ロールズ『公正としての正義 再説』


はじめに
John Rawls
 1971年に刊行された『正義論』で、政治哲学のみならず経済学や現代思想にまで絶大な影響を及ぼしたロールズ(ロールズ『正義論』のページ参照)。

 その後無数に繰り広げられた批判や議論を経て、彼は後期になって、自らの理論を一部転回させることになる。

 「政治的リベラリズム」と呼ばれるものがそれだ。

 未邦訳の『政治的リベラリズム』において、ロールズは次のようにいっている。

「包括的教説と政治的構想の間の区別が、残念ながら『正義論』には欠けている。」

 「包括的教説」とは、いわば絶対に正しいこととしてすべての人に押しつけられる教義のことだ。

 ロールズの『正義論』は、出版後、そうした包括的教説だという批判を受けた。また、いわゆるコミュニタリアニズムの理論家たちからは、正義の理論は「包括的教説」としては取り出せず、どこまでも共同体の価値の中からしか構想できないものなのだという批判を受けた(サンデル『リベラリズムと正義の限界』マッキンタイア『美徳なき時代』のページ等参照)。

 そこでロールズは、後期になって、自らの理論は「包括的教説」などではないし、そもそもそのようなものとしては提示してこなかったということを、改めて論じ直した。

 ただこのことを強調することで、ロールズ自身、自らの理論は「重要な点で転換した」といっている。

 本書は、こうしたロールズ理論の簡潔な集大成だといっていい。また生前最後の著作になったものでもある。

 『正義論』に比べれば煩雑な議論は抑えられ、ポイントだけが分かるようにまとめられているが、講義をもとにした草稿を編集者が編集して出版したものであるため、特に後半については、ややまとまりに欠ける感を免れない。

 しかし前半に関しては、ロールズ入門としてもおそらく最良のものとなっている。


1.正義に適った政治的構想とは?

 本書における問いを、ロールズはまず次のように述べる。

自由で平等であり、合理的で道理にも適っており、かつ(付け加えると)ある世代から次世代へと全生涯にわたって十分に協働的な普通の社会構成員とみなされる、そのような市民間の協働の公正な条項を明確にするのに、最も受け容れられやすい正義の政治的構想はどのようなものか。」

 正義に適った政治的構想とは、いったいどのようなものか?

 これが本書の問い(そしてロールズの生涯をかけた問い)である。 

 本書において、ロールズはまず、このような政治的構想に支えられた社会を「秩序だった社会」と呼び、その特徴を次のように描き出す。

「第一に、これは正義の公共的構想の観念に含まれていることだが、そのような社会は、すべての者が、まさに同一の正義の政治的構想(従ってまた同一の政治的正義原理)を受け容れ、かつ、他のすべての者もまたそのような構想と原理を受け容れているということを知っている社会のことである。〔中略〕
 第二に、これは正義の公共的構想による実効的規制という考えに含まれていることだが、社会の基本構造――つまり、その主要な政治的・社会的諸制度とそれらを協働の一システムとして結合する方法――がそれらの正義原理に適合していることが、公に知られている、あるいは、よき理由からそう信じられている。

 第三に、これもまた実効的規制という考えに含まれていることだが、市民たちは、普通に実効的な正義感覚、つまり、公に承認された正義原理を理解して適用し、そして、たいていは社会における彼らの地位やその義務と責務が要求するように行動することができるようにする正義感覚をもっている。」

 ①同一の政治構想を受け入れている社会、②社会の基本構造が正義に適っているという合意が成立している社会、③人びとが正義感覚を持っている社会。

 この3つの特徴をもった社会を、ロールズは「秩序だった社会」と呼ぶわけだ。

 ではそのような社会は、いったいどのような原理に基づけば可能なのだろう。


2.政治的リベラリズム

 この問いに挑む前に、ロールズは、前期の自らの理論を一部修正して次のようにいう。

穏当な多元性の事実を所与とすれば、その構成員のすべてが同一の包括的教説を受け容れるような秩序だった社会は不可能であることに注意されたい。しかし、民主的な市民たちは、異なった包括的教説を抱いていても、正義の政治的構想には合意できるのである。正義の政治的構想が、民主的社会の市民としてのわれわれが得ることができる社会的統合の十分かつ最も道理に適った基礎を提供すると、政治的リベラリズムは考えるのである。

 社会は多様な人たちから成っている(穏当な多元性)。だから、すべての人が同じ「包括的教説」を信じられるわけがない。

 そこでロールズは、人びとが何を信じ何に価値を置くかはひとまずおいて、あくまでも政治的な次元において、どの程度のことまでであれば人びとが合意しうるかを考えようという。

 これが、後期に提唱された「政治的リベラリズム」の思想だ。


3.善と正義

 ところで、『正義論』においては、「善」に対する「正」の優先が説かれていた。

 一人ひとりにとっての「善」「価値」よりも、政治社会にあっては「正」「正義」の方が重要であるとする主張である。より正確にいうと、一人ひとりが抱く「価値」にかかわらず、政治社会の「正義」の原理を取り出さねばならないのだとロールズは主張した。

 しかしこのことについては、その後激しい批判が寄せられることになる。たとえばサンデルは、「正」は「善」に優先するのではなく、「善」からしか「正」は取り出せないと主張した(サンデル『リベラリズムと正義の限界』のページ参照)。

 こうした批判を受けて、本書でロールズは、「善」についても多くのページを割く。

 後で述べる、ロールズの有名な思考実験装置「原初状態」において、ロールズは、人びとは自らの「善」について考える能力を持っていると主張する。

「それは、善の構想をもち、修正し、合理的に追求する能力である。そのような構想は、整然とした一群の最終的な目的・目標であり、これが、人生において価値あるものは何か、あるいは言い換えると、完全に価値ある人生とみなされるものは何かについて、ある人格がもつ構想を明確にするのである。

 「原初状態」において、人びとはこのような能力を持っている。しかしそれでもなお、彼らはいわば「善」に対する「正」の優位に合意するだろう。なぜなら政治的「正」に支えられてはじめて、わたしたちは自らの「善」を追求することができるようになるからだ。

 以下ロールズの議論はそのように続くが、「善」に対する「正」の優位という理念は、『正義論』と比べればやや弱められている感もなくはない。


4.重なり合うコンセンサス

 後期になって登場するもう1つの重要概念が、「重なり合うコンセンサス」という概念だ。

「完全に包括的であれ、部分的にそうであれ、それに基づいてすべての市民が政治的正義の根本的諸問題を解決するために、現実に同意する、あるいは同意しうる、そのような教説は存在しないということが、穏当な多元性の事実のなかに含まれている。むしろ、秩序だった社会では、政治的構想は、道理に適った重なり合うコンセンサスとわれわれが呼ぶものによって支持されていると、われわれは言うのである。」

 政治において包括的教説があり得ない以上、その正義の原理は、「重なり合うコンセンサス」としてしか取り出せない。そうロールズはいうわけだ。


5.無知のヴェールと原初状態

 以上のような留保をつけた上で、ロールズはようやく、主著『正義論』の議論を繰り返す。

 人びとが、自らの出自や才能などを一切知らない、「無知のヴェール」に覆われた状態で社会をどう構想するかと考えてみよう。そうロールズはいう。

 この「原初状態」において、人びとは次のような合意に達するはずである。

 『正義論』の文言を若干修正して導き出されたその正義の2原理は、次のようである。


a各人は、平等な基本的諸自由からなる十分適切な枠組への同一の侵すことのできない請求権をもっており、しかも、その枠組は、諸自由からなる全貝にとって同一の枠組と両立するものである。
b)社会的・経済的不平等は、次の二つの条件を充たさなければならない。第一に、社会的・経済的不平等が、機会の公正な平等という条件のもとで全員に開かれた職務と地位に伴うものであるということ。第二に、社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最大の利益になるということ(格差原理)

 (a)は、対等な自由権、(b)は、機会均等原理と格差原理と呼ばれる。

 この正義の2原理の詳細については、ロールズ『正義論』のページにおいて解説、またその原理的な批判をしているので、そちらを参照していただければ幸いだ。



(苫野一徳)

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コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』


はじめに

File:Kojeve.jpg 現代思想に絶大な影響を与えた、パリ高等研究院における講義録(1933〜39年)。

 受講者の中には、ラカンバタイユカイヨワメルロー=ポンティブルトンアーレントサルトル岡本太郎など、錚々たるメンツがそろっている。

 ラカンの有名な、「人間の欲望は他者の欲望である」というテーゼや、サルトルの「無」(否定性)の概念などは、おそらくこのコジェーヴの講義から受け取られたものだ(サルトル『存在と無』のページ参照)。あるいはフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という概念もまた、この本から取られたものだ(フクヤマ『歴史の終わり』のページ参照)。

 ヨーロッパにおけるヘーゲル・リヴァイヴァルを生み出したと同時に、以後、現代思想がこぞってヘーゲルを最大の敵とみなすことになる、そのきっかけを与えた書でもある。


1.欲望存在としての人間

 コジェーヴは、それまで有神論的形而上学の哲学とされてきたヘーゲル哲学を、徹底した「人間」洞察の哲学として解釈し直した。

 その際のキーワードが、「欲望」だ。コジェーヴが現代思想に与えた最大の功績は、人間を「欲望」存在として規定した点にあるといっていい。

 コジェーヴ(=ヘーゲル)はいう。わたしたちは、ただ対象に単純に向かっているだけの存在ではない、と。

 わたしたちは、まず何よりも自分自身を意識している「自己意識」である。そしてこの自己意識は、一切をわたしの「欲望」から対象化する。

「自己意識、つまり真に人間的な現存在したがって――結局は――哲学的な現存在の基礎にあるものは、純粋に認識的かつ受動的な観想ではなく、欲望である。

 この欲望は、それが人間的なものである限り「他者」へと向かう。

「欲望は他者の欲望に、そして他者の欲望に向かわなければ人間的ではない。」

 それはつまり、他者からの承認を欲望するということだ。

「それは――結局は――他者に対する自己の優位をその他者に承認させるためである。これはそのような承認Anerkennungを求める欲望にほかならない。」

 これが、人間同士の間に「生死を賭けた闘い」を生むことになる。

「普遍的承認を求める欲望の数多性が存在するならば、これらの欲望から生まれる行動が――少なくとも当初は――生死を賭けた闘争Kampf auf Leben und Tod以外の何物でもありえない、ということも明白である。」

 つまり、主と奴との出現に帰着した最初の闘争とともに、人間が生まれ、歴史が始まった」のだ。コジェーヴはそう主張する。


2.歴史の停止

 とすれば、この主と奴の闘いが終わる時、歴史は停止することになる。コジェーヴは続けてそのように主張する。

「世界史、人間の相互交渉や人間と自然との相互交渉の歴史は、戦闘すると労働するとの相互交渉の歴史である。そうである以上、歴史との相違、対立が消失するとき、もはやをもたぬために、であることをやめるとき、そしてもはやをもたぬためにであることをやめ――さらには――もはやがいない以上新たににもならぬとき、歴史は停止する、と。

 フクヤマの有名な「歴史の終わり」というテーゼの元になった、コジェーヴの「歴史の停止」説である(フクヤマ『歴史の終わり』のページ参照)。


 国家において万人の承認が完成した時、主と奴の闘いは終わり、そうして人間の歴史も停止する。コジェーヴはそう考えた。そして、ヘーゲルはその象徴をナポレオンに見たのだと(ヘーゲルがナポレオンを「馬上の世界精神」と呼んだのは有名なエピソードだ)。



 ただし、これはあくまでコジェーヴの考えであって、ヘーゲル自身は、「歴史の終わり」といったようなことは主張していないから注意が必要だ。


 ちなみに、フクヤマが『歴史の終わり』で引用し、また日本でも東浩紀氏が用いたことで有名になった、「動物化」「動物的生」という言葉は、本書の脚註において登場するものだ。

 人間的な主と奴の闘いが終わり歴史が停止するならば、人類はその後、その時々の動物的な欲求を、ただただ満足させるだけの生を生きていくほかなくなるだろう。コジェーヴは一時期そう考えた。

 が、その後日本を訪問したのを機に、彼は日本的「スノビズム」の可能性を感じるようになる。

 それは、茶道や華道など、高度に形式化された文化を楽しむ人びとの生き方だ。人間的な歴史が停止しても、人は単純な動物化に陥ることなく、人間的文化を味わう生を送ることができるのではないか。短い日本滞在を経て、コジェーヴはそう直感したのだった。


3.無神論的解釈

 先述したように、コジェーヴは、従来有神論的形而上学と考えられてきたヘーゲル哲学を無神論的に解釈し直した。

有神論的解釈は絶対的に不可能である。『精神現象学』が或る意味をもつならば、そこで問題となっている精神は人間精神以外の何物でもありえない。」

 その傍証として、コジェーヴはヘーゲルの宗教や神学についての解釈を挙げる。

より広い意味では、宗教神学もまた自己認識である。なぜならば、神について語っていると思いながら――実は――人間は自己自身について語っているだけだからである。したがって、宗教において呈示される精神神学において問題となっている精神、これは自己自身を知る精神でもあり、神学精神自己意識Selbstbewußtseinであると言うことができる。

 ヘーゲルを無神論者と呼ぶのは、さすがに無理があるだろう。しかしコジェーヴの解釈を、ヘーゲル哲学の真骨頂は、その有神論的な「体系」にはないのだという主張と受け取るなら、それはきわめて建設的な解釈だとわたしは思う。

 この点については、ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』などのページに詳論した。参照していただければ幸いだ。


(苫野一徳)

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ヘーゲル『精神現象学』(その3)



4.精神

ファイル:Hegel portrait by Schlesinger 1831.jpg 意識はこれまで、意識→自己意識→理性と展開し、ついに「事そのもの」の自覚という境地に達した。

 続く「精神」の章で、ヘーゲルはこの展開をいわば歴史的にたどり直す。ヘーゲルによれば、人間の歴史もまた、実はこのような展開のプロセスとして見ることができるのだ。

 「はじめに」でもいったように、この「精神」の章と次の「宗教」の章は、当初のヘーゲルの計画にはなく後でさし入れられたものだ。だからこの2つの章は若干前後の関連が明確でないのだが、しかしそれでも、「精神」章におけるヘーゲルの洞察には改めて目をみはらされるものがある。


(1)人間のおきてと神々のおきて(古代ギリシャ)

 まずヘーゲルが考察するのは、古代ギリシャについてだ。これまでに見てきた章でいえば、「意識」に相当するといっていいだろう。

 古代ギリシャのポリスでは、個人の精神と共同体の精神が美しく調和している。しかしそれは上辺だけのことであって、この2つが分裂してくるところ、人びとには「自己意識」が芽生え始める。

 分裂の契機(きっかけ)は、「人間のおきて」「神々のおきて」との対立だ。

 「人間のおきて」とは、要するに共同体のルールのことだ。

「普遍性の形式においては、この精神は熟知せられているおきて(法律)であり、現に行なわれている習俗であり、個別性の形式においては個人一般のうちにおける自分自身だという現実的な確信であり、さらに自分が一重の個体性であることを確信するときには、真実態は白日のもとに公明に妥当することであり、この精神は統治としてある。」

 一方の「神々のおきて」は、家族のルールのことである。個別的な共同体である家族は、自分たちの「神々」を祀り、自分たち独自のルールを持つ。そしてそれは、大きな共同体(ポリス)のルールと、時に対立することになる。

「要するに家族は内々の神々〔として国家の〕普遍的な精神に対立しているものである。」

 その典型が、「埋葬」をめぐってだ。

 ヘーゲルは、ソフォクレスの『アンティゴネー』を題材にこのことについて論じる。

 アンティゴネーは、ソフォクレスの不朽の名作『オイディプス』のいわば続編のようなもので、オイディプス王の4人の子どもを主役にした戯曲である。

 あらすじをざっといっておくとこんな感じだ。

 王位継承をめぐって、オイディプスの息子たちは互いに戦争をしかけ、そしてどちらも命を失ってしまう。悲しんだ妹のアンティゴネーは、戦場に朽ち果てた2人の亡骸を埋葬しようとするが、新たに王位についた叔父のクレオンによりそれを厳しく禁じられる。

 「国を混乱に陥れた2人を埋葬することは許さない」

 というわけだ。

 絶望したアンティゴネーは自殺するが、後を追って、婚約者のハイモンも自殺する。

 実はこのハイモン、新国王クレオンの息子だった。そして、ハイモンの死を知ったクレオンの妻(ハイモンの母)もまた、絶望に打ちひしがれて自殺する。

 以上が『アンティゴネー』のあらすじだが、ともあれ以上のように「人間のおきて」と「神々のおきて」が対立した時、意識(精神)は共同体と個人との素朴な合一から抜け出していく。


(2)法的状態(古代ローマ)

 続いてヘーゲルが描き出すのが、古代ローマの精神だ。

 ここでは、個々人が個々人として「権利」を持っている(ローマ法の支配)。その意味で、個人と共同体との素朴な合一の段階は終わっている。

 しかし実は、このローマ法において、本当に自由なのは皇帝ただ1人である。

「アトムが絶対的な現実であると思いこんではいても、しかし自体的には実在性を欠いた現実であるのとは反対に、この唯一の一点のほうは普遍的な威力であり、絶対的な現実である。そこでこの唯一の点が「世界主人」であるが、この主人はこのようにしてすべての「そこ」の存在を同時に自分の手中に掌握しているところの絶対的人格であると自任しており、この人格の意識にとっては自分より高次の精神が現にあるのではない。」

 こうして古代ローマの精神もまた、十分な精神たることができずに次の段階へと己を展開させていく。


(3)教養・信仰・啓蒙・絶対自由(近世〜近代)

 次に登場する精神のあり方が、「教養」「信仰」そして「啓蒙」「絶対自由」である。

 「教養」は、「自分から疎遠になった精神」といわれる。自分のことをある意味客観的に見られる精神のことだといっていい。

 ここには、「高貴な意識」「下賤な意識」というものが登場する。「高貴な意識」は公(権力)と結びつく意識のことで、「下賤な意識」はこれを憎悪しただ批判ばかりしている意識のことだ。

 しかしこの「高貴な意識」、自分では、国のためとかみんなのためとかいいながらも、実は自分の「特殊意志」を隠し持っている。だから実はこれも下賤な意識である。

 こうして、どれだけ高貴であろうとしても、自分のいわば「下心」のようなものを自分が実は持っていることに気づいてしまうのが、この「教養」の初期段階である。

 その典型を、ヘーゲルはディドロの小説『ラモーの甥』に見る。(ディドロ『ラモーの甥』のページ参照)

 大作曲家ラモーの甥は、とにかくひねくれもので、何でもかんでも批判する。そしてその批判が、自分がひとかどの者になりたいのになれないからやっているのだということ、また、自分は実は「下賤」な人間なのだということも、重々承知している。

 こうした精神に至った時、精神は次の「信仰」の段階へと展開することになる。


(4)信仰と啓蒙

 何もかもが空しくなったとき、人は「信仰」に救いを求める。しかしすでに「自己意識」に到達している精神は、それが実は自分の作りだしたものであることも知っている。

 ここに信仰の決定的な弱さがある。

 こうして登場するのが、「啓蒙」だ。それは、信仰などという非理性的なものに頼らず、徹頭徹尾理性的に考えよという。こうして「信仰」は転落することになる。

「信仰は自分の王国から追放せられたのであり、言いかえると、この王国は掠奪せられたのである。

 こうして、「啓蒙」は精神のチャンピオンに上り詰めることになる。そしていう。一切は「有用性」なのだ、と。信仰など必要ない。すべては「わたしにとって有用か」「どのように有用か」と考えるべきなのだ。


(5)絶対自由と恐怖

 一切を「有用性」で考えるようになった精神「啓蒙」は、やがて気づくようになる。神や王は、決して絶対的な存在ではないのだと。だからこれを、打ち倒す必要があるのだと。

 こうしてフランス革命が起こることになる。

 が、その行きつく先は、「絶対自由」の精神のほかにない。一切はわたしのためにあるのだから、その精神が主張するのは「絶対自由」なのだ。

「世界はこの自己意識にとっては端的に自分の意志であり、またこの意志が普遍意志である。」

 このような精神が実際に行動を起こせばどうなるか。

 恐怖のテロリズムである。

「普遍的自由」とはただ破壊の狂暴であるにすぎないわけである。

 これはロベスピエールによる恐怖政治のことをいっている。フランス革命後の恐怖政治は、まさにこの「絶対自由」の精神が生み出したものだったのだ。


(6)道徳性

 こうして「破壊の狂暴」を経験した精神は、ついに自らの「道徳性」に目覚めることになる。

 自らの考えは、ほんとうに他者にとっても普遍的といえるだろうか。「道徳性」の精神は、そのように内省するようになる。

 が、それも最初はきわめて素朴な内省にすぎない。

 というのも、「正しいことをしよう」と願っても、そこには2つの問題があるからだ。

 1つは、「正しいこと」をしても幸せになれるとは限らないという問題。

 もう1つは、「正しいこと」を、わたしの「欲望」や「衝動」のせいで行えないという問題だ。

 そこで「道徳性」の精神はこれをある仕方で克服しようとする。

 「神の要請」がそれだ。

 「正しいこと」と「幸福」とが一致するように、またそれが「欲望」や「衝動」とも一致するように、「神の存在が要請される」のだ。

「そこで今やこの〔他の〕意識が「世界の主人」として、また「世界の支配者」として道徳性と幸福との調和を創り出すと同時に、もろもろの義務を数多なるがままに聖なりとし是認するということになる。」

 ここには浅ましい「ずらかし」があるとヘーゲルはいう。自分の意志で「正しいこと」をしようと主張していた精神が、実は結局「幸福」にこだわっていたり、「欲望」「衝動」の前にくずおれたりと、実は真剣でなかったという「ごまかし」があるのだ。

 ヘーゲルによるカントの道徳哲学批判として有名な箇所だ。(カント『実践理性批判』のページ参照)


(7)良心(「行動する良心」と「批評する良心」)

 こうして精神は、ついに「良心」(Gewissen)の境地に到達することになる(金子訳では「全的に知ること」)。

 これは、具体的な行動を通して「事そのもの」をめがける精神の境位のことだ。

「なぜなら、「事そのもの」であるのは、「純粋義務」が純粋な思考することという空なる抽象において成立するものであること、純粋義務がその実在性と内容とをただひとつの限定せられた現実においてのみもっていること、しかも「ひとつの現実」というのが意識自身の現実であり、且つ「意識」というのが「思想の上での物」としてのものではなく、或る個別者としてのものであるということだからである。

 道徳性は、他者の承認という契機を欠いていた。それは、ただ自らが「正しいことをしよう」と決意するにとどまっていた。

 しかし「良心」は、「正しさ」「よさ」「ほんとう」は、他者からの承認を得てはじめて「正しさ」「よさ」「ほんとう」といえることを、徹底的に自覚している精神である。

「全的に知ること(=良心〔引用者〕)は事そのものをその充実した内容において獲得ており、しかもこの充実した内容は全的に知ることが事そのものに自分自身によって与えるものである。

 そして最後に、「行動する良心」「批評する良心」が登場する。

 「行動する良心」は、「事そのもの」をめがけて実際に行動する良心だ。

 ところがここに、「批評する良心」が冷水を浴びせることになる。

 お前のその行動は、単に名誉欲や名声欲があってのことだろう、といった具合に。つまり「行動する良心」の、その奥底にある「欺瞞的」「偽善的」な部分をつこうとネチネチいうわけだ。

 ところが「批評する良心」も、やがて気づくことになる。

 自分がそうやって批判しているそのこと自体が、実は自分にとってのほんとうの「事そのもの」をめがけての行為であるのだと。だから、「行動する良心」を批判してばかりいる自分は、単にさもしい奴であるだけなのだと。

 こうしてこの「頑なの心胸」(批評する良心)は、自らで自らを赦し、砕け散ることになる。

「赦し」というのは、普遍的な意識が自分のことに対して、即ち自分の非現実的な本質のことに対して行なう棄権のことである。」

「〔然りという〕和らぎの語〔中略〕は相互に承認しあうことであり、そうしてこの承認が絶対的な精神である。

 「良心」、これが精神の最高境位なのだ。それは「事そのもの」を自覚した精神のことである。そしてヘーゲルは、この境位を「絶対知」と呼ぶ。


2.絶対知

 「精神」章と「絶対知」章の間には、「宗教」の章がある。しかしここでは割愛したい。前にいったように、この章はそもそも「付け足し」の感を免れないし、より詳細な記述はヘーゲルの『宗教哲学講義』にあるからだ。(ヘーゲル『宗教哲学講義』のページ参照)

 そこで、以下最終章「絶対知」に進むことにしよう。

 といっても、この章も、最後のまとめといった程度で、ヘーゲルが自分の「学の体系」を論じた箇所を除いてあまり新しい点はない。

 そこで、ここでは割愛した「宗教」の章との関連から、ヘーゲルが「絶対知」をどのようなものとして描き出しているかを最後に見ておくことにしよう。

「宗教においては内容であったもの、言いかえると、或る他者を表象することという形式をとっていたものと同じものが此処の全的に知ることにおいて自己にとって自分自身の為すこである。このさい内容が〔同時に〕自己にとって自分自身の為すことでもあるというように、内容と為すこととの両者を結合するものこそは概念である。

 宗教は、ヘーゲルによれば「精神」の本質を理解した境位(つまりこれまで論じてきたプロセスを知っている境位)である。

 しかしそれは、この「本質」を「神」という表象で表現する。

 他方、これを「概念的に把握」するに至ったのが、「絶対知」である。

「この絶対的な知ることとは自分を精神の形態において知るところの精神であり、言いかえると、概念的に把握するところの知ることである。

 これまで論じてきた、「意識→自己意識→理性」の進み行きを、「概念」として、つまり徹底的に理性的に理解しつくした精神、それが「絶対知」なのだ。

 それはつまり、繰り返しいってきたように、「よい」「正しい」「ほんとう」は、他者に承認されてはじめて「よい」「正しい」「ほんとう」であるということを、徹頭徹尾自覚した精神のことだ。

 「事そのもの」を自覚し、「良心」に達した精神。それこそが「絶対知」にほかならない。







(苫野一徳)

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