レヴィナス『全体性と無限』

はじめに

 命をかけて、真に思想することに立ち向かった思想家。そう言っていいかも知れない。

 レヴィナスは、20世紀の人類の悲劇を、自らに精一杯引き受けて言葉をつむぎ続けた人だ。

 ユダヤ人として、ナチスの恐怖を体験した。レヴィナスの親族は、ナチスによって殺された。

 暴力の真髄を知り尽くしたからこそ、暴力を絶対的に不可能にする思想を、作り上げたかったのだろう。その深いモチーフは、読者を魅了せずにいられない。

 レヴィナスの思想は、現代倫理思想の一つの金字塔と言っていいだろう。考えうる限りの人間の悲劇を知ったわれわれの時代、レヴィナスの思想には、力強く訴えてくるものがある。

 もっとも、彼の思想は非常に難解だ。その核心を、どれだけの人がつかみ得ているだろう。その難解に過ぎる言い回し、独特の術語、文学趣味に過ぎるレトリックが、かえってその魅力を増しているとさえ言えるだろう。

 しかし、レヴィナスの思考モデルとも言うべきある「型」さえつかんでしまえれば、本書はさして難しいものではない。そして言ってしまえば、この浩瀚な書物は、実はただ同じことを、ひたすら言葉だけ難解に、あの手この手で説いているだけだとすら言っていい。

 その「型」とはつまり、〈他者〉は私に回収されることが絶対に不可能な存在である、ということだ。

 独特の、〈分離〉〈渇望〉〈顔〉〈他者を迎え入れる〉等々の術語も、全部そのことをいろんな側面から言い直しているに過ぎない。

 そして私は、レヴィナスの倫理思想は、哲学としては、残念ながら徹底した原理性を欠いたものなのではないかと言いたいと思う。

 レヴィナス自身、彼の思想は「形而上学」だと言っている。形而上学とはつまり、検証不可能な物語のことだ。

 〈全体性〉においてすべてを統一しようとしてきたそれまでの哲学に対して、そこには回収されない〈無限性〉があるとして、レヴィナスはその絶対的優位を説いた。

 精神的態度としてなら、いかにも立派な態度と言うほかない。ありていにいえば、それは〈他者〉を絶対に大事にしましょうということだ。

 しかしほんとうに、〈他者〉は絶対の無限性か。私たちはほんとうに、レヴィナスがいうように、どのようなときにも殺人を自らに禁ずることができるだろうか。

 ほんとうに力強い倫理思想は、スローガンのごとく、他者を大事にしましょうなどとは唱えない。そもそもにおいて、他者は無限であるなどとは論じない( もっともレヴィナスはこのことを論証しようとしているのだが、私にはそれが成功しているとはとても思えない)。

  どのような条件において、われわれは豊かな他者関係を築けるか。力強い哲学は、いつもそうして、現実的に、そして具体的に思考してきた。


1.本書のテーマ

「本書は、こうして、〈他者〉を迎えるものとして、として主体性を提示することになるだろう。他者を迎えいれる主体性において、無限なものの観念が成就されている。」

 一切を統一する全体性の概念に対して、決して全体性に包括され得ない〈無限なもの〉を対置すること。これが、レヴィナスの一番の主眼だ。

 無限なものとはつまり、〈他者〉のことだ。そしてこの〈他者〉は、私が〈他者〉を迎え入れる、という、主体性によって成就されなければならないものだ。

 要するにレヴィナスは、単に絶対的な〈他者〉がいると言いたいわけではない。われわれが、われわれ自身として、つまり主体として、主体的に、〈他者〉を迎え入れることを要請するのだ。

 本書が言いたいことは、ただそのことだけだと言っていい。


2.渇望

「〈渇望〉とは絶対的に〈他なるもの〉への渇望である。充たされる飢え、癒される渇き、鎮められる官能の外部で、形而上学はそうした充足を超えて〈他なるもの〉を渇望する。」

 この絶対に〈他なるもの〉と〈私〉との関係を、レヴィナスは〈渇望〉という。

 〈他なるもの〉は決して〈私〉に理解され把握され回収され得ないのだから、〈私〉にできることはただそれを〈渇望〉するだけだ、というわけだ。

 この〈渇望〉においては、殺人はもはや不可能なものとなる

「〈渇望〉のなかで、権力、その本質からして〈他者〉を殺害する権力が、〈他者〉をまえにし『いっさいの常識に反して』殺人の不可能性、〈他者〉に対する配慮に転じ、つまり正義に転成するのである。」

 いかにして人は殺人を不可能なものたらしめられるか。レヴィナスはこの問いに、そもそも〈私〉は〈他者〉を〈渇望〉する存在なのだ、という形で答えようとした。


3.正義

 このように〈他者〉を〈渇望〉する存在である〈私〉は、もはや自らの自発性から正義を語ることができない。そうレヴィナスは言う。暴力をなくすためには、自発性を敗北させなければならない。

「自発性の敗北からだけ、暴力にくつわをはめ、人間関係のさまざまに秩序を導入する必要が生じるはずだ。それなのに政治の理論は自発性を異論の余地がない価値と考えて、そこから正義を引き出そうとする。」

 レヴィナスの代替案は、次のようになる。

「〈他者〉を迎えいれること、道徳的な意識のはじまりこそが、私の自由を問いただす。」
 
 正義は、それまでの政治理論が論じてきたように、相互に承認し合うとか、対等原則を遵守するとか、そのような生易しいところには存しない。正義は〈他者〉を迎え入れるところにあるのだ。そうレヴィナスは主張する。


4.享受

 次なるレヴィナス独自の術語は、〈享受〉だ。

「~によって生きることは自存性そのものをえがきとり、享受とその幸福の自存性をえがきとっている。」
「究極的な関係とは享受であり、幸福なのである。」

 私たちは、私たち自身として絶対的に存在しているのではない。われわれは、われわれの全体性へと、一切を回収することができない。

 だとすれば、われわれは必ず、何かによって生きている。無限なるものによって生きている。

 レヴィナスはこの無限なるもの、つまり〈他者〉は、〈私〉とは絶対に〈分離〉したものだと言う。回収され得ないのだから、絶対に〈分離〉していると言うしかないわけだ。しかしだからこそ、われわれはこの無限なるものを渇望し、そしてこれを享受しているのだ。この享受を、レヴィナスは「糧との関係」と言ったり、これ自体が「幸福」であると言ったりする。

 自らの思想に厚みと深みを与えるレヴィナスの言い回しは、なかなかに凝っていて魅力的だが、しかし私には、ちょっとぐちゃぐちゃ言い過ぎな気がしないでもない……。


5.表象批判

 さて、レヴィナスはここで、彼の師フッサールを批判する。

 フッサール現象学によって、われわれは、絶対客観は決して把握することができず、一切は超越論的主観性に立ち現れた「確信」としてとらえるほかないことが明らかにされた。したがってこの「確信」として立ち現れた現象は、われわれによって、表象として構成されたものといってよい。

 レヴィナスはこれを、〈他〉を〈私〉に回収することであるとして批判する。

「了解可能性、つまり表象されるという事実は、〈他〉が〈同〉によって規定されるという可能性にほかならない。そのさいしかも、〈他〉は〈同〉を規定することがなく、〈同〉のうちに他性をみちびきいれることもない。それは〈同〉の自由な遂行である。」

 そして彼は、表象の志向性に対して、享受の志向性という概念を置く。

「私を支えている大地は、なにが大地を支えているのかをそもそも知ろうとするような不安を抱かせることもなく私を支えている。」
「それらのほうこそ私を基礎づけているのである。私はそうしたものを、考えることもなく迎えいれている。私はこの世界を享受している。」

 一切のものが表象として構成されているはずがない。そうレヴィナスは言うわけだ。

 私たちは、大地によって支えられているように、無限なものを享受している。

 しかしこれは、フッサールが批判した「自然的態度」の次元の議論に過ぎないだろう。詳しくはフッサールのページを見ていただきたいが、ほんとうに大地が私たちを支えているのか、ほんとうに私たちが世界を享受しているのか、それは懐疑可能なものだ。認識論を徹底するためには、懐疑可能なものはエポケーする必要がある。それがフッサールの洞察だった(フッサール『イデーン』のページなど参照)。いち早くフランスに現象学を輸入したレヴィナスにも、そのことは十分分かっていたはずだ。


 志向性によって構成されるのではない無限性の領域を、彼はなんとしても確保したかったのだ。


 その動機が、認識論的にいって彼の議論から説得力を欠かせることになった。私はそう思う。


6.応答可能性(責任)としての私

 こうしてレヴィナスは、絶対的な無限性である〈他者〉の前の〈私〉を、次のように定義することになる。

「語りにおいて私は〈他者〉からの問いかけにさらされ、応答することを迫られ――現在の鋭い切っ先によって――私は、応答することの可能性〔責任〕として生みだされる。」

 レヴィナス以来、倫理思想の一つのキーワードとなった、応答可能性の概念である。


7.顔

 ここで有名な〈顔〉の概念が登場する。絶対に分離された〈他者〉の、象徴的な言い方だと考えていいだろう。

「顔は、内容となることを拒絶することでなお現前している。その意味で顔は、理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである。」

「顔はそれ自体で意味し、その意味作用は意味付与(Sinngebung)に先行している。意味あるふるまいはあらかじめ顔の光のうちに浮かび上がるのであり、顔は光がそのうちで見られる光を拡散するのである。顔について説明する必要はない。顔から、いっさいの説明は開始されるからである。」


8.エロスによって顔のかなたへ

 さて、レヴィナスの思想はここでますます独自性を増していく。

 重要概念が、〈エロス〉だ。

「秘められたものと覆いをとられたものとが同時に存在することがほかならぬ冒瀆を定義する。冒瀆はあいまいさのうちにあらわれる。そうはいっても、冒涜があいまいさを可能にする――あいまいさとは本質的にエロス的なものである――のであって、その逆ではない。」


 通俗的に言えば、秘められているからこそ覆いをとりたいと思うのだ。それがエロスの本質だ。こんな風に通俗的に言えばいいものを、レヴィナスの表現は実にもったいぶっている。もっとも上のような言い方だと、作品全体の雰囲気を壊してしまうからなのだろうけれど(ちなみにこの点については、「禁止と侵犯」をエロティシズムの本質として描き出した、バタイユ『エロティシズム』のページなども参照のこと)。

 このエロスは、対象を単に志向的に構成するようなものではない。志向性ではなくて魅惑なのだ。

「だから〈エロス〉はいっさいの投企、すべてのダイナミズムも超えた魅惑であり、根底的に慎みのないものなのである。それは冒瀆なのであって、光をはなち、意味するものとしてすでに現実存在しているものの開示なのではない。〈エロス〉はこうしで、顔のかなたにおもむく。」

 レヴィナスはどこまでも、志向性(投企)にからめとられることを拒絶する。


9.多産性

 このような魅惑のうちで、私たちは子どもを生む。

 と、レヴィナスは言う。唐突すぎて、やや面食らいもするが……。

「投企のかなたから子の未来が到来するためには、女性的なものとしての〈他者〉との出会いが必要である。」
「子との関係――それは、他なるものであると同時に私自身でもある子を切望することである――は官能のうちであらかじめえがかれており、子自身のうちで達成される。」

 私自身でありながら私ではない子。これもまた、〈私〉への還元不可能性を告げ知らせるものだ。

 そしてこのような〈子〉との関係を、レヴィナスは〈多産性〉と呼ぶ。

「このような未来との関係は、可能的なものに対する権能には還元不能なものである。その関係を私たちは多産性と呼ぶ。」

 最後に、レヴィナスの強調点を繰り返しておこう。

「存在から分離されることでまさに、自己意識にはその存在を迎えいれることが可能となる。主体とは〔他者を迎える〕主人なのである。」

 倫理学こそが第一哲学である、とレヴィナスは言う。
絶対的に無限な〈他者〉を、みずからの主体性において迎え入れること。そこに倫理がある。レヴィナスはそう主張するのだ。

(苫野一徳)

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