ウォーラーステイン『近代世界システム』




はじめに


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 なぜ、そしてどのように、ヨーロッパから資本主義的「世界経済」のシステム(=近代世界システム)が起こったのか。
 ウォーラーステインは本書でこの問いに挑む。

 15、6世紀に出現した、ヨーロッパ資本主義経済、これは文字通り、国家を超えた世界レベルのシステム、すなわち「近代世界システム」だった。

 この近代世界システムの成り立ちを、ウォーラーステインは、中核半辺境辺境という有名な概念装置を使いながら明らかにしていく。

 近代世界システムは、自由な労働からなる中核地域が、奴隷制やそれに類する労働形態からなる辺境を「収奪」するシステムである。(分益小作制からなる半辺境は、この収奪の緩衝材の役割を果たす。)

 ウォーラーステインはおおむねそのように主張する。

 これは、いわゆる「従属理論」と呼ばれる理論の発展的継承だ。

 つまり、先進国が後進国から原材料を購入し、それを加工して後進国に売りつけるので、後進国はいつまでも先進国に従属し続けるとする理論である。

 よく言われるように、この従属理論は、20世紀におけるアジアの急成長を説明できないとして、近年では批判されている。

 しかしそれでもなお、「世界は一体として動く」(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』)ことを強調し、そのダイナミックな動きを鮮やかに描いてみせたウォーラーステインの理論は、今なお大きな影響力を持ち続けている。

 全3巻(邦訳は異なった出版社から全4巻)からなる浩瀚な本書の内容を、ここで全部細かく紹介するわけにはいかないが、さまざまな学説の詳細な検討などは省略して、以下ではできるだけ本書の骨格を浮かびあがらせてみることにしたい。


1.15〜16世紀、ヨーロッパ世界経済(=世界システム)の出現

 15世紀末から16世紀にかけて、「ヨーロッパ世界経済」が出現した。ウォーラーステインは、これは文字通りの「世界システム」であったと指摘する。

「それは、文字通りの「世界」システムなのである。もっとも、それが全世界を包含しているからというのではなくて、地上のいかなる法的に規定された政治単位をも凌駕しているという意味で、世界的なのである。」

 国家の枠を越えた「世界」レベルの「システム」となった、ヨーロッパ世界経済。ウォーラーステインは問う。なぜ、そしてどのようにして、ヨーロッパだけがこの資本主義的世界経済の道へと踏み出すことになったのか、と。

 そこでウォーラーステインは、まず14世紀の中世ヨーロッパへと目を向ける。


2.14世紀「封建制の危機」から資本主義的「世界経済」へ

 中世ヨーロッパは、いうまでもなく封建制


「つまり、比較的小規模で自給的な経済単位から成っていたのである。しかも、この経済単位は、マナー経済のなかで生み出される僅かばかりの農業余剰を一握りの貴族階級が収奪するという、むき出しの搾取を前提として成立していた。」


 この経済システムの中で、ヨーロッパは少しずつ発展をしていった。

 ところが14世紀になって、このヨーロッパ封建制に「危機」が起こる。

 封建制システムの生産性が、ピークを迎えたのだ。

 生産性がピークを迎え、それ以上の生産が不可能になると、限られたパイを巡って争いが起こることになる。

 そうなると、選ぶべき道は1つしかない。

「それは、分割さるべき経済上のパイを太らせる策でなければならない。さしあたり技術が一定だとすれば、開発すべき土地と人口という基盤の拡大を前提とするものでなければならない。」

 土地の拡大。まさにこのことこそが、15、6世紀ヨーロッパにおいて展開した事態だったのだ。

「世界経済」への道は、こうして切り開かれることになる。


3.ポルトガルの海外進出

 周知のように、この道を真っ先に切り開いたのはポルトガルである。

 なぜポルトガルが最初に名乗りを上げたのか。

 まずはっきりしているのは、地理的条件である。」
 
「さらに、ポルトガルはすでに、遠距離貿易にはかなり経験があった。」

「第三の要因としては、〔ポルトガルでは〕資本の調達が容易だったという事実がある。ヴェネツィア人の仇敵であったジェノヴァ人たちが、つとにイベリア二国の商業活動に投資し、その海外進出の企図を支援する腹を決めていたからである。」

 ところで、海外進出と言えば、同時代の中国もまた、鄭和による海外探検が大きな成功を収めていた。

 にもかかわらず、中国はその後海外進出の道をぷっつりと閉ざしてしまうことになる。

 それはなぜか。

 1つの理由は、ヨーロッパが牧畜と小麦栽培を主としていたのに対して、中国が稲作だったからである。

 稲作の場合、土地は牧畜と小麦栽培に比べて少しで済んだ。だから中国は、海外進出の必要がなかったのである。

 もう1つのより重要な理由は、中国が巨大な「帝国」だったからである。

「帝国は広大な土地と巨大な人口を管理し、防衛する責任をもつ。しかし、それだけに注意が散漫になり、本来は経済発展にむけられるべきエネルギーや利潤も、脇に逸らされがちになる。」

 要するに、中国は海外進出への動機を持たなかったのだ。


4.中核部、半辺境、辺境

 こうして、1450年頃以降、ヨーロッパに「世界経済」の生まれる素地が登場した。

 さて、ここでウォーラーステインは、資本主義的世界経済を分析する際の重要概念を提示する。

 中核部半辺境辺境、である。

「対外発展はまた、不均等発展をもたらし、報酬にも差が生じてくる。ひとつの社会層のなかにまた複数の層があるといった、多重的な階層構成のなかで不均等発展が起こると、各階層内で報酬の両極分解が起こる。こうして、具体的にいえば、一六世紀には「ヨーロッパ世界経済」の中核部とその辺境という差異が生じ、中核部にあたるヨーロッパの内部でも、国によって差異が生まれた。さらに、一国の内部でさえも、地域や階層によって違いが生じたし、同一地域内でも都市と農村では明白な違いがあった。」

 要するに、「世界経済」が進展すると、そのシステムの内部において、かなり明確な格差が生じるのだ。

 そしてこれら3つの地域では、それぞれ異なった労働管理の様式が成立した。

 中核部では「自由な労働」、半辺境では分益小作制、辺境では奴隷制と封建制、となる。

「辺境――東ヨーロッパとスペイン領新世界――は強制労働、すなわち奴隷と「換金作物栽培のための強制労働」を用いる。他方、中核部では、後述するようにしだいに自由な労働力が使われるようになる。これらに対して半辺境――もとは中核に位置していたのに、いまでは辺境的な構造をもつようになってきた地域――では、まさに両者の中間形態にあたる分益小作制が広汎に採用された。」

 中核部、半辺境、辺境は、時代と共に移動した。なぜ、そしてどのように移動したのかをウォーラーステインは本書で分析しているが、その際彼は、次のことに注意を促す。

「ある時点でそれまでにあった諸要因の作用によって、一地域が他の地域に対して決定的な点でほんの一歩先んじており、しかもこの一歩の差が以後のその社会の動向を決定するほどの意味をもつような歴史的状況があると、格差はどんどん拡大する。」

「一五世紀の一歩の差が、一七世紀には大差となり、一九世紀にはもはや拭い去りようのない決定的な違いとなったのである。」 

 そして言う。

「自由な労働とは、「世界経済」の中核に位置する諸国の熟練労働者の管理形態なのであって、同じシステムの辺境におけるより熟練度の低い労働者の管理に用いられたのが強制労働なのである。資本主義の真髄はまさに両者の結合にこそある、というべきである。」

 資本主義は、常に強制労働による労働を搾取することによって成り立っている。ウォーラーステインの資本主義観が表れた一文といえるだろう。


5.絶対王政と国家機構の強化

 さて、先述した「封建制の危機」の中から登場したのが、絶対王政である。

「15世紀の「封建制の危機」がまず最初に「秩序回復者」を生み出す。経済的に困窮した領主は農民の搾取を強化し、農民叛乱の原因をつくった。貴族同士の戦闘も同じ理由で増加した。弱体化した貴族はいっそうの混乱を怖れて、保身のために国王に依存しようとする。国王はこうした状況を利用して、貴族にはとうてい真似のできないほどの富と権力を蓄えることができた。」

 16世紀、国王は、次の4つの方法によって権力を手中に収めていった。すなわち、1.官僚制の整備、2.武力の独占、3.合法性の主張、4.国民の均質化、である。
 
 もっとも、絶対王政とはいっても、「建前としての主張はともかく、実際には君主権はかなり制約されていた。」

 しかしともあれ、世界経済の中核部では、このように国家の中央集権化が進展したのである。というより、中央集権化を押し進められた国家こそが、世界経済における中核部になれたのだ。


6.セビーリャからアムステルダムへ

 16世紀前半、世界経済の中核を成していたのは、そのような中央集権化が最も進んでいたスペインだった。

「16世紀のスペインは、新世界に広大な帝国を形成することに成功した。当時の海上輸送のコストからすれば、極限といえる規様である。」

 しかし16世紀半ば、スペインはあっという間に破産する。なぜか。

帝国の国家機構を維持するための財政需要が増し、そのために国家の負債が激増した。このことが致命傷となって、皇帝(スペイン王カルロス1世は、神聖ローマ皇帝カール5世でもあった――引用者)は結局世紀中頃に破産した。」

 さらに、1557年に勃発したスペイン−フランス戦争は、債務をますます増大させた。

 なぜこのようなことが起こったのか。ウォーラーステインは言う。

「本書の観点からすれば、没落の原因は次のように説明されよう。経済地理的には16世紀の「世界経済」の中心に位置していながら、スペインはこの「ヨーロッパ世界経済」を自国の支配的な社会層の利益に結びつけうる国家機構をつくらなかった、というより、つくれなかったこと、これである。」

 スペインのセビーリャに取って代わったのは、すでにバルト海産穀物市場の核をなしていた、オランダのアムステルダムだった。


7.躍り出るオランダとイギリス

 オランダと同時期に、世界経済の中心に躍り出たイギリスについても見てみよう。ウォーラーステインは言う。

イギリスはスペインとフランスという二大軍事強国が闘争中のため、外部からそれほど強烈な介入は受けずに済んだ。帝国であれば負わねばならない義務にあえぐこともなかった。したがってイギリスは、主として東ヨーロッパの原・材料を利用して、経済問題に専心することができたのである。

 要するに、当時イギリスは、世界経済の中において最適の場所にいたわけだ。

 オランダもまた、地理的条件に恵まれていた。

「(オランダは)穀倉でもあり、森林資源の産地でもあった北東ヨーロッパとそれらの商品を必要とした諸国の交易ルートにあたる大西洋岸にあった」のだ。

 さて、このイギリスとオランダは、なぜ、スペイン没落後の最強国であったフランスに打ち勝つことができたのか。

 ウォーラーステインは言う。それは、イギリス・オランダでは貴族がブルジョワに転化したのに対し、フランスでは封建制が強かったため、ブルジョワの機能が放棄させられたからである、と。

 世界経済システムにおいては、新興ブルジョワジーが国家を繁栄させる要となる。彼らがビジネスを通して国に富をもたらすからだ。

 イギリスやオランダでは、旧来の貴族がこのブルジョワジーへと転化していった。しかしフランスは、まだまだ封建制が強かったため、貴族のブルジョワ化が阻まれたのだ。


8.オランダのヘゲモニーと衰退

 こうして17世紀、ヘゲモニーはまずオランダが握ることになる。

 ここで言うヘゲモニーとは何か。ウォーラーステインは言う。

「ヘゲモニーというのは、たんに中核国家であるということではない。特定の中核国家の生産効率がきわめて高くなり、その国の生産物が、おおむね他の中核諸国においても競争力を持ちうるような状態のことであり、その結果、世界市場をもっとも自由な状態にしておくことで、その国がもっとも大きな利益を享受できるような状態のことと定義されている。」

 それは、生産流通金融、すべての部門において、圧倒的優位に立った国家のことである。歴史上、ヘゲモニーを握ったのは、17世紀オランダ、19世紀イギリス、20世紀アメリカの3カ国しかない。

 オランダがヘゲモニーを握れた理由は、つきつめれば、凝集性のある、統合された農=工業生産複合体をつくりあげることができたからである。当時、オランダの生産力は、農業においても工業においても圧倒的だったのだ。

 しかしさしものオランダにも、やがて衰退の兆しが見え始める。

 最大の理由は、世界経済全体に需要が停滞し始めた点にある。

 こうなると、高賃金重税の国オランダは、生産物の競争力を相対的に弱めざるを得ない。


9.イギリスとフランス

 オランダの衰退と共に表舞台に出て行ったのが、イギリスとフランスである。当時の国力はほぼ互角。どちらも、オランダがヘゲモニーを握っている間、重商主義政策をとって保護貿易により国を守った。

 しかしその後、両国の命運は徐々に分かれていくことになる。

 イギリスは、アメリカ植民地という広大な供給先を広げていった。しかし一方のフランスは、それをすることができなかった。

 なぜか。

「この理由としては、フランスはあまり市場を求めていなかったというか、別のところに市場をもっていたのだ、ということができるのではないか。(つまり)フランスは、その生産物の国内市場が広かったのではないか、ということがそれである。」

 イギリスは大西洋貿易を盛んにした。その結果、保護貿易ではなくもっと自由化したほうがもうかるという声が高まっていく。反重商主義が生まれるのだ。

 この流れが、18世紀におけるイギリスとフランスの命運を分けることになる。


10.低成長期における辺境

 ここで、中核地域から辺境へと目を向けてみよう。

 先にみたように、17世紀は世界経済における需要が停滞した低成長期にあたる。

 そうなると、ブルジョワたちは労働者からより搾取することでもうけを維持しようとするようになる。

 結果、辺境のカリブ海域は、奴隷制が発展することになる。

「ブルジョワ=生産者にとっては、奴隷制が最適の選択だったのである。」


11.フランス革命の意味

 中核に話を戻そう。

 ヘゲモニーをめぐって争っていたイギリスとフランスだったが、18〜19世紀にかけて、イギリスの勝利がはっきりすることになる。

 フランス革命は、その最中に起こった大事件だった。ウォーラーステインは言う。

フランス革命が重要なのは、「世界経済」のヘゲモニーをめぐるフランスとイギリスのあいだの抗争が重要だったからこそである。フランス革命は、フランス人がこの抗争での敗北を予感するようになった直後に、その結果として起こったのである。」

 どういうことか。ウォーラーステインは次のように言う。

「第一に、それは、早急にフランス国家の改革を強行しようという、支配的な資本家階層のなかの一集団による、かなり意識的な試みであった。」

 実はフランス革命は、封建制の強かったフランスを、イギリスのようなブルジョワジーが支配する国に転換しようとして起こされた革命だったのだ。そうウォーラーステインは主張する。

「第二に、フランス革命は、公共の秩序が徹底的に崩壊するような状況を意味したため、「近代世界システム」史上初めて、本格的な反システム(つまり反資本主義)運動が勃興することになった。すなわち、フランスの「民衆=大衆」の運動がそれである。実際のところ、むろんそれは失敗であったが、それが、以後のすべての反システム運動にとって、その精神的基礎となってきたことも、紛れもない事実である。このことは、フランス革命がブルジョワ革命だったからそうなったのではなく、まさしくそうではなかったからこそ、起こったことなのである。」

 ブルジョワジーは、イギリスに負けないような、資本主義的世界経済の中でより中核を担える国家へとフランスを作り替えたかったが、フランス革命においては、こうした資本主義的傾向に対する農民反乱が起こった。このことからウォーラーステインは、フランス革命は最初の反資本主義運動だったのだと主張する。

「第三に、ブルジョワ革命は、全体としての「近代世界システム」に必要なショックを与え、文化・イデオロギーの側面を、少なくとも経済的・政治的現実に追い付かせ、対応させる役割を果たした。」

 フランス革命までは、資本主義的世界経済に、イデオロギーがまだついていっていなかった。人々は、いまだ封建制のイデオロギーの中で生活していたのだ。フランス革命こそが、世界が資本主義的な「近代世界システム」になったということを、人々に最も先鋭に知らしめたのである。ウォーラーステインはそう主張する。


12.広大な新地域の「取り込み」

 さて、それまで長らく、ヨーロッパの世界経済の「外部」にいた国々がある。

 主として、インド亜大陸オスマン帝国ロシア帝国および西アフリカである。

 18〜19世紀にかけて、これらの地域もまた、世界経済の内部に取り込まれていくことになる。

「資本主義的世界経済」に組み込まれた側の主導で、組み込みが起こった例はひとつもない。組み込みの過程は、むしろ「世界経済」の側に境界を拡大する必要が生じた結果として、行なわれたものである。

 「組み込み」前、これらの国々は、ヨーロッパと奢侈品貿易においてのみかかわっていた。

 奢侈品が奢侈品であるためには、「稀少性」が重要だ。そのためには、国家としては稀少品の情報を独占したくなる。

 こうしてヨーロッパ世界経済「外部」の国々は、強力な国家機構を作り上げていく。

 ヨーロッパ世界経済側としては、それは阻止したいことである。

 こうしてヨーロッパからの介入が始まっていく。そして1750年前後から1850年までに、組み込みは完了した。


13.18〜19世紀南北アメリカ

 南北アメリカでもまた、白人定住者たちが植民地支配を打ち破り国家を樹立していった。

「50年以上にわたって徐々に白人定住者たちは、西半球一帯に国家を樹立していき、インターステイト・システムのメンバーとなった。これらの国はいずれも、それぞれの経過を経て、新たなヘゲモニー国家、イギリスの政治的・経済的指導下に置かれた。もっとも、その際、合衆国は自らその副官の役割を担うことになり、したがって、潜在的にはイギリスの競争相手となり、結局は、実際にもそうなったのである。」

 言うまでもなく、この後20世紀のヘゲモニーは、北アメリカが握ることになる。


(苫野一徳)

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