ポパー『科学的発見の論理』


はじめに

Karlpopper 20世紀を代表する科学哲学者、カール・ポパーの主著。

 科学とは何か。何をもって、科学的ということができるのか。

 ポパーの提起した科学理論は、「反証主義」とよばれている。それは要するに、科学理論は反証可能でなければならないとする考えだ。

 これは、それまでの帰納主義論理実証主義への批判として提示された科学理論だ。その批判については以下で見ていくが、帰納主義批判についての、ポパーのおもしろいエピソードがある。

 フロイトの弟子にして、のちに彼から離反することになる心理学者、アルフレッド・アドラーと知り合いだったポパー。ある時ポパーは、アドラー理論では説明できそうにない子供の例を彼に話した。するとアドラーは、それでもなおその症例を、みずからの理論で説明してみせた。

 驚いた(あきれた)ポパーは、「どうしてそんな判断ができるんですか?」と訊ねた。答えてアドラーは、「これまでにもう1000回も見てきたからね」という。

 ポパーは皮肉を込めて、「なるほど、ではこれがあなたの1001回目の症例になったんですね」といったという。

 これは、ある意味で帰納主義の典型的な問題を指摘したものだといっていい。

 (素朴な)帰納主義は、それこそ1000回、2000回と事例を観察・実験していけば、それによって真理に到達できると考える。しかしポパーはいう。どれだけ観察と実験を繰り返そうが、それが真理に到達することはない。なぜなら、次の事例によってこれまでの結果が反駁される可能性を、わたしたちは原理的に排除することができないからだ。

 以下、ポパーの唱えた反証主義について、紹介・解説していくことにしよう。


1.帰納主義批判

 まずポパーは、先述した帰納主義の問題を次のように指摘する。

「単称言明から普遍言明を推論することは,どんなに多くの単称言明をもってしても,とうてい正当化されない。」

 単称言明とは、たとえば「このカラスは黒い」ということ。それに対して普遍言明(全称命題)とは、「すべてのカラスは黒い」ということ。

 帰納主義は、単称言明を徹底的に集積することで、普遍言明を導こうと考える。つまり、あらゆる「このカラスは黒い」を集めることで、「すべてのカラスは黒い」という「理論」を導こうとする。

 しかしポパーはいう。

「いかに多くの黒いカラスの事例をわれわれが観察したにしても,このことは,すべてのカラスは黒い,という結論を正当化するものでない。」

 どれだけ黒いカラスを観察しようが、次の事例で白いカラスが見つかってしまうかもしれない。だから帰納主義は、どれだけ観察や実験を繰り返そうが、真理に到達することができないのだ。


2.反証可能性

 では、科学的であるとはいったいどういうことなのか。

 ポパーはここで、有名な「反証可能性」の概念を提示する。

「経験的科学体系にとっては反駁されうるということが可能でなければならないのである。」

 科学的であるとは、単に観察事実を積み上げることでも、何らかの理論を「絶対にこうなっている!」と強弁することでもなく、たえず「反証できますか?できたらしてください」というテストへと、みずからの理論を開くことにある。

私の提案にしたがえば,経験的方法を特徴づけるものは,テストされるべき体系を,考えうるあらゆる仕方で反証にさらすその作法(態度)である。」

 ということは、科学とは、けっして絶対の真理などではなく、相互主観性に開かれたオープンなゲームだということになる。

「それゆえ私は次のようにいう。すなわち,科学的言明の客観性はそれらが相互主観的にテストできるという事実にある,と。


3.論理実証主義批判

 この観点から、ポパーは論理実証主義を批判する。

 論理実証主義は前期ウィトゲンシュタインの影響を大きく受けた思想運動だが(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』のページ参照)、彼によれば、世界の出来事をひたすら分解していけば、不変で単純な対象と、それらの間の関係に還元することができるという(この対象と対象との関係を、ウィトゲンシュタインは「事態」とよぶ)。

 たとえば、リンゴという対象と机という対象があり、「リンゴが机の上にある」という事態が成立する、といった感じだ。

 そしてウィトゲンシュタインは、この命題は真か偽であるという。リンゴが机の上に本当にあれば真、なければ偽、というわけだ。

 とこうなれば、あらゆる真の命題を記述しつくせば、「世界は完全に記述される」(『論理哲学論考』)ことになる。

 ところがポパーからすれば、そんなことはけっしてあり得ない。ポパーにしてみれば、科学理論はどこまでも「仮説」にとどまらざるを得ない。帰納主義批判にみたように、どれだけ事態を観察したところで、それが次の事例においては例外である可能性を排除することができないからだ。

 しかも論理実証主義は、「有意味」な言説は科学的言明だけであり、たとえば「価値」についての言明は、あいまいな主観的言明であるがゆえに「無意味」であると主張した。

 これに対してポパーは、「問題を『無意味』とか『エセ』とかいってあばきたてることほど容易なことはない」と批判する。

 重要なのは、こんなもの「無意味」だといい続けることではなく、いわば(科学的に)有意味であるとはどういうことか、探究しつづけることである。ポパーはそういって、論理実証主義の安直さもまた批判した。

(ちなみに、論理実証主義は前期ウィトゲンシュタインに大きな影響を受けているが、ウィトゲンシュタイン自身は、後期になってそれまでの自分の哲学をひっくり返してしまった。これについては『哲学探究』のページを参照。)


4.サーチライト・セオリー

 以上見てきたように、科学理論はけっして絶対の真理を意味しない。それは、世界を理解するための、いわば網の目のようなものなのだ。そうポパーは主張する。

理論は,われわれが『世界』とよんでいるものを捕えるために,つまり,世界を合理化し,説明し,支配するために,投げかけた網である。われわれはその網目をたえずより精綾にしようと努める。

 こうした考えはまた、サーチライトにもたとえられている。科学理論は、サーチライトのように、事実のある解釈をわたしたちに提供するものなのだ。


5.反証主義の問題

 さて、最後に、ポパーの提示した科学理論はきわめて説得的だとわたしは思うが、若干の問題点も指摘しておくことにしたい。

 ポパーは、再現できぬ1回だけの出来事は,科学にとっていかなる意義もない」という。要するに、科学は「再現可能性」がなければ成り立たない。

 これはかなり説得力のある、今や科学者でなくとも人口に膾炙した言葉だが、しかしそういわれてしまうと、いわゆる「人間・社会科学」の営みが成り立たちにくくなってしまう問題がある。

 特に、たとえばある教室の事例などを研究する、事例研究、質的研究、アクションリサーチ等々といわれる研究などの「科学性」を、担保することができなくなってしまう。こうした「質的」な研究は、再現可能な現象を扱うのではなく、少数事例から一定の普遍化・一般化可能な「科学」理論を提示することが求められているからだ。

 質的研究はそもそも科学ではない、といってしまえばそれでおしまいだが、しかしわたしたちはそれでも、事例研究から多くの一般化可能な知見を得ることができる。そうである以上、こうした「再現不可能」な事例から得た知見の科学性を担保する理路もまた、提示する必要があるだろう。ポパーの理論からは、その理路を見出すことがむずかしい。

 しかしそれはともあれ、ポパーの科学理論は、いまなお科学哲学の本流をなす、大きな功績だったといっていい。


(苫野一徳)

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ジョン・グレイ『自由主義論』

はじめに

 現代におけるリベラリズム(自由主義)研究の第一人者にして、そのリベラリズム批判の急先鋒、ジョン・グレイ。

 本書でグレイは、さまざまなリベラリズムの系譜を考察した上で、その一つ一つを批判しリベラリズムを完膚なきまでに叩きのめす。

 その根本戦略は、リベラリズムは実は普遍的な思想などではなく、時代的・歴史的個別性をもったローカルな思想にすぎないのだということを、これでもかと論じていくことにある。

 わたし自身は、彼の論にはほとんど納得するところがない。グレイの批判に対しては、より強靭な論理をもって反駁することができると考えている。

 以下そのことについても少し含めて、本書を紹介・解説していくことにしたい。


1.反=普遍主義

 本書は終章を含む13の章から成っているが、ここではそのまとめの性格の強い、終章を中心に紹介していくことにしたい。

 グレイはまず、リベラリズムを次のように批判する。

自由主義者は(自由主義者をやめるのでなければ)、自由主義的実践が、しばしば対立し時として相容れない様々な人間的幸福の一つを表し体現しているにすぎないことを受け入れられない。自由主義者にとって、自由はただ単に人間に開かれた選択肢の一つではなく、道徳的必然なのである。」

 リベラリストは自由を何の根拠もなく最上の価値だと考えているが、それは大きな誤りだ。グレイはそういうのだ。

われわれが普遍性という幻想的観点を捨て去るならば、われわれは自由主義社会を歴史的産物、すなわち、諸制度や諸伝統の遺産として理解できるようになる。その遺産はわれわれの思想や実践に深く浸透しているが、われわれは、それが普遍的な必然性を持たないものであることを認めねばならない。
 
 ここには、いわば「反=普遍主義」の構えがある。グレイが高く評価する、バーリン価値多元主義を継承した思想態度だといっていい(バーリン『自由論』のページ参照)。

 この「反=普遍主義」「価値多元主義」を武器に、以下グレイは、次々とさまざまなリベラリズム思想を相対化していく。


2.「無知を基にした自由論」批判

 最初にやり玉に上げられるのが、ハイエクなど「無知を基にした自由論」だ。それは、われわれの知が進歩するためには自由な社会が必要だとする主張のことである。

 しかしグレイはいう。

「知識の成長が人間の幸福を促進することを何によって保証するのか」

 知識が成長したからって、別に人間が幸福になるとは限らないじゃないか。そうグレイはいうのだ。

 さらに彼は、次のようにもいう。

「ソ連が挙げた科学的成果は、西側の科学研究に大いに助けられたものとはいえ、科学者集団にある程度の自由が与えられるならば、社会の他の多くの部分に自由が認められないとしても科学的知識が急速に成長することを表している。」

 ソ連の科学的進歩を見れば、別に自由のない社会でだって知はちゃんと成長するといえるじゃないか。そうグレイはいうわけだ。

 さて、しかしこのグレイの物言いは、ほとんどイチャモンというほかないものだ。帰謬論に近いとさえいっていい。つまり、「あなたのいっていることにはこんな例外がある、あんな例外もある」と、ただひたすら相手の論理を否定ばかりする論法だ。

 このブログのさまざまなページにも書いてきたことだが、建設的な議論はけっして帰謬論に陥らない(たとえば、アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門』や、大乗仏典『認識と論理』などのページ参照)。単に例外を指摘し続けるのではなく、それでもなおこの考え方が最も「よい」といえるのではないか、という、建設的かつ原理的な提案をする。

 その意味で、グレイの論法はただのイチャモン論法といわざるを得ないとわたしは思う。そしてこのイチャモン論法は、このあともひたすら続くことになる。


3.「合意を基にした自由論」批判

 つづいて批判されるのは、ロールズブキャナンゴーティエらによる「合意を基にした自由論」だ。

 グレイはいう。

通常の道徳的な考え方からすれば、契約や約束の権威は専ら、それらがなされた状況とそれらが行われた理由に依存している。もし合意や約束が、脅迫によるものであったり無知に基づくものであったりした場合、あるいは最初に義務が求められたときの状況と現在の状況が多くの点で異なっている場合、約束や合意という事実にはいかなる道徳的拘束力もない。実際、約束や契約という事実だけでは、合意がどのようにして何らかのものを正当化したり合法化したりするのかがわからない。あらゆることは、合意がなされた理由にかかっているからである。そこで、単なる合意では道徳的内容が与えられないがゆえに、すべての契約理論は合意を何らかの人間概念に基づかせようとするのである。」

 すべての契約理論は、何らかの人間像を仮定している。そしてそれは、現実の人間ではなくどこまでも抽象的で非現実的な人間にすぎない。そうグレイは主張する。

「人々の個別性の捨象自体すでに、自由主義にとって都合がいいようにすべての重要問題を回避するものである。」


4.「幸福を基にした自由論」批判

 さらにグレイは、「幸福を基にした自由論」を批判する。その批判もまた、やはりほとんど帰謬論である。

 自由ゆえに不幸になることだってあるじゃないか。そうグレイはいうのだ。


5.自由主義なき時代

 こうしてグレイは、リベラリズムを次のように徹頭徹尾相対化する。

自由理論のどこにも、他の政治的価値に対する自由の優先性の十分な証明が見あたらない。〔中略〕自由主義的諸原理の偽りの普遍性は、自由主義哲学の自己欺瞞の結果であり、その自己欺瞞によって、あらゆる純粋な道徳的、政治的推論が持つ個別主義的性格は否定されざるをえない。」

 ではどうすればいいのか。グレイは2つの道を指し示す。

「まず第一に、ピュロニズム的方法〔ピュロニズムとは、ピュロンを祖とする懐疑主義の一種で、真理の探究を継続的に求める立場〕――いいかえれば、ヒュームの懐疑的ピュロニズムに、われわれの自己理解の様々な形態が歴史的創作物にすぎないという洞察を加えた理論的方法――を、現在のわれわれの状況に適用した場合、それは現代において有力な抽象概念の優位性を突き崩す役割を果たす。」

 つまりグレイは、リベラリズムはじめ、あらゆる政治思想を相対化し続けよというわけだ。文字通り、先に紹介した『古代懐疑主義入門』で取り上げられている「ピュロン主義」である。

 2つめの道は、いわばこうしたさまざまな政治思想の、フーコー「系譜学」を描き出すことにある。

「そこにおいてわれわれは、われわれの現在の様々な生活様式についての系統学や考古学を作り上げようとするのであり、それらの生活様式を歴史的な産物として理解しようとするのである。いかに途方のないものであったとしても、これこそがフーコーが試みているものであり、また、オークショットがその『人間営為論』で、フーコーとは別の(はるかに賢明な)やり方で試みているものに他ならない。」

 そうすることで、わたしたちは社会における実践者としての自己理解を得ることができるようになる。

「理論化の目的はわれわれに自己理解をもたらすことにある。その自己理解とは、われわれは、われわれ自身が受け継いだり採用したりする歴史上偶然に生まれた特定の生活様式の実践者なのだという理解である。」

 以上見てきたように、グレイは、リベラリズムを批判し相対化した後に、ではどのような社会を目指せばよいのかという点については口を閉ざす。ただただ相対化し続け、系譜学を描き出せというだけだ。そこに政治哲学的展望はない。


6.「自由」は本当にローカルな概念か?

 そこで最後に、リベラリズムの「自由」が、本当に普遍性をもたない単にローカルな概念なのか、少しだけ検討しておくことにしたい。

 グレイが「自由」というとき、何をもって「自由」といっているのか、あまり定かではない。しかし本書を読むかぎり、どうも政治的・社会的「自由」のこと、その「状態」のことをいっているように思われる。

 しかしわたしは、「自由」は「状態」ではなく、「欲望の本質」と捉えるべきだと長らくいってきた。

 これについては、拙著『「自由」はいかに可能か—社会構想のための哲学』(NHK出版)で詳論したので、ご興味のある方には参照していただければ幸いだ。

 どのような「状態」をもって「自由」というかは、人によってさまざまだ。それゆえ、何が絶対に「自由」な「状態」かと問えば、それは決して答えの出ない問いとなる。

 しかし、わたしたちの「欲望」を考えればどうだろう。「生きたいように生きたい」、つまり「自由」に生きたいという欲望を、わたしたちは誰しもが持ってしまってはいないだろうか。

 これを〈自由〉の欲望という。そしてこの欲望は、誰もが持ってしまっている、人間的欲望の本質だ。

 とすれば、この各人の〈自由〉の欲望をいかにできるだけ十全に達成していくことができるだろうかと、わたしたちは問うことができるようになる。

 実は人類は1万年以上もの間、この自らの〈自由〉を求めて、互いに争い合ってきた。ホッブズのいう「万人の万人にたいする闘争」だ(ホッブズ『リヴァイアサン』のページ参照)。

 そしてわずか二百数十年前、ルソーヘーゲルらによって、この〈自由〉の欲望を、互いに争い合わせることなく、できるだけ十全に叶えていくことのできる社会原理が見出されることになった。

 それが〈自由の相互承認〉の原理である。多様で異質な人びとが共存しうる社会原理は、この〈自由の相互承認〉の原理をおいてほかにない。

 この原理にのっとって社会をつくっていこうとする思想を、わたしたちはリベラリズムと呼んでいる。

 ただし余談だが、リベラリズムにもさまざまな形態があり、上述してきた「人間的欲望の本質は〈自由〉である」というテーゼから説き起こした「現代リベラリズム」の思想は、わたしの知る限りない。それが、今日におけるリベラリズムの混乱の原因となっているとわたしは考えている。

 しかしそれはともあれ、もし人間がどうしても〈自由〉をめがけてしまうのだとするなら、そしてそれゆえに争い合い、だからこそ〈自由の相互承認〉の原理が社会原理とされなければならないのだとするなら、この考えに「普遍性」がないとはけっしていえない。わたしはそう思う。さらにいえば、わたしたちは、「人間的欲望の本質は〈自由〉である」というこのテーゼを、みずから徹底的に検証・確かめることができるのだ。

 グレイのリベラリズム批判は、帰謬論に満ちたきわめて浅薄な批判だとわたしは思う。

 〈自由〉をめぐる哲学は、もっともっと深い思索が積み重ねられてきたものであり、帰謬論程度の反駁ではびくともしない。

(苫野一徳)

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シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

はじめに


 現代フランスを代表する女性思想家、シモーヌ・ヴェイユ。本書は、34歳の若さでこの世を去ったヴェイユの、1934年に発表されたなんと20代半ばの時の作品だ。


 人はいかに自由たりうるか。そして、自由な社会はいかに構想しうるか。

 当時全盛だったマルクス主義を批判しながら、ヴェイユは問う。

 内容的には、それほど目新しいことがいわれているわけではない。しかし彼女なりに考え抜かれた人間的「自由」の条件は、改めてわたしたちに大切なことを思い起こさせてくれる。

 それは、人間的「自由」の根本条件は、わたしたちの「思考の自由」にこそあるということだ。

 「人間が思考する限り、彼は自由だ。」

 これは、ヴェイユの100年前のアメリカの思想家、R. W. エマソンの言葉だ(『エマソン論文集』のページ参照)。

 ヴェイユはエマソンなど読んだことはなかったかもしれないが、「思考の自由」を自由の根本条件と見なす2人の思想は、目新しいものではないにしても今日改めて重要だとわたしは思う。

 ヴェイユは、この個々人の「思考の自由」を、いかに社会において現実化しうるかと考えた。


1.マルクス主義批判

 本書第1章は、マルクス主義批判から始まる。ヴェイユは言う。

ルクスの眼には、つまるところ生産力の発展こそが歴史の真の動因であり、この発展にはほとんど限界がないと映っていたことを、われわれは知っている。

 生産力は無制限に発展する。それゆえ十分な生産力が確保されすべての人間が窮乏状態から脱した時、人間社会には真の自由が訪れる。しかし資本主義社会においては、その生産力が資本家に独占され搾取されている。

  したがって、革命によってこの生産力を解放しなければならない。

 マルクスはそういった。が、ヴェイユはここで鋭く指摘する。

「マルクスはなぜ生産力が増大するのかを一度も説明しない。」

 むしろ、生産力はすでに臨界点を迎えているというべきなのではないか。ヴェイユはいう。

この領域において、われわれはすでに有意義な進歩の限界に近づきつつある、と想定するほうが理にかなう。

「生産性の持続的かつ限界なき増加などは厳密にいえば構想しえないのである。労働がいつの日か不要になるという愚かしい概念を生じさせたのは、もっぱら技術的進歩の迅速さが招いた陶酔である。

 限りなき生産性の進歩が「神話」であるという指摘は、今日ではめずらしいものではない。しかしヴェイユの時代においては、先見の明だったというべきだろう。


2.抑圧の分析

 本書第2章は、「抑圧の分析」

 それは自由な社会を妨げる。抑圧はなぜ起こり、そしてどのように展開するのか。ヴェイユはこの問いに次のように答える。

 抑圧はなぜ起こるのか。それはまず、人間が自然の前に無力な部分があるからだ。だから自然を制御しようと権力が起こり、それにしたがって抑圧が起こることになる。

 そしていったん権力が起こると、それはより抑圧的になりつづけることになる。

闘争の勝利に欠かせない服従と犠牲を奴隷からとりつけるために、権力はいよいよ抑圧的にならざるをえない。」
 
 が、やがてそれは、自らの首を絞めるほどに拡張していくことになる。

権力は自身が効果的に機能しうる臨界の彼岸へと追いやられる。権力は自身が制御しうる領域をこえて拡張する。」

 かつてのローマ軍がそうだった。それは人々を抑圧する機械だったが、やがて拡大しすぎて、みずからの首を絞めるにいたった。

 資本主義もまた、いまそのような時期に来ているのではないか。ヴェイユはそう問う。


3.自由な社会の理論的展望

 第3章は、「自由な社会の理論的展望」。わたしたちは、いかに自由な社会をつくれるか。ヴェイユはいう。

「自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期がきている。」

 ここでヴェイユは、自由の根本条件としての「思考」をあげる。

真の自由を規定するのは、願望と充足の関係ではなく、思考と行為の関係である。はたす行為のいっさいが、めざす目的と目的達成にみあう手段の連鎖とにかかわる先行判断から生ずるとき、その行為者は完全に自由だろう。

 わたしたちは、この社会を自由なものとすべく自在に操ることはできない。しかしそれでもなお、社会のあり方を一定思考に従わせられる時、自由の可能性を得るはずだ。

 それは、いうならば偶然を濾過する」ことだ。

 だが現実社会において、わたしたちは「自由な思考」を奪われてしまっている。

思考するのは機械のほうではないかと思えるほどに、方法を完璧に金属のうちに結晶化させた機械という奇妙な光景と、自動人形の状態にまで落ちぶれて機械への奉仕に縛りつけられた人間とを目撃することになる。

 労働者は思考することを求められず、ただ淡々と機械のいいなりになる。まるでわたしたち自らが、自動機械になり果ててしまったかのように。

 しかしそれは、自らの自由を自ら放棄してしまうことにほかならない。

 自由な思考を人びとの手に取り戻そう。ヴェイユはそう主張する。そしてこれが、本書におけるヴェイユの最大の主張だといっていい。

「集団的生が人間を服従させるのではなく、個とみなされた人間に集団的生が服従する、そのような社会の構想を純粋に理論的に形成しようとするならば、明晰な思考によって導かれる努力のみが介入する物質的生のありかたを思いえがく必要があろう。つまりは、ひとりひとりの労働者が、いかなる外的な規則にもしたがうことなく独力で、生みだすべき製品に自己の努力を適応させるだけでなく、自己の努力と集団の他の成員たちの努力とを調整せねばならぬことを合意する。


4.現代社会の素描

 最終章は、「現代社会の素描」。以上述べてきたような「自由な思考」が可能となる社会を構想するために、まずは現代社会がどのような状態にあるかを把握しておかなければならない。

 ヴェイユによれば、現代は経済戦争の時代だ。それは不安競合を生むがゆえに、国民を統合し強力な国家を作らねばならないという、「ファシズム」への誘惑を生む。

 ヴェイユはいう。

「ファシズムは自由な思考を滅ぼすという表現は不当だ。むしろ、なんら意義のない当局の御用教義を力ずくで強制できるのは、自由な思考が不在だからにほかならない。」

 逆にいえば、ファシズムに対抗できるのは、「自由な思考」をおいてほかにない。ヴェイユはそういうわけだ。

 すべての個々人の「自由な思考」の可能性を高めるためには、どうすればいいか。

 これが、自由な社会を構想するため、わたしたちがヴェイユから受け継ぐべき問いだ。


(苫野一徳)

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