者の側から考えるものだった(と一般にはいわれている。わたし自身は、それはヘーゲル哲学の半分に過ぎないと考えている。詳細はヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』などのページを参照されたい)。

 それに対してキルケゴールは、人間それ自体、つまり実存の内面を、深く深く反省して考察しようという態度を貫いた。ハイデガーサルトルなど、その後の哲学者たちに与えた影響ははかり知れない。


1.関係存在としての人間

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。

 有名な冒頭の言葉だ。

 要するに、人間とは己をたえず意識している存在であり、そしてまた、その意識しているということを意識している存在である、ということだ。

 そしてまた、人間は他者との関係存在でもある。

「人間の自己は自己自身への関係において同様に他者に対して関係するところの関係」である。

 そして言う。わたしたちの絶望は、ここに存するのだと。


2.絶望

「絶望者は何かについて絶望するようにみえるが、本当は自己自身について絶望しているのであり、そこで自己自身から脱け出ようと欲するのである。これがあらゆる絶望の定式である。」

 絶望の本質、それは何かの対象について絶望しているのではなく、自分自身について絶望しているという点にある。

 自分に対する、そして他者に対する関係存在である自己自身が、その関係性がうまくいかない、そういう自分に対して絶望するのだ。

 たとえば、こうありたいという自分との関係がうまくいかない自分。

 人とこうかかわりたいと思う自分との関係がうまくいかない自分。

 絶望とは自分自身についての絶望にほかならないのだ。

 ではわたしたちは、この絶望からいったいどのように逃れ出ることができるのだろうか。キルケゴールはいう。

「誰かが気絶した場合には、我々は水やオードコロンやホフマン氏液を持ってくるように叫ぶ。だが誰かが絶望せんとしている場合には、「可能性を創れ!可能性を創れ!」とわれわれは叫ぶであろう、可能性が唯一の救済者なのである。」


3.絶望は罪である

 キルケゴールによれば、「絶望は罪である」。この辺り、キリスト教を心から信仰する者でなければ共感することは難しい。

「罪とは、人間が神の前に絶望的に自己自身であろうと欲しないことないし絶望的に自己自身であろうと欲することの謂いである。」

 とはいえ、キルケゴールの激しい思いが伝わる、感動的な箇所であるともいえる。


(苫野一徳)



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エンゲルス『空想より科学へ』

はじめに

 サン・シモンフーリエオウエンらを空想的社会主義者と呼び、自身とマルクスの社会主義こそが、歴史の展開と現代の問題を科学的に捉えた、現実的な社会主義であると主張した本書。

 本書におけるエンゲルスの主張は、ざっと次のようである。

 歴史とは、経済的条件を基礎にした階級闘争の歴史である。現代において、それは資本家労働者階級の間の闘争となって現れている。そしてわれわれは言う。プロレタリアートが資本主義国家を死滅させ、計画経済をもたらす日は近いはずである、と。いや、われわれはそのような社会を、自ら目指さなければならないのである。

 こうしたマルクス主義の主張、あるいは夢は、現代ほぼ崩れ去ってしまったと言っていいだろう。さらにまた、エンゲルスが本書において言う弁証法的唯物論も、かなり狭隘な歴史決定論として批判されている。

 しかしそれでもなお、私たちは、マルクスやエンゲルスが鋭く捉えた資本主義の問題を、今なお忘れ去ってしまうわけにはいかないだろう。時代の大問題に真正面から立ち向かったマルクスやエンゲルスの精神を、われわれは十分受け継ぎ、そしてより原理的なものへと深めていく必要がある。


1.空想的社会主義批判

 本書において、まずエンゲルスは、サン・シモンフーリエオウエンといった社会主義的思想家たちの偉業を称えながらも、それはまだ空想的社会主義であったと言って批判し次のように言う。

「こういう社会主義を一つの科学とするためには、まずもって、それを現実の地盤の上にすえねばならない。」

 ではその「現実の地盤」とは何か。


2.弁証法的唯物論

 エンゲルスによれば、それは弁証法的唯物論である。

 歴史は弁証法的に(階級闘争によって)進展していく。これがエンゲルスの基本テーゼである。

 そして言う。その下部構造、つまり弁証法的な歴史の展開を下で支えている構造は、経済である。

「従来の一切の歴史は、原始時代を除けば、階級闘争の歴史であったことがあきらかになった、そしてこの闘争しあう社会階級は常に生産と交換関係の、一言でいえばその時代の経済的諸関係の産物であること〔中略〕があきらかになった。」

 歴史とは階級闘争の歴史である、そしてそれを支えてきたのは経済的条件である、というテーゼは、マルクス主義の根本思想である。

 しかし、歴史は確かにかなりの程度そのように言うことは可能だが、それだけが歴史の唯一の捉え方と言う訳にはいかないだろう。

 すでにマルクス主義華やかなりし頃から、たとえばヴェーバーは経済原理に回収されない歴史のあり方を示していたし、歴史決定論を忌避するプラグマティズムなども、マルクス主義には一定の対立姿勢や距離をとっていた(ヴェーバー『客観性論文』デューイ『自由と文化』等のページ参照)。そして今日では、マルクス主義的な弁証法的唯物論を完全に信奉する者は、あまりいなくなったと言っていいだろう。

 弁証法的唯物論は、確かに一つの説得的な歴史観ではある。しかしこれを、絶対的な科学的真理だと言ってしまうことは不可能だ。歴史観は多様であって、絶対に正しい真理としての歴史を決定することなどできないのである。

 ともあれエンゲルスは本書において、自らの、そしてマルクスの社会主義こそが、科学として真理をもたらすものであると訴えた。彼は再び、かつての空想的社会主義を批判して次のように言う。

「従来の社会主義は、現存の資本主義的生産方法とその結果とを批判はしたけれど、彼らは、それを説明できず、したがって、それをどうすることもできなかった。ただそれを悪いと非難するだけであった。」

 しかし、とエンゲルスは言う。しかしマルクスは、資本主義のいったい何が問題であるのかを、科学的に解明したのであると。

「このことは剰余価値(Mehrwert)の暴露によって成しとげられた。これで、不払労働の取得こそ資本主義生産方法とそれによって行なわれる労働者搾取の根本形態であることがわかった。」

 『資本論』のページでも見たように、マルクスによれば、資本主義の生産システムにおいては、資本家が労働者を搾取し、労働者に払う賃金よりはるかに多い剰余価値を必然的に手中に収めることになる。これが、資本家はますます富み、労働者はますます貧しくなる基本構図である。マルクスはそのように言っていた。

 エンゲルスによれば、これこそがまさに資本主義の問題の科学的解明である。エンゲルスは続ける。

「この二大発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、われわれがマルクスに負うところである。社会主義はこの発見によって一つの科学となったのである。」

 歴史は経済条件を基礎に階級闘争を通して展開していくということ、そして現代の問題は、資本家による労働者の搾取であるということ。この2つが明らかになった今、われわれは歴史の歯車を大きく動かす道へと、自らを向かわせることができるようになるはずである。

 これがエンゲルスの考えだった。


3.計画経済へ

 資本家と労働者の対立が先鋭化すれば、プロレタリアート(労働者階級)はもはや黙っていられなくなるだろう。エンゲルスは言う。

「資本主義的生産方法は人口の大多数をますますプロレタリアに転化する、彼らは、みずから没落を免れるためには、どうしてもこの方法の変革を成就せざるをえない力である。」

 彼らはやがて、資本主義国家を打ち倒すことになるだろう。

「国家がいつの日か社会全体の本当の代表者となるならば、そのとき、それは無用物となる。」
「国家は『廃止』(“abschaffen”)されるのではない、死滅する(absterben)のである。」

 ではわれわれはどのような社会を作るべきなのか。エンゲルスは言う。

「社会的生産の内部における無政府状態にかわって計画的意識的な組織があらわれる。個人の生存競争は消滅する。かくしてはじめて人間は、ある意味では、動物界から決定的に区別され、動物的生存条件を脱して真に人間的なそれに入る。」

 計画経済によって、獲物を奪い合う動物的な人間存在は消滅し、各人が十分に満ち足りた世界がやって来る。エンゲルスはそう考えたのだ。

「それは必然の王国から自由の王国への人類の飛躍である。」

 現代においては、それこそ空想的(ユートピア)ではないかと批判されることだろう。そしてそれは、確かにその通りだと言うほかない。

 しかし冒頭でも言ったように、それでもなお、私たちは、マルクスやエンゲルスが鋭く捉えた資本主義の問題を、たとえその解決策が過激に過ぎたとしても、今なお忘れ去ってしまうわけにはいかないだろう。時代の大問題に真正面から立ち向かったマルクスやエンゲルスの精神を、われわれは十分受け継ぎ、そしてより原理的なものへと深めていく必要がある。

(苫野一徳)

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クルプスカヤ『国民教育と民主主義』

はじめに

 レーニンの妻としても知られるクルプスカヤ。

 夫と共に、共産党創立のために力を尽くした革命家だ。

 本書は、社会主義の視点からみた教育思想小史と言える。

 ルソーペスタロッチオウエンらの思想をたどり、フランス革命後の教育政策を吟味しながら、しかしこれら運動は、資本主義の前に敗れ去ってしまったとクルプスカヤは言う。

 資本主義は、資本家による労働階級の搾取という非人間的な制度である。これを打ち破り社会主義を達成するためには、労働階級が教育によって社会改造のための力を養わなければならない。

 必要なのは、労働階級の底力を上げうる労働学校なのだ。

 今となっては懐かしい響きすらする言葉だが、社会における教育の重要性を、改めて思い出させてくれる著作と言えるだろう。


1.国民教育という課題

「以前にはなにも関心を持たれず、野原に草がはえるように生きていた人民大衆が舞台の上にでてきて、かれらの貧困と無知とがすべての人の気になった。「人民」について語りはじめた。はじめて人民大衆を啓蒙しなくてはならぬという問題がおこり、はじめて国民教育の問題がおこった。」

 近代の革命は、王政を倒し、人を「自由」で「平等」な存在たらしめた。しかし教育を受けることができなければ、結局人民は再び権力に従属する人間になってしまう。

 そこで国民教育の必要性が叫ばれるようになった。

 しかし、この課題に、ペスタロッチオーエンコンドルセと言った教育(思想)家たちが尽力したにもかかわらず、彼らの運動は結局うまくいかなかった。

 なぜか。そのことを教育思想史的に明らかにすることが、本書の課題だ。



2.ルソー:総合技術教育の必要性

 まずクルプスカヤは、近代教育思想の父とも言うべきルソーの思想を吟味する。

 彼女によれば、ルソーはいちはやく、総合技術教育の必要性を訴えていた。専門的な職業への準備ではなく、あらゆる職業に通底する、総合的な力を育成することの必要性である。

「ルソーは、総合技術教育を評価し、職業教育より高くおいている。それというのは、(1)総合技術教育は、どの職業にたいしても準備すること、(2)それは生徒の知的な見解を広くし、全体を把握し、各部分の関係を正しく評価させること、(3)労働の上に築かれた社会的な諸関係を評価するための正しい尺度となること、(4)それは現存する社会秩序についてほんとうの理解を得させること、だからである。」

 この発想を、クルプスカヤは高く評価する。来るべき経済社会、労働社会において、人は、どのような職業にでも就けるよう準備しておく必要があるからだ。



3.ペスタロッチの失敗

 続いてクルプスカヤは、民衆・貧民教育の父とも言うべき、ペスタロッチの思想を吟味する。

 ペスタロッチもまた、総合技術教育を重視した。貧民たちが貧困から脱することができるようになるためには、労働力を身につける必要があると考えた。

「ペスタロッチが説く教育は、勤労大衆の要求と密接に結合していて、その要求からでている。教育は、労働にたいする全面的な適性の発達にあり、教育は、実生活と密接に結合し、肉体的な精神的な力を発達させる手段を生活の中から汲み取るのである。」

 そこでペスタロッチは、教育を労働的生活と密接に結び合わせ、子どもたちが学びながら生活費を稼ぐことができる、そのような教育を志向した。

 しかしそれは大いなる誤謬であった。と、クルプスカヤは言う。

 近代資本主義の草創期にあって、ペスタロッチは、まだその恐ろしさを十分認識していなかったのだ。

「ペスタロッチの時代は、主として、家内資本主義的工業が圧倒的であり、子どもの搾取は、その頂点に達していた。このような諸条件のもとで、子どもたちの労働が、かれらの生活費を全部まかない、その上あまりがでるなどと希望することは、まったくのユートピアにすぎない。」

 どれだけ労働しても、資本主義社会において、その成果は資本家に搾取されてしまう。
それが資本主義の根本問題であり、このことに、ペスタロッチは気がつかなかったのだ。



 結局ペスタロッチの教育は、資金難により失敗してしまう。



3.ロバート・オーエン

 さて、オーエンにまで至ると、問題の本質は少しずつ鮮明になってくる。そうクルプスカヤは言う。

「ペスタロッチは、主として子どもの労働条件の変更(かれが理解していたような教育)によって、民衆を救うことができると考えていた。ロバート・オーエンは、民衆を助けるのはただ社会諸関係の全般的な変革のみであるとしている。」

 ただただナイーブに、教育と労働を結び合わせればいいというわけではない。子どもたちを過酷な労働から守り、ちゃんと勉強できる環境用意しなければならない。

1826年、ニューラナークの自分の所で、オーエンは幼児のために最初の保育所を開いた。保育所は、一日中工場に雇われている母親が、自然の気まぐれに子どもたちをまかせないでもいいようにし、子どもたちの精神的な肉体的な力を調和的に発達させるのに都合のよい条件のもとにおくことにした。」



4.上記教育家たちの失敗の理由

 しかし結局、彼らの試みは失敗に終わった。それはなぜだったのか。

 一言で言えば、それは、国民教育が資本家の食い物にされたから、ということになる。
 
 資本家は、ただ黙っておとなしく労働に従事する、そのような国民を求めたのである。

「19世紀の資本主義的工業の技術は、職人のもっているような熟練労働にたいする試用をせまくし、単純な、熟練していない労働にたいする需用を大きくした。全工程をよく理解している有能な、創意のある、自主的な労働者ではなくて、おとなしい、よく仕事をする、学力のない人夫が必要だった。かれらには特別な肉体の力も、想像力も、技術も要求せず、ただ正確さ、我慢強さ、忍耐力、根気を要求した。」



5.労働学校による社会改造へ

 しかし時代は変わりつつある。そうクルプスカヤは言う。
社会が、ただ機械のように働く労働者だけでなく、創造的労働者を必要とし始めたからだ。このニーズは、やがて労働階級一般の底力を上げていくはずである。

「熟練した労働者にたいする需用が増大するにつれて、技術的な教育をうけた労働者の仲間が多くなり、技術教育は特権的なものから、だれでも手にし得るものになるであろう。それは労働階級の一般的な知性を向上し、かくして、現制度を社会主義制度へ改造する手段となるであろう。」

「労働階級のみが、労働学校を『現社会を改造する武器』にすることができるのである。」

(苫野一徳)



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