バーク『フランス革命についての省察』



はじめに


 「保守主義の父」と呼ばれるバーク。英国下院議員やグラスゴー大学の学長も務めた。

 本書は、フランス革命についての痛烈な批判として有名だ。

 本書のもとになったのは、フランス国民議会の支持者であった、友人デュポンに宛てて書いた手紙である。第2信を送ろうと思っていた頃に、牧師プライスの『祖国愛について』を読んで激怒、本書を、これについての反駁から書き起こすことを決意した。

 フランス革命とその思想について、本書ではこれでもかというほどに批判が繰り広げられている。

 バークの思想には、今日受け入れがたいものも多くある。しかし彼は、早くも1790年、その後の恐怖政治ナポレオン独裁を見通したかのような、フランス革命の未来を予測している。時代を見る目にかんして、当代随一の人物であったのは確かだろう。


1.フランス革命の思想批判

 バークは本書を、プライスの次の主張に1つ1つ論駁することから書き起こす。すなわち、フランス人民は、


1「われわれ自身の統治者たちをえらび」
「かれらを、非行のゆえに追放し」
「われわれ自身のために政府を形成する」

 権利を手にしたが、これはそもそも、1688年のイギリス名誉革命において手にされた権利であった、とする主張である。


 バークはこれに憤慨して次のように言う。


「イギリスの人民全体は、なにもそれにかかわりをもたない。


 なぜか。「権利の章典」を引きながら、バークは言う。

 まず1つめについて。

われわれ自身の統治者をえらぶ権利のかわりに、かれらは、その血統ジェイムズ一世からのプロテスタントの血統継承が、『国土の平和と静穏と安全のために』絶対に必要であること、そして、『臣民がやすんじて自己の保護をうったえうるような、その継承の確実さを支持する』のが、かれらにとってもひとしく緊急であることを、宣言した。

 イギリス人は、自ら統治者を選ぶのではなく、王位の世襲をこそ望んだのである。そうバークは言うわけだ。

 2つめについては次のように言う。

「かれら(名誉革命を起こした人々―引用者)が王を非難したのは、多くの歴然たる不法行為によって確認されたところの、プロテスタントの教会と国家を破壊し、かれらの基本的なうたがうべからざる法と自由を破壊しようとする、意図についてにほかならなかった。かれらは王が、王と人民の原契約をやぶったことを、非難した。これは、非行以上のものであった。」

 名誉革命は、王(ジェイムズ2世)を「非行のゆえに」追放したのではない。法の明らかな破壊のゆえに追放したのである。単なる「非行」を理由に王を追放するなど、あまりに野蛮な行為である。そうバークは主張した。

 3つめについて、バークは次のように言う。

チャールズ一世第三年の、有名な『権利の請願』とよばれる法律において、議会は王にむかってかれらの参政権を、抽象的諸原理にもといて『人間の権利』として主張するのではなく、イギリス人の権利として、かれらの祖先からひきついだ相続財産として、主張しながら、『あなたの臣民は、この自由を世襲してきました』といっている。」

 イギリス人は、プライスが言うように、「われわれ自身のために政府を形成する」ことを望んだわけではない。フランス革命が主張するように、「人間の権利」などという抽象的な原理を訴えたわけでもない。

 先述したように、イギリス人は、自らの自由を、伝統として引き継いでいると主張したのである。そうバークは言うわけだ。

 フランス革命が訴えた「人間の権利」について、バークは次のように言っている。

「もし、市民社会が慣習的とりきめの所産であるならば、その慣習的とりきめとは、それの法律であるにちがいない。その慣習的とりきめは、そのもとで形成されるあらゆる種類の国家構造を、限定し規制するものであるにちがいない。あらゆる種類の立法・司法・行政の権力は、その被造物である。」

 突然降ってわいたような、抽象的な「人間の権利」などない。われわれの権利や権力は、常に慣習的なものとして、歴史を通して形作られるものなのだ。バークはそう言って、不可侵の人民主権の思想を批判した。


 これは、「時効(prescription)の原理」と呼ばれている。歴史的に存在し今に至ったものごとは、まさにそれゆえにこそ尊重されなければならない、という考えだ。

 ちなみに、バークの生涯の論敵となったトマス・ペインは、本書に対する反駁として、『人間の権利』という書を著し、この「時効の原理」を一笑に付している。



2.自然


 さて、バークは以上のような名誉革命の思想を、これこそが「自然」な思想であると主張する。


われわれは、神をおそれる。われわれは、おそれをもって王を見あげ、愛情をもって議会を見あげ、義務感をもって為政者を見あげ、敬意をもって聖職者を見あげ、尊敬をもって貴族を見あげる。なぜか。それらの観念がわれわれの心にあたえられたとき、そのように感じられるのが自然だからである。」


 神や王をおそれ敬うことは、自然な感情である。したがって、われわれはこれをなくしてしまうことなどできない。そうバークは言うのだが、今日どれほどの説得力があるものか。


 思想において「自然」を持ち出す手法はしばしばみられるが、よほど気をつけない限り、それが説得力をもつことは難しい。

 何が「自然」であるかは、時代や国や宗教・文化によって多様であるため、一般化することが困難であるからだ。そしてまた、いわゆる「自然科学」的にそれを証明することも、究極的には不可能なことであるからだ。(言うまでもなく、自然科学はどこまでも仮説にとどまらざるを得ないものである。)


3.フランスの未来

 以上のように、バークの思想は思想としてはやや弱いものであるように私には思われるが、しかしそれでも、フランス革命の行く末の予測については、慧眼を誇っていたと言うべきである。

フランスを現在支配する権威を、どのような種類として分類すべきかを、私は知らない。それは純粋民主政治をよそおっているが、私の考えでは、まもなく有害で下劣な寡頭支配となる直接の系列にある。」

 その予測通り、フランス革命はその後、ロベスピエールによる独裁、恐怖政治、そしてテルミドールのクーデターを経てナポレオン独裁へと至った。まさに、バークが予測した通りであったと言えるだろう。


4.自由の美名

 言うまでもなく、バークは絶対王政の支持者であったわけではない。むしろ彼は、その厳しい批判者だった。しかし彼は同時に、「自由」とは放埒でわがままなだけの、絶対的自由であってはならないし、そうはあり得ないものであると考えた。

「知恵がなく徳がない自由とは、いったいなんであるか。それは、あらゆる可能な害悪のなかで、最大のものである。なぜならば、それは、愚行、悪徳、狂気であり、教導も抑圧も持たないものだからである。

 フランス国民議会が考える自由など、しょせんは放縦放埒な狂気にすぎない。それゆえ、抑制のきかない自由を主張するフランス革命は、やがて失敗に終わるに違いない。そうバークは考えたのだ。

 こうして彼は、本書を次のように締め括る。

「私は、あなたがたに、自分の感情を率直に語った。私は、これらの感情が、あなたがたの感情を、変化させそうではないとおもう。私は、変えなければならないとは、おもわない。あなたがたは若い。あなたがたは、あなたがたの国の運命を導くことはできないのであって、それにしたがわなければならない。しかし、今後、あなたがたのコモンウェルスがとるであろうような、ある将来の形態において、私の感情は、いくらかあなたがたに役だつかもしれない。」


(苫野一徳)




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竹田青嗣『恋愛論』


はじめに

 恋愛とは何か。そして、それが私たちの生にとって持つ意味は何か。

 竹田はこの問いに、見事な哲学的洞察を与える。

 恋愛、それは、自らが育んできたロマン的世界憧れが、まるでこちら側に顕現したように思った時に訪れる感情である。

 この恋愛感情が、私たちの生にもたらす意味はいったい何か。

 深い洞察の言葉の数々が繰り広げられている。 


1.結晶作用

 恋愛においてまず私たちに訪れるもの、それは、スタンダールの言う「結晶作用」にほかならない。

「当の相手のしぐさ、身振り、表情、スタイル、言葉、それらのことごとくが美的な感嘆とともに見出されること。恋愛の結晶作用は、まずこの美的な結晶作用からはじまる。」

 これはいったい、なぜ起こるのだろうか。

 竹田は、まずこの結晶作用の本質契機を明らかにする。結晶作用とは、いったいどのような作用であり、われわれに何を告げ知らせるものであるのだろうか。

 1つめの本質契機を、竹田は次のように言う。


「人間の欲望の視線に射られて、ある対象が、単なる事物から固有の意味をもった取り換えのきかない『このもの』として現われること。それはまた、結晶作用を説明するまず第一の事態でもある。」


 恋する人は、私にとって、ある「取り換えられない」存在として現れる。この「取り換えがたさ」が、結晶作用の1つめの本質である。

 竹田は続ける。

「第二の事態は、ある対象が『憧れ』の的となることが結晶作用にとっては欠かせない、ということである。


第三の事態。それは、そこに『可能性』があることだ。」


 取りかえがたさ憧れ、そして可能性。竹田によれば、これが結晶作用の本質契機である。


2.承認欲望

 続いて竹田は、このような結晶作用としての恋愛が、私たちの生にとってもつ「意味」を明らかにする。

 まず竹田は次のように言う。私たちはたえず、他者からの承認を求める存在である。そして私たちは普段、社会的関係の中で、自らの何らかの価値を通して、他者からの承認を得ようとする。

 しかし恋愛関係において、私たちは、そうした社会的関係における承認とはまったく違った、ある特別な承認の可能性を手にすることになる。

「恋愛において人は、自分の存在の意味が、社会的な関係におけるのとはまったく違った仕方で、絶対的に満たされるかもしれないという予感に満たされる。恋愛の結晶作用は、この異例の可能性への予感を伴っているのだ。」

 それはいったい、どのような可能性であるのだろうか。


3.恋人の「美」

 その可能性は、恋人の「美」という、独特の通路を通って私たちに訪れる。竹田はそのように言う。

 つまりこういうことだ。

「恋人の美を『自分だけのもの』とし、それを深く味わう可能性。さしあたって言えばこのことが、恋人への欲望が、社会的な関係とは『まったく違った仕方で』自分の存在意味を満たすという可能性であることの、具体的な内実にほかならない。

 そして恋人の「美」とは、私たちが子どもの頃から無意識に育みつづけた、自らのロマン的憧れにほかならない。それゆえ、恋人を『わがもの』としうる可能性は、“憧れ”と一致すること、つまり生への憧れそれ自体を実現することである。

 私たちは日常生活において、これは美しい、あれは美しい、と思いながら生きている。しかし私たちは恋愛においてはじめて、これこそが「美」であったのかと本当の意味で知る。恋愛の欲望においては美はいわばその原型性を現わすのである。

 それはまるで、恋愛においてはじめて「美」の何たるかを知るような経験である。

「人は、『恋人の美しさ』というものに触れたとき、『美しい』ということの真の意味をはじめて知ったように感じる。言い換えればそれは、それまでに自分が知っていた『美しいもの』、『素晴らしいもの』が、『美』の単なる“仮象”にすぎなかったことに気づくような体験として現われる。

 恋愛が私たちに開く可能性は、この「美」を私が「わがもの」としうるかもしれないという可能性である。そしてそれは、社会的承認のよろこびなどとは次元の異なった、いわば自らの憧れの世界との一致の可能性に対するよろこびなのである。


4.自己のロマン化

 では、なぜわれわれは、ほかならぬ「この恋人」の「美」に憧れ、これを「わがもの」としたいと思うのだろうか。

 竹田によれば、その秘密は「自己のロマン化」にある。つまり恋人の美とは、実は自らのそれまでの人生を通して蓄積された、幻想的・ロマン的な対象なのだ。

 「自己のロマン化」は、特に幼少期における、自己中心性の挫折を大きな契機として起こる。

ロマン的世界は子供の自己中心性の『挫折』を根本動因としている。両親、周りの大人たち、遊び仲間、といった現実世界の他者たちは、子供の自己中心性にとって絶えざる『挫折』をもたらす源泉である。子供は『挫折』にぶつかり、自己中心性を生き延びさせようとしてロマン的世界を作り上げ、そこに逃げ込む。それは、あくまでナルシシズムから出たひとつの現実逃避にほかならない。」

 赤ちゃんは、全能感を備えた自己中心的な存在である。泣けばお母さんがおっぱいをくれる。どこへ行っても、「可愛いね」と話題の中心になる。

 しかし成長するにつれ、そうした自己中心性は満たされなくなっていく。泣けば叱られ、我慢を強要され、弟や妹が生まれたら、世界の中心が否応なく自分から離れていってしまうことに気がつきもする。

 そこで子どもは、自らのロマン的世界を築き上げるのだ。

 そしてこのことは、私たちが「生きる」上できわめて重要な意味を持っている。竹田は言う。

「この“自分自身の中にロマン性を確保すること”は、人間の生の欲望にとって必要不可欠のプロセスである。なぜなら、このことで人は、ある目標を立ててそれに“憧れ”つつ、同時にそういう自己の像に“憧れて”生きることができるからだ。この“憧れつつ生きること”は人間が生を味わう力の根源にほかならない。人間がまったく何ものにも憧れないなら、生はただ、生存を維持するための必要に還元されるだろう。

 自らのロマン的世界を築き上げるということ、それは、「憧れ」をもって生きるということである。そしてこの「憧れ」をもって生きることこそ、人間が自らの生を味わう力の根源にほかならないのだ。

 そして恋愛感情とは、この「憧れ」が、ロマン的な「あちら側」にではなく、現実の「こちら側」に現れたことを知った時に抱く感情である。

 恋人とは、まさにこのロマン的「憧れ」の化身なのである。

「こうして、“恋人”の出現とともに『世界』はひとつの独自な『可能性』として現われる。『ロマン的世界を現実のものとして生きうる』という可能性。」


5.恋愛のエロティシズム

 さて、このような恋愛において、私たちは、プラトニズムエロティシズムとが、奇妙に融合していることに気づくことになる。

 プラトニズムとは、俗なるものを否認し、ただただ恋人との天上的な関係だけを求める感情である。 

「プラトニズムは、地上的なもの(俗なるもの)を否認し、人間の関係を否認し、幸福や快楽を否認し、ひいてはこの世の生それ自体を否認することで天上的な超越性だけをめがけるような道を進む。」

 対してエロティシズムとは、快楽の超越性を求める欲望である。

「それは、日常生活やそのうちのおよそ人間的なものに“唾を吐く”ことで、快楽それ自体の超越性をつかもうとするような逆説的な欲望なのである。」

 恋愛においては、この二つが奇妙に融合する。それはいったい、どういうことだろうか。

 まずエロティシズムの本質から考えていくことにしよう。

 バタイユが言うように、エロティシズムの本質は「禁止の侵犯」にある。(バタイユ『エロティシズム』のページ参照)

 禁止されているものを犯すこと、穢すこと、ここに、エロティシズムがエロティシズムたるゆえんがある。

 このようなエロティシズムのあり方を、竹田は「ロマン的幻想の自己消費」と呼ぶ。つまりそれは、他人の肉体を利用して自己のロマン的幻想を消費するような『自己中心性』である。」

 ここには関係への配慮などない。それはどこまでも、自らのロマン的幻想を、ただ自らのうちにおいて享受することなのである。

「『愛することなく欲望の対象とすること』また『愛されることなく欲望の対象となること』。エロティックな欲望はそういう場所で成立する。そして、人はそこで自分の内部のロマン的幻想をただ『消費』するのである。

 ところが恋愛におけるエロティシズムは、こうした一般的なエロティシズムとは異なった本質を持っている。と言うのも、恋愛の欲望の目標は、相手の『魂』を“わがもの”とすること、でなければならないからだ。

 恋愛におけるエロティシズムは、この相手の「魂」へと向けられる。そしてそれは、相手の最も大切なものを「わがもの」とすることで達成される。

「相手の心をわがものにしたいという恋愛の欲望にとって、最大の目標となるのは、相手にとって最も大事なものを“わがものとすることである。最も大事なものとは何か、それは最も深く隠されているもの、『禁止されているもの』である。そしてそれが、恋人の『肉体』にほかならない。この『最も深く隠されたもの』は最後のものである。

 一般的なエロティシズムは、ただ相手の肉体を利用することで、自らの欲望を達成しようとする。

 ところが恋愛のエロティシズムにおいては、そうした自己中心性が不思議な仕方で脱臼させられる」

 「情熱恋愛においては、エロティシズムの目標がプラトニズムの目標と一致する」のである。

 情熱的な恋愛におけるプラトニズムにおいて、私たちは、恋人の「美」に憧れ、いわばこの世ならぬ世界に触れた気がする。そして恋愛におけるエロティシズムは、一般的なエロティシズムが美を穢すものであるのに対し、その憧れに一致できるという喜び、恋人の美を「わがもの」とできる喜びを意味している。

 こうして、恋愛においては、プラトニズムとエロティシズムが、不思議に融合することができるのである。


(苫野一徳)



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