大乗仏典『認識と論理』


はじめに

 紀元後7世紀に活躍した、仏教最大の哲学者ダルマキールティ。本書は、彼の認識論、論理学、弁証論を、モークシャーカラ・グプタが組織的に解説したものである。

 また、後期インド仏教哲学の主要な学派、すなわち、説一切有部経量部唯識派中観派の教義の要綱も述べられており、仏教知識論の概説としても読むことができる。

 仏教哲学の集大成とも言うべき仏典だろう。

 『般若経』をはじめとする大乗仏教の教えの本質は、「空」にある。いわゆる「色即是空」「空即是色」の思想である。

 一切は、生じてはまたその刹那に滅びていくものである。世界は「有」ではなく、「空」なのである。

 このことを説くことで、大乗仏教は、物やとりわけ自我に執着することの無意味、虚しさを人々に教えた。それは今もなお多くの人々の救いであり続けているだろう。
 
 しかし『般若経』などの「経」は、一切が「空」であることの根拠を、理を尽くして説明するということをしなかった。

 そこでやがて、大乗仏教は「論」の時代を迎えることになる。「経」の説く内容を、徹底的に理詰めで「論証」しようとしたわけだ。

 その徹底した「理屈」力は、中々のものだ。その気になれば、この仏典にはアリストテレスウィトゲンシュタインも含まれている、とさえ言えるかも知れない。特に本書前半は、西洋近代の認識論と比較しても遜色がない。(仏教哲学はヒュームに親和性があるように思われる。そしてヒュームの認識論は、その後カントによって、そしてさらにその後フッサール現象学によって乗り越えられている。仏教哲学の認識論は、後述するように、カントにまで達することができなかったと私は考えている。〔ヒューム、カント、フッサールのページ参照〕)

 さて、しかし後半になって「論証法」がテーマになると、私の考えではその形式論理学はきわめて問題の多いものとなる。

 世界が「有」ではなく「空」であることを論証する仏教哲学最大の論理は、「帰謬法」である。

 相手の理屈を、「これも否、あれも否、ほらここだって成り立たない」と言って、ひたすらに「否」を繰り返し相対化していく方法だ。相手の理屈の論理的矛盾をひたすらつき続けることで、逆説的に自説の正しさを論証しようとするわけだ。

 そうした帰謬論の無効性を徹底的に明らかにしたのが私の考えではカントとフッサールなのだが、その点についても含めて、以下本書の内容を紹介していくことにしたい。

 しかしともあれ、東洋と西洋とでは論理的思考が異なっている、とよく言われるが、古今東西の哲学をちゃんと比較検討しながら精読すると、実は人間の認識も思考の様式も、そうそう変わるものではないということがよく分かる。

 それゆえ、東洋より西洋の方が優れている、とか、その逆である、とかいった議論は、きわめて不毛な議論であると私は思う。

 双方の「強み」を活かし、哲学を継承発展させていくこと。現代の哲学徒としては、そのような道を歩みたい。


1.確実な知識とは認識方法のことである。

 本書では、まず「確実な知識」とは何かが説かれる。

 著者によれば、それは「認識方法」のことである。

「たとえ事実としては、(認識した対象とは)別個なものが獲得されるとはいえ、わたくしは見たものと同じものを得た、という形の同一性の判断は生じるのであるから、この場合にも認識したものを獲得したと言いうるのである。」

 これは、17世紀ヨーロッパの哲学者デカルトと、ほぼ同等の洞察だと言ってもいいかも知れない。(『方法序説』『省察』のページ等参照)

 私たちは、認識の対象を確実な知識だと言うことはできない。

 目の前のグラスが、絶対確実に私が見ているままに実在しているかどうか、私たちは疑うことができる。犬やトンボや魚は、このグラスをまた違ったものとして認識しているはずである。さらに言えば、この見えているグラスは幻覚かも知れないし、私はきわめてリアルな夢を見ているのかも知れない。

 それゆえ私たちは、認識の対象を確実な知識だと言うわけにはいかないのだ。

 しかし著者グプタは言う。そうは言っても、このグラスがこのようなものとして見えている、という「認識方法」については、私たちはこれを疑うことができない、すなわちこの認識方法こそが確実な知識なのである、と。(ちなみに、フッサールであれば、これを「認識作用」あるいは「コギタチオ」などと呼ぶだろう。〔フッサール『イデーンⅠ』のページ参照〕)


2.認識の分類=知覚と推理

 さて、この認識の方法には2種類ある、とグプタは主張する。

 1つは知覚、もう1つは推理、すなわち推論である。

 そしてグプタは、「知覚」こそが「迷乱なき知識」であると言う。と言うのも、何かが「見える」とか「聞こえる」とかいうことそれ自体は、疑うべくもなく、私たちが確実に直観してしまっていることであるからだ。

 他方の推論は、知覚をもとにして概念によって組み立てていく認識であるから、間違うことがある。それゆえ、私たちの認識方法は知覚と推理だけではあるが、確実なのは前者だけである、とグプタは主張する。

 ちなみにこの確実な「知覚」の中に、グプタは「ヨーガ行者の直観」もまた挙げている。

 瞑想によって、ヨーガ行者は「真理」を知覚することができる。

 ここで言う真理とは、仏教に言う「四聖諦」、すなわち。

「すべては苦であるという真理(苦諦)、その原因に関する真理(集諦)、苦の絶滅に関する真理(滅諦)、絶滅に至る道に関する真理(道諦)という四つのとうとい真理(四聖諦)のことである。」

 なぜ瞑想によってこうした真理に到達することができるのか。グプタの「論証」方法は、あえてこれに対する「反論」を紹介し、それを「論駁」することで逆説的に自説の正しさを主張するものである。

 たとえば以下のようである。

(反論)「いったいに、瞑想というものは一種の概念的思惟である。そして、概念的思惟は実在するものを対象としない。だから、(瞑想によって)実在するものがありありとあらわれることがどうしてありうるのか。」

 これに対してグプタは答える。

(答論)「概念的思惟は本来、実在するものを対象とするのではないが、しかし、実在するものを構想するのである。そのために、瞑想にもとづいて実在するものもありありとあらわれてくるのである。」

 かなり無茶苦茶な理屈のようにも思えるのだが(笑)。


3.能証の方法

 続いてグプタは、いよいよ能証の方法について逐一論じていくことになる。能証とは、「論拠を示して論証する」といった意味と考えればいいだろう。

 グプタが重視するのは、先にも紹介した帰謬法である。これは、相手の論を「否定」することで逆説的に自説の正しさを論証するもので、グプタによればその方法は16個ある。一応挙げておく。

1.否定の対象自体の非認識
2.結果の非認識
3.原因の非認識
4.能遍の非認識(*必然的におおうもの)
5.否定の対象自体と対立するものの認識
6.結果と対立するものの認識
7.原因と対立するものの認識
8.能遍と対立するものの認識
9.否定の対象自体と対立するものの結果の認識
10.結果と対立するものの結果の認識
11.原因と対立するものの結果の認識
12.能遍と対立するものの結果の認識
13.否定の対象自体と対立するものの所遍の認識(*必然的におおわれるもの)
14.結果と対立するものの所遍の認識
15.原因と対立するものの所遍の認識
16.能遍と対立するものの所遍の認識

 要するに、たとえば3であれば、「そのことの原因を知ることはできない」とか、6であれば、「それ以外の結果もありうる」とかいう具合に相手を論駁するのが、この否定的推理の方法である。

 そして以下、グプタは、これらの論法を駆使しながら、さまざまな仏教思想を「論証」していくことになる。


4.神の存在の否定

 たとえば彼は、神の実在を主張するニヤーヤ学派の学説を取り上げ、これを否定する。

 ニヤーヤ学派の学説はこうだ。

「原因がないときには、結果というものは一度たりとも生じることはありえないはずである。そういうわけで、あるものが結果であり、しかもそれは知的な存在者をその原因としていないこともある、というように疑ってはならない」

 何らかの事物が今結果的に存在している以上、その原因としての神は存在しなければならない、というわけだ。

 これに対してグプタは言う。

「本来目に見えない知的な存在者は知覚されないし、したがってそれと結果との間の必然的関係も知覚によって証明されえない」

 要するに、神は知覚されないのだから、事物との関係性を証明することはできない、というわけだ。

 帰謬論のお手本のような「論証」だが、実は18世紀ドイツの哲学者カントによって、このような「論証」は決して成り立たないのだということが明らかにされている。

 カントが明らかにしたことは、こうした形而上学的問い(究極因の問い)に、人間の理性は決して答えることができないということだった。

 神はいる、という人の推論も、神はいない、という人の推論も、どちらもお互いを納得させるほどの理屈を決して編み上げることができないのである。カントはこのことを、「純粋理性のアンチノミー」という仕方で明らかにした。どちらの推論も、それぞれに妥当性を持ち、またそれぞれに不十分さを持たざるを得ないのだ。この点の詳細については、『純粋理性批判』のページを参照していただきたい。


5.「刹那滅性」の論証

 続いてグプタは、大乗仏教思想の中核である「刹那滅性」の論証に入る。一切は生じては消滅し、恒常性などない、とする考えだ。

  恒常性を否定する論理を本書ではいくつも提示しているが、その根本は次のようである。

「必然的関係が確定していないときには、能証に不定の誤りが生じる。」

 要するに、今あるものがずっと続いてきたとか続いていくとかいう必然的関係性は、確定しえないではないか、という帰謬の論理である。

 しかし私の考えでは、「必然的関係性」が「ある」という命題が否定されうるからといって、それがすなわち「必然的関係性」が「ない」ということの正しさを論証していることにはならない。

 この点、やはりカントのアンチノミーの議論は、すぐれているというほかないと私は思う。


6.輪廻の論証

 さらに同じような論法を用いて、グプタは仏教における(さらにいえば古代インド宗教哲学から連綿と続いている)「輪廻」の思想を「論証」しようとする。

 その論理は、次のようである。

1「心というものはすべて、次の瞬間の心と結びつくものである、たとえば現在の心のように。」
「死ぬときの心も、心にかわりはない。」
3「だから、死ぬときの心は、次の瞬間、すなわち、次生のはじめの心と結びつく。」

 これもまた、決して十分な「論証」にはなりえていないといわざるを得ない。

 再び、カントが明らかにしたように、形而上学的問いについては、私たちは「推論」するほかに思考の方法をもちえない。そしてそれは、「推論」である以上、決して「確実性」をもちえない。(先述したように、このことについては本書でも述べられている。)それゆえ、対立する2つの「推論」(「神はいる」と「神はいない」など)は、どちらが正しいかを決して論証することができず、アンチノミー(二律背反)に陥らざるを得ないのである。

 私たちは、「能証」を、アンチノミーに陥らざるをえない帰謬論に頼ってしまうわけにはいかない。

 では私たちの思考の方法は、原理的にはどのようでありうるのだろうか。

 これまで述べてきたように、これはカントやフッサールが徹底してきたテーマである。

 2人のページを、ぜひともお読みいただければと思う。

(苫野一徳)




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ベック『世界リスク社会論』

はじめに

 9.11の後と前の、2つの講演をもとに編まれた本書。

 予見も制御もきわめて困難になってしまった、世界大化したリスクを抱える現代社会。ベックはこれを、世界リスク社会と名づける。

 福島の原発事故を経験した私たちにとって、それはあまりにリアリティのある言葉である。

 ベックは言う。今日、科学技術の統制は一国内の問題である。しかしそこで起こる問題は、一国内を超えてグローバル化する。

 まさに私たちは、原発事故が、国内にとどまらずいかに世界的に大きな影響を与えるかを目の当たりにした。

 しかもこのリスクは、従来のような保障可能性を超え出るような甚大なものである。

 原発事故による天文学的な損害賠償金は、もはや保険によって対処可能な次元のものではない。

 世界リスク社会、それはまさに、きわめて制御困難な、世界大のリスクを抱える社会なのである。

 しかしベックは言う。

 この世界リスク社会の危機を十分に認識することで、私たちは、このことを次の世界社会のための大きなチャンスに変えていくことができるし、また変えていかなければならないのだと。

 それは、グローバルな協調体制法整備への道である。

 いかにして各国が国際的な協調体制を構築しうるか。これは、現代社会最大の課題の1つなのである。

 今や若干「一般論」になってきた感もあるが――それはむしろ喜ばしいことだが――私もまた、ベックのこの主張には大いに賛同する。


1.世界リスク社会とは

 本書を、ベックは印象的なエピソードから書き起こす。

 アメリカの議会が、ある科学委員会に、1万年後の人類に放射性廃棄物の最終処理場を伝える方法を開発するよう要請した。

 「現在」の人類がいなくなっても、その場所が危険だということを伝えるにはどうすればいいか。

 委員会の出した答え、それは、そのようなメッセージを伝える方法はおそらくない、ということだった。

 ベックは言う。

「核エネルギーについての過去の決定、そして遺伝子工学や人体遺伝学やナノテクノロジーやコンピューター科学の利用に関する現在の決定によって、わたしたちは、予見できず、制御不可能な、それどころかコミュニケーションを取ることが不可能な結果をもたらし、そのことによって地球上の生命を危険にさらしているのです。

 ここに、世界大になった、そればかりか、未来の人類や地球さえも巻き込んだ、世界リスク社会の姿がある。

 世界的なリスクには、具体的にどのようなものがありうるか。ベックは次の3つを挙げている。

世第一に生態系の危機、第二に世界的な金融危機、第三に同時多発テロ以降の国境を超えたテロネットワークによるテロの危険性のことです。」

 1つめの生態系の破壊とは、言うまでもなく、科学技術の進歩によるグローバルな問題である。

 2つめの世界的な金融危機について、ベックは、グローバルなリスクが蔓延する世界において、政治と国家を経済に取り替えるという新自由主義のスローガンは、急速にその信憑性を失いつつあります」と言っている。


 新自由主義は、国家をできるだけ小さなものにして、規制緩和を推し進め、世界経済を徹底的に自由化しようとしてきた。

 ところが、何の統制もない放埒な経済活動は、世界的金融危機のリスクを高めるだけでなく、テロの前にも無防備であることが分かってしまった。

 グローバル化したテロの問題に、経済的利益最優先の一企業が対応することなど、不可能であるからだ。

 その問題は、たとえば9.11に見ることができる。このテロを防ぐことができなかった1つの要因は、アメリカの航空会社民営化にあった。ベックはそう指摘する。

「アメリカがテロ攻撃の目標であるということは、はじめからわかっていました。にもかかわらず、アメリカでは航空機の安全は民営化され、非常にフレキシプルなパート労働者による『奇跡的な就業の創出』によって実現されました。しかし、彼らの賃金は、ファストフード店の従業貞以下、時給約6ドルというものなのです。」

 しかしベックは、新自由主義に代えて、国家主義的な保護主義をとるべきだとは主張しない。重要なことは、経済一辺倒になるのではなく、いかに国家間の協調を法制化しうるかということなのだ。


2.世界リスク社会をチャンスにできるか

 そこでベックは言う。われわれはこの危機を、むしろチャンスとして捉え直すべきである、と。

 それは具体的には、次の3つの可能性として描かれる。すなわち、1.国際的な法基盤の構築、2.対話による政治の重要性の認識、3.コスモポリタン的複数国家の協力構造への意識の高まりである。
 
 要するに、この世界大化した危機の時代において、各国は、国際的な協調関係の構築へと向けて、建設的な努力へと向かうだろうし、また向かわせなければならないと言うわけだ。

「確実に言えるのは、世界リスク社会というようにわたしたちが認識した苦境において、『世界市民社会』(カント)が、その輪郭を得るようになるということです。

 したがって今後の国家は、逆説的に、自国の利益のためにも、脱/超国家化しなければならないことになる。

「諸国家は、自国の利益のために、脱国家化しなくてはいけないし、超国家化しなくてはいけません。つまり、グローバル化された世界において自分のナショナルな問題を解決するために、自己決定権をある程度、放棄しなくてはいけないのです。

 いかにして各国が国際的な協調体制を構築しうるか。これは、現代社会最大の課題の1つなのである。


3.保障可能性の限界

 以上が本書の核だが、2つめの講演において、ベックは2つの興味深い、そして重要な概念を提示しているので、その点についても触れておくことにしたい。

 1つは、「保障可能性の限界」という概念、2つは、「サブ政治」という概念である。

 保障可能性の限界とは、世界リスク社会においては、その被害があまりに甚大であるため、もはや保険が機能しなくなるという問題である。

 ベックは、とりわけチェルノブイリ原発事故によって、この思いを強くした。

 私たちにとってもまた、この問題はまったく人ごとではない。冒頭でも述べたように、福島原発事故を経験した私たちにとって、この保障可能性の限界の問題は、きわめてリアリティのある問題である。

 福島の原発事故の損害賠償を徹底しようとするならば、天文学的な金額になると言われている。それはもはや、保険によって対処できるような次元のものではない。

 さらにまた、ベックは次のようにも言っている。

 科学技術の管理は、いまだ一国内の問題である。しかしそのことによって起こる被害は、グローバルな問題である。

「一方で、科学的、技術的、経済的推進の決定がいまだに国民国家と経営体の枠でなされているのに対し、他方では、その脅威にさらされた結果、わたしたちはみんな世界リスク社会の成員になってしまっているのです。

 保険の無効化と、国内問題の世界への影響、こうした問題が、私たちに世界リスク社会の問題をまざまざと見せつける。


4.サブ政治

 2つめの重要概念は、「サブ政治」である。

 ベックは言う。以上のような世界リスク社会の問題に対処するため、われわれは新しい政治概念を必要とするのだと。

 それこそが、ベックが「サブ政治」と呼ぶものである。

 それは、NGOに象徴される下からの政治の概念である。

「『サブ政治』という概念は、国民国家の政治システムである代議制度の彼方にある政治を志向しています。その概念は、社会におけるすべての分野を動かす傾向にある政治の(最終的にグローバルな)自己組織化の兆しに注目します。サブ政治は、『直接的な』政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)を通り越し、政治的決定にその都度個人が参加することなのです。」

 グローバル社会におけるサブ政治は、グローバル化した諸問題に中々対処し得なくなった国内政治、国際政治に、下からの政治力学を持ち込むことで対処しようとする。

 ベックは次のような例を挙げている。

 1995年、グリーンピースは、石油多国籍企業シェルを、採掘ボーリング島を解体したものを大西洋に沈めずに、陸地で廃棄するよう導くことに成功した。

 国際的ルールの欠如ゆえに起こる環境破壊問題に、グリーンピースは、グローバルな市民活動を通して対処したのである。

 そしてベックは言う。

 こうした動きをみてみれば、グローバル化は民主主義の衰退をもたらすとか、伝統的価値の崩壊によって個人のモラル低下をもたらすとかいったグローバリゼーション批判が、実に浅薄なものであることが分かるはずである、と。

 私たちは、世界リスク社会を認識することで、共にこの問題に立ち向かおうとしているのである。

「危険というものを意識化することによって、世界リスク社会は自己批判的になります。〔中略〕政治的なものがこれまでとは違った形で新たに生まれ、噴出します。しかも、公的な権限やヒエラルヒーを超えたところでそうなります。


 鋭い現実認識に基づいたベックのこの見方には、私も同意する。


(苫野一徳)




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