ブレツィンカ『教育科学の基礎概念』


はじめに

 分析哲学の手法を用いて、教育学の多義的であいまいな用語を明晰化しようと企てた本書。

 1970年代から80年代にかけて、教育学を情緒的な用語から救い上げ厳密な科学にしようと考えたブレツィンカのこの企ては、それまでのあまりに人間的な教育学に、大きな衝撃を与えた。

 ブレツィンカは、まず教育学を実践的教育学教育科学とに峻別する。前者は教育の規範や技術を探究する学問のことだが、ブレツィンカは科学的厳密性に欠けるといってこれを批判している。現代でいえば、教育哲学教育方法学などが当てはまるだろうか。

 教育科学は、教育現象を説明し予測可能にするための法則仮説を提示するものとされる。現代でいえば、教育社会学教育心理学などが当てはまるだろうか。

 もっとも本書におけるブレツィンカの記述からは、教育科学が具体的に何であるかはいまいち分かりにくい(『教育学から教育科学へ』においてはかなり詳述されている)。

 ただはっきりしているのは、科学としての教育学を成立させるためには、教育に関する概念を徹底的に厳密化する必要があるという主張だ。

 情緒的に過ぎる教育学を、もっと厳密な学問にしていこうとするブレツィンカの問題意識は、確かに妥当なものだと私には思える。しかし同時に、実践的教育学の基礎として教育科学を置こうとする彼のやり方には、大きな問題があることも指摘しておかなければならないと思う。

 フッサールの言葉を借りて言えば、教育学は事実学を基礎として成り立つことはできない(フッサール『イデーン』のページ参照)。「これが教育をめぐる事実だ」ということをどれだけ分析したところで、「ではどのように教育を構想していけばいいか」という問いに答えることはできないからだ。このことは、まさに社会「科学」の祖であるウェーバーも、つとに強く主張していることだ(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』のページ参照)。


 むしろ、ブレツィンカが批判する実践的教育学(教育哲学)が、どのような教育であれば「よい」といいうるかという、規範的問いを探究していかなければならないのだ。そのフッサール的にいえば本質学に対して、教育科学は豊かなデータや知見を提供しうるし、またそれが役割なのだ。

 さらに、本書のテーマである教育概念の明晰化も、それを教育学の基礎として置くというのであれば、はっきり言ってほとんど無駄なことだと言うほかない。

 教育概念をどれほど厳密に分析したところで、「ではどのような教育を構想していけばよいか」という問いに答えることなどできないからだ。

 むしろ教育概念の厳密化は、哲学的に言って有害だとさえ言える。というのも、「概念」「言語」というものは、その指示対象を一義的に決定できるものではなく、常に文脈の中で、コミュニケーションし合う人たち相互の確信として使用されるところにその本質をもっているからだ。にもかかわらずこれを厳密化してしまえば、教育という概念がもつ豊かな意味を、かえって矮小化してしまうことにもなる。

 確かに、教育概念をある程度一義的に決めてしまえば、教育科学が対象にすべき教育現象が明確化されるという利点はあるだろう。しかしそれは決して、教育学の最も根本的な基礎にはなり得ない。繰り返すが、教育学は規範的探究を切り離しては成立し得ないからだ。基礎はむしろこの規範的探究にあるのだ。

 私の考えでは、教育学に必要なことは、分析哲学的概念分析ではなく現象学的本質観取である。本質観取は、概念を厳密に分析するのではなく、その意味を捉えようとする。

 われわれが、「これって教育的だよね」とか、「まさにこれこそ教育だ」とかいう時、そこにはどのような意味本質があるといえるか。その意味本質を洞察することが、「ではどのような教育がより意義深いとかよいとかいえるか」という、次のまさに規範的問いへとつながっていくのだ。


1.実践的教育学と教育科学

 冒頭でも述べたように、ブレツィンカはまず、規範や技術を論ずる実践的教育学を次のように批判する。

「実践的教育学は、教育者をしてある理念に同意させ、他の理念を拒否させ、さらに同意した理念に合致した行動をとらせるという機能をもつ。したがって、実践的教育学の言語が、多くの場合、きわめて感情的なものであることに何の不思議もないのである。」

 それは所詮、スローガンであったりあいまいな隠喩的表現であったりするにすぎない。ブレツィンカはそのように、実践的教育学を厳しく批判している。

 一方の教育科学は、教育現象を説明し予測可能なものにするものとされる。

「この行為領域の諸現象(すなわち対象・特色・関連・過程)を記述し、現象を説明し予測を可能にするための援助として、法則仮説を打ちたてることが、問題なのである。」

 そして言う。科学的であるためには、言語・概念を明晰化する必要があるのだと。


2.教育概念の混乱

 そこでブレツィンカは、現代教育学の教育概念が、きわめて多義的であいまいであることを批判する。

 たとえばデュルケームにとって、教育とは子どもを社会化する出来事である。しかしブレツィンカは言う。出来事とは、あまりに漠然とした概念であると。

 デューイにとって、それは成長それ自体である。しかしブレツィンカに言わせれば、この規定はその概念使用のあいまいさにおいて極めつきである。それは「成長する」ことなのか「成長させる」ことなのか、まったく不明確な書き方である。

 その他多数の教育学者の教育概念を批判した上で、ブレツィンカは教育を次のように定義する。

「〈教育とは、人間が他の人間の心意的性向の組織を何かある点で永続的に改善し、あるいは価値あるものと評価されたその構成要素を保持し、あるいはよくないものとして評価される性向の発生を防止しようとする社会的意図を意味する。〉」

 さて、しかし冒頭でも述べたように、この形式的定義は、ではわれわれはどのような教育を「よい」と言い得て、またどのように構想していくことができるのか、という問いに、何も答えてくれない。

 むしろこの後明らかになっていくように、この当時のブレツィンカには、そうした問いはすべてドグマだという構えがある。教育の規範やよさなどは、むしろ論じてはいけないものなのだ。(もっとも、後年彼はこの立場から転向することになる。)


3.教育必要性という概念の無効化

 続いてブレツィンカは、教育目標の概念を明晰化した後、教育必要性の概念について論じる。

 人間は一般的に教育を必要としているというが、それはほんとうか。そうブレツィンカは問う。

 そんなことはない、というのが、彼の結論だ。
 人間は、教育がなくても生きていけるからだ。これがその本質的な証明であるらしい。

「人間のいわゆる『人間生成』が教育なしでも可能であるということは、冷静な観察者によってすでにいく度も確認されてきたことである。」

 この「証明」には、正直呆気にとられるほかない。
 もちろん、教育がなくても確かに人間は生きていけるには違いない。しかしまったくの自然状態のまま、自然的衝動に突き動かされ、何の知識もなく他者と相互調整する力もなく成長することを、われわれはほんとうに「よい」と言えるのか。

 ここに、とにかくあらゆる規範を否定したいという、ブレツィンカの動機が透けて見える。しかしそれはあまりに無理のある試みだと言うほかない。われわれが探究すべきは、あらゆる規範を相対化することではなく、どのような規範であればさしあたりよいといいうるかという問いであるはずだ。

 もっとも、そもそも分析哲学論理実証主義には、ナチズムなど全体主義への拒絶という背景があった。イデオロギーに翻弄された時代、哲学者たちが真摯にこれと向き合い批判しようとしたこと自体には、敬意を払う必要があると私は思う。

 ブレツィンカは次のようにいっている。

「〈人間の一般的教育必要性の理念は、現代の一つの神話である。〉この神話が、教育者の困難な仕事に若干の輝きを与えるのに役立つかぎりでは、その神話はほとんど無害なものであろう。その神話の危険性は、それが〈政治的メシア主義〉に役立てられるときにはじめて、明らかとなる。」

 「人間にはこのような教育こそが必要だ」というイデオロギー的教育論に、ブレツィンカは警鐘を鳴らしたかったのだ。その動機それ自体は、きわめて妥当なことであったと思う。

 しかし一切の規範を相対化するというブレツィンカの手法は、当時としては有効であったかも知れないが、今日においてはもはやかえって問題であるというべきだろう。

「ではわれわれは教育をどのように構想していけばよいのか」

 この問いに一切答えることができないブレツィンカの「教育科学」を、われわれは教育学の基礎にすることはできないと私は思う。

(苫野一徳)



Copyright(C) 2011 TOMANO Ittoku  All rights reserved.

黒崎勲『教育の政治経済学(増補版)』



はじめに

 一言で言うと、本書は学校選択制のための理論書だ。教育への市場原理導入を、理論的に基礎づけたものと言っていい。

 と言っても、それはただやみくもに、ナイーブに教育の市場化・民営化を推進しようとするものではなく、格差防止と平等担保のため十分に市場を規制した上で、学校選択制を、各学校や教職員に対して、自ら教育をよりよくしようというインセンティブを与える、そのような方法として提案するものだ。

 要するに、官僚主義画一主義とそれゆえの公立学校離れいう根本的問題を抱える現在の公立学校を、生き生きと蘇らせるためのアイデアなのだ。

 故黒崎氏は、教育学界最大の知性の一人であったと思う。明確な問題意識を持ち、その問題を解明するため、政治学、経済学、哲学、社会学等、あらゆる学問的知見を自家薬籠中のものとし、常に生産的な研究を重ねてきた。黒崎氏のそうした研究態度に、私は深い敬意と共感を覚えている。

 黒崎氏のアイデアには、教育学者の間で無数の批判が繰り広げられることになった。しかし私は、少なくとも論理的には、黒崎氏を十二分に論駁できる知性は、教育学界においてそれほど多くはなかったのではないかと思う。

 私自身は、本書等を十分吟味した結果、義務教育段階における大々的な学校選択制にはさしあたり反対の立場である。

 理由は簡明だ。目的公立学校の活性化なのであれば、この目的を達成するための、もっと穏やかで効果的な方法は他にある。上意下達の軽減、それに伴う現場の裁量権の増大、教員のチームワーク活性化の諸アイデア、地域の人たちの支援、行政の支援、等々。学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合といった、学びのあり方の変革も重要だ(この点については、拙著『教育の力』〔講談社現代新書〕を参照されたい)。

 学校選択制は、現状においてはまだリスクが高すぎる。実際今の日本において、選択制が格差を広げたことは、もはや隠しようのない事実として共通認識され始めているように思われる。

 義務教育段階における大々的な学校選択制の導入は、やはりリスクが高すぎるのだ。教育学は、もっと穏やかで効果的な学校活性化の方法を、さらに真剣に解明すべく研究を進めていく必要があると私は思う。

(ただし、私は学校選択制それ自体を全面的に否定はしない。選択制が「一般福祉」を促進しうる形で構想できれば、それはむしろ望ましい方法ですらある。この点については、拙著『どのような教育が「よい」教育か』〔講談社選書メチエ〕を参照していただければ幸いだ。)


1.根本問題=公立学校離れ

 黒崎氏が提唱する教育理論の根底には、次のような問題意識がある。

「公立学校が私立学校と競合し、公立学校離れ、私学ブームとさえ呼ばれる事態を生じていることは、教育政策がもはや教育のあり方を決定し得ないという事実を端的に表すものである。」

 上意下達の官僚主義的教育行政、画一的なカリキュラム、親や子どものニーズに答えられない公立学校。黒崎氏は、まずこの問題が現実に存在しているところに注意を促す。

 この問題を解決するために、黒崎氏は公教育への市場原理の導入、より端的には学校選択制の導入を提案する。


2.市場原理の導入

 とは言っても、これを単なるむき出しの資本主義と同一視してはならない、と黒崎氏は言う。むしろ市場原理の導入とは、資本主義市場の「規制」である。黒崎氏は次の重要な区別を主張する。

「教育における市場原理の導入と一括される学校選択の理念について、単純な市場原理にもとづく学校選択と『抑制と均衡』の原理にもとづく学校選択とに識別することが必要である。」

「前者の考え方は、教育制度にいわゆる市場原理を導入すれば、自由な競争によって学校は自ずと改革されるという信念に立っている。しかし、これは、あまりに単純な議論であり、起こりうる弊害についての慎重な考察に欠けている。公立高校においては現に『学校が選ばれる』制度になっているが、実際には、学校は序列化され、生徒が学校に選別されているのであり、その弊害は様々に語られているところである。」

「これに対して、後者の学校選択の意義の提唱は、公立学校制度の伝統的規範に縛られて公立学校の改革を妨げている教育行政の官僚化を打破し、個々の学校の改革の努力を導きだすためには、学校選択制度が必要であると説くものである。〔中略〕学校を教育行政の官僚主義からも、専門家の専門職主義による閉鎖性からも解放させ、教職員教育行政当局、親、子ども、地域コミュニティの市民といったさまざまな関係者の力と働きを再結合する場として学校を再構築することを目指しているのである。」

 要するに、教育への市場原理主義の導入とは、学校間の競争や序列化を煽るものではなく、あくまでも各学校がよりよい教育をめざすことのできる、インセンティブとして捉えられる必要があるというわけだ。



3.具体的プラン=日本版チャータースクール

 そこで黒崎氏が提案するのが、日本版チャータースクールのアイデアである。
 学校選択制と言っても、黒崎氏が推進するのは通学区域の弾力化ではない。

 通学区域の弾力化が、「すべての家庭に選択を強要し、子どもの教育の失敗をすべて自己責任として受容することを求める」ものであるのに対して、チャータースクールは、「新しい革新的な教育のあり方を希望するものが自らのリスク負担において参加するものであり、用意の整わない、また、選択を欲しない家庭に選択の名で自己責任を強要することもないのである。」

 黒崎氏は言う。

「日本版チャータースクールとして運動がすすみつつあるチャータースクールのモデルは、抑制と均衡の原理による学校選択の理念の一つの具体化である。ここでは教職員の自由な活動を保障しながら、これを正統化するものとして学校選択の機能が期待されている。」

 黒崎氏はさらに具体的に、ミニスクールというアイデアも出している。それは次のようなものだ。

「公立学校に働く教育専門家のなかから実験的で独創的な教育のビジョンの発議を求め、適切な教育プランであると教育委員会が判断したものについて、これをミニスクールとして実施することを認める。発案者がミニスクールのリーダーとなり、教職員を募ってチームをつくる。ミニスクールへの就学は家庭の自由な選択であり、子どもと親とは、その地域にあるこれまでのタイプの公立学校へ就学するか、選択可能なミニスクールのなかのいずれかへ就学するかの自由な機会を保障される。」

 要するに黒崎氏は、学校選択制という制度を触媒に、各学校や教職員に、自ら学校をよりよくしていこうというインセンティブを与えたいと考えているわけだ。それが、公立学校を再び魅力的なものとしてよみがえらせる、最大のアイデアだというわけだ。


4.黒崎ー藤田論争

 ここで、教育学界においては有名な、黒崎ー藤田論争というものが勃発することになる。

 教育社会学者の藤田英典氏が、黒崎氏に対して、学校選択制は格差を拡大することになると厳しく批判したのである。

 これに対して、黒崎氏は本書で応答を試みている。ポイントは2つある。

 1つは、格差を許さないというのは黒崎氏も同じだが、しかし私立学校の横行などを考えれば、実は教育の市場化はすでに問題となっているのであって、それゆえむしろ公立学校に学校選択制度を導入することで、公立学校をより魅力的なものによみがえらせようと言っているのだ、というものだ。つまり、私立(金持ちが通う傾向がある)に負けない公立学校づくりのために、学校選択制をその動機にしようというわけだ。

 もう1つは、教育社会学者現状批判ばかりして代案を出さない、という、また少し違った観点からの応答だ。

「教育の機会の不平等を問題にし、学校の地域格差、階層化を批判することはもとより大切なことである。しかし、〔中略〕教育現象を分析する社会科学は、〔中略〕困難を抱える地域と生徒が学校で成功できない過程を描き出すことに終わり、これを克服する学校と教育者の力を過小評価するものであってはならないと思う。」

 それゆえに、黒崎氏は次のように言う。

「制度として教育問題を対象化し、制度の運営と改革を通して教育の営みに関わろうとするのが教育行政学の存在理由であるというのが筆者の立脚点である。」

 こうした現実改革のための学知を探究しようとする、黒崎氏の学者としての態度に、私も深く共鳴する。

 しかし冒頭で述べたように、私自身は、大々的な学校選択制には反対だ。リスクがあまりに高すぎるからだ。学校活性化のためには、もっと他に、穏やかかつ効果的な方法がたくさんある。教育学者は、そのような方法の解明構築に、今後もっと力を注いでいく必要がある。私はそう思う。

(苫野一徳)



Copyright(C) 2010 TOMANO Ittoku  All rights reserved.