ロスバード『自由の倫理学ーリバタリアニズムの理論体系』


はじめに

 リバタリアニズム(自由至上主義)を代表する政治哲学者、ロスバード。

 そのスリリングな論の展開には、推理小説を読むような楽しさがある。

 しかしわたしの考えでは、彼の思考モードは、現代の政治哲学や倫理学がかかえる「悪い部分」が、ほとんどすべて登場するといっていいくらい哲学的にはナイーブにすぎるものだ。

 多くの現代政治哲学者たちの理論構成が、ほとんどの場合その出発点から誤っていることを、このブログではしばしば論じてきた(詳細はそれぞれの哲学者のページ参照)

 そしてそれに代わるメタ理論を、わたしはこれまで、著書や論文等で解明・提示してきた(たとえば拙著「社会構想のための現象学的アプローチ」岩佐茂・金泰明編『21世紀の思想的課題』国際書院、2013年など)。

 あまり激越な批判は好きではないのだが、何十年にもわたって続いてきたこうした「無効」といわざるを得ない議論の数々を読むにつけ、やはりその問題はしっかり指摘し、次のステージへと向かわせる必要があるのではないかと思わずにはいられない。


1.人間の本性=自然法はある

 長らく(政治)哲学では、「人間の本性などない」と主張されてきた。それゆえ、人間本性から政治理論を構築するのはやめるべきである、と(たとえばローティ『連帯と自由の哲学』のページ参照)。

 しかしロスバードはいう。

あれほどたくさんの現代の哲学者が「本性[性質・自然]」という言葉自体を神秘主義と超自然の注入として馬鹿にするのは、実際不可解なことである。リンゴは放っておけば地面に落ちるだろう。このことを我々は皆観察して、それがリンゴ(世界一般も)の本性の中にあると認める。〔中略〕ではなぜ「本性」という概念にかみつくのか?」

「もしリンゴや石やバラがそれぞれ固有の本性を持っているならば、人間は本性を持ちえない唯一の実体・存在なのだろうか?」

人間の本性という概念が現在あっさりと排斥されていることは、それゆえ恣意的でありアプリオリである。」

 私自身も、「人間本性」をあまりに敵視した政治哲学は、多くの場合説得的な議論を展開できないとさまざまなところで論じてきた(ローティ『連帯と自由の哲学』のページ参照)。

 たしかに、絶対的な人間本性などはない。しかし政治社会を考えるという「関心」からすれば、根本仮説としての人間本性は提示しうるし、またその洞察からしか政治哲学は議論を開始し得ない。

 現象学的な「欲望・関心相関性の原理」の観点から、わたしは長らくそう論じてきた(フッサール『イデーンⅡ』ハイデガー『存在と時間』のページ等参照)。

 それはさておき、しかしここでのロスバードの言葉は、哲学者としてはあまりに素朴なものといわざるを得ない。

 先述したように、絶対の真理絶対的な人間本性などというものはない。より正確にいうと、わたしたちにはそれを認識し得ない。これはカント以来の哲学の“常識”だ(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 哲学的にいえば、リンゴが地面に落ちることもまた、絶対の真理とは言い得ない。デカルト的にいえば、万人がそのような幻影を見せられているのかもしれないと、疑うことは可能であるからだ(デカルト『省察』のページ参照)。

 にもかかわらず、いわゆる自然法則を絶対の真理と捉えた上で、さらにそれを人間に援用し、人間本性もまた捉えることができるなどと主張することは、デカルトからカント、フッサールにいたる哲学的認識論のすぐれた蓄積を無視した、あまりにナイーブな議論というほかない。


2.クルーソー状況

 実際彼は、以下において、人間の絶対的本性(自然法)は見出しうる、そしてそれは「自由意志」であると主張する。

 この「自由意志」を自然法として取り出す際の手続きも、わたしの考えではきわめて非原理的なものだ。

 ロスバードは、まずいわゆる「クルーソー状況」を設定する。無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソーの話から、自然法を考えようというわけだ。

 わたしの考えでは、この最初の時点で、ロスバードの理論構成は失敗している。

 「思考実験」から哲学原理を導出することは、不可能であるからだ。

 ロールズの有名な「無知のヴェール」も同じだが、何らかの「仮定」から原理を導出することは不可能だ(ロールズ『正義論』のページ参照)。

 なぜならそこには、無数の「前提」が恣意的に込められているからだ。そしてそれは得てして、自分が導き出したい原理にとって都合のよい「前提」となっている。ロスバードの「クルーソー状況」でいえば、無人島におけるたった1人の生活、しかもクルーソーは記憶喪失になっているという前提がある。

 リバタリアニズムは個人の自己所有権を絶対不可侵の権利と考えるが、この原理は、まさにこうした、「他者関係のないたった1人の状況」という仮説的前提から導出された原理なのである。きわめて恣意的な理論構成というほかないだろう。

 繰り返すが、仮定を置いて考える「思考実験」からは、哲学原理を導出することなどできない。それはあまりに仮説性の高い、恣意的な前提から成り立っているからだ。

 にもかかわらず、現代の政治哲学も倫理学も、あまりにしばしば思考実験を多用する。そしてそこから得られた結論を、多くの場合なぜか一足飛びに「原理」として一般化する。

 きわめてナイーヴな議論というほかないとわたしは思う。 

3.自由意志

 ともあれ、ロスバードは、クルーソー状況からわたしたちは「自由意志」という自然法を見出せると主張する。

個々の人間は、彼自身の意識を内観する際、同時に彼の自由という原初的な自然的事実をも発見しているのである。すなわち彼の選択の自由、ある主体に対し彼の理性を用いる、あるいは用いない自由、を。要するに、彼の「自由意志」という自然的事実をである。」

 わたしも、自由意志は政治哲学を展開するにあたっての土台であると考えている。しかしロスバードのように、それを絶対的な自然法とは考えない。

 それは絶対的なものではなく、人がもし自分の自由意志を尊重されたいのであれば、他者の自由意志もまた尊重しようという、「相互承認」関係において成立するものなのだ。

 自分の自由意志が絶対なのではない。それはあくまで、相互承認関係において尊重されるべき概念なのである。

 先述したように、ロスバードは、無人島におけるたった1人の人間というモデルからこの「自由意志」という「自然法」を導出した。

 しかしわたしたちは、現実世界においてはつねにすでに他者関係の中に置かれている。したがって考えるべきは、個人の絶対的権利ではなく、承認関係によって成り立つ権利の概念であるはずだ。そもそも先述したように、何らかの「絶対的」権利など決して前提しえない哲学的誤謬なのである。


4.自己所有権と財産権

 ともあれ、ロスバードは以上見た「自由意志」という自然法から、個人の絶対的権利を次のように導出する。

かくして、我々が述べてきた自由社会においては、全ての所有は究極的には各人の自然に与えられた自分自身に対する所有権、および人が変化を加え生産開始に至らせた土地資源に還元される。」
 
 要するに、自己所有権財産権、これが絶対不可侵の権利だと主張するのだ。

 そしてまたもや、これは「科学」に並ぶ「絶対」の法則であると主張する。

最重要なポイント。すなわち、もし我々が人間のための倫理(我々の場合では暴力を取り扱う倫理のサブセット)設定しようとするのであれば、妥当性ある倫理であるためには、理論は時空を問わず全ての人間にとって真でなければならない。これは自然法の顕著な属性の一つである――時代や場所を問わず全ての人間に適用可能だということ。こうして、倫理的自然法は物理的、あるいは「科学的」自然法と並ぶ位置を得るのである。」


5.入植原理

 では、この財産権はどのように決まるのか。ロスバードはいう。

すべての資源、すべての財は、無主の状態では、それらを最初に発見して有用な財に変形する人物に正当に属する(「入植」原理)。」

 しかし、もし彼がそれを犯罪によって手に入れたとするなら、それはもとの持ち主へ返されなければならない。その犯罪者がはるか昔の先祖だった場合も、もしそのことが証明できるなら、被害者の子孫に返されなければならない。

 しかし、もし彼あるいは彼の先祖の犯罪が証明できないのであれば、彼はそれを占有し続けることができる。

 ロスバードはそのように主張する。


6.子供と権利

 以上の「原理」から、ロスバードは実際のさまざまな権利のあり方を演繹的に論じていく。

 たとえば妊娠中絶に関して、彼は次のようにいう。

「もし母親が、もはや胎児にはそこにいてほしくないと決意したら、胎児は母親の人身に寄生する「侵略者」になり、母親はこの侵略者を自分の領域から追放する完全な権利を持つ。妊娠中絶は、生きた人格の「殺人」ではなく、母親の身体からの望まれざる侵略者の追放として見られるべきである。それゆえ妊娠中絶を制限あるいは禁止するいかなる法律も、母親の権利の侵害である。」

 おそるべき主張だとわたしは思う。というのも、彼は続けて次のようにいうからだ。


「反中絶論者の別の議論は、胎児は生きた人間であって、それゆえ人権のすべてを持っている、というものである。大いに結構。議論の目的上、胎児は人間――あるいはもっと広く、可能的な人間――であって、それゆえ人権のすべてを持っていると譲歩しよう。しかしいかなる人間が、宿主である人の意に反してその身体内部の強制的な寄生者になる権利を持っているだろうか、と我々は質問することができる。明らかに、すでに生まれてきたいかなる人間もそのような権利を持っていない。それゆえ、まして胎児はそのような権利を持つことができない。」


 胎児の「生きる権利」に対して、母親の「自己所有権」が勝る。ロスバードはそういうのだが、これこそまさに、何らかの権利を「絶対化」する弊害だとわたしは思う。

 先述したように、「権利」は、それがなんであるにせよ「絶対」であることはない。それはつねに「承認」に支えられており、それゆえ一定の幅をもって調整することができるものだ。

 にもかかわらず、何らかの権利を絶対化した時、そこにはぬきさしならない対立が起こることになる。

 胎児の「生きる権利」も、母親の「自己所有権」も、どちらが絶対に正しいかと問うかぎり、決着はつかない。それは本来、「絶対」問題ではなく「調整」問題なのだ。

 にもかかわらず、ロスバードは、母親の「自己所有権」こそが絶対だと強弁する。あまりにおそろしく、ナイーブな発想といわざるを得ない。


 このほか、「言論の自由」は本来「財産権」の一部にすぎないとか、国家は財産権を侵害しているがゆえに巨大犯罪者集団だとかいったことが縷々述べられていく。

 しかし、「財産権」絶対主義のロスバードからしてみればそれは妥当な議論かもしれないが、その前提からして間違っていることが指摘されれば、これらはすべて崩れ去る理屈といわざるを得ないだろう。


(苫野一徳)

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リップマン『世論』


はじめに

ファイル:Walter Lippmann 1914.jpg アメリカジャーナリズム界の長老と呼ばれたリップマン。20世紀最高のジャーナリストとも讃えられている。

 彼の思想形成に大きな影響を及ぼしたのは、アメリカの第1次世界大戦への参戦だった。本書において、彼はいう。

「政府はこの時期に、全米にわたってほとんど一つの世論と呼んでもよいようなものを作り出そうと努力していた。」

 デモクラシーは、人びとが自らの頭で考え自らの意志を表明するところに成り立つ。しかし、あまりに巨大で複雑化した現代社会において、それはもはや不可能になった。人びとは、事実それ自体を知ることも、それに基づいて自分の頭で考えることももうできない。

 わたしたちは、事実ではなく与えられた環境のイメージ(これをリップマンは疑似環境という)をばくぜんと見、そして与えられたステレオタイプにしたがって物を見ているにすぎないのだ。

 それゆえリップマンは、大衆への過度の期待をあきらめ、いわば「専門知のネットワーク」のようなものをつくり上げ、世論操作的になりがちなニュースを補完し、わたしたちの判断をできるだけ妥当なものにしていこうと考えた。

 こうした現代デモクラシーに対する悲観的なまなざしには、その後、公衆への期待をどこまでも持ちつづけたデューイから、批判が寄せられることになる(デューイ『公衆とその諸問題』のページ参照)。

 しかし両者はともに、「自己統治」が困難になったこの「大社会」において、いかにデモクラシーを十全に機能させうるかと考えた点においては、共通していたといっていいだろう。

 豊富な知識・事例とともに論じられた本書は、今なお「世論」研究の金字塔にして、現代のわたしたちにも多くの示唆を与えてくれる名著である。


1.疑似環境

 メディアリテラシーを一定身につけた現代のわたしたちは、報道というものが、中立的で客観的なものでありうるとはもはや考えていないだろう。

 リップマンもまた、そのことを本書において繰り返し強調する。

「われわれの世論が問題とする環境はさまざまに屈折させられている。」

 これをリップマンは、「疑似環境」と呼ぶ。わたしたちが見ている世界は、真実そのままではあり得ない。


2.ステレオタイプ

 この疑似環境の中で、わたしたちはさまざまな「ステレオタイプ」にとらわれながら生きている。リップマンはいう。

われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。

 わたしたちは、いつのまにかわたしたちの中にすりこまれていたさまざまなステレオタイプ、つまり自分たちの色めがねを通して現実を見ているのだ。

 この事実を、わたしたちはまずは受け入れる必要がある。そうリップマンはいう。このことの自覚こそが、わたしたちが自らの認識を自己修正する可能性を生むからだ。


われわれの哲学が、それぞれの人間は世界の小さな一部分にすぎないこと、その知性はせいぜいさまざまな観念の粗い網の中に世界の一面と要素の一部しか捉えられないのだと語るとしたらどうだろう。
 そうすれば自分のステレオタイプを用いるとき、われわれはそれがたんなるステレオタイプにすぎないことを知り、それらを重く考えずに喜んで修正しようとするだろう。」

 また、自分がつねにステレオタイプによって物を見ているのだと自覚することで、わたしたちは他者に対して寛容になることもできる。

自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければ、われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない。


3.「世論」とは何か

 いうまでもなく、人はあらゆる点において千差万別だ。にもかかわらず、なぜ「世論」などというものが生じるのだろうか。

 リップマンはいう。その本質は情緒にある、と。


「人間の文化の構造全体は、ある意味で刺激と反応とによって練り上げられたものであって、原始的な情緒喚起能力がその中心部に、かなり固定した状態で残っている。」

「場合によって異なるがそれぞれの限界内で、情緒は刺激と反応の双方に関して移行が可能である。したがって、それぞれ異なる反応傾向をもつ多数の人びとの中で、その多くの人たちに同一の情緒を喚起するような刺激を見出すことができるなら、当初の刺激に代えてそれを充当することができる。」

 このように情緒的なものである以上、「世論」は実態のつかめない、実にふわふわしたものといわざるを得ない。

 したがって有能な「指導者」は、この「世論」を、把握するというよりはむしろつくり出す。

自分たちは一般の人びとの心の中にある計画を表面化しただけだ、と指導者たちはよく言う。もし彼らがそう信じているのなら、ふつうは思い違いである。」

「つまり、漠然と感じている人たちの漠然とした感情か言葉におきかえられるならば、人びとは自分の感じていることをより明確に知るだろうし、そうなればもっと明確にそれを感じることになるということである。こうして大衆感情に触れている指導者たちは、このような反応に気づくのが早い。」

 わたしたちは多くの場合、「これが自分の望んでいることだ!」と明確に自覚しているわけではない。むしろ、「これがあなたの望んでいたことでしょう?」と問われた時に、「そうだ、これだったんだ」と(操作されて)自覚する。有能な指導者は、このようなまさに世論操作的な手腕に長けた人たちだといえるのだ。


4.民主主義理論の誤り

 以上のようにみれば、従来の民主主義理論には重大な欠陥があったことを認めざるを得ない。リップマンはそう主張する。

 従来の民主主義理論は、「万能な市民」を前提としていた。人びとは自発性をもち、自らの意志をもち、そうやって相互に交流することで、よりよい民主的な社会が築かれていく。そう考えられていた。

 しかし現代において、そのような前提はもはや通用しない。

市民は等しく万能であるとするこの理論に重大な支障をきたしたのは、この民主主義のステレオタイプが広い範囲に適用され、人びとが、複雑な文明を眺めた目で囲いこまれた村を見るようになってからである。

 「万能な市民」を前提していた従来の民主主義理論は、それゆえ権力の「起源」にのみ関心を注いできた。正当かつ有能な権力者を選ぶことさえできれば、あとはうまくいくと考えたのだ。

民主主義の論理上の欠点は、政治の過程や結果よりも政治の起源に気をとられたことにあった。〔中略〕しかし、水源でどれほど調整しても川の流れを完全にコントロールすることはできない。〔中略〕もっとも重大な関心はその権力がいかに用いられるかにある。」

 権力の「起源」にのみ関心をもつ民主主義理論は、人間のより幅広い関心を考慮に入れることができなかった。リップマンはそう主張する。人間が関心を持つのは、ただ政治的な「自治」のみではない。


「人間の尊厳を自治に関するただ一つの仮定に托すばかりでなく、人間の尊厳は人間の可能性が適正に行使されるようなある生活水準を要求するのだ、という考え方を打ち出すなら問題は一変する。
 そのとき政治を評定する規準は、その政治が最低限の健康、適切な住居、必需物資、教育、自由、娯楽、美しさを生み出すかどうかということであって、このようなものすべてを犠牲にして、その政治がたまたま人びとの頭に浮かんできた自己中心的意見に反応して揺れ動くかどうかということだけではない。」

「人びとが自治を願うのは、自治のもたらすさまざまな結果のためである。

 市民万能説と、自治に関心を集中させた民主主義理論を、バージョンアップする必要がある。リップマンはそう主張するのだ。


5.専門家のネットワークとそのコントロール

 そこでリップマンが提案するのが、わたしなりにいうと、「専門家のネットワークとそのコントロール」の仕組みづくりだ。

「われわれの注意が及ぶ領域はかなり狭く限られているが、その領域外の社会をどれだけ支配できるかは、生活上のさまざまな規準を設定できるかどうか、官吏や工場監督たちの行為を評定する監査方法を考案できるかどうかにかかっている。〔中略〕そうした行為がすべてそのまま記録され、その結果が客観的に測定されなければならないと主張することによって、このような行為に対するわれわれの実際的支配力を着実に増していくことができる。そう主張できるようますます強く望む、と言うべきかもしれない。」

 わたしたちは社会のすべてを知ることなどできない。そうである以上、それぞれの領域の専門知をネットワーク化し、それをわたしたちの判断材料にする必要がある。そしてそのネットワークを、民主的にコントロールするためのルールや仕組みを整備する必要がある。

 現代デモクラシーの問題を根源的に治癒する方法、それは、「市民は万能であるという理論を放棄すること、意志決定を分散すること、比較可能な記録と分析によって決定を調整すること」にある。そうリップマンは主張する。

 専門家のネットワークについて、リップマンは次のようにいう。

専門家たちの間で技術と成果の交換が行われれば、そのなかに社会科学における実験的方法の萌芽を見ることができるだろうと私は思う。一つ一つの学区、予算、保健所、工場、関税表などがそれぞれ互いの知識の材料となるとき、比べることのできる経験の数は純粋実験の規模に近づきはじめる。」

「くさびは打ちこまれた。手助けを必要とする一部の産業界の指導者たちや政治家たちだけではない。市政調査局、議会参考図書館、会社・労働組合・公共運動の専門的圧力団体によって、そして婦人参政権連盟、消費者連盟、生産者協会のようなさまざまな有志団体によって、あるいは何百もある同業組合、市民連合によって、『探照灯でみる議会』、『探査』のような出版物によって、一般教育委員会のような財団によって、くさびは打ちこまれた。」


6.理性に訴える

 本書は「理性に訴える」という章で結ばれている。

 大衆に多くを期待し得ないことを述べてきたリップマンだが、だからといって、彼はデモクラシーの理念それ自体に悲観しているわけではない。

 いかに「理性」によってデモクラシーを実質化していくことができるか。この課題を、リップマンは最後の最後に強調して本書を終える。

「だが、人間が示してきた何らかの人間の特性によって存在が許されている、さまざまの可能性を断念することはできない。



(苫野一徳)

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ラスキ『近代国家における自由』


はじめに


 20世紀の政治思想家、ラスキ。一時期マルクス主義にも傾倒したが、晩年には伝統的な西欧的民主主義ともマルクス主義とも異なった、第三の道――計画的民主主義――を訴えた。


 本書において、ラスキは「自由」を個々人の「多元性」を徹頭徹尾護るものとして主張する。

 その情熱的な筆致は、それなりに読者に訴えかけるものがある。

 しかしわたしの考えでは、ラスキの思想は、彼以前の「自由」論の巨人哲学者たちの思想からしてみれば、深みにおいても射程においても、残念ながら著しく劣るものといわざるを得ない。

 以下、そのことを中心に、本書を紹介・解説していくことにしたい。


1.自由とは拘束の欠如である

「私は、自由とは本質的に拘束の欠如であると論ずる。」

 後にバーリンによって定式化された言葉を使えば、いわゆる「消極的自由」をもってラスキは自由の本質とする(バーリン『自由論』のページ参照)。

 ところがルソー以来、ヨーロッパには自由を「積極的自由」と解する思想が跋扈してきた。ラスキはそういって、ルソーおよびヘーゲルを批判する。

 「積極的自由」とは、一般に「〜への自由」のことといわれる。つまり、単に拘束から解放されているだけでなく、「わたしはこう欲する」を積極的に追求する自由のこととされる。

 バーリンはこれを、他者の自由を侵害する危険性のあるものとして警戒した。他方、本書におけるラスキの「積極的自由」批判は、それとはやや観点が異なっている。

 彼は、ルソーやヘーゲルの「積極的自由」の観念は、自らを国家の目的に積極的に同化させよと命じる、危険な思想だと批判するのだ。

「その説くととろによれば、自由とは拘束の欠如というような単に消極的なものではない。むしろそれは、各人の混沌とした目的の背後にあって、れに統一的な意味を賦与する理性目的を各人の中に成就しようとする意志、己の意志の積極的自己決定である。

すなわち、私か国家に服従するとき、私は最高の自我に服従するというのである。〔中略〕私が国家に服従するとき、実は私自身に服従しているのである。

 これをラスキは「理想主義国家論」と呼ぶ。個人の「自由」は、国家の目的と一体になっているところではじめて達成されるとする思想のことだ。

 たしかに、ルソーやヘーゲルは、国家においてはじめて個人の「自由」が実現されるといっている。

 しかし、これをもってルソーやヘーゲルが国家への服従を個人的「自由」より上位に置いたとするラスキの解釈は、これがラスキに限らず20世紀における一般的な解釈であった側面があるとはいえ、かなり表層的だ。

 わたしの考えでは、ルソーやヘーゲル哲学の真骨頂は、個人的「自由」を実現するためにこそ、国家はどうあるべきかを徹底的に探究した点にある(ルソー『社会契約論』、ヘーゲル『法の哲学』のページ参照)。

 ラスキは、「社会」「国家」「権力」といったものに対し、一種の嫌悪感のようなものを抱いているようにみえる。それゆえに、国家の役割を重視したルソーやヘーゲルを、ひどく敵視しているようにみえる。

 しかしわたしは、ルソーやヘーゲルの哲学の方が、ラスキのそれに比べてはるかに現実的かつ原理的なものだと思う。

 個人は、自らが「自由」であることを、ただ自分で主張しているだけでは決して自由にはなれない。それは他者との衝突を必ず経験し、結果的に自らの自由を失ってしまうことになるだろうからだ。

 個々人が自由であるためには、それを相互に承認し合うことを可能にする、「国家」「社会」をつくっていく必要がある。ルソーやヘーゲルは、「国家」「社会」をただナイーヴに敵視するのではなく、そのように考えることを訴えたのだ。


2.自己にのみ従う「自由」

 しかしラスキの「自由」論は、ルソーやヘーゲルのそれに比べて、やはりひどくナイーヴな思想といわざるを得ない。

私はいう。真の自由の理論は理想主義の前提の全面的否定の上に樹立されると。真の自我とは、社会の各人に共通する一定の理性目的の体系などといったものではない。」

「各行為は、そのまま真実であり、しかも真実なものとしてただ自己の判断にのみ従い、他人の提供する判断に従ってはならない。

 わたしが純粋に自ら自身である時、わたしは「自由」である。社会において、わたしたちは常にそのような存在でなければならない。

 そうラスキは主張するのだが、これはすでに、ヘーゲルによって「美しい魂」として批判されていたものだ(ヘーゲル『精神現象学』のページ参照)。

 「わたしが純粋にわたしである時にのみ、わたしは自由である」。これはそれ自体としては美しい思想かもしれないが、なんら現実性を持ち得ない空虚な思想である。ヘーゲルは「美しい魂」をそういって批判した。

 わたしは、自らの「自由」をただ一人で主張することはできない。わたしが現実に「自由」であるためには、他者からの「承認」が不可欠なのだ。

 そのことを徹底的に自覚しないラスキの自由論は、やはりきわめてナイーブなものといわざるを得ないだろうとわたしは思う。

 たとえば、個々人がただ個々人であることをこそ重視する「多元性」重視の思想について、ラスキは次のようにいっている。

れは無秩序を招く恐れのある理論であり、人民の反抗権を是認するものであるという異議が唱えられるとしたら、私はその非難は正しいと答えるであろう。しかし、この非難が当っているというとはそれほど重要であろうか。疑いもなく、秩序は最高善ではなく、反抗は必ずしも誤ったものとは限らない。

 ラスキの思想には、ただただ多元性を重視せよというばかりで、そのために起こる無秩序や反抗を調停する原理が見られないのだ。


3.自由の条件

 最後に、ラスキが本書で論じる、自由のための条件についてもいくつか紹介しておこう。

 ただ、今では当たり前の、そして当時においてさえおそらく当たり前のことといっていい、一般論が披瀝されているだけという印象は免れない。

 まず、自由の第一条件は、国家が人権(人格)を侵害しないことにある。

「最高権力による決定が国民の人格を侵害しない国家でこそ自由は存在する。とすれば自由の条件とはこのような人格の侵害を未然に防ぐ条件に外ならぬ。」

 また、法によって自由は現実のものとなるが、それに加えて「社会的雰囲気」も必要だとラスキはいう。

「自由は多分に法律の問題である。しかしそれにも劣らず、それはまた法律を越えた社会の気風の問題でもある。

 そのほか、定期的な選挙と三権分立の必要性や、分権・自治の必要性についても主張する。

「分権化が進むほど、自由への熾烈な関心が生まれてくる可能性がある。〔中略〕すなわち、一般に、社会に対して上から課せられた規則は、たとえ為を思って課せられたものであっても、下から自然と盛り上った規則ほどには目的達成の効果がないという意味である。」

 教育もまた、いうまでもなく自由の重要な条件である。ラスキはいう。

偉大な教師がその世代に及ぼす感化は、今日でもわれわれの想像を越えるものがある。何はさておいてものような教師には、自由に教えさすべきである。



(苫野一徳)



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