ルター『キリスト者の自由』


はじめに

 1520年に発表された、宗教改革者マルティン・ルターの最も有名な書。

 信仰によってのみ義とされる。

 本書で詳論されたこの教義は、「聖書のみ」の教義、および、同じく本書で論じられた「万人祭司」の教義とともに、宗教改革の三大原理となった。

 神は、人間が善行を行うから彼を正しい人とみなすわけではない。もしそうだとしたら、「神に救われるための善行」というご利益主義がはびこることになるだろう。

 神に義とされるのは、ただ信仰によってのみである。したがって信仰なき善行は、決して善行とはいえないのだ。

 そしてこの信仰によってのみ、人は神に義とされ自由になることができる。

 身体存在としての人間、つまり、やがては死にまた何者かに従属しなければならない人間は、絶対的な自由を得ることができない。

 しかしキリスト者はその信仰によって、霊的・精神的な絶対的自由を得ることができるのだ。――


 宗教思想は、時代時代の節目で何らかの「エクストリーム」な形態をとる時がある。

 徹頭徹尾、非存在、すなわち「空」を説いた大乗仏典『金剛般若経』のページ等参照)や、「絶対他力」を説いた親鸞の思想、そしてルターと同じく宗教改革の指導者だったカルヴァン「予定説」などは、その典型といえるだろう

 ルターのどこまでも「純粋」、つまり「エクストリーム」な信仰主義もまた、その意味では宗教思想としてある種の典型だといっていい。

 哲学的には、これら宗教思想はどれも確かめ不可能な「物語」であるため、どれが「正しい」教義であるかと問うことはできない。むしろ哲学は、こうした確かめ不可能な「物語」を禁じ手とし、確かめ可能な「考え方」の臨界点を見いだそうとする営みだといっていい。

 しかしさまざまな「エクストリーム」な宗教思想は、人間考え抜いたらこういう「物語」を紡ぎだす、といういくつかの典型的な類型を見せてくれるため、哲学的にはその観点からいって興味深い。

 もっともルターの教義には、考え抜いた末の宗教理論といった感があまりない。プロテスタントの爆発的な隆盛は、理論的なものというより激情的なものを基盤としていたといったほうがいいだろう。

 しかしそれでもなお、今日にいたるまでプロテスタントがきわめて大きな力を持ち続けていることを考えると、そこには理論的にいってもある「エクストリーム」を捉えた、一種の普遍性があったからだといえるだろう。

 以下、ルターの流麗かつ気力横溢した名文を味わってみたい。


1.霊的な自由/信仰によってのみ義とされる

 本書冒頭に、ルターは次のような命題を掲げる。


 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。

 この互いに矛盾した命題、いったいどういう意味なのか。ルターは言う。

自由と奉仕とについてのこれら二様のたがいに矛盾する命題を理解するためには、キリスト者は何人も霊的と身体的との両性質をもっていることを記憶しなければならない。

 キリスト者は、肉体においては自由でなくとも、その信仰において、霊的・精神的には絶対的に自由である。ルターはそういうわけだ。

そこでキリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いをも要しないということが明かにされる。〔中略〕これがキリスト教的な自由であり、「信仰のみ」なのである。」

 キリスト者は信仰よってのみ義とされ、そしてその限りにおいて、またそのゆえにこそ、自由なのである。


2.万人祭司

 有名な「万人祭司」について、ルターは本書で次のようにいっている。

「しかもその上にわれわれは祭司なのである。これは王者たることよりも遥かにまさっている。なぜというに祭司職は、われわれをして神の前に進みいでて他の人のために祈願するに価いする者たらしめるからである。」

「然らばキリスト教界において、かように彼等がすべて祭司であるとすれば、祭司と平信徒との間には一体どういう区別があるのかと問う者があるかも知れない。私はこう答える。祭司とか僧侶とか聖戦者とかこの種の用語が一般の人々から取りのけられて、今や聖職者階級と呼ばれる少数の人々にしか適用されなくなったという事実が、これらの用語法を不当ならしめたのであると。」

 本来、キリスト者はだれもが神の前に平等であるはずだ。なのに聖職者階級などというものが現れたことで、この「万人祭司」が忘れ去られてしまった。ルターはそういうのだ。


3.救いを得るための善行ではない

自由である限りキリスト者は何をも行う必要はないが、僕である限り彼はあらゆることを行わなければならない。」

 信仰によって義とされたキリスト者は、その限りにおいて自由であり、そしてどのような行いもする必要がない。なぜなら信仰によってのみ、彼は義であり自由なのだから。

 しかし滅びゆく身体をもった人間は、何らかの行為をしなくてはならないこともまた事実だ。

 そうである以上、行いは義しいものでなければならない。が、それは決して、その行為によって神の恩寵をたまわろうなどというご利益主義であってはならない。


 にもかかわらず、一部の高僧たちはいま、善い行いをすることで神の救いを得よなどと、ご利益主義の教義をまき散らしている。ばかりか、免罪符によって天国に行けるなどと、とんでもないことをいっている。


「ところがある愚昧な高僧たちはあたかもこれが祝福を受けるのに必要ででもあるかのように誣い教え、これをはなはだ不当にも教会の誡めと称している。」
「そしてある盲目な高僧たちは人々をここに導いてこれらのことを称讃し、贖宥(赦免状)を以て飾り立てはするが、決して信仰を教えようとはしない。」


 しかしこれは完全なる誤りだ。ルターはいう。

「ただ神の聖意に適うために報いなしに、自由な愛から、これをなすべきであり、しかもこれをなすに当つては、神の聖意を最もよく行いたいという心からの希願をもって聖意に服するということ以外に、何をも求めたり意図したりしてはならないのである。」


4.義しい行為をする者が義しいのではなく、義しい者が義しい行いをする

 以上みてきたように、すべての「善」「義」の根拠は信仰のみにある。したがって、信仰ある者のみが義しいのであり、義しい行為をどれだけ行ったとしても、そこに信仰がなければ彼は義の人ではない。

 ルターはいう。

「善い義しい行為が決してもはや善い義しい人をつくるのではなく、反対に善い義しい人が善い義しい行為をなすのである。次には、悪い行為がもはや決して惑い人をつくるのではなく、悪い人が悪い行為を生ずるのである。」


(苫野一徳)


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