ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』





はじめに


 「リベラル・アイロニスト」たちからなる社会。

 ローティは本書で、そのような社会のあり方を描き出す。


 アイロニストとは何か。それは、自らの信念が絶対的なものではあり得ないことを知り抜いている人のことである。


 現代社会は、このアイロニストたちの連帯によってつくられる必要がある。


 何らかの社会的価値を絶対化することは、その価値を共有できない他者に、ひどい抑圧を加えてしまうことになるからだ。


 しかしリベラル・アイロニストは、単なるニヒリストや素朴な相対主義者であるわけではない。社会の連帯のために、リベラル・アイロニストは、人は「残酷であってはならない」という信念を抱き、これを共有するからだ。


 何らかの価値の絶対化と残酷さを避けつつ連帯する、リベラルな社会。ローティは本書で、そのような社会を提言する。


 その社会像は、基本的なイメージとしては十分妥当だろう。


 しかし哲学的には、このイメージはかなりナイーヴで、十分鍛え上げられたものとは言えないと私は思う。


 以下ではそのことについても論じつつ、本書を紹介していくことにしたい。



1.リベラル・アイロニストとは


「私は、自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物〔中略〕を、『アイロニスト』と名づけている。リベラル・アイロニストとは、このような基礎づけえない欲求の一つとして、人が受ける苦しみは減少してゆくであろうという、そして人間存在が他の人間存在を辱めることをやめるかもしれないという、自らの希望を挙げる者のことである。」


 アイロニストとは、自らの信念や欲求が、絶対的なものではないことを十分に知っている者のことである。


 しかしその上で、「リベラル・アイロニスト」は、人は「残酷であってはならない」という信念を、その「絶対的理由はなくとも」信じ続ける。


 本書の目的は、このようなリベラル・アイロニストたちからなるリベラルな社会のあり方を描き出すことにある。



2.偶然性


 そこで、ローティはまず、われわれの信念や欲求をはじめ、あらゆることがいかに「偶然的」であるかを論じる。


 われわれの使用している言語も、われわれ自身の存在も、そしてわれわれが生活しているこの共同体も、絶対的な必然性をもって今このようにあるわけではない。ローティはそのことを、繰り返し何度も強調する。


 とすれば、それは相対主義ではないか、との批判があるだろう。そうローティは言う。しかし彼は次のように言う。それは、実は批判になり得ない批判なのである、と。


「ちょうど神はいないと考える人にとって、不敬というものが存在しないのと同じように、『相対主義が陥る窮地』といったものなど存在しない。なぜなら、私たちが責任を負うような、そして私たちがその指針に背いてしまうような、より高度の見地など存在しないからである。」


 つまり相対主義は、何らかの絶対的なものがあるという立場からみた批判にすぎないのであって、そんなものがない以上、相対主義はいわばデフォルトであって批判の対象ではない。そうローティは言うわけだ。


 それゆえ彼は、次のようにさえ言う。


「こうした非難に対してまともに応じるべきではなく、むしろはぐらかすべきだ」



3.ローティ的アイロニー批判


 ここで少し、ローティ思想の根幹にあたるこの「アイロニー」の思想を、批判しておきたいと思う。


 以上にみたローティ的アイロニーは、哲学史を踏まえれば、最先端であるようにみえて実は歴史上繰り返し現れたものであり、そしてまた、原理的には乗り越えられてきたものであるからだ。



(1)ヘーゲル哲学の観点から


 まず、すでに19世紀には、ヘーゲルがきわめて本質的な「イロニー」批判を展開している。(『法の哲学』のページ参照)


 ヘーゲルの主張を噛み砕いて言うと、次のようになる。


 近代において、人々は「絶対に正しいことなどない」ということを十分知り抜いた。


 しかしこのことを知り抜いた人間は、やがて、「絶対に正しいことなどないということを、私は知っている」と言い出すことになる。


 つまり相対主義的「イロニー」は、その相対化をすること(相対化をしている自分)を、絶対化してしまうことと表裏一体なのである。


 これは、たとえば後にハーバーマスが、フーコーなど相対主義的思想家に対して浴びせかけた批判とも同型である。(『近代の哲学的ディスクルス』のページ参照)


 要するに、「イロニー」の精神は、一切を相対化している自分自身をもまた相対化せざるを得ないというパラドックスに陥ってしまうのである。そしてそこから抜け出すためには、今度は相対化をしている自分自身については絶対化せざるを得ないという、二重のパラドックスに陥ることになってしまうのだ。


 その証拠に、「イロニー」の精神は、結局のところ何らかの価値を打ち出さずにはいられない。


 ローティで言えば、それは「残酷であってはならない」という「価値」である。


 徹底したアイロニストであれば、この価値でさえ相対化せざるを得ないはずである。しかしローティは、この価値にだけは固執する。彼自ら、その理由を言うことはできないといいながら。


 そして彼は、一切の価値を相対化しながらも、この「残酷であってはならない」という価値だけは共有する、そんなリベラルな社会を作ろうと言うのである。


 このことについてもまた、早くもヘーゲルが、ローティに百数十年も先立って、『法の哲学』において次のように批判している。


こうした絶対的な得意さが、自分自身の孤独な礼拝にとどまらないで、なにか共同体(教団)といったものをつくることもありうる。そしてこの共同体の絆と実体はといえば、まあおたがいに良心的であり善い意図であるのを保証し合うことであり、この相互的な潔白をよろこぶことである。また、とりわけ、このように自分を知りかつ表明することのすばらしさと、このように愛護することのすばらしさとで元気づけることである。だがそのような共同体をつくることがどこまでできるか。

 
 「イロニー」の精神は、結局、自己矛盾的な何らかの価値を共有しようと努めなければならなくなる。しかしそんなもろい価値観を、われわれは本当に共有することなどできるだろうか。そしてその価値観に基づいて、社会を成立させることなどできるだろうか。

 以上が、ヘーゲルにおける「イロニー」批判の要諦である。


 ちなみに、ヘーゲルはこうした「イロニー」を批判しながら、相対主義的態度に陥ることなく、人々がしっかりと自ら確かめ可能な形で共有できる社会理念を打ち出している。


 それは「自由の相互承認」という理念なのだが、ここでは詳論しない。興味のある方には、ヘーゲルのページや、あるいは拙著『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス、2014)や『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011)などを参照していただければ幸いだ。



(2)フッサールの観点から


 続いて、ローティのアイロニー思想を、フッサール現象学の観点からも批判しておきたい。


 と言っても、この点についてはこのブログのフッサールのページでさんざん書いてきたので、ほんの触れる程度おさらいしておくにとどめたい。


 フッサールは言う。何もかも相対化することなんて、本当にできるのか。いいや、できないはずである、と。


 たとえば、この目の前のパソコンについて考えてみよう。


 これが、本当に目の前に見える通りに実在しているかどうかは、確かに疑える(相対化できる)。本当は、見えているのとは全く違う色の可能性だってあるし、もしかしたら幻覚であるという可能性だって払拭し切れない。


 こうした「知覚物」でさえそうなのだから、「価値」についてはなおさらだろう。


 私たちは、絶対に正しい「価値」があるなどと言うことはできないはずである。


 その意味で、確かにわれわれは、一切は偶然的で不確かなもの(相対化可能なもの)であると言うことができそうである


 しかしよく考えてみよう。


 確かに、このパソコンそれ自体の存在は疑える。しかし、今私がここにパソコンがこのようなものとして「見えてしまった」ということそれ自体を、疑う(相対化する)ことなどできるだろうか。


 ……この料理は、本当は美味しくないのかも知れない。でも、「美味しい」と「思ってしまった」ことそれ自体を、私は相対化できるだろうか。


 この音楽を、私は美しいと思ってしまった。犬が聴いたら、別に美しくも何ともないかも知れない。でも、この「美しい」と「思ってしまった」ことそれ自体を、私は相対化できるだろうか。


 この人を、私は「いい人」だと思ってしまった。本当は極悪人かも知れない。でも、「いい人」だと「思ってしまった」ことそれ自体を、私は相対化できるだろうか。


 こうしてフッサールは、この私に現れた「現象」(確信)それ自体は相対化不可能であるとして、相対主義の論理を封じ込めたのである。


 つまり私たちは、何もかもが偶然的だとか相対的であるとか言って、「アイロニー」に陥る必要はない。私たちには、そうは言っても確かにこれは疑えないという何らかの「存在確信」や「価値確信」が、動かしがたく訪れてしまっているのだ。


 とすれば、われわれはローティのように、何もかもを相対化しておきながら、「残酷であってはならない」という価値だけを理由もなく特権化するといった、不整合なことをする必要はない。


 互いに動かしがたく訪れている何らかの「価値」を、絶対化するのでも相対化するのでもなく、相互の確信を問い合う形で、なお、「なるほどその価値であれば納得できる」という仕方で、共通了解をめがけ合うことができるはずなのだ。


 これが、現象学的な社会的価値の論じ合い方である。


 そして私は、この共通了解可能な社会的価値(理念)として、先に触れたヘーゲルの「自由の相互承認」の理念を、最も根本的なものとして再び提示することができると考えている。ローティの「残酷であってはならない」は、いわばその1つの系である。


 ともあれ、かなり省略しながら論じたが、以上の理路についても拙著『「自由」はいかに可能か』や『どのような教育が「よい」教育か』において綿密に論じているので、ご興味のある方にお読みいただければ幸いだ。


 いずれにせよ、私たちは、相対主義的でまた論理的にも不整合であらざるを得ないローティ的アイロニーを、社会構想の基軸にする必要はないし、またそうすべきではない。私はそう考えている。



4.連帯


 本書に戻ることにしよう。


 ローティは続いて、リベラル・アイロニストたちからなる社会の連帯のあり方について論じる。


 ローティは言う。


「連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを『われわれ』の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。


 つまり連帯とは、


「他者の苦痛や辱めを察知する私たち自身の感性への疑い、現在の制度的な編成がそうした苦痛や辱めに適切に対応しえているかどうかへの疑いであり、それ以外の可能なオルタナティヴヘの関心である。」


 要するに、あなたは苦痛をこうむっているのかどうか」という問いかけを基軸に、人々は連帯するべきだとローティは言うのである。



 いわば、「憐れみ」を基軸とした社会連帯であると言っていい。(東浩紀も、『一般意志2.0』においてそのように言っている。『一般意志2.0』のページを参照。)

 しかし私の考えでは、この思想は、理想としては確かに美しいが、哲学的にはかなりナイーヴだ。ポイントは2つある。


 1つは、「憐れみ」は、容易に非理性的で暴力的な連帯に行き着くことが往々にしてあるという点。


 この点を洞察し批判したのは、アーレントだった(『革命について』のページ参照)。


 たとえばフランス革命は、人々が社会的弱者への憐れみを連帯の基礎としてしまったばかりに、彼らを苦しめる人々を次々に処刑していくというテロリズムへと至ってしまった。そうアーレントは主張する。


 憐れみを連帯の基軸にした時、人々は容易に弱者絶対主義へと走り、その苦しみの理由とされる人々に、暴力的な攻撃をしかけることになってしまうのだ。


 それゆえ「憐れみ」を基礎とした連帯は、連帯の基礎としてはきわめて弱いしまた危険でもある。


 もう1つのローティ批判のポイントは、ローティの思想が、「憐れみ」によって連帯せよという、一種の要請の思想になってしまっている点にある。


 このブログでも何度も論じてきたが、哲学史上きわめて優れた哲学を提示してきた哲学者たちは、「要請」の思想ではなく、「条件提示」の思想を展開してきた。


 要請の思想は、結局のところ要請・命令なのであって、そうである以上、「そんなのは嫌だ」と言われてしまえばおしまいであるからだ。


 つまりわれわれは、「憐れみによって連帯せよ」と要請するのではなく、「人々が互いに承認し合いながら共存できる、社会的連帯の〈条件〉は何か」と問い、それを明らかにする必要があるのだ。


 ローティの思想を、私はそのようなものとして編み変えていく必要があると考えている。


 その際、ローティが言うような、他者への憐れみや共感の力をいかに育むかという課題は、とても重要な課題として再提起されることになるだろう。私たちとはかなり違った人びとを『われわれ』の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力」をいかに育むかといったローティの問題提起は、その意味でとても重要なものだと私は思う。



(苫野一徳)

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ディドロ『ラモーの甥』

はじめに

 18世紀フランスの思想家・文学者ディドロの対話小説。

 本作の主人公は、実在した大作曲家ラモーの、やはり実在した甥である。

 叔父とは違って、残念ながら彼には才能がなかった。

 しかしプライドだけは高いラモーの甥は、才能ある人々を恨み、自らは悪徳者を任ずるが、かと言って大悪人になれるほどの才もない。

 本作は、そんなラモーの甥と、人生のバランス感覚に優れた哲学者である「私」との、一風変わった思想的対話小説である。

 19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルは、『精神現象学』において、主人公ラモーの甥に「自由」をめがける人間の分裂した精神模様を見出している。

 人は皆、自由になりたいと欲している。できるだけ、生きたいように生きたいと願う。

 しかし、才能の欠如や境遇の不運の前に、中々その思いは達成できない。

 そこで彼は、自らのちっぽけな「自己意識」を守るため、人に悪態をついたり偽悪的になってみせたりして、精一杯自我を世間に訴えようとする。

 しかしそれもまた、空しいことである。

 本書では、そんなラモーの甥の分裂した自己意識が、実に生き生きと描かれている。

 文学作品を切り貼りしながら紹介するのは気が引けるが、できるだけ全体的な雰囲気が伝わるよう、以下書いてみたい。


1.プライド高く才能乏しいラモーの甥

 本作冒頭、嫉妬深いラモーの甥は、哲学者の「私」に天才について次のように言う。

「彼らはただ一つのことにしか役に立たないんです。それから先は、ろくでなしなんだ。」

 だから彼は、天才の失態に心を躍らせる。

「わしは焼餅やきです。彼らの私生活についてなにか体面にでもかかわるようなことがあると知れば、わしは喜んで聞き耳を立てるんです。それで彼らとわしとの距離が縮まるというわけです。」    


 と言うのも、ラモーの甥は、わずかばかりの才智を見せてしまったがために、彼が仕えていたパトロンの元から追い出されたからである。

 彼はこう言われたのだった。

「下郎め、出てゆけ!もう二度と顔を出すな。こいつはどうやら常識や理性をもちたがっているぞ!出て行くんだ!われわれにはそんな性質なら余るほどあるんだ」    

 その時彼はどうしたか。

 彼はそう言ったパトロンの前に、ひれ伏したのだ。

 ラモーの甥は、その屈辱を忘れることができない。

「だが、それにしても牝猿の前にへいつくばりに出かけるなんて。平土間から口笛を吹かれて野次られどおしの大根役者の足下にお情けを願うなんて!このわしが、ラモーともあろうものが 」

   
2.大悪人にもなれないラモーの甥

 プライド高いラモーの甥は、こうして自らの恵まれない境遇を恨み、他人に対する憎悪を抱えて生きている。

 そこで彼は悪徳者を自任するのだが、かと言って大悪人になれるわけでもない。

 そして彼は、そのことを哲学者の「私」に指摘されると、あっさり認めてしまうほどに素朴な男でもある。

 ラモーの甥は言う。

「何か一芸に秀でることが大切だとしたら、そりゃとりわけ悪についてそうですな。ひとは、けちな掏摸には唾をひっかけますが、大罪人には一種の尊敬を感じないではいられないもんでさあ。」

 そこで「私」はこう返す。

「ところが、その貴重な性格の統一というものが君にはまだないね。君は時々自分の原理に動揺を来すようじゃないか。    」

 ラモーの甥はこれに、思わず「ごもっともです」と言う。

 プライド高く偽悪的なラモーの甥は、しかし結局どこまでも、滑稽でまた時に愛しくさえ思えるほどに、小さな男なのである。


3.革命前夜の精神?

 ヘーゲル研究者イポリットによって、「革命前夜の精神」を表した作品と評された本作には、次のような印象的な言葉がある。


ラモーの甥「全王国中で当り前の歩き方をしているのはたった一人だけですね。それは主権者でさあ。そのほかの者はみんなポーズをとって歩いてるんです。」
「主権者だって?しかし、それにはまだ文句をつける余地はないかね。〔中略〕国王もその愛妾の前や神の前ではポーズをとり、パントマイムのステップを踏むんだ。大臣も、自分の国王の前では、廷臣やおべっか使いや召使や乞食と同じ歩き方をするよ。」    

 人は、国王もまた自由な存在ではないことに気づき始めていた。

 革命前夜、ラモーの甥のような自己意識の塊と共に、本当の「自由」への意識もまた、芽生え始めていたのである。


4.節制か、欲望か

 本作の最後は、「私」とラモーの甥の、次のような問答で締めくくられる。

 哲学者は言う。人にこびへつらったり、軽薄な自己意識を満足させたりしなくてもいい生き方がただ一つだけある、それは哲学者という生き方だ、と。

 「私」からしてみれば、何ものにも捕われない哲学者だけが「自由」な存在である。

 しかしラモーの甥は次のように言う。

「しかし、わしには、よい寝床やよい料理が、冬には暖い着物が、夏には涼しい着物が、休息や金やそのほか沢山のものが入用なんでさ。そんなものを、わしは、苦労して手に入れるくらいなら、人のおなさけにすがるほうがましだと思うんです。」
 
 ラモーの甥は、誰にも従わず、へつらわず、自己節制によって自足しているだけの哲学者を自由だとは思わない。

 いや、彼はそのような生き方に、少しは憧れもするのかもしれない。しかしどうしても、彼はそのように生きることができないのだ。

 『ラモーの甥』には、こうして、自由に生きたい人間たちの分裂した精神が、生き生きと描かれている。


(苫野一徳)

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アーレント『責任と判断』

はじめに



 アーレント未刊行の遺稿集。

 アーレント思想の有名なキーワード、「悪の凡庸さ」

 それは、自ら判断責任を自覚することができず、そしてまた、善を意志することのできない、そのような凡庸さに宿る悪のことだ。

 ヒトラー独裁下のドイツにおいて行われた、数々の残虐な行為。悪を行ったのは、まさにごく普通の人々だった。

 最も醜悪な悪は、判断力と責任感覚と善への意志を欠いた、ごく普通の「凡庸さ」から生まれる。

 だからこそ、私たちはもう一度、個人の責任、判断力、意志の力を考え直し、これを再興しなければならないのではないか。

 アーレントの肉声が腹の底にまで響いてくるような、素晴らしい名著だと私は思う。


1.「独裁体制のもとでの個人の責任」

 ナチスにおけるヒトラー独裁のもとで、多くのユダヤ人が殺された。このことを、私たちはどう考えたらよいのだろうか。

 戦後、アーレントはこのことを自らの大きな思想課題とした。

 殺人を請け負ったのは、ヒトラーにとってはただの歯車に過ぎない人たちだった。彼らは自らの「判断」を放棄し、ただ命じられるがままに殺戮行為を行った。

「第三帝国では、決定を下し、実行する人間はただ一人で、この人が政治的に責任を負っていたのです。それがヒトラー自身でした。〔中略〕高官から末端の役人にいたるまで、公的な問題を処理していたほかのすべての人々は実際に〈歯車〉にすぎませんでした。だからといって、誰も個人的な責任を負わないということになるでしょうか。」    

 アーレントは言う。それでもなお、罪を犯した者は「個人」として責任を負うのだと。

 ナチスの犯罪を裁いたニュルンベルク裁判を踏まえて、アーレントは次のように言う。

判事たちが大きな努力を払って明らかにしたことは、法廷で裁かれるのはシステムではなく、大文字の歴史でも歴史的な傾向でもなく、何とか主義(たとえば反ユダヤ主義)でもなく、一人の人間なのだということでした。    

 法で裁かれるのは、あくまでも責任主体としての「個人」である。

 しかしまた同時に、

「システムの責任そのものがまったく問われないということも許されないことです。法的な観点からも道徳的な観点からも、情状という形でこのシステムの責任が問われるのです。 」   

 犯罪が行われたとすれば、その責任は常に個人にある。しかし個人を犯罪に駆り立てたシステムの責任もまた、もちろん問われる必要はある。

 これが、「個人の責任」を考える時の基本である。アーレントはそう主張するわけだ。


2.「道徳哲学のいくつかの問題」

 本書で最も「哲学的」な考察が繰り広げられるのが、この「道徳哲学のいくつかの問題」と題された講義録である。

 この講義において、アーレントはまず次のように言う。

「すべての倫理は、死すべき人間にとっては、生命が最高善ではないことを前提とするもの 」である、と。  

 つまり、

人間の生においては、個別の生命体の存続と繁殖よりも重要なものがつねに存在するのです。」


 アーレントは、倫理とはただ「生きる」ことにはないと言う。アリストテレスの言葉を借りれば、それは「よく生きる」ことにある、ということになるだろう。(アリストテレス『政治学』のページ参照)

 では、「よく生きる」とはいったいどういうことなのか。


①ごく普通の人々の責任

 アーレントは言う。

「ナチス体制は新しい価値体系を提唱し、こうした価値体系に基づいて考案された法的な体系を導入したのです。さらにドイツ社会のいかなる人も、まったく強制もされないのに、ナチス体制に同調して、自分の社会的な地位ではなく、それまでこうした社会的な地位に伴っていた道徳的な信念を、あたかも一晩のうちに葬り去ったのでした。    

 ナチス全体主義は、ナチスによって提示された、ある新しい価値体系の絶対化であった。そして人々は、言われるがままに、その価値体系へと同調してしまった。

 したがって、道徳性を崩壊させてしまったのは、ごく普通の人々だったのだ。

道徳性がたんなる習俗の集まりに崩壊してしまい、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごとに堕してしまうのは、犯罪者の責任ではなく、ごく普通の人々の責任なのです。」


 さらにアーレントは言う。戦後、ドイツの人々は、わずかな期間の予告だけで、『歴史』がドイツの敗北を告げただけで、もとの道徳性にもどった」のだと。


ですからわたしたちは、『道徳的な』秩序の崩壊を、一回だけではなく、二回、目撃したのだと言わざるをえません。    

 ごく普通の人々が、社会における道徳的秩序を、いとも簡単に崩壊させた。

 このことの恐ろしさに、アーレントは思いを致す。

 だからこそ、われわれはもう一度、「個人の責任」を考え直す必要がある。責任主体としての「個」をいかに取り戻すことができるだろうかと、考え直す必要がある。

 アーレントはそう問うている。


②悪しきことを為すより為されるほうが望ましい


 続けてアーレントは言う。

 私は、他者とのかかわりを、自ら断とうと思えば断つことができる。

 しかし決して断つことのできないかかわりがある。それは「私」とのかかわりである。

 そこで言う。このことが、悪しきことを為すよりも、悪しきことを為されるほうが望ましいという主張の実際の根拠を示しています。悪しきことを行うと、わたしは自分のうちに悪しきことを行った者をかかえこんでしまい、この者と耐えられないほどの親しい間柄で一生を過ごすことを強いられるのです。この者を追いだすことは絶対にできないのですと。


 この文章は、アーレントらしいとても魅力的なくだりだと思う。しかしその一方で、残念ながらこれは論理的には破綻しているのではないかと私は思う。


 と言うのも、アーレントは、「悪を為せばあとあと罪悪感に苦しめられる。そんな自分との関係を、私は断つことができない」と言うのだが、私たちは逆に、「悪を為されたら、そのことの恨みを抱え込む。そんな自分との関係を、私は断つことができない」と言うことも可能であるからだ。

 要するに、「自らのとの関係を断つことができない」ことを根拠に、「悪をなされる」ことを「悪をなす」ことより優位なものとして論じることには、無理があるのだ。

 しかしアーレントはまた一方で、プラトンの言葉を借りながら、高貴な人は「悪をなす」ことより「悪をなされる」ことを選ぶと言っている(こうしたプラトンの考えが展開されている著作として、『ゴルギアス』のページなどを参照)。

 このことは、精神的態度としては十分に説得力がある。

 とすれば、アーレントを引き継いで私たちは、いかにしてこの「高貴さ」を手に入れることができるのか、と、その社会的・教育的条件を考えていくことが重要だろう。


③責任と記憶

 続けてアーレントは言う。

最大の悪者とは、自分のしたことについて思考しないために、自分のしたことを記憶していることのできない人、そして記憶していないために、何をすることも妨げられない人のことなのです。    

 責任ある個人とは、自らの行為をしっかりと記憶できている者のことである。そしてそのような個人のことを、われわれは「人格」と呼ぶ。
 
 それゆえアーレントは次のように言う。

「すると、人格とは〈考え深さ〉からそのままもたらされる結果だということになります。言い換えると、赦しを与えるということは、罪ではなく、人格を赦すということです。そして根を失った悪においては、赦すことのできる人格がもはや残されていないのです。    

 われわれが他者を「赦す」という時、それは、罪を赦すのではなく「人格」を赦すのだ。

 ところが、もしその人が、自らの罪を「記憶」することも「深く考える」こともできなかったとするなら、私たちは、「赦す」ことのできる人格を、もはや見出すことができなくなってしまうということになる。

 ナチスの裁判において前代未聞であったのは、まさに人々は、被告の中に、赦されるべき、あるいは裁かれるべき「人格」を見出すことが困難だった点にある。

「ナチスの犯罪者の裁判で困惑が生じたのは、これらの犯罪者たちがすべての人格的な性質を自主的に放棄していて、まるで罰する人も赦免すべき人も残されていないかのようだったからです。」    


④理性、欲望、意志

 さらにアーレントは言う。

 人間には理性があるが、人は時にこれを欲望に屈服させてしまう。

 しかし私たちには、この理性と欲望を調停する、さらに第三の能力が備わっている。

 それは「意志」だ。

意志は理性と欲望の調停者であり、この役目においては意志だけが自由なのです。〔中略〕完全にわたしだけに固有なものは意志なのです。


 この意志の力によって、われわれは善悪を判断し、善へとめがけることができる。

 ではそれは、どのようにすれば可能だろうか。


⑤誰と共に生活するか。そして、悪の凡庸さ

 アーレントは言う。善悪をしっかりと判断し、意志によって善をめがけられること。その条件は、「誰とともに生活したいか」という問いによっている、と。

「どのような人々と生活をともにしたいかは、実例を通じて、現実または虚構の人物、すでに亡き人物やいまなお生きている人物の手本を通じて、そして過去と現在の出来事の手本を通じて思考することで、選択するのです。」

 自らが手本にしたい人々を持つことで、われわれは善への意志を保つことができる。アーレントはそう主張する。

 とすると、恐ろしいのは、自分はどんな人とでも、〈ともに暮らす〉ことができるという人が現れること」である、とアーレントは言う。


「自分の手本を選択すること、ともに暮らしたい人を選択することができない場合、そもそも選択する意志がない場合、そして判断することで他者とかかわることができないか、かかわる意志がない場合には、真の躓きの石(スカンダロン)が生まれます。」

 自分の中に、善への意志を育みたいと思えるような手本がないということ、そうした人々は、容易に悪へと走ることができる。そうアーレントは言う。

「そこに恐怖があります。そして同時にそこに悪の凡庸さがあるのです。


 悪の凡庸さ、それは、自ら判断し責任をもって善を意志することのできない、そのような凡庸さに宿る悪のことなのだ。

(苫野一徳)

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