クリステンセンほか『教育×破壊的イノベーション』


はじめに

 「学び方」は、人によってそれぞれだ。

 にもかかわらず、学校は子どもたちに、同じ学習内容を、同じやり方で、そして同じペースで勉強させている。

 それはあまりに非効率的なやり方だ。

 本書は、企業のイノベーション研究の第一人者であるクリステンセンらが、その知見を用いて、学校をいかにより効果的な教育機関へと変革していくことができるかを論じたものだ。

 従来の「教育(学)研究」は、学校や教育といったものに内在的に行われることが多かった。

 それに対してクリステンセンらは、ここにイノベーション研究の知見を持ち込み、文字通り、教育研究に「破壊的イノベーション」を起こしてみせた。

 教育の「専門家」は、得てして、既存のパラダイム内でしか教育を考えられなくなってしまいやすい。

 そうした意味でも、本書は、教育者・教育研究者に新たな視野を開いてくれる、多くの教育関係者に読まれてほしい貴重な本だ


1.人によって学び方が違うのに、なぜ学校は教え方を変えられないのか?

 学び方は人それぞれ。これはほとんど常識的なことだといっていい。

 でも従来の学校は、それを十分に考慮してきたとはいえない。著者は言う。

人によって学び方が違い、学習の経路とペスを一人ひとりの生徒に合わせる必要があるという共通認識があるのに、なぜ学校は指導やテストを行なう方法を標準化するのだろうか?

 この問いに答えるために示されるのが、「相互依存的アーキテクチャ」「モジュール式アーキテクチャ」という概念だ。

 学校は相互依存的アーキテクチャだ。つまり、カリキュラム、指導方法、教師教育、行政にいたるまで、学校設計におけるあらゆる面が相互依存的にがんじがらめになっていて、どれか1つを変えようとすれば、その他の設計も大きく変えなければならないようなシステムになっている。

「他方、モジュール式アーキテクチャは柔軟性を最大限に高めるため、カスタマイズが容易だ。いくつかの部分を変更しても、他のすべての部分を一から設計し直さなくてすむため、さまざまなニーズに合わせて、本格的なカスタマイズを比較的容易に行なうことができる。」

 学校を、できるだけこのモジュール式アーキテクチャに近づけていくために、私たちには何ができるか?


2.破壊的イノベーション

 ここで登場する概念が、「破壊的イノベーション」だ。

破壊的イノベーションは、飛躍的な改良とは違う。確立した競争平面での従来の改良軌跡を維持するのではなく、既存企業が従来阪売していたものには劣る製品やサービスを市場にもたらすことで、従来の軌跡を破壊するのだ。この種のイノベーションは、性能面で劣っているため、〔中略〕既存顧客には使うことができない。だがより手頃で使いやすい製品を生み出すことから、奥の平面の製品をそれまで消費できなかった人たち――無消費者と呼ぶ――には役立つ。

 要するに、破壊的イノベーションとは、新しい消費者層を開拓することで、従来のサービスのあり方を破壊するようなイノベーションのことである。

 教育に、この破壊的イノベーションを持ち込もう。クリステンセンらはそう主張する。


3.コンピュータを破壊的に導入する

 そのためにまず手っ取り早く着手できるのが、コンピュータの破壊的導入だ。

 いうまでもなく、学校にはすでにコンピュータが導入されている。しかしその導入のされ方が問題だ。

「学校がこれほどの大金をコンピュータに費やしながら、ほとんど成果を挙げていない理由を理解するのは難しいことではない。学校は既存の指導モデルや教室モデルにコンピュータを押し込んできたのだ。〔中略〕つまり、既存の慣行や指導法を置き換えるのではなく、維持するために導入しているのだ。」

 したがって、新しい導入のされ方が必要だ。

 それは2つの段階を経ると著者は言う。

 第1段階は、「コンピュータベースの学習」と呼ばれる。

この段階のソフトウェアの教授方式は、各科目で支配的なタイプの知性や学習スタイルをほぼ反映したものとなる。」

 第2段階は「生徒中心の技術」と呼ばれる。

「破壊の第二段階を、われわれは「生徒中心の技術」と呼ぶ。この段階では、生徒が自分の知性のタイプや学習スタイルに即したやり方で各科目を学べるソフトウェアが開発される。コンピュータベースの学習が、一枚岩的な教師先導型の教授方式にとって破壊的であるのに対し、生徒中心の技術は、個別指導教員にとって破壊的である。」

 徹底的にカスタマイズされた、コンピュータベースの学習モデル。これがやがて、十分に体系化されることになるだろう。クリステンセンらはそう主張する。

 そうなると、学校はこれまでのような勉強の場ではなくなるだろう。学校の意義と役割は、変わっていかざるを得ない。オンラインでは提供できない活動が、学校における活動の中心になるだろう。

「教師は来る年も来る年も画一的な授業を行ないながらほとんどの時間を過ごす代わりに、生徒の間を回って、一人ひとりが問題を解決する手助けをすることに、今よりずっと多くの時間を費やせるようになる。生徒が自分に最適な学習方式を探す手助けをする、学習コーチやチューターに近い役割を果たすようになるのだ。」


4.変革はいかに可能か?

 では、学校をこのような「生徒中心の技術」を土台とした教育機関にするために、私たちはいったい何をすべきだろうか?

 先述したように、学校は「相互依存的アーキテクチャ」だ。だから、その一部に手を入れて全体を変革することはむずかしい。

 じゃあどうすればいいのだろうか?

「破壊は、規制者の力の及ばない、完全に独立した商業システムの中で力を得ている。新しい商業システムが存続可能で古いシステムよりも優れていることがいったん証明されれば、大半の顧客が規制されないシステムに流れ、その動きが既成事実化してから規制者が追認する。

 つまり、従来の学校とはまた別のタイプの学校なり教育サービスなりを作って、その効果を既成事実化してしまえ、というわけだ。破壊的イノベーションは、既成のパラダイムにとらわれない、まさにそうした場所から起こるのだ。

 その具体的な例として、クリステンセンらは「チャータード・スクール」「プロジェクトベースの学習」を挙げる。

 チャータード・スクール(一般にはチャータースクールと呼ばれるが、本書ではあえてチャータードとされている)とは、公設民営の学校のこと。地域のニーズに応じて、地域住民で作る学校だ。

 プロジェクトベースの学習とは、生徒自身がみずから課題を設定して、教科横断的に学びを進めていくスタイルの学習のこと。

 こうした、従来の学校とは異なったモデルを次々と実施していくことで、学校教育には破壊的イノベーションがもたらされるだろう。クリステンセンらはそう主張する。

 そこでこれからは、次の3ステップを踏んで、学校が変革されていくべきだ。


1.うまくいっている学校モデルの体系化
2.状況に基づく因果関係の体系化
3.モデルの複製


 学びのあり方は人それぞれ。どういうタイプの子どもにどういうタイプの学び方が合っているか、その「因果関係」をしっかり明らかにして、体系化し、モデルを構築しよう。

 クリステンセンらはそう主張する。


(苫野一徳)

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柄谷行人『「世界史の構造」を読む』


はじめに

 大著『世界史の構造』を、3.11後にもう一度考え直すという趣旨の本書。柄谷の新たな思索に加え、苅部直、大澤真幸、絓秀美、高澤秀次などの論客たちとの対談・鼎談が収録されている。

 『世界史の構造』については本ブログでもやや詳しく紹介したので、このページでは、本書で新たに提示された論点を中心に、ポイントをしぼって見ていくことにしたいと思う(『世界史の構造』のページ参照)。

 『世界史の構造』で柄谷は、世界史を交換様式の観点から次のように読み解いた。

 まず、互酬性を原理とする交換様式A。(未開社会)

 次に、略取と再分配を原理とする交換様式B。(帝国)

 そして現代における、商品交換を原理とする交換様式C。(資本主義)

 この交換様式C、すなわち資本主義経済が、今終りを迎えつつある、というのが柄谷の見立てだ。そして今後私たちは、互酬性を原理とする交換様式Aの高次元の回復、すなわち交換様式Dを基軸としていくべきである。
 
 この交換様式Dは、かつてカント「永遠平和」のために唱えた、「世界共和国」の理念を具現化するものだ。柄谷はそう主張する。(カント『永遠平和のために』のページなど参照)

 ではこの贈与に基づく社会は、いかに可能になるだろうか。

 本書ではその驚くべきアイデアが提示されている。


 柄谷は、膨大な知識とすぐれた発想・思考力によって、これからの新しい世界のあり方を力強く構想し続けてる。

 しかし『世界史の構造』のページでも書いたように、私自身は、最後の最後で柄谷の思想にどうしても納得することができない。

 最大のポイントは、なぜ交換様式Cの次にDが来なければならないのか、その論理的整合性が見えない点にある。

 たしかに、グローバル化した資本主義の問題は、もはやだれの目にも明らかだ。なんらかの形でこれを修正していかなければならないのは間違いない。

 しかし、なぜそれが、交換様式Aの高次の回復としての交換様式Dでなければならないのか、その理由がよく分からない。

 唯一その理論的根拠として持ち出されているのは、フロイト「抑圧されたものの回帰」である。

 幼少期のトラウマは、いったん抑圧されるがやがて回帰してくる、という精神分析の理論だが、フロイトはこれを世界史にもあてはめた。(『モーセと一神教』のページなど参照)

 しかしこれは、フロイト自身認めているように、実証不可能な仮説である。実際フロイト理論は、その類まれなる人間洞察には今なお学ぶべきものが多いが、理論としてはどれも実証不可能なものばかりだ。(フロイトのページを参照)

 したがって、この仮説を頼りに交換様式Dの必然性を説くのは、説得力に欠けるように私には思われる。

 しかしともあれ、本書は『世界史の構造』で展開された柄谷思想をさらに深めた、とびきりおもしろい世界構想の書であることはまちがいない。受け取るべきものもきわめて多い。


1.憲法9条を贈与せよ

 「交換様式D」を可能にする根本的な策、それが、本書の最も衝撃的な、憲法9条を実行に移せというアイデアだ。

「僕の考えでは、現在考えられる最大の贈与とは、軍備放棄です。これは贈与なんですよ。それを受け取る側はどうするか。かつて類例がないから、困惑するでしょうね。そのときに、これ幸いと侵略するだろうか。もしそんな恥ずべきことをしたら、その国は二度と立ち直れないでしょう。」


2.「世界同時革命」へ

 そしてそれを、国連を通して実行しよう。柄谷はそう主張する。そのことで、「世界同時革命」が可能になるのだと。

「各地の運動が国連を介することによって連動する。たとえば、日本の中で、憲法九条を実現し、軍備を放棄するように運動するとします。そして、その決定を国連で公表する。〔中略〕そうなると、国連も変わり、各国もそれによって変わる。というふうに、一国内の対抗運動が、他の国の対抗運動から、孤立・分断させられることなしに連帯することができる。僕が「世界同時革命」というのは、そういうイメージです。」

 柄谷は、暴走するグローバル資本主義がますます悪化させている南北問題などを背景に、世界戦争が迫っていると見る。そして、この戦争の危機に対処するには、軍備放棄こそが最大の戦略だ、と主張するのだ。


3.資本主義の終わり

 なぜ「交換様式C」すなわち資本主義は終わるのか。柄谷は言う。

「世界の人口の多数を占める中国やインドが経済成長を遂げる時点では、もはや資本にとって「外部」は存在しません。資本の蓄積(経済成長)ができない以上、資本主義は終らざるをえない。

 要するに、世界の経済はやがて定常状態に落ち着くのだ。500年におよぶ資本主義の進展は、世界中の需要を吸いつくし、もはや成長することが不可能になる。

 しかし、資本主義はそれを何とか回避したい。したがって必死にあがくことになる。そしてこれが、世界戦争をひき起こすことになる。柄谷はそう主張する。

「資本主義の終りは資本にとっては厳しいものです。だから、資本主義が自動的に終ることはありません。資本も国家もそれを存続させようと必死にあがくに決まっているからです。ゆえに、それに対抗する運動が必要です。われわれが抵抗しないなら、今後に何らかのかたちで「帝国主義戦争」が起こるでしょう。われわれはそのような状況にいるのです。


4.新自由主義

 この資本主義のあがきが、近年の新自由主義である。

 それはかつての帝国主義の様相を呈している。

 柄谷はそう主張する。

「新自由主義と帝国主義はイデオロギーにおいてもよく似ています。帝国主義時代には社会的ダーウィニズム(生存競争、適者生存)が支配的なイデオロギーでした。新自由主義では、勝ち組と負け組、自己責任といった流行の言葉が示すように、一種の社会的ダーウィニズムが支配的となります。また、「金融資本」の支配という点でも似ています。新自由主義では、一九二九年恐慌以後、それに対する反省から設定していた「金融資本」への諸規制がつぎつぎ廃棄されてしまいます。さらに、「資本の輸出」という点においても、新自由主義は帝国主義と似ています。先進資本主義国は海外に生産を移しました。その結果、自国の労働者は失業し、また、社会福祉はカットされる。総じて、それまであった福祉国家の形態が否定されるのです。」

 帝国主義時代、資本は国民国家の手をはなれ世界を襲った。(その模様は、柄谷も引用しているアーレントの『全体主義の起源2:帝国主義』にくわしい。)

 今起こっているグローバル資本主義もまた、この帝国主義の繰り返しのようである。「新自由主義とは『資本の専制』の実現なのだ。

「なぜ「資本の専制」が生じるのか。それは資本主義経済が強くなったからではありません。逆に、その限界にまで追い込まれているからです。それが強い間は、資本は労働者・農民に利益を再分配したのですが、今や、ネーションを犠牲にしても、自己増殖を果たさなければならない。だから、あらゆる領域に商品経済化を進めなければならない。」

 こうして柄谷は、資本主義の終わりを予告する。


5.遊動性の自由が平等をもたらす

 個人的に最も興味深かったのは、遊動性の自由が平等をもたらすという柄谷の指摘だ。

遊動性が平等をもたらすわけです。遊動性が大事だということに気づいたのは、最近です。不平等が起こってくると、平等を要求して革命が起こるというイメージがあるでしょう。しかし、そもそも、そんなところから出ていって、別のところに移動すればいいんですよ。」

 交換様式Aよりも前の段階、すなわち狩猟採集遊動民の場合、獲得したものを共同寄託する(平等に分配する)システムがある。

「これは彼らが遊動的であるから、自然におこなわれるのです。遊動的生活では、蓄積することができない。だから、みんなで消費する。ゆえに、富の格差は生じない。」

 しかし定住すると、事態は変わる。


蓄積が起こると、どうしても富の差ができるし、首長の権力も増大する。それを抑止するシステムが、互酬性だと思います。それが交換様式Aです。〔中略〕しかし、交換様式Aによって何が回復されているのかというと、平等というよりも、まず遊動性(自由)なのではないか。むしろ、そのことが平等をもたらすのではないか。『世界史の構造』では、その点が明確ではなかったので、ここで強調しておきたい。」


 つまり、不平等から抜け出せるという自由が、共同体の平等を担保しつづけていたというわけだ。

 これは、古代ギリシャはイオニアにおける、イソノミアに顕著に見られると柄谷は言う。

 イソノミアは同等者支配と訳されるが、アーレントはこれを「ノールール(無支配)」といっている。


「どうしてこういうものがイオニアに生まれたのか。私の推測では、これはイオニアにおいてたえまない植民活動があったからだと思います。これに似ているのは、イギリスその他ヨーロッパからの移民によって築かれた一八世紀アメリカの「タウン」です。植民してきた人たちは、タウンに入ると、一定規模の土地を与えられました。ここでは、大土地所有は存在しなかった。それは、禁じられていたからではなく、大土地所有を維持するためには労働者を雇用しなければならないのに、それがいなかったからです。土地をもたない人は、大土地所有者のところで賃労働をするよりも、別のタウンに、あるいはフロンティアに移った。あるタウンに不平等があれば、よそに移動する。このような移動性(自由)が平等をもたらすのです。」


 交換様式Aにおいて、遊動性が「抑圧されたものの回帰」として現れた、という点については、「ほんとかな?」という気もするが、しかし平等のためには自由(遊動性)が必要だ、とする主張には深く納得する。

 社会構想における、1つの重要なキーワードになるだろう。



(苫野一徳)

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トッド『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』

  はじめに

 2009年10月、4度めの来日を果たしたエマニュエル・トッドの講演・インタビュー録。

 昨日紹介した『アラブ革命はなぜ起きたか?』同様、学術書ではなくある程度ラフなトーク集のため、かえってトッドの思考のキモが見えやすい。

 本書のポイントはきわめて簡明だ。

 今日世界中が見舞われている、未曾有の世界経済危機。その根本的理由は、世界的な需要不足にある。

 ケインズ以来、一国内における需要不足には財政出動によって総需要を喚起するという政策が取られてきた。

 しかしグローバル社会における自由貿易においては、この方策が通用しなくなっている。


 なぜか。自由貿易下の競争においては、中国などの安い労働力に対抗するため、先進国も労働者の賃金切り下げを遂行するからだ。

 そして賃金の低下は、労働者の消費を抑え込むことになる。こうして需要不足に拍車がかかる。

 だからこの状況においては、(ヨーロッパは)保護主義の策を取るべきである。

 トッドはそう主張する。 

 保護主義というと今日では悪イメージがあるが、それは安易なイデオロギーにすぎないとトッドはいう。

 というのも、歴史的にいって、現代の民主主義はまず保護主義によって守られてきたからだ。

 人びとの格差を広げ、超富裕層による社会支配をもたらしたものこそ、自由貿易にほかならなかったのだ。

 後述するように、トッドは保護主義を教条的に主張しているわけではない。今日における需要不足と深刻な格差拡大に対抗するための、一時的・合理的・協調的な策として主張するのだ。



1.世界的経済危機の理由

 2008年以降の世界金融危機

 今日世界は未曾有の経済危機に見舞われているが、トッドはその根本的な理由を、世界規模の需要不足にあるとみる。

「なぜいま需要が不足しているのか。いくら経済再建の政策がとられても、自由貿易が支配的であるかぎり需要は喚起されない構造になっているからです。」

 それはなぜか。

 先述したように、自由貿易下の競争においては、中国などの安い労働力に対抗するため、先進国も労働者の賃金切り下げを遂行するからだ。

 そして賃金の低下は、労働者の消費を抑え込むことになる。

「国内経済において需要を支える労働者の賃金も、海外市場を目指す企業にとっては、単なるコストとなってしまう。国際的な競争が激しくなれば、企業経営者はさらに労働力コストを下げようとする。このように世界中の企業が労働力コストの削減を競い合えば、労働者の賃金は世界的にますます低下し、結局、世界規模で需要が縮小するという悪循環に陥る。

 このような状況においては、いったん自由貿易から保護主義へと移行する必要がある。

 これが、本書におけるトッドの主張の要諦だ。

 ただしトッドは、これをプラグマティックな方策だと主張する。

 現代における自由貿易の信奉者は、文字通りこれを信奉し、いついかなる時でも自由貿易こそ善であるというイデオロギーを抱いている。

 しかしトッドは、状況に応じて政策は変えられてしかえるべきだというのだ。

自由貿易の提唱者と保護主義の提唱者には、根本的な違いがあります。自由貿易の提唱者は、教条主義者です。いかなるときでも、自由貿易が唯一の方法であると信じて疑わない。それに対し、保護主義の提唱者は、現実主義者、プラグマティストです。つまり、歴史のそれぞれの局面において、それぞれ異なる解決策が必要だと考える。したがって、時代によって、また国によって、解決策は異なると考える。

 ある意味「当たり前」の指摘ではあるが、実際自由貿易が教条化してしまっている以上、トッドのこの指摘は改めて肝に命じておく必要がある。

 ちなみにトッドは、保護主義をヨーロッパがとるべき策として主張している。日本の場合には、やや微妙(というよりはっきりとは分からない)との見方を示しているようだ。


2.格差を拡大する自由貿易

 トッドが以上のように主張する背景には、歴史的にいって、自由貿易が格差を拡大してきたという事実がある。


「イギリスは、十七世紀、十八世紀に経済的に発展しました。当時、クロムウェルの下で、保護主義的な経済政策が行われていたわけですが、同時に民主主義も進展します。それに対し、ビクトリア王朝期には、むしろ不平等が拡大しました。この時採られた政策は、自由貿易です。いずれにしても、この英国の例は大変興味深いと思います。アメリカでも、南部の奴隷制維持を主張していた人々が、自由貿易を主張しました。それに対し、北部の民主主義を主張した人々は、保護主義的な政策をとって工業を発展させました。この場合も、民主主義は、明らかに保護主義と連関しています。フランスでも、第三共和政は、民主的に極めて安定した体制であったわけですが、経済政策としては保護主義が採られていました。」

 そしていう。

「これは、歴史を振り返れば、当たり前とも言えることです。なぜなら自由貿易は不平等、格差を拡大するものだからです。したがって、自由貿易体制を長期に続ければ、必ず社会の不平等は拡大し、非常に優遇された超富裕層が社会を支配していくことになる。


 まさに、現代起こっていることだといえるだろう。(ちなみに、特にアメリカにおける格差の拡大については、スティグリッツ『世界の99%を貧困にする経済』にくわしい。)

 そうしてトッドはいう。この一部の超富裕層による支配は、民主主義の危機にほかならないのだと。したがって次のように主張する。

自由貿易を選べば、民主主義は諦めなくてはならない。民主主義を選ぶのであれば、自由貿易は諦めなくてはならない。


3.エリートの「ナルシスト化」と大衆のルサンチマン

 本書におけるもう1つのポイントは、高等教育(大学)への進学率の高止まりが生み出した現象の解読にある。

 アメリカでは60年代に、フランスでは95年に、そして日本でもおそらく近年、大学への進学率が高止まりした。

 こうなると、高等教育を受けた人びとの間で、新たな格差が生じてくることになる。

 つまり、一部のエリートと彼らにルサンチマンを抱く一般大衆の格差だ。

 一部のエリートは「ナルシスト化」し、多くの大衆はペシミズムを抱くようになったのだ。

 つまり、

多くの若者が大学に進学する一方で、「大学は出たけれども」という状況がより深刻化し、ペシミズムが広がっている。

 というわけだ。

 そしてエリート支配は、大衆をますます顧みない政策をとっていくことになる。

 自由貿易イデオロギーは、まさにその典型だとトッドはおそらく考えている。

「自由貿易によって国内の賃金が低下し、生活水準が低下し続けているのに、その根本原因たる自由貿易が、政治的論争で議論されていない。このように国内の経済状況に依拠しない自由貿易政策は、エリート層による不平等的な政策であるわけです。」

 だから今こそ保護主義なのだ。

 トッドの主張は明快だ。


 (苫野一徳)

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