アガンベン『開かれ―人間と動物』


はじめに

 現代イタリアの美学者・哲学者、ジョルジョ・アガンベン2002年の著作。


 近年は政治思想の領域でその思索を展開しているアガンベンだが、本書は、そのための基本モチーフを簡潔に表現したものと言えるだろうか。

 人間とは何か。それははたして、動物との対比によって定義づけることができるのか。

 この問いに、アガンベンは一種系譜学的な思索をこらしながら論を進める。

 そして、神学、生物学、哲学におけるさまざまな人間論を概観しながら、ある意味恣意的に分節されてきた人間と動物との間の分節点を、徹底的に「宙づり」にすることを提案する。

 そのことが、フーコーの言う「生政治」「生権力」への対抗になりうるからだ。(本書でははっきりそう言明されているわけではないが。)

 生政治、それは、われわれの「生」それ自体を管理支配する現代の権力のあり方である。

 現代政治は、われわれの健康を管理し、生き方を決定し、さらに言えば、臓器移植や遺伝子操作といった問題において、われわれの「動物的生」にまで関与する。

 そうした生政治に対抗するために、われわれは、何が「人間的生」であり何が「動物的生」であるかという一切の分節線を拒み続けるべきである。そうアガンベンは主張する。

 どれだけ分節したとしても、そこに残り続けざるを得ない「残余」「空隙」を指摘し続けること。そのことが、一切を管理しようとする権力にその「不可能性」をつきつけるという意味で、生権力への対抗の役割を果すことになる、ということだろうか。

 
 さて、もし以上のアガンベン解釈が妥当であったとするならば、これは単なる「対抗思想」であって、現実社会の「構想」のために、積極的な思考の方法を提示し得ないものなのではないか。私はそう思う。

 このブログでも相当数紹介してきたように、哲学史上、その時代時代の社会に対する「対抗思想」は、山のように現れてきた。

 しかし私の考えでは、次の時代を創り上げてきた哲学は、常に、ではその問題をどのように解き、どのような方向へと構想の指針を打ち出していくことを「よい」と言えるのか、という問いに、力強く答えてきたものだけである。

 生政治への対抗のために、われわれの生に対する一切の規定を宙づりにせよ、というアガンベンの思想は、ただ対抗し続けることだけを説いたもののように私にはみえる。対抗の先に、どのような社会をどのように作り上げればよいかという、具体的ヴィジョンがみえないように私には思える。

 生政治について論じたフーコーでさえ、晩年には、生政治を避けられないのだとするならば、これを善用するためにはどうすればよいかと考えた。

 現代において、たとえ人間がどれだけ「動物化」したのであったとしても(つまり動物的欲求の充足へと欲望が矮小化されてしまっているのだとしても)、それでもなお、われわれはいかにしてより充実した豊かな「人間的生」を生きることができるだろうか、と考えること。

 この問いこそが、現代哲学の1つの大きな課題なのではないかと私は思う。


1.人間と動物をめぐる思考

 「人間と動物」をめぐるこれまでの様々な思考モードを、アガンベンは冒頭から畳み掛けるようにして紹介していく。

 まず紹介されるのは、ミラノのアンブロジアーナ図書館に収められた、13世紀のヘブライ語聖書に見られる細密画である。

 驚くべきことに、そこには聖者たちが動物の頭を持つものとして描かれている。

 アガンベンはこれを解釈して次のように言う。このことが意味していること、それは、最後の審判の日、動物と人間の関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがその動物的な本性との宥和を遂げるだろう」ということなのではなかったか、と。

 続いてアガンベンは、コジェーヴとその(5歳年上の)弟子バタイユの、「動物化」する人間についての思想へと考察を進める。

 コジェーヴは、自由を求めて争い続けた人類が、民主主義の普及によってついに自由を手にした現代、もはや人間的自由への欲望は失われ、人々は「動物化」していくであろうと説いた。つまり、そこでは動物的欲求の充足のみが問題とされることになる、というわけだ。(コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』のページ参照)

 しかしバタイユはこれを認めない。われわれはそれでもなお、「用途なき否定性」を必要とする。人間が人間であるゆえんは、たとえばエロティシズムなどに見られる、まったくもって不合理なエネルギーの爆発なのだから、と。(バタイユ『エロティシズム』『呪われた部分』のページ等参照)

 
2.分接の秘儀

 以上のような考察を導きの糸としながら、アガンベンは、結局のところ「人間」概念とは、そもそも分接され得ないものを無理矢理さまざまな観点から切り取ったに過ぎないものなのだと論じる。

 このことを、アガンベンは、キリスト教神学生物学、そして哲学の言説を系譜学的に踏まえつつ、人間と動物の境界線が、実はそもそもあいまいなままであったことを明らかにする。

 たとえばキリスト教神学において、人間の動物的機能(生殖機能)はきわめて「無為で空虚」なものとして描かれている。アウグスティヌスが主張したように、エデンの園では、アダムは性欲を持たず、性器は手足のように自発的に動かせるものとされたのである。(アウグスティヌス『神の国』のページ参照)

 リンネの生物学において、人間は他の動物との間に顕著な種差のないものとして描かれている。その違いは、「ただおのれを認識できるということだけである」


 実はこのような思想は、人文主義者ピコ・デッラ・ミランドラにもすでに見られたものである。彼において、人間は、なんら格別な使命も、他の動物に対する序列の中にいるものでもなかった。

 ユクスキュルの生物学においても、「生命科学における人間中心主義的な視点の仮借なき放棄と、自然のイメージの根本的な脱人間化」が謳われている。人間の世界だけが、唯一の正当な世界であるわけではない。ユクスキュルの生物学は、人々に、多様な生物がそれぞれの多様な世界を生きていることを、はっきりと自覚させたのである。


3.ハイデガーにおける「人間」と「動物」

 続いてアガンベンは、ハイデガーにおける人間と動物についての思想を検討する。

 ハイデガーの「真理」観は、「非隠蔽性」というキーワードで示すことができる。それはすなわち、ヴェールをはぎ取られた「開かれ」である。(ハイデガー『形而上学入門』『芸術作品の根源』のページ等参照)

 そしてハイデガーは言う。この開かれを見ることができるのは、人間だけである、と。

ヴェールを剥ぎ取られた存在を名指す開かれを見ることができるのは、人間だけ、いやむしろ、真の思惟の本質的なまなざしだけである。逆に、動物は、この開かれをけっして見ることがない。」


 とは言え、ハイデガーは、人間と動物との間に決定的な切断線を引いたわけでは決してない。そうアガンベンは主張する。

 むしろハイデガーは、人間と動物との間の接合点を、「倦怠」という言葉で言い表している。われわれは、「倦怠」という生のあり方によって、人間と動物の間を行き来しているのである。

 そこで政治の本質とは、この人間性と動物性との葛藤にある。そうハイデガーは考えたとアガンベンは主張する。「ポリスや政治学のようなものが可能であるのは、まさに本質的に人間が閉塞への開示において生起する」からである。


 政治とは、単なる動物的生を満たすことにではなく、「開かれ」へとめがける人間的本質をもったものなのである。


4.人類学機械の停止へ

 以上のようにハイデガーの思想を検討した上で、アガンベンは次のように言う。

「ハイデガーは、人類学機械が、人間と動物、開かれと開かれざるものとのあいだの闘争をたえず裁決し再編することによって、ひとつの人民にとっての歴史や命運をいまだなお生み出すことができると信じた最後の人物だったのである。」

 「人類学機械」とは、人間と非人間との間に分接線を引こうとする思考のこと、と考えればいいだろう。アガンベンによれば、ハイデガーは、そのような分接線を引きながら、人間の歴史や命運について思考した最後の哲学者だった。

 しかし現代のわれわれは、誰も、ここに明確な分接線が引けるなどとは思っていない。そうアガンベンは主張する。

「およそ70年の距たりを経た今日、人々が引き受けるべき、あるいは、たんに課されるだけのものであるにせよ、いかなる歴史的使命ももはや存在しないことは、まったく誠意に欠けるといった人でないかぎり、誰にとっても、明白なことである。」

 人間の歴史的使命などもはやない。われわれは今や、動物化した政治の世界を生きているのだ。

 ここに、われわれの動物的生をも操作する、フーコーの言う「生政治」「生権力」が登場する。(フーコー『監獄の誕生』『性の歴史』のページ等参照)

 現代政治は、われわれの「生」それ自体を管理する。健康を管理し、生き方を管理し、さらに言えば、臓器移植や遺伝子操作といった問題において、われわれの動物的生にまで関与する。

 アガンベンの思想には、この「生政治」にどう対抗するかという関心がある。

 アガンベンの回答はこうだ。

「それは、中心に空虚を見せてやること、すなわち、人間と動物を―人間のうちで―分割する断絶を見せてやることなのであり、この空虚に身を曝すこと、つまり、宙づりの宙づり、人間と動物の無為に身を曝すことにほかならない。

 要するに、われわれの「生」を権力に決して規定させないこと、それをつねにずらし続けること、その「残余」を示し続けること、このことが、「生政治」「生権力」への対抗の仕方となるはずだ。そうアガンベンは言うのである。

 このことを、アガンベンはベンヤミンの言葉を借りて次のようにも言う。

「ここでは人類学機械は、もはや自然と人間を分節化することはなく、人間ならざるものの宙づりと捕捉をつうじて人間を産出する。人類学機械はいわば停止しているのであり、『静止状態』にあるのだ。」


 人間と人間ならざるものの間の分節を拒み続けることで、われわれを決して規定されまいと抗うこと、このことが、アガンベンにおける「生政治」への対抗思想というわけだ。


(苫野一徳)




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大乗仏典『認識と論理』


はじめに

 紀元後7世紀に活躍した、仏教最大の哲学者ダルマキールティ。本書は、彼の認識論、論理学、弁証論を、モークシャーカラ・グプタが組織的に解説したものである。

 また、後期インド仏教哲学の主要な学派、すなわち、説一切有部経量部唯識派中観派の教義の要綱も述べられており、仏教知識論の概説としても読むことができる。

 仏教哲学の集大成とも言うべき仏典だろう。

 『般若経』をはじめとする大乗仏教の教えの本質は、「空」にある。いわゆる「色即是空」「空即是色」の思想である。

 一切は、生じてはまたその刹那に滅びていくものである。世界は「有」ではなく、「空」なのである。

 このことを説くことで、大乗仏教は、物やとりわけ自我に執着することの無意味、虚しさを人々に教えた。それは今もなお多くの人々の救いであり続けているだろう。
 
 しかし『般若経』などの「経」は、一切が「空」であることの根拠を、理を尽くして説明するということをしなかった。

 そこでやがて、大乗仏教は「論」の時代を迎えることになる。「経」の説く内容を、徹底的に理詰めで「論証」しようとしたわけだ。

 その徹底した「理屈」力は、中々のものだ。その気になれば、この仏典にはアリストテレスウィトゲンシュタインも含まれている、とさえ言えるかも知れない。特に本書前半は、西洋近代の認識論と比較しても遜色がない。(仏教哲学はヒュームに親和性があるように思われる。そしてヒュームの認識論は、その後カントによって、そしてさらにその後フッサール現象学によって乗り越えられている。仏教哲学の認識論は、後述するように、カントにまで達することができなかったと私は考えている。〔ヒューム、カント、フッサールのページ参照〕)

 さて、しかし後半になって「論証法」がテーマになると、私の考えではその形式論理学はきわめて問題の多いものとなる。

 世界が「有」ではなく「空」であることを論証する仏教哲学最大の論理は、「帰謬法」である。

 相手の理屈を、「これも否、あれも否、ほらここだって成り立たない」と言って、ひたすらに「否」を繰り返し相対化していく方法だ。相手の理屈の論理的矛盾をひたすらつき続けることで、逆説的に自説の正しさを論証しようとするわけだ。

 そうした帰謬論の無効性を徹底的に明らかにしたのが私の考えではカントとフッサールなのだが、その点についても含めて、以下本書の内容を紹介していくことにしたい。

 しかしともあれ、東洋と西洋とでは論理的思考が異なっている、とよく言われるが、古今東西の哲学をちゃんと比較検討しながら精読すると、実は人間の認識も思考の様式も、そうそう変わるものではないということがよく分かる。

 それゆえ、東洋より西洋の方が優れている、とか、その逆である、とかいった議論は、きわめて不毛な議論であると私は思う。

 双方の「強み」を活かし、哲学を継承発展させていくこと。現代の哲学徒としては、そのような道を歩みたい。


1.確実な知識とは認識方法のことである。

 本書では、まず「確実な知識」とは何かが説かれる。

 著者によれば、それは「認識方法」のことである。

「たとえ事実としては、(認識した対象とは)別個なものが獲得されるとはいえ、わたくしは見たものと同じものを得た、という形の同一性の判断は生じるのであるから、この場合にも認識したものを獲得したと言いうるのである。」

 これは、17世紀ヨーロッパの哲学者デカルトと、ほぼ同等の洞察だと言ってもいいかも知れない。(『方法序説』『省察』のページ等参照)

 私たちは、認識の対象を確実な知識だと言うことはできない。

 目の前のグラスが、絶対確実に私が見ているままに実在しているかどうか、私たちは疑うことができる。犬やトンボや魚は、このグラスをまた違ったものとして認識しているはずである。さらに言えば、この見えているグラスは幻覚かも知れないし、私はきわめてリアルな夢を見ているのかも知れない。

 それゆえ私たちは、認識の対象を確実な知識だと言うわけにはいかないのだ。

 しかし著者グプタは言う。そうは言っても、このグラスがこのようなものとして見えている、という「認識方法」については、私たちはこれを疑うことができない、すなわちこの認識方法こそが確実な知識なのである、と。(ちなみに、フッサールであれば、これを「認識作用」あるいは「コギタチオ」などと呼ぶだろう。〔フッサール『イデーンⅠ』のページ参照〕)


2.認識の分類=知覚と推理

 さて、この認識の方法には2種類ある、とグプタは主張する。

 1つは知覚、もう1つは推理、すなわち推論である。

 そしてグプタは、「知覚」こそが「迷乱なき知識」であると言う。と言うのも、何かが「見える」とか「聞こえる」とかいうことそれ自体は、疑うべくもなく、私たちが確実に直観してしまっていることであるからだ。

 他方の推論は、知覚をもとにして概念によって組み立てていく認識であるから、間違うことがある。それゆえ、私たちの認識方法は知覚と推理だけではあるが、確実なのは前者だけである、とグプタは主張する。

 ちなみにこの確実な「知覚」の中に、グプタは「ヨーガ行者の直観」もまた挙げている。

 瞑想によって、ヨーガ行者は「真理」を知覚することができる。

 ここで言う真理とは、仏教に言う「四聖諦」、すなわち。

「すべては苦であるという真理(苦諦)、その原因に関する真理(集諦)、苦の絶滅に関する真理(滅諦)、絶滅に至る道に関する真理(道諦)という四つのとうとい真理(四聖諦)のことである。」

 なぜ瞑想によってこうした真理に到達することができるのか。グプタの「論証」方法は、あえてこれに対する「反論」を紹介し、それを「論駁」することで逆説的に自説の正しさを主張するものである。

 たとえば以下のようである。

(反論)「いったいに、瞑想というものは一種の概念的思惟である。そして、概念的思惟は実在するものを対象としない。だから、(瞑想によって)実在するものがありありとあらわれることがどうしてありうるのか。」

 これに対してグプタは答える。

(答論)「概念的思惟は本来、実在するものを対象とするのではないが、しかし、実在するものを構想するのである。そのために、瞑想にもとづいて実在するものもありありとあらわれてくるのである。」

 かなり無茶苦茶な理屈のようにも思えるのだが(笑)。


3.能証の方法

 続いてグプタは、いよいよ能証の方法について逐一論じていくことになる。能証とは、「論拠を示して論証する」といった意味と考えればいいだろう。

 グプタが重視するのは、先にも紹介した帰謬法である。これは、相手の論を「否定」することで逆説的に自説の正しさを論証するもので、グプタによればその方法は16個ある。一応挙げておく。

1.否定の対象自体の非認識
2.結果の非認識
3.原因の非認識
4.能遍の非認識(*必然的におおうもの)
5.否定の対象自体と対立するものの認識
6.結果と対立するものの認識
7.原因と対立するものの認識
8.能遍と対立するものの認識
9.否定の対象自体と対立するものの結果の認識
10.結果と対立するものの結果の認識
11.原因と対立するものの結果の認識
12.能遍と対立するものの結果の認識
13.否定の対象自体と対立するものの所遍の認識(*必然的におおわれるもの)
14.結果と対立するものの所遍の認識
15.原因と対立するものの所遍の認識
16.能遍と対立するものの所遍の認識

 要するに、たとえば3であれば、「そのことの原因を知ることはできない」とか、6であれば、「それ以外の結果もありうる」とかいう具合に相手を論駁するのが、この否定的推理の方法である。

 そして以下、グプタは、これらの論法を駆使しながら、さまざまな仏教思想を「論証」していくことになる。


4.神の存在の否定

 たとえば彼は、神の実在を主張するニヤーヤ学派の学説を取り上げ、これを否定する。

 ニヤーヤ学派の学説はこうだ。

「原因がないときには、結果というものは一度たりとも生じることはありえないはずである。そういうわけで、あるものが結果であり、しかもそれは知的な存在者をその原因としていないこともある、というように疑ってはならない」

 何らかの事物が今結果的に存在している以上、その原因としての神は存在しなければならない、というわけだ。

 これに対してグプタは言う。

「本来目に見えない知的な存在者は知覚されないし、したがってそれと結果との間の必然的関係も知覚によって証明されえない」

 要するに、神は知覚されないのだから、事物との関係性を証明することはできない、というわけだ。

 帰謬論のお手本のような「論証」だが、実は18世紀ドイツの哲学者カントによって、このような「論証」は決して成り立たないのだということが明らかにされている。

 カントが明らかにしたことは、こうした形而上学的問い(究極因の問い)に、人間の理性は決して答えることができないということだった。

 神はいる、という人の推論も、神はいない、という人の推論も、どちらもお互いを納得させるほどの理屈を決して編み上げることができないのである。カントはこのことを、「純粋理性のアンチノミー」という仕方で明らかにした。どちらの推論も、それぞれに妥当性を持ち、またそれぞれに不十分さを持たざるを得ないのだ。この点の詳細については、『純粋理性批判』のページを参照していただきたい。


5.「刹那滅性」の論証

 続いてグプタは、大乗仏教思想の中核である「刹那滅性」の論証に入る。一切は生じては消滅し、恒常性などない、とする考えだ。

  恒常性を否定する論理を本書ではいくつも提示しているが、その根本は次のようである。

「必然的関係が確定していないときには、能証に不定の誤りが生じる。」

 要するに、今あるものがずっと続いてきたとか続いていくとかいう必然的関係性は、確定しえないではないか、という帰謬の論理である。

 しかし私の考えでは、「必然的関係性」が「ある」という命題が否定されうるからといって、それがすなわち「必然的関係性」が「ない」ということの正しさを論証していることにはならない。

 この点、やはりカントのアンチノミーの議論は、すぐれているというほかないと私は思う。


6.輪廻の論証

 さらに同じような論法を用いて、グプタは仏教における(さらにいえば古代インド宗教哲学から連綿と続いている)「輪廻」の思想を「論証」しようとする。

 その論理は、次のようである。

1「心というものはすべて、次の瞬間の心と結びつくものである、たとえば現在の心のように。」
「死ぬときの心も、心にかわりはない。」
3「だから、死ぬときの心は、次の瞬間、すなわち、次生のはじめの心と結びつく。」

 これもまた、決して十分な「論証」にはなりえていないといわざるを得ない。

 再び、カントが明らかにしたように、形而上学的問いについては、私たちは「推論」するほかに思考の方法をもちえない。そしてそれは、「推論」である以上、決して「確実性」をもちえない。(先述したように、このことについては本書でも述べられている。)それゆえ、対立する2つの「推論」(「神はいる」と「神はいない」など)は、どちらが正しいかを決して論証することができず、アンチノミー(二律背反)に陥らざるを得ないのである。

 私たちは、「能証」を、アンチノミーに陥らざるをえない帰謬論に頼ってしまうわけにはいかない。

 では私たちの思考の方法は、原理的にはどのようでありうるのだろうか。

 これまで述べてきたように、これはカントやフッサールが徹底してきたテーマである。

 2人のページを、ぜひともお読みいただければと思う。

(苫野一徳)




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