ネグリ=ハート『マルチチュード―〈帝国〉時代の戦争と民主主義』


はじめに  

ファイル:AntonioNegri SeminarioInternacionalMundo.jpg 今やわれわれの社会は〈帝国〉の時代に突入している。

 前著『〈帝国〉』において、ネグリとハートはそのように主張した。

 〈帝国〉とは、「帝国主義」のことではない。

 帝国主義とは、強大な力をもつ国民国家が世界の覇権を握ろうとすることだが、〈帝国〉とは、支配形態が、もはや国民国家としてではなく、超国家的な制度や資本主義システムを通して、世界中に浸透し張り巡らされたネットワークと化した生権力(人々の生き方それ自体に浸透する権力)のことである。

handsome young ruffian  with curly hair この〈帝国〉の分かりやすいモデルを、私たちは今日「セキュリティ」の概念にみることができる。

 かつての戦争は、「国民国家」同士の戦争だった。

 それが今日では、実体のよく分からないテロとの戦いのために、世界中にセキュリティという名の権力が浸透し切っている。あたかも、セキュリティのためには民主主義が犠牲にされても構わないといわんばかりに。

 要するに〈帝国〉とは、(アメリカの)一国支配をさらに超えて、私たちの生活全般にネットワーク状に浸透した実体なき権力形態のことなのだ。

 『〈帝国〉』において、ネグリとハートは、この新しい権力によって、民主主義が危機に瀕していることを告発した。

 本書は、この『〈帝国〉』の続編である。彼らは本書において、こうした〈帝国〉に抵抗するための、新しい政治概念「マルチチュード」を提示する。

 マルチチュードとは何か。

 私なりに言うと、それは、それぞれの個々人がそれぞれの個々人として、共通の目的のために、ゆるやかなネットワークとして相互作用する政治的プロジェクトのことである。そこに中心的権力はない

 ネグリとハートは、すでにそのようなネットワークは世界中に誕生しつつあり、これをしっかり概念化する必要があると、「マルチチュード」という言葉を提示した。

 実際、本書刊行後のいわゆる「アラブの春」などの革命を見れば、彼らの洞察の先見性を理解することができるだろう。

 インターネットを通じて、同じ目的をもった人々がネットワークを作り出し、そしてついには圧制的権力を打ち倒した。

 ネグリとハートは、こうしたマルチチュードこそがこれからのグローバル民主主義のモデルであり、そして絶対的民主主義を初めて可能にする唯一の形態であると主張する。

 
 ネグリとハートの着眼点からは、大きな示唆を受ける。私もまた、マルチチュードというあり方は、グローバル民主主義をドライブさせる大きな原動力になるだろうと思う。

 しかし同時に、私としては、彼らの考えはやや度を超しているようにも思わざるを得ない。

 たとえば2人は次のように言っている。

一般的あるいは公的なものとみなされてきたものはすべてマルチチュドによって再領有および管理運営されねばならず、したがって〈共〉となるのだ。

 彼らによれば、公権力はマルチチュードとして再編される必要がある。それは中心的権力を持たず、多様な人々がその多様性をそのままに、〈共〉なるもの(共通の目的や共有物)のためにゆるやかなネットワークとして構成される。

 このマルチチュードこそが、グローバル民主主義社会のあるべき姿である。そうネグリとハートは言うわけだ。


新しいグローバルなリアリティを創出する数多くの特異性によって組織されるネットワークに即した社会的関係を法が構築しうる唯一の基盤は、〈共〉をおいてほかにない。もちろんその道筋は直線的ではないが、進むべき道はそれ以外にないと私たちには思われる。」


 しかし私の考えでは、これはきわめて重要な民主主義社会の可能性であるけれども、ここに一切を還元することは、民主主義の原理からいって問題だ。

 というのも、そこには「正当性」の根拠が存在しないからである。

 マルチチュードとは、いわば自己組織化し続ける社会運動体である。それはいわば自動的なシステムであるから、マルチチュードは自らの運動の目的や手段の妥当性を吟味する機能を中々持ち得ない。

 たとえば、国際的ハッカー集団「アノニマス」や、反捕鯨団体「シーシェパード」などを思い起こしてみればいいだろう。

 これら団体(ネットワーク)は、ある意味においては、立派な大義を掲げていると言ってもいいのかも知れない。しかしその目的や、目的を達成するための手段の正当性を吟味する動機を、彼らはその性格上持ちえない。

 「われわれは正しい大義のために、ネットワークを形成し権力に立ち向かっているのだ。」

 彼らはそう主張するだろう。

 しかし私たちは、なぜ彼らこそが正しくて、彼らの攻撃対象が間違っていると言うことができるのだろうか。

 その正当性の根拠を、マルチチュードは自らのうちに持ちえない。それは、それぞれがそれぞれに「正しい」と思い合ったことの集合体に過ぎないのであって、彼ら以外の人々からの明確な合意を得てはいないからである。

 となれば、一切をマルチチュードに還元せよというネグリ=ハートの主張は、結局、それぞれのマルチチュードがそれぞれにそれぞの「大義」を主張し合う、形を変えた「万人の万人に対する闘争」と化すことになるだろう。

 ネグリ=ハートからすれば、だからと言って、ここに何らかの合意形成システムが組み込まれてしまったら、それはまた新たな中心的権力の出現を意味すると批判されることになるだろう。

 しかしそれでもなお、マルチチュードに大きな可能性を見出すのであれば、私たちは、その正当性をいかに担保するかという課題を避けて通ることはできないはずだ。

 マルチチュードは、自己組織化する運動であるがゆえに、その「大義」もまた、時間とともにより民主主義的なものになっていく、という考えもあるだろう。実際、そのような傾向はかなりあるだろうと私は思う。

 しかしその時もまた、なぜそれが民主主義的といいうるのか、どのようにして正当性の合意が得られうるのか、という問いを、決して見落としてはならない。ネグリ=ハートの問題意識には、その観点がすっぽり抜け落ちている。

 マルチチュードという、近年の自己組織化する政治運動体には、実際に大きな実効力がある。しかし、だからこそ、そこにこれからのグローバル民主主義の発展の大きな可能性をみるからこそ、私たちは、マルチチュードの「正当性」をいかに担保するかという課題をこそ、真剣に問い合う必要があるのではないか。


1.本書の目的

本書のおもな目的は、新しい民主主義のプロジェクトがよって立つ概念的基盤を打ち立てることにある。

 この概念的基盤こそが、「マルチチュード」である。マルチチュードとは一体何か。ネグリとハートはこの概念の詳細を本書で明らかにしていくが、しかしその前に、彼らはまず、近代の「戦争」や「民主主義」の系譜を追っていく。


2.日常化した戦争

 ネグリとハートは言う。近代主権理論は、戦争をできるだけ抑止するため、これを例外的なものへと追いやってきた。

「主権を有する至高の権威、すなわち君主あるいは国家だけが戦争を起こすことができ、その相手は別の主権権力に限られるという考え方である。」

 主権国家という考え方を打ち立てることによって、近代は、戦争主体を国家に限定した。そのことによって、局地的あるいは私的な戦争を、原理的には不可能にしたのである。

 しかし今日、このモデルはもはや成り立たなくなっている。戦争は局地的に常に勃発し、日常化・全面化してしまっている。

 こうしたグローバルな戦争状態の日常化は、何をもたらすか。ネグリ=ハートは言う。

 戦時においては、民主主義が抑制される。となれば、その恒常化は、民主主義の機能停止を意味するのではないか。

 それは実際、今日のセキュリティ重視の社会にみてとれる。

今日、セキュリティの名のもとに先制攻撃や予防戦争が正当化されることによって、国家主権は明らかに損なわれ、国境はますますその意味を失いつつある。」

 こうして、唯一の戦争主体という、近代主権国家の役割は消滅する。

戦争を宣言し、実施する近代の法的枠組みは、もはや通用しなくなるのだ。


3.暴力の正統化

 となれば、戦争の正統性は、今日いったいどのようにはかられるのか。ネグリとハートは言う。

今日、暴力がもっとも実効的な仕方で正統化されるのは、道徳的なものにせよ法的なものにせよ、既存の枠組みによってア・プリオリにではなく、暴力がもたらした結果にもとづいてア・ポステリオリになされるときであるように見える。」

 要するに、暴力の結果セキュリティが保持され秩序が回復されれば、その暴力は正統化されるというわけだ。この状況に、2人は大きな危機意識を示す。


4.ネットワーク状の敵にどう向き合うか

 こうして、今日セキュリティ管理型権力(暴力)が登場したが、ネグリとハートはこれを高強度の警察行動と呼ぶ。

 つまり軍隊は、国民国家同士の総力戦から、われわれの生活に浸透する警察的権力へと進化を遂げたのだ。ネグリとハートは、これをフーコーの言う「生権力」として捉える。

 テロというネットワーク状の敵に対して、総力戦型軍隊は効果を持たない。重要なことは、人々の生活それ自体に入り込むような権力を作り出すことである。

「軍事的・技術的な優位の限界と脆弱さについての認識から、戦略担当者は全次元および全方位にわたって敵を抑えつける力をもつ、非限定的な支配形態をとるべきだと提案する。必要なのは軍事力を社会的・経済的・政治的・心理的・イデオロギー的管理と結合させる『全方位的支配』だと、彼らは言う。こうして軍事理論家は事実上、生権力の概念を自ら発見したのだ。

 ここに、暴力は生権力−生政治と化す。そう彼らは言うわけだ。権力=軍隊=暴力は、目に見える圧倒的な暴力から、人々の生活に浸透し、これを全面的に操作・支配するものとなる。


5.マルチチュード

 このような生権力−生政治は、先に言ったように民主主義を機能不全に陥らせてしまう。私たちは、このような権力に抗して、十全なる民主主義を開花させる必要がある。

 それはいかにして可能だろうか。

 こうして彼らは、マルチチュードの概念を提起する。

 マルチチュードとは何か。ネグリとハートは言う。

マルチチュドは、特異性同士が共有するものにもとづいて行動する、能動的な社会的主体である。マルチチュドは内的に異なる多数多様な社会的主体であり、その構成と行動は同一性や統一性(ましてや無差異性)ではなく、それが共有しているものにもとづいているのだ。

 生権力たる〈帝国〉は、私たちをその生き方の次元から規定し支配しようとする。

 それに対抗できるのは、多様な人々が、その「特異性」を特異性のまま保持しつつ、何らかの同じ目的や大切なもの、すなわち〈共〉なるものに基づいて、共に行動していくという運動である。


6.公と私を超えた〈共〉

 この〈共〉の概念が、ここではきわめて重要になってくる。

 従来、政治思想は、社会を「公」と「私」のモデルで考えてきた。しかし本来、われわれは〈共〉をこそ基軸に考えなければならないのだ。

 その意味は、以下のようである。

 現代のグローバリゼーションは、新自由主義的グローバリゼーションである。すなわちその基本的イデオロギーは、民営化である。

 これは、いわば「公」が力ある(資本のある)「私」に呑み込まれて行く過程であると言っていい。あるいは、現代においては、力ある(資本のある)「私」の肥大化にお墨付きを与えるのが「公」権力である。

 たとえば、私的所有権に対する保護、遺伝情報に関する保護がそうだ。力ある「私」企業が、これら権利を独占し始める。「公」はそれを、法的に保護することになる。その結果、一部の力ある(資本のある)「私」(私企業)が、この社会を牛耳っていくことになる。

 しかし、そもそも知的所有物や遺伝情報とは何なのか。これは、ある一部の力ある「私」(私企業)にのみ帰属させていいものなのか。

 社会を、力ある「私」の独占にさせてはならない。そして「公」が、それにお墨付きを与えるようであってはならない。もう一度われわれは、われわれの〈共〉なるものを、取り戻さなくてはならない。そう2人は主張する。

 マルチチュードとは、この〈共〉なるものを基軸としたプロジェクトである。それは、共有すべきもののために、中心的権力を持たないままネットワーク状に連帯するのだ。

一般的あるいは公的なものとみなされてきたものはすべてマルチチュドによって再領有および管理運営されねばならず、したがって〈共〉となるのだ。

 
 こうして、ネグリとハートによれば、マルチチュードこそが、グローバル民主主義の基盤にならねばならないと言われることになる。

新しいグローバルなリアリティを創出する数多くの特異性によって組織されるネットワークに即した社会的関係を法が構築しうる唯一の基盤は、〈共〉をおいてほかにない。もちろんその道筋は直線的ではないが、進むべき道はそれ以外にないと私たちには思われる。」


7.〈共〉的な愛
 
 最後に、ネグリとハートは、唐突に「愛」の概念を持ち出して本書を締め括る。

 〈共〉を重視するこのプロジェクトを理解するには、「愛」の概念こそが適切である。そう2人は言うのだ。

「愛は〈共〉にもとづく政治的プロジェクトと新しい社会の建設の基盤になるということ、ただそれに尽きる。この愛がなければ、私たちは無に等しい。」

愛を政治的なものととらえるとき、この新しい人類の創造は究極的な愛の行為にほかならない。

 〈共〉なるものを大切にするということ、これこそが愛の概念である。そう2人は言うわけだ。

 十分な論述がないまま唐突に「愛」について語られるので、最後の最後にせっかくの考察を詩的表現でイメージ化してしまった感もないわけではないが、この箇所、著者の思い入れは十分伝わってくる。

(苫野一徳)


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『論語』

はじめに
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 儒教の始祖、孔子の言行録。

 時は中国春秋時代。乱れに乱れた社会をいかに立て直すか。これが当時の思想に課せられていた使命だった。

 そこで孔子が打ち出したのが、の思想だ。国を、人々を苦しめ罰することで治めるのではなく、徳と仁の心をもって治めよう。彼はそう主張した。

 個人的な話だが、私は18歳の頃、南画家だった亡祖父の代理として、孔子の生まれ故郷、中国は山東省曲阜に、孔子77代直系子孫、孔徳懋(こうとくぼう)女史を訪ね面談したことがある。

 女史は中国では大変な尊敬を集めておられる方で、祖父とは儒教を通して親友関係にあった。

 訪問の折、女史をはじめ関係者の方たちは、口々に、「有朋、遠方より来たる、亦楽しからずや」と『論語』の冒頭の言葉を贈って下さった。


 「伝統」は諸刃の剣だが、その悠久のスケールをもって、異質な人同士の関係を時に大きく包み込んでくれることがある。そう思って、ちょっとした感動を覚えたのを記憶している。

 以下、貝塚茂樹氏の現代語訳で、本書の内容を見ていくことにしたい。


1.孝・忠・友愛

 儒教が説く道徳といえば、まずは親孝行であり忠君であり友愛である。

 個人的には、かなりプラグマティックなところのあった孔子にとっては、これら徳目は、不安定な社会を安定させる、どこかしら方法的な思想だったのではないかと思っている。

 しかしそれが教条主義的なものとして理解されるようになると、その後の封建主義の思想的基盤といわれても仕方のない面が出てきてしまう。

 ともあれ孔子は言う。

「いったい賢人とはどんな人なのか。父母につかえて力の限りをつくし、君主につかえて一身をささげ、友だちと交わって、一度いったことをけっしてたがえない。」

「死後三年間、亡父のやり方を改めない、これが実行できたならば、たしかに孝行だといえるのだ」


2.徳治主義

 儒教の政治思想といえば、徳治主義である。孔子は次のように言っている。

政治を行なうのに道徳をもととしたら、まるで北極星が天の頂点にじっとすわって、すべての星がこれをとりまきながら動いているように、うまくゆくにちがいない

「法令によって指導し、刑罰によって規制すると、人民は刑罰にさえかからねば、何をしようと恥と思わない。道徳によって指導し、礼教によって規制すると、人民は恥をかいてはいけないとして、自然に君主になつき服従する」

 
3.君子

 孔子が説く理想的人物像は、君子と呼ばれる。

 君子とはどのような人物か。孔子は言う。

「りっぱな人間は親しみあうが、なれあわない。つまらぬ人間はなれあうが、親しみあわない」

自分の知らないことは、他人に知らないと答えなければならない。これがほんとうの知るということなのだ」


「君子というものは、心配したり、こわがったりなどしない」


 それはまた、「仁」の人である。では「仁」とは何か。

「自己にうちかって礼の規則にたちかえることが仁ということである。」


 まさに、一般にいわれる「聖人君子」のイメージだといっていいだろう。孔子は次のように言っている。

「正義をもって本質とし、礼にしたがって実行し、謙遜なことばでいいあらわし、信義をたがえないことによって完成する。このような人こそまことの君子だね」


4.その他名言

 以上、ほんのかいつまむ程度にしか紹介できなかったが、最後に有名な言葉もいくつか引用しておくことにしたい。(特に有名な言葉は書き下し文で引用した)

「弁舌さわやかに表情たっぷり、そんな人たちに、いかにほんとうの人間の乏しいことだろう」

過ちがあれば、すなおに認めてすぐさま訂正することだ


他人が自分を認めないのは問題でない。自分が他人を認めないほうが問題だ

「子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。」


もし人が少しでも仁を行なう意志をもつならば、他人から憎まれるはずはない。

子曰わく、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。

子曰わく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。

 後継者にと考えていた愛弟子顔淵が死んだ時、孔子はわが子を失った時よりも嘆き悲しんだと言う。その時の有名な慟哭が以下である。


「顔淵死す。子曰わく、噫(ああ)、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせり。」


(苫野一徳)



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アーレント『過去と未来の間』


はじめに


ハンナ・アーレントちゃん 哲学界一の美人】 ハンナ・アーレントちゃん応援スレPart1 【恋人は ...
 「政治思想への8試論」というサブタイトルをもつ本書は、失墜した過去の伝統権威を、もう一度、いわばより健全に、またより本質的な形で見直そうとする試みだ。

 以下では、本書の中から、特に中心的な論文と思われる「権威とは何か」「自由について」「教育の危機」の3論文を取り上げ紹介したい。


1.「権威とは何か」

① 現代における「権威」の喪失

 この論考では、今や失われてしまった政治的「権威」の意義についてが論じられている。

 アーレントは言う。権威の喪失は、今や政治だけでなく教育においてさえ浸透してしまっている。

 教育とは、本来、未成熟な子どもを、大人が権威をもって世界へと導き入れるものであるはずだ。しかし現代の教育は、子どもの世界を絶対化し、彼らを大人の世界へ導き入れるという責任を放棄してしまっている。そうアーレントは主張する。

「大人と子供、教師と生徒の関係を律してきたこの前政治的権威さえもはや確保できなくなった事実は、権威主義的関係を表わす旧くからの由緒ある比喩やモデルがその真実味を失ったことを意味する。」

 この点については、後に紹介するアーレントの論考「教育の危機」でより詳細に論じられている。


② 権威主義、暴政、全体主義

 さて、アーレントはここで、政治的権威の意味を明らかにするために、権威主義的統治暴政=僭主制、そして全体主義の、3つの統治形態を比較する。

「まず権威主義的統治のイメージとして、わたしは伝統的政治思想において周知のピラミッド型を提案したい。」
 
 しかし同時に言う。権威主義的統治は、常に「法」に支配されているのだと。そして言う。

権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する。

 私なりに言い換えれば、権威とは、人々の自由を保障するための「法」を制定し保障する力を意味しているのである。

 それに対して、暴政=僭主制は、万人に対する一者の支配である。

「暴政=僭主は万人に対立する一者として支配する統治者であり、抑圧される『万人』はすべて平等、すなわち等しく無力である。

 そして全体主義は、内部からの人民の統一的支配である。

「全体主義の支配と組織にぴったりするイメージは、玉葱の構造であろう。指導者はこの玉葱構造のいわばがらんどうの中心に位置する。そして権威主義的ヒエラルキーにおけるがごとく政治体を統合する場合であれ、また暴君のように被治者を抑圧する場合であれ、ともかく指導者は自らが為すことすべてを外部からでも上からでもなく、内部から行なうのである。

 人はあまりにしばしば、これら暴政=僭主制と全体主義を、権威主義的統治と混同してきた。アーレントはそう主張する。

 それは暴力と権威の混同である。しかしそれは誤った考えだ。先に言ったように、権威とは人々の自由を保障するものなのだ。


③ 人は権威なき政治を生きられるか?

 この後、プラトンアリストテレスマキャヴェッリなどの、権威をめぐる政治思想についての大変興味深い考察が続けられるが、ここでは割愛しよう。

 本稿の最後に、アーレントは次のように言っている。

「われわれは権威なしに、あるいは権威に伴う意識、つまり権威の源泉は権力ならびに権力の座にある人びとを超越しているという意識を抱くこともなく、政治の領域を生きねばならない」

 文脈から察するに、アーレント自身は何らかの形で権威の復興を主張したいようである。


2.「自由とは何か」


 続けて、アーレントの秀逸な「自由」論が収められた論文を紹介しよう。

 アーレントは言う。「自由」とは、本来政治的概念である。しかしそれが「哲学」のせいで、いつしか「内的自由」の観念と混同されるようになってしまった、と。

 「内的自由」とは、自然の因果律に対立するものとしての「自由」概念である。

 われわれが一切を自然の法則に従って生きねばならないのだとするならば、それは全てが必然性の歯車の中に巻き込まれているということであって、われわれに自由などないのではないか。

 伝統的に、哲学はそのように問うてきた。

 そこで哲学は、何とかして、この自然の法則に対する人間の「内的自由」の領域を確保しようと考えてきた。

 このブログでも、アウグスティヌスからカントに至るまで、「自由」はそのような問題設定において考察されてきたことを紹介してきた。(アウグスティヌス『告白』『神の国』、カント『純粋理性批判』『実践理性批判』のページ等参照)

 しかしこれは、実は答えの出ない問いである。われわれは自然の法則にとらわれているか、それともそこから絶対的に自由たりうるか、これは問いの立て方を誤っている。

 こうした問題を克服し、秀逸な「自由」論を展開したのは、私の考えではまず誰をおいてもヘーゲルである(ヘーゲル『法の哲学』のページ参照)。またミルなどもかなり原理的だ(ミル『自由論』のページなど参照)。

 本稿におけるアーレントの洞察もまた、わたしの考えではきわめて秀逸なものだ。

 アーレントは言う。

「政治的なものの目的あるいは存在理由は、至芸としての自由が現われうる空間を樹立し、それを存続させることであろう。

 『革命について』などにおいても、アーレントが繰り返し主張していたことだ。

 ではここでいう「自由」とは何か。アーレントは言う。

自由は欲すると為しうるとが一致する場合に初めて生まれるのである。


 至言だろうと思う。

 「我欲する」と「我為しうる」とが一致する時、ここに私たちは「自由」の感度を得ることができる。

 さて、しかしわれわれの生においては、「我欲する」がいつでも「我為しうる」と一致するというわけにはいかない。

 われわれは、何よりもまず、他者たちとともに生活しているからだ。

 そこで政治とは、この他者たちと共に生活するという条件の中において、われわれがなお「自由」を獲得しうるにはどうすればいいかを追求するものということになる。

自由は、たんなる解放に加えて、同じ状態にいる他者と共にあることを必要とし、さらに、他者と出会うための共通の公的空間、いいかえれば、自由人誰もが言葉と行ないによって立ち現われうる政治的に組織された世界を必要とした。

 このことを最も自覚していたのは、古代ギリシアの人々だった。

 しかしそれが、近代以降、ルソーらによって誤った「自由」概念が広まり政治は一気に暴政へと突っ走ってきた。そうアーレントは主張する。

 ちなみに、『革命について』のページにも書いたが、アーレントのルソー批判を私はかなり不当なものと考えている。また、われわれは再び古代の政治的自由の伝統を取り戻すべきだ、というのが本稿におけるアーレントの最後の主張なのだが、この点についても私はやや批判的だ。

 ルソー、ヘーゲルにおける近代政治哲学の頂点は、私の考えでは古代のそれより問題圏をかなり進めたものに鍛え上げられている。ここで詳細を論じる余裕はないので、この点については、ルソー『社会契約論』、ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』などのページを参照していただきたい。


3.「教育の危機」

 アーレントの教育論についても紹介しておこう。

 現在、教育は荒廃している。その理由は、一言でいえば教育が「権威」を失ったからである。そうアーレントは言う。

 はっきりとは言われていないが、これは、当時のアメリカにおけるいわゆる「児童中心主義」を掲げた「進歩主義教育運動」への批判であろう。実際アーレントは、この教育運動の中心人物であったデューイを、その名こそ挙げていないが、「プラグマティズム」を批判するという仕方で、間接的に批判しているようにみえる。

 教育の本質を、アーレントは次のように述べている。

子供がまだ世界を知らないならば、かれは徐々に世界に導かれねばならない。子供が新参であるならば、この新しいものが現にある世界に照らしてその真価を発揮できるように配慮されねばならない。



「教育において、世界へのこの責任は権威の形式をとる。〔中略〕教師の資格は、世界を知り、それを他人に教えることができる点にあるのに対し、教師の権威はかれがその世界への責任を負う点に基づく。子供と相対する場合、教師は大人の住民全体の代表者であるかのごとく、子供に事細かに指示し、語るのである。これがわれわれの世界だ、と。

権威を見捨てたのは、大人であった。これが意味するのはほかでもない、大人は子供を世界のうちに導き入れながら、その世界への責任を負うのを拒絶している、ということである。

 教育とは、大人が責任をもって子供を世界へと導くということを本質的営みとするものである。にもかかわらず、近年の進歩主義教育は、子供の世界を絶対化することでこの責任を放棄している。そうアーレントは言うわけだ。

 私の考えでは、この批判はデューイ以降のいわゆる素朴なデューイ主義者に対する批判としてであれば、一定の妥当性がある。

 しかしもしデューイ批判として捉えるならば、それはかなり的をはずしたものである。まさに、大人が子どもたちを責任をもって世界に導くためにこそ、デューイは、それが単なる教え込みにとどまるのではなく、子どもたち自らの探究を主軸に据えた、民主主義社会の担い手を育みうる教育を提唱したのだ(デューイ『民主主義と教育』のページ等参照)。

 デューイ的思想とアーレント的思想の対立は、現代教育においてもなお深刻に続いているものである。この対立については、拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社、2011年)でこれを解消する理路を提示したので、ご興味のある方にお手にとっていただければ幸いだ。
 

(苫野一徳)


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