ベルクソン『物質と記憶』

はじめに


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 イマージュ純粋知覚純粋想起純粋持続といった独特の概念を駆使して、唯物論観念論の対立あるいは齟齬を解きほぐそうと試みた本書。

 唯物論とは、一切を物質世界の運動としてみる考え方だ。われわれには心があり精神があるが、それもまた、もとを正せば何らかの物質によって作られているとみる。

 対する観念論は、一切を精神の運動とみる。純粋な客観的物質があるわけではなく、その底には精神(心)があるのだと説く。

 唯物論と観念論の対立は、位相を変えれば心身問題(心脳問題)となる。

 この世界を統べているのは、精神なのか肉体なのか、心なのか物質としての脳なのか、という問題だ。

 ベルクソンは、「イマージュ」という概念や「持続」という概念を提示することで、いわば両者を調停し、相互の関係性を明らかにすることを試みた。

 ただし、ベルクソン自身慎重に「仮説」という言葉を繰り返し使っているように、その試みは、おそらく1つの仮説的考え方として捉えた方がいい。

 私は個人的には、心身問題はフッサール現象学によって解明されたと考えている。その解き方は、私の考えでは、ベルクソンより原理的でシンプルだ。(フッサールのページ参照)

 しかし、卓越した想像力と、当時の最新科学の知見をふんだんに取り込んで縦横無尽に展開されたベルクソンの思考は、今もなお新たな刺激に満ちている。

 以下、超難解で知られる本書を、できるだけポイントを絞って紹介することにしたい。


1.イマージュとは何か

 本書のキーワードである、イマージュ。ベルクソンはこれを次のように言う。

「ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュのことである。」

 イマージュとは、客観的実在物のことではない。かといって、主観によって勝手に思い浮かべられた表象でもない。それは、いわば両者の中間にあるものとしての概念だ。

 ただ物質だけがあるのでも、ただ精神だけがあるのでもない。私たちは、私たちの精神(心)とかかわりあったものとしての知覚物(イマージュ)と、日々接触しているのだ。

 その意味で、ベルクソンは、まず唯物論と観念論の双方を極論として退け、いわば私たちの生活感覚に近い形でイマージュという概念を提示したわけだ。


2.身体というイマージュ

 さて、このイマージュの中で、他のイマージュとは全く異なった独特の様態をもったものがある。

 身体である。

 身体もまた、私たちによって知覚されるイマージュである。しかし同時に、私たちはこの身体を通して他のイマージュを知覚する。

 ということは、私たちは、常にこの身体に相関的に、あるいは身体の能力の制限の内に、諸イマージュを知覚しているということになる。

 それは、視覚や聴覚など、私たちの神経的な身体能力の制限内における知覚というだけではない。身体を通して、どのように活動するか、どのように活動しうるかという、そうした傾向性に応じて、私たちは一切を知覚しているのだ。

「知覚の細部は、感覚伝達的と称される諸神経の細部にぴったり合わせて作られているが、その全体においては、知覚は真の存在理由を、活動せんとする身体の傾向のうちに有している」    

 ここにおいて、身体と精神とが交流することになる。

私の身体とは、これらの知覚の中心に描かれるところのものだ。私の人格とは、これらの行動が関連づけられねばならない存在である。

 身体をどのように行動へと関連づけていくか。ここに、精神的なるものの領域がある。


3.純粋知覚

 さて、この精神的なるものが、感情であり記憶であるのだが、ベルクソンによれば、知覚を純粋な形で取り出すためには、まずこの感情や記憶を知覚から抜き取ってみなければならない。

 もっとも、私たちの知覚には常に私たちの主観的・精神的なものが結びついているわけだから、そこから主観的・精神的なものを抜き取ることは事実上できることではない。したがってベルクソンは、純粋知覚とは、事実上というよりもむしろ権利上存在する知覚」のことであると言う。

 そして彼は、純粋知覚を次のように言う。

「純粋知覚に関するわれわれの諸結論は、物質のなかには、現在与えられているより以上のものがあるが、それと異なるものがあるのではないとの言葉で、それを要約することができるだろう。」

 知覚から主観的・精神的な部分を抜き去ってみると、いわば純粋な神経系による純粋知覚が露となる。

 この純粋知覚は、物質を、自らの身体的能力(神経系の能力)の範囲内において捉える。要するに、私たちはまずもって、私たちの視力や聴力などの限界内でしか物質を知覚することができない。

 ということは、私たちの純粋知覚は、物質のすべてを捉えられているというわけではない。しかしだからといって、それと異なったものを知覚しているわけでもない。そうベルクソンは言うわけだ。


4.純粋想起

 そこで続いて、先ほど純粋知覚から切り離された、知覚における主観的・精神的な側面、すなわち「想起」についてベルクソンは考える。

 私たちの知覚には、何らかの形で私たちの主観的・精神的な記憶(想起)が結びついている。何かを見た時、私たちは常に、それを過去に見た何かと関連づけたり比較したりしながら知覚している。

 コーヒーカップを手に取った時、私たちは、「あ、いつもより薄いな」とか、「あれ、紅茶と間違えたかな」などと思いながら、コーヒーを知覚しているわけだ。

 この知覚は、単なる身体的な刺激−反応とは異なったものである。いわば私たちは、自らの能動的な精神(=想起)を通して、対象に主観的な意味を付与し読み取っているからだ。

 この想起を、純粋なもの、すなわち純粋想起として取り出してみよう。

 私たちはそれを、現在の感覚とは完全に峻別されたものとして考えることができる。

「(純粋想起は、)どうやっても感覚の性質を帯びることはない。」

 現在の何らかの感覚に反応して想起が喚起されるのではなく、いわば想起の可能性として、ずっと持続しているもの。純粋想起はそのようなものと考えればいいだろう。

 そしてこれもまた、純粋知覚と同様に、事実上というよりは権利上の概念として考えた方がいいものだろう。


5.イマージュ想起

 こうして、権利上の概念として純粋知覚と純粋想起の概念を提示したベルクソンは、続いてイマージュ想起という概念も提示する。

 これは、私の知覚−行動にかかわってくる、イマージュ化された想起、すなわち具体的に思い描かれた想起のことである。

私の過去のうち、イマジュとなり、ひいては、少なくとも生まれつつある感覚となるのは、この行動に協力することができ、この態度のなかに組み込まれることができるもの、ひとことで言うと、役に立ちうるものだけである。」


 それゆえこれは、純粋想起とは根底的に異なっている。純粋想起は、概念上、現在とのつながりをもたない記憶であるからだ。

「イマージュへと現実化された想起は、それゆえ、この純粋想起とは根底的に異なっている。イマジュとは一つの現在の状態であり、その出所たる想起によってしか、過去の性質を帯びることはできない。逆に想起は、それが役に立たないままであり、感覚との一切の混合がまったくないままであり、現在との繋がりを持たず、したがって非伸張的なものである限り、無力なのである。



5.心身問題(心脳問題)のために

 以上の考察を経て、ベルクソンは、身体の本質を次のように提示する。

「身体は、諸表象との関連では選択の道具であり、選択のためだけの道具である。」

「身体の役割は数々の想起を蓄えることではなく、有用な想起――最終的な行動のために現在の状況を補完し明確化する想起――を選択することだけであり、かくして有用な想起は、身体がそれに与える現実的有効性によって判明な意識へともたらされることになる。

 純粋知覚は、いわば物質の領域に属するものである。他方の純粋想起は、物質による刺激を経ないのだから、精神の領域に属するものだ。

 そして身体は、いわば両者の中間にある。私たちは、身体を通して、想起を核とする精神的なるもの(欲求や意志)を、物質とかかわりあう行動(とその選択)へと向かわしめるのだ。

 このことが、心身(脳)問題を解く鍵となる。そうベルクソンは言う。

 つまり身体は、純粋想起を現在にとって役立つイマージュへと化し、純粋知覚に働きかけ、現実的行動へと自らを差し向ける「道具」なのである。

 物質と精神、どちらが世界を統べる原理であるかと考えるのではなく、私たちは身体を通して、精神にとって有用であるものとしての物質界とかかわっている。


6.純粋持続

 つまり私たちは、物質の原理にのみ従うのでも、精神の原理にのみ従うのでもなく、いわば両者を身体を通して浸透させあう、「持続」としかいいようのない原理において生きているのだ。最後にベルクソンはこのように言う。

われわれの意識によって生きられた持続は、決まったリズムを持った持続であり、物理学者が語る時間、ある決まった間隔のなかに好きなだけ多くの現象を蓄えることのできる時間とは非常に異なっている。

 私たちは、純粋に客観的な物理法則に従って生きているのではない。独特の生の持続の相において生きているのだ。

 こうしてベルクソンは、やや唐突にも思えるが次のように言う。

「このように、生まの物質と、最も省察に適した精神とのあいだには、記憶の可能的な強度のすべて、あるいは同じことだが、自由の段階のすべてが存している。

 単なる物質世界の原理にも精神世界の原理にも従属するのではない、両者を相互浸透させながら持続を生きるところにこそ、私たちの「自由」の領域がある。ベルクソンはそう言うわけだ。


(苫野一徳)


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プラトン『ゴルギアス』

 
はじめに

 弁論術についてという副題をもつ本書。プラトン(=ソクラテス)による、痛烈な弁論家(ソフィスト)批判が繰り広げられている。

 弁論家たちがいう弁論術は、何が善で何が悪かをしっかり考えることなく、ただただ相手に自分の主張を正しく信じ込ませようと試みる、いわばいつわりの議論であるにすぎない。

 私たちが生きる上で、いつも常にたいせつなこと。それは、善とは何かを探究し、いかに生きるべきかをいつも心の底に温めていることなのだ。

 後の大著『国家』に通ずるテーマも散見される、プラトン初期の名著である。


1.弁論術批判

 本書冒頭において、弁論家のゴルギアスとソクラテスによる、こんな議論が繰り広げられる。


ソクラテス「さて、それでは、弁論術は、法廷やその他のいろいろな集会において、正と不正に関する事柄を取扱いながら、いったい、どちらの説得をつくり出すのでしょうか。それは、知ることなしに、ただ信じこむということだけが生ずるような説得なのですか、それとも、知ることになる説得のほうですか。」
ゴルギアス「それはむろん、ソクラテス、信じこむことになる説得のほうだろうね。」
ソクラテス「そうすると、どうやら、弁論術というのは、説得をつくり出すといっても、その説得とは、正と不正について、そのことを教えて理解させるのではなく、たんに信じこませることになるような、そういう説得のようですね。」
ゴルギアス「そうだ。」

 そこでソクラテスは言う。正しいか正しくないか、善いことか悪いことか、いや、それ以前に正しいとはどういうことか、善いとはどういうことか、そういったことをしっかり考え抜くことなく、相手に自分の主張が正しいとか善いとかいったことを信じ込ませようとする弁論術など、技術の名にあたいしない、と。

 それは、高貴な技術などではなく「迎合」にすぎない。

「その仕事の眼目となっているものを、わたしとしては、迎合(コラケイア)と呼んでいるのです。」

 そしてそれは、醜いことである。ソクラテスはそう主張する。


2.人を思い通りに操れる弁論家は幸せか?

 と、ここにゴルギアスの弟子ポロスが登場してソクラテスに問う。

ポロス「彼ら(弁論家たち)は、ちょうど独裁者たちがするように、誰であろうと、 死刑にしたいと思う人を死刑にするし、また、これと思う人の財産を没収したり、国家から追放したりするのではないですか。〔中略〕(そして)あなたはさっき、彼らは自分たちに一番よいと思われることをしているのだということに、同意されたのではありませんか。」

 弁論家は、人を思いのままに操れる。こうして自らの望み通りに生きられる弁論家たちは、だから幸せであるはずではないか。ポロスはそうソクラテスに詰め寄るのだ。

 しかしソクラテスは言う。もしそれが悪いことであった場合、彼らが幸せであるはずがない、と。

「もし誰かが――それは独裁者でも、または弁論家でも、どちらでもよいが――ある人を死刑にするとか、国家から追放するとか、財産を没収するとかするなら、それはそうするほうが自分のためになると思ってするわけだが、しかしほんとうは、より悪いことである場合でも、むろんその男は、自分の思う通りのことはしていることになるだろう。〔中略〕それでは果して、望んでいることをしていることにもなるのだろうか、もしもそれが、ほんとうは悪いことだとしたならだよ。」

 どれだけ他人を思い通りにすることができたとしても、そのことが悪いことであったとしたら、それは彼らが本当に望んでいることであるはずがない。そうソクラテスは言うわけだ。

 このあたり、論理がやや分かりづらいので補足しておく必要がある。

 『国家』のページでも述べたように、プラトンにおける「善」は、絶対的な「善のイデア」をいうイメージが強いが、むしろ、「私」がほんとうにめがけたいと欲するもの、そしてさらにいえば、「皆」がほんとうにめがけたいと欲するものを意味している。

 というのも、人はどうしても、自らにとって「善い」ことをめがけたいと欲さざるを得ないからだ。誰も、それが自分にとって「悪」になるようなものは欲さない。人は「善」をめがけるのだ

 そうである以上、私たちは、できるだけみんなにとっての「善」をめがけた方がいいに決まっている。これをプラトンは善のイデアと呼んだのだ。

 それゆえ、そうした自らにとっての「善」、みんなにとっての「善」に目もくれず、自分にとってもみんなにとっても「悪」であるようなことに身をやつし成功を得た(と思い込んだ)ところで、それが幸せであるはずがない。ソクラテス(=プラトン)はそういうわけだ。

 それゆえプラトンは、ポロスに対して次のように言う。


ポロス「まるでもうあなたといったら、ソクラテス、あなたには、この国において、あなたの思う通りにする自由があるよりも、むしろ、それのないほうがいいとでもいったような口ぶりですねえ!それにまたあなたは、誰かが自分の思うとおりの人を死刑にしたり、財産を没収したり、牢獄につないだりするのをごらんになっても、少しも羨ましくはないかのようですねえ。」
ソクラテス「口を慎しむがいいよ、ポロス。」

ポロス「いったい、どうしてでしょう?」

ソクラテス「どうしてって、羨むに値しない連中を羨むことはないし、不幸な人たちをも羨むことはないからだよ。いなむしろ、そういう連中は、憐れんで然るべきだからね。


 繰り返すが、どれだけ人を操れたところで、それが彼にとっても皆にとっても「悪」であった場合、それは彼が本来望んでいたことではあり得ない。

 重要なことは、何が私にとっても皆にとっても「善い」ことであるかを探究すること。このことにほかならない。


3.帰謬法批判

 したがってソクラテスは言う。不正をすることは最悪のことで、されることの方がまだましである、と。

 これに対してポロスは、不正によって権力を勝ち得た歴史上の人物を引き合いに出し、ソクラテスに反論する。

 これに対するソクラテスの反論が大変興味深い。

君は論証の力でぼくが同意せざるをえないようにしているのではなく、ぼくに対して偽りの証言をする人たちを数多く持ち出すことによって、ぼくの財産である真理から、ぼくを追い出そうとかかっている

 私の考えでは、これはきわめて重要な反論だ。

 帰謬法という批判の仕方がある。古今東西、哲学史上どこにでも現れたもので、古代ギリシャのソフィストたちの常套手段でもある。(ほかにも、小乗仏教に対する大乗仏教の思想、キリスト教が異端を駆逐していく過程の思想、マルクス主義を批判するポストモダン思想などは、だいたいこの帰謬法を駆使した思想になっている。詳細はそれぞれの紹介・解説ページを参照されたい。)

 それは簡単に言うと、相手の論理に対して、「そうとは言えない」「そうじゃないこともある」と、矛盾をつつき回したり、ひたすら否定を続けたりする論法だ。

 しかしそれは、否定に否定を重ねるだけであって何ら建設的な議論ではない。

 そこでソクラテスは、そうしたソフィストたちの帰謬法を、上のようにいって批判したのだ。そして言う。

「しかしまた、ぼくとしては、君自身を、たとえ君一人ではあっても、ぼくの言うことに同意してくれる証人として立てることに成功しないうちは、ぼくたちの話し合っている事柄については、何一つ語るに足るほどのことも、ぼくはなしとげてはいないのだと思っている。しかしそれはまた、君の場合でも同じであって、もし君が、あの今あげたような他の証人たちをすべてお払い箱にして、ただの一人であってもこのぼくを、君のための証人とするのでなければ、君によってもまた、何事もなしとげられてはいないと思うのだ。」

 建設的で本質的な議論とは、帰謬法による否定に否定を重ねるようなものではなく、互いに納得し合い合意し合える、そうした地点を見出そうとすることだ。そしてそれこそが、哲学の営みであるはずなのだ。

 帰謬法の応酬の様相を呈しがちな現代哲学の現状を見るにつけ、ソクラテスのこの考えは、これからもきわめて重要な指摘であり続けるだろうと私は思う。


4.不正をする方がされるより幸福か?

 先述したように、ソクラテスは、不正をすることは最悪のことで、されることの方がまだましである、と主張する。

 なぜか。それは、不正をすることは「醜い」ことであるからだ。

 それゆえ、不正をしながらのうのうと生きているより、裁きを受ける方が幸福だ。ソクラテスは言う。


「身体にでも、あるいは魂にでも、悪いところをもっている二人のうちで、治療を受けてその悪から解放される人と、治療を受けないでその悪をそのまま持ちつづけている人とでは、どちらがより不幸だろうか。


ポロス「それは明らかに、治療を受けない人のほうです。


 不正の悪という魂の醜さは、裁かれ治療された方が幸福なのだ。そうソクラテスは言うわけだ。

 こうしてソクラテスは、1番幸福な人間から、2番目、3番目に幸福な(というより不幸度が少ない)人間のあり方を次のように結論づける。

ソクラテス「そうすると、一番幸福なのは、魂のなかに悪をもたない人間なのだ。〔中略〕二番目に幸福なのは、その悪から解放される人だろう。〔中略〕したがって、その悪をもったままでいて、それから解放されない人は、一番不幸な生活を送るということになるのだ。


5.カリクレスの主張:年頃をすぎて哲学するなど、物笑いの種である

 ここに、弁論家であり政治家のカリクレスが登場し、ソクラテスに挑み始める。

 彼はまず次のように言う。

いいかね、ソクラテス、哲学というものは、たしかに、結構なものだよ、ひとが若い年頃に、ほどよくそれに触れておくぶんにはね。しかし、必要以上にそれにかかずらっていると、人間を破滅させてしまうことになるのだ。なぜなら、せっかくよい素質をもって生まれて来ていても、その年頃をすぎてもまだ哲学をつづけていたのでは、立派なすぐれた人間となって、名声をうたわれる者となるのに、ぜひ心得ておかなければならないことがらを、どれもみな心得ないでしまうにきまっているからだ。〔中略〕もはや年もいっているのに、人がなお哲学をしているとなると、これは、ソクラテスよ、滑稽なことになるのだ。

 世間ではよく聞かれる言葉だ。「善とは何か」とか「徳とは何か」とか、そういったものをひたすら考え続ける哲学など、いわば処世術の真逆のもので、そんなものは、大人になるにつれて打ち捨ててしまうに限る。そうカリクレスは言うわけだ。

 ソクラテスは、この罵倒にほとんど答えない。代わりに、哲学がどれほど重要であるかを、続く議論において示していくのだ。


6.力あるものこそ正義か?快楽こそ善か?

 カリクレスは言う。法律習慣(ノモス)においては、弱者が正義とされている。しかし自然(ピュシス)においては、本来強者こそが正義なのである。

カリクレス「ぼくの思うに、法律の制定者というのは、そういう力の弱い者たち、すなわち、世の大多数を占める人間どもなのである。だから彼らは、自分たちのこと、自分たちの利益のことを考えにおいて、法律を制定しているのであり、またそれにもついて賞賛したり、非難したりしているわけだ。〔中略〕だが、ぼくの思うに、自然そのものが直接に明らかにしているのは、優秀な者は劣悪な者よりも、また有能な者は無能な者よりも、多く持つのが正しいということである。〔中略〕すなわち、正義とは、強者が弱者を支配し、そして弱者よりも多く持つことであるというふうに、すでに決定されてしまっているのだ。

 後の『国家』においては、トラシュマコスが同じことを言っている。ニーチェ『道徳の系譜』などで論じた「貴族道徳」も、ここから想を得たとされている。

 さて、欲望のまま思い通りに生きられる者こそが強者である、というカリクレスに対して、ソクラテスは次のような反論を試みる。

 カリクレスは、つまり快楽を得られ続けることこそが善であると言うが、快楽と善とは実は別ものである。それを証明しよう。

 まず最初のテーゼ。善でありながら悪であることはできない。これは誰もが認めるはずである。

 では他方の快楽について考えてみよう。たとえば渇きを癒すことを快楽だとするなら、この時、渇きという苦痛とそれを癒す快楽とが混在している。つまり、もし苦痛を悪、快楽を善というのだとするなら、善でありながら悪であるという状態が生じているということになる。

 それゆえ、快楽と善とは別ものである。善は、善でありながら悪であることなどできないのだから。

ソクラテス「善いことは快いことと同じではなく、また、悪いことも苦しいことと同じではない、ということになるのだよ。」

 もっとも、これは残念ながら詭弁へ理屈というほかないように思われる。

 私なら、ただただ快楽を追求し続けると、それが他者の自由を侵害するがゆえに、他者から嫌われたり攻撃されることがある、つまり、望んだ「善」とはほど遠いことになってしまう、という感じで、快楽と善とが別ものであることを論じるだろう。

 しかしともあれソクラテスは、力ある者こそが正義だといった場合、その力が単なる快楽を求める力であったとするなら、それは善(正義)ではないと主張するのだ。

 この点については、ソクラテスは十分に理屈の通る議論を展開している。

 カリクレスは、放埒な欲望をそのままに突き通し、快楽を手に入れられるものこそ善だと言った。しかしソクラテスは言う。


ソクラテス「もろもろの欲望を満足させるということも、たとえば、飢えているときには食べたいだけ食べるとか、渇いているときには飲みたいだけ飲むとかいうことも、もしその人の身体が健康であれば、医者は大抵の場合、その人のしたいようにさせておくけれども、しかし病気をしているときには、その人の欲しがるもので欲望を満足させることを、いわば絶対に許さないのではないかね。少なくともその点は、君も承認してくれるのかね。」
力ルリクレス「承認しよう。」
ソクラテス「では、魂についても、ねえ、君、これと同じ扱い方をすることになるのではないかね。すなわち、魂が劣悪な状態にあるかぎり、つまり無思慮で、放埒で、不正で、そして不敬虔なものであるかぎりは、そういう魂には欲望の満足を禁じるべきであり、そして、その魂がよりすぐれたものになるのに役立つこと以外は、何ごとも勝手にさせないようにすべきである。君はこれを認めるかね、それとも、認めないのか。」
カリクレス「それは認める。」
ソクラテス「それではその、欲望の満足を禁じるということが、抑制するということではないかね。」
カルリクレス「そうだ。」
ソクラテス「してみると、その抑制されることのほうが、君がさっき考えていたような、あの無抑制の放埒よりも、魂にとってはよりよいことになるのだ。」

 魂が劣悪であった場合、その魂の欲望のままに快楽を求めることは、抑制される必要がある。

 善は快楽のままに生きることを意味しない。それは、欲望の思慮節制によって達成されるものなのだ。


7.重要なこと、それは「人生いかに生くべきか」

 こうしてソクラテスは、当初の弁論術批判に立ち戻り次のように言う。

ソクラテス「君も見ているとおり、いまぼくたちが論じ合っている事柄というのは、ほんの少しでも分別のある人間なら、誰であろうと、そのこと以上にもっと真剣になれることが、ほかにいったい何があろうか、といってもよいほどの事柄なのだからね。その事柄とはつまり、人生いかに生くべきか、ということなのだ。」

 私たちにとって最も重要な問い、それは、「人生いかに生くべきか」という問いである。

 そして人間の仕事には、この問いを真剣に問うものと、これを一切顧みず、ただ説得や快楽だけを目指そうとするものがある。

 前者こそ哲学、後者は「迎合」である。

そのうちの一方は、技術的なものであって、魂にとっての最善が何であるかについて、あらかじめ何らかの考慮をしているものであるが、これに反して、もう一方のものは、最善ということは無視して、これまた身体の場合と同じように、ただ魂の快楽だけを問題にし、どうしたなら魂に快楽がもたらされるか、ということは考えているけれども、快楽のなかでも、どれはより善いものであり、どれはより悪いものであるかということについては、考えてみようともしなければ、また、より善いことになろうが、より悪いことになろうが、ただ気に入られて喜ばれさえすれば、それ以外のことには全然、関心のないといったものなのである。〔中略〕そしてぼくとしては、そのようなやり方こそ「迎合」であると主張しているのだ。」

 善悪を顧みず、ただ相手を説得し信じ込ませようとする小手先の弁論術や、単なる快楽だけを求めようとする生き方、そうしたものは、人間の生にとって本当にたいせつなことを見失わせるものである。

 私たちにとっていつも常にたいせつなこと、それは、「人生いかに生くべきか」という問いを、心の底に温めながら生きることなのだ。

 ソクラテスが「人類の教師」といわれ続けるゆえんが、ここにある。


(苫野一徳)



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