フッサール『イデーンⅠ』

はじめに

Edmund Husserl 1910s.jpg 本書を初めて読んだ時、私はあまりの感動に、眠ることも忘れて読みふけり、明け方すずめの鳴き声とともに、「なんやこれはぁ。なんやこれはぁ!」とのたうちまわった。

 私にとって、忘れられない1冊だ。

 デカルトにはじまり、カントが徹底した近代認識論を、フッサールはついにこれ以上不可能なところにまで鍛え抜いた。

 私はフッサールの、特に「あとがき」にみられるような誠実さと謙虚さがたまらなく好きだ。本気で哲学をしてきたのだという自負もまた、そこから匂い立ってくる。

 とはいえ、本書はまったくもって長い。長たらしい。

 フッサールの著作全般に言えることだが、彼には、同じことを言葉を変えて何度も何度も繰り返すくせがある。

 しかも、そのたびに新たな術語を次々とこしらえるものだから、ますます難解で複雑な文章に仕上がってしまう


 しかしそれでも、本書の一行一行から感じられる気魄は、天才哲学者の肉声が聞こえてくるほどにすさまじい。


1.フッサールの情熱

 日本語訳の冒頭に掲載されている「あとがき」で、フッサールは次のようにいっている。

「筆者は今老境にいたって、少なくとも自分自身としては、完全に、次のように確信するにいたっている。すなわち、自分こそは一人の本当の初心者・端緒原理を掴んでそこから始める人間であると、こう自ら名乗り出てもよいであろう、と。」

 いつでも真摯に哲学してきたフッサールの、静かなる情熱が感じられる。

「現象学的哲学の全般的な研究地平は、いわばその地理上の主要構造の面では、露呈されおえ、本質的な問題層と本質的な接近方法とは、解明されおえたわけである。筆者は今、真の哲学の無限に開かれた土地、その『約束の地』が、自分の前に拡がっているのを見る。その土地が完全にもう開拓され尽くすありさまを、余命いくばくもない筆者自身は、もはや体験することはないであろう。」

 自らの哲学的成果がどれほど画期的なものだったか、フッサールはよく自覚していた。

 しかし、彼が切り開いた「方法」によって、その後飛躍的に深化するはずだった諸学問の展開を、彼はその予告通り、見ることはできなかった。

 ばかりか、残念なことに、現象学はいまだその真価が理解されないまま、過去の思想になろうとしている。

 フッサールの成し遂げたことは、いったいどのようなものだったのか。

 以下、本書を簡潔に紹介・解説していこう。


2.事実学と本質学

「純粋もしくは超越論的現象学は、事実学としてではなく、本質学として(「形相的」な学として)、基礎づけられる」

 事実学とは、世界はこうなっている、という「事実」を記述するものだ。

 物理学をはじめとするあらゆる科学は、この事実学に属する。

 しかし、世界それ自体が絶対にこうなっている、ということを、私たちは実は決して知ることができない。

 これは他のページでも繰り返し言ってきたことだが、今一度言うと、たとえば目の前のカップを、犬や猫やカラスは、たぶん私たちとは異なった仕方で認識している。


 犬や猫は、人間のように色を認識することができないと言われている。

 カラスは、人間には見えない紫外線を認識できる。だから、お互いを黒色としては見ていないと考えられている。

 そう考えると、私たちが見ているこのカップが、絶対確実に見えているままに存在しているかどうかは、決して知ることができない(カント『純粋理性批判』のページなどを参照)。

 だから、絶対的な「事実学」は不可能だと言わなければならない。絶対の「事実」など、私たちには知り得ないのだから。

 しかしその一方で、私たちには、世界についての何らかの「確信」「信憑」が必ずある。


 目の前のカップが、本当に目に見えるままに存在しているのかどうかは、究極的には分からない。でも、これが「存在している」ことを、私は確かに確信している。

 では、私たちは、なぜ、そしてどのように、そのような「確信」を抱いているのか。その「本質的構造を、あらゆる内的な構造に即して解明すること」、これが現象学の思考法なのだ。

 内的な「確信」が成立する、その「本質」条件をなすものを解明すること。

 それがフッサールの言う本質学なのだ。


 したがって本質学は、事実学に先立ち、またこれを支えるものである。

 事実学は、客観的事実があることを前提した上で成り立つ学問だ。しかし実際には、それは絶対客観的な事実であるわけではない。

 そこで本質学は、そもそも事実なるものは何なのか、その「本質」を明らかにするところから思考を始めるのだ。

 フッサールにとって、哲学(本質学)とは「諸学の原理」と言うべきものなのだ。


3.自然的態度とエポケー
 
 さて、この本質学を開始するにあたって、現象学はまず自然的態度エポケー(判断中止)するという方法をとる。

 フッサールは次のようにいう。

「私は、自分が、目覚めた意識においては、常に、そしておよそ変更不可能な仕方で、同一世界に関係しているのを見出す。」

 私たちは、自分が存在しようがしまいが、世界は客観的に存在し、この窓の向こうには空が広がっていて、その向こうには海があり、大陸があり、太陽があり、月があると、ごく自然に思っている。

 これが自然的態度だ。

 しかしそれは本当だろうか。

 すでにデカルトによって、この世のいっさいは疑いうるということが強調されていた(デカルト『方法序説』のページ参照)。

 今私たちをとりまくこの世界=自然が、実は夢の産物であるかも知れないと、私たちはどこまでも疑いうる。

 そうであるならば、私たちの思考は、この世界=自然の絶対的実在を前提にして開始するわけにはいかない。

 つまり私たちは、自然的態度を括弧に入れる必要がある。

 これがエポケー(判断中止)だ。

「自然的態度の本質に属する一般定立を、われわれは、作用の外に置くのである。〔中略〕したがって、この全自然的世界を、括弧の中に置き入れるのである。」


4.現象学的還元

 自然的態度をエポケーしたのちに遂行される次の方法が、現象学的還元だ

 デカルトは、疑いえないものとしてコギト(われ)を見出した。

 現象学もまた、このコギトから思考を始発する。


 しかしフッサールによれば、デカルトは、このコギトを「実体」概念として、つまり、世界の中に実在する概念としてとらえるという過ちをおかしてしまった。

 しかし、私たちが疑いえないものとして考えるべきは、「実体」概念ではなく「作用概念」としてのコギトである。コギトは世界に実在する、と独断するのではなく、ある確信構造の流れがそこにはあって、疑いえないのはそれだけだとフッサールは主張するのだ(この点については、フッサール『デカルト的省察』のページも参照)。

 つまり、何かを志向している作用コギタチオと、志向されているものコギタートゥムがセットになった、作用概念としてのコギト。それこそ、私たちが疑うことのできない思考の出発点なのだ。

 ただし、志向されたもの(認識されたもの)それ自体は、それをもしも「客観的」なものとして捉えるならば、どこまでも疑うことができる。

 たとえば、目の前にグラスが見える。このグラスの存在それ自体は、疑うことができる(これを超越という)。しかし、これが確かに見えている、という私たちの体験の自覚それ自体(コギタチオ)は、どうしたって疑うことができない(これを内在という)。

 この疑うことのできない内在的確信こそが、現象学の研究する領域なのだ。

 フッサールは、この内在的確信の領域を超越論的主観性と呼ぶ。そして、外部実在の実在性を前提せず、一切をこの超越論的主観性における確信構造へと還元することを現象学的還元」と呼ぶ。

 つまり、グラスそれ自体の実在性を問うのではなく、このグラスがなぜ実在していると確信しているのか、その「確信構造」の本質を問うのが、現象学の態度なのである。
 
「以上のようなわけで、存在ということが言われるときの普通の意味は、ひっくりかえるのである。普通われわれにとって第一のものであるような存在は、本当は自体的には、第二のものなのである。すなわち、そうした存在は、第一のものへの『関係』の中でのみ、それがそれであるものでありうるのである。」


5.現象学の意義

 現象学の意義は、まず何をおいても、諸学問の基礎をどこまでも掘り下げて築き上げた点にある。

 しかしこの点についての詳細は、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のページに譲ることにしたい。

 以下では、現象学のもう少し実践的な意義について述べておくことにしよう。

 現象学の考えからすれば、私たちは絶対に確実なことを知ることなどできない。だから、人びとが真理をめぐって争い合うのは無意味だということになる。

 しかしそれでもなお、私たちには、あることが「正しい」とか「よい」とかいう確信が訪れることがある。

 ならば私たちは、その確信はなぜ、そしてどのように成立したのか、その本質を自らに問い、また他者と問い合う必要がある。

 そうすれば、私たちは、何が「真理」かをめぐる争いから、互いに納得し合える「共通了解」を作り出そうという営みへと、議論の形を変えることができる。

 真理ではなく、共通了解。

 それこそが、私たちが探究すべきものである。

 それはいったい、どうやって?

 先述したように、互いに互いの「確信」「信憑」を問い合うことによって。

 きわめてシンプル。そして、言われてみれば「当たり前」のことだとさえ言える。

 しかしフッサール現象学は、私たちが思考を交わし合う道はこれ以外にないのだということを、とことん突き詰めて教えてくれるのだ。



(苫野一徳)

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