フロム『愛するということ』



はじめに
picture: erich fromm by Müller-May, © Deutsche Verlagsanstalt. released as public use photograph - wikipedia commons
 愛について書かれたものは数多いが、本書は、その中でも最も深く愛の本質を描き出した、素晴らしい名著だと私は思う。


 1956年に出版されて以来、世界中で今なおベストセラーであり続けている。


 成熟した愛とは何か。私たちは、どうすればそのような愛を手に入れることができるのか。


 フロムの本質観取は、どこまでも深く、鋭い。



1.愛は技術である


 フロムは言う。愛とは、成熟した人格を必要とする、きわめて高度な技術であると。「自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する」からだ。


 しかし世の多くの人々は、愛が高度な技術であることに中々思い至らない。その理由として、フロムは次の3点を挙げる。


まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。


 愛の問題を、多くの人は「愛される」にはどうすればいいかという問題として考えがちである。しかし愛の本質は、「愛される」ことではなく「愛すること」によってこそ十全に洞察される。そうフロムは言う。


「第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである。


 多くの人は、愛するに「ふさわしい」人が現れれば、おのずとその人を「愛する」に違いないと思い込んでいる。しかし愛は、対象の問題ではなく自らの愛する能力の問題である。


 成熟した愛は、成熟した人格を必要とするからだ。それはいったいどういう意味か。本書でフロムは、その意味を徐々に明らかにしていく。


「第三の誤りは、恋に『落ちる』という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに『とどまっている』という持続的な状態とを、混同していることである。


 「恋に落ちる」ことと、愛のなかに「とどまる」こととは、同じことではない。


 恋に落ちることは、ある意味では簡単だ。しかし愛し続けるためには、やはり成熟した人格を必要とするのだ。そうフロムは主張する。



2.孤立感


 では愛とは何か。フロムは言う。私たちが人を愛する理由、その根源には、孤立に対する不安感がある、と。


孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。


 この孤立の不安から逃れるために、人は時に祝祭的興奮状態に身を置こうとする。祭りなどの狂騒状態は、人を孤独感から解放してくれる。


 もっと簡単な方法は、集団に同調することである。集団への同調は、人を孤独の不安から解放してくれる。


 あるいは、芸術や企業活動など、創造的活動に打ち込むことも重要な方法だ。創造を通した他者からの承認は、自らの不安感を十分に慰めてくれる。


 さて、私たちが誰かを愛するということの根底にも、この孤独の不安感から逃れたいという欲望がある。しかしそれゆえに、「愛」はきわめて難しい問題を抱えてしまうことになる。


 たとえば、「孤独感や閉塞感から逃れるために、他人を自分の一部にしてしまおうとする」愛し方がある。いわゆるサディズムである。これは未成熟な愛である。そこにある目的は、単に己の孤独感からの解放であるにすぎないからだ。


 マゾヒズムも同様だ。相手に従属することで、自らのアイデンティティ不安を逆説的に和らげようとする。


 こうして、愛は実にしばしば、いびつで未成熟な形をとることになる。


 では、成熟した愛とはいったいどのようなものなのか。フロムは言う。


「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。〔中略〕愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。


 お互いに、自らが十全に自らでありながら、互いに一体感を感じ合う。そこに愛の本質がある。



3.愛の本質


 そうした愛の本質を、さらに深く洞察していくことにしよう。


 フロムは、愛の本質契機として次の5つのキーワードを挙げている。


 与えること、配慮責任尊敬、である。


 いやしくもそれを「愛」と呼ぶのであれば、そこにはまず「与える」ということがなければならない。自らのすべてを相手に与えようとさえ思う気持ち。そこに愛の本質がある。


 しかしフロムは言う。


「与えるという意味で人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかということによる。愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。」


 自己中心的な人には、人を愛することなどできないのだ。だからこそ、愛するためには人格の成熟が必要なのだ。


 続いて、配慮、責任、尊敬、知について、フロムは次のように言う。


愛とは愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。」

責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。
尊敬とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。

 相手に対する配慮、求めに応じること、そして尊敬、これらがなければ、愛はおよそ愛と呼ぶに値しないであろう。


 さらに続けて、フロムは言う。


人を尊敬するには、その人のことを知らなければならない。」


 愛はたんなる雰囲気ではない。そこには、相手に対する知が伴うし、また伴っていなければならないのだ。



 フロムは続けて、親子愛、兄弟愛、母性愛、異性愛、自己愛、神への愛について鋭く論じるが、ここでは残念ながら割愛する。



4.現代社会における愛の困難


 ここでフロムは、視座を転じて現代社会における愛の困難さについて述べる。



「現代資本主義はどんな人間を必要としているだろうか。それは、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、ほかからの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。」

 このような現代社会においては、人を自らの全人格をもって愛するということが困難である。


 私たちは現代において、いかにして成熟した愛を手にすることができるのだろうか。


 本書の最後に、フロムはこうして、愛の習練について論じることになる。



5.愛の習練


 まずフロムは次のように言う。


「愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。」


 ナルシシズムの強い人は、一切を自分にとって益かどうかで判断する。愛する人をもまたそのように見るのだとするならば、それは決して成熟した愛とは呼べないだろう。


 このナルシシズムを、私たちはいかに克服することができるだろうか。


「ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

 
 自らのナルシスティックな欲望から解放されて、客観的に物事を見られるよう努力すること。そこに、ナルシシズムの克服の道がある。

 そのためには、理性謙虚さが必要である。


「人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性を理性を育でなければいけない。


 さらにフロムは続ける。


「愛の技術の習練には、『信じる』ことの習練が必要なのである。


 相手を「信じる」こともまた、愛の1つの本質契機である。しかし相手を信じられるためには、自分を信じることができるのでなければならない。自分自身を『信じている 』者だけが、他人にたいして誠実になれる」のだ。


 では、どうすれば自分を信じることができるようになるだろう。


 自分を信じるとは、信念を持つということだ。信念を持つためには、勇気がいる。 


 それはどうすれば可能だろうか。



信念と勇気に関して、何か練習すべきことはあるだろうか。じつは、信念は四六時中習練を積むことができる。子どもを育てるには信念がいる。眠るにも信念がいる。どんな仕事を始める際にも信念がいる。

 「信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まるのだ。

 時代を超えて読み継がれるべき、愛の名著であると私は思う。



(苫野一徳)



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