ヘーゲル『精神現象学』(その2)



2.自己意識

ファイル:Hegel portrait by Schlesinger 1831.jpg 「自己意識」とは何か。それは、一切は「わたしにとってある」という意識のことだ。

 これは、端的には「欲望」のことだといっていい。「意識」がただ単に「対象」に対する意識だったのに対して、「自己意識」はそれを「わたしの欲望」から見るのだ。

「感覚的世界は自己意識にとっては、存立はしても、しかしこの「存立」はただ現象たるにすぎぬところの、言いかえると、自体的にはなんら存在をもっていないものである。そこで自己意識の現象と真実態との対立が生じてくるが、この対立はただ真実態のみを、即ち自己意識の己れ自身との統一のみを本質としてもっている。そこでこの統一が自己意識にとって本質的とならざるをえないが、このことは自己意識が欲望一般であることを意味している。」

 そしてこの「自己意識」は、まずは、「自分は自分だ!」ということを、自分にも他人にも認めさせたいという欲望を持ったものとして登場する。

「自己意識はその満足を他の自己意識においてのみ達成するのである

 ここで重要になるのが、ヘーゲル哲学の最重要キーワードである「相互承認」だ。

 自己意識は、互いが互いにこのような「自分は自分だ!」という意識を持った存在同士であることを、何らかの形で相互に承認しあう必要にせまられることになる。

 しかしそれは最初はきわめて素朴な相互承認だ。『精神現象学』は、この「相互承認」が、どんどんと深化・発展していくプロセスを描き出したものだといっていい。


自分が相手に向って為すことを相手側が相手側自身としても為してくれないと、自分だけではなにごとをも為すことはできないのである。だから、運動は端的に両方の自己意識の二重のものである。おのおのは自分が為すのと同じことを他方も為すのを見、おのおのは自分が他方に向って要求することを自分でも為すのであるから、おのおのがその為すところをなすのは、ただ他方が同じことを為してくれるかぎりにおいてのことでしかない。

両極は互に承認しあっているものであることを互に承認しあっている。



(1)主と奴

 最初に現れる「自己意識」の類型は、「主と奴」である。

 「自分は自分だ!」と主張し合うそれぞれの自己意識は、「承認のための生死を賭する戦い」を繰り広げ、その結果、主人と奴隷とに分かれることになる。

自己意識は最初には単純に自分だけでの存在であって、あらゆる他者を自分から排除することによって自己自同的である。」

そこで両方の自己意識の関係は、両者が生死を賭する戦いによって自分自身の、またお互の証を立てることであると規定せられるわけである。」

 主人はひたすら自由を「享受」できる存在だ。対して奴隷は、主人に対して「畏怖と奉仕」が義務づけられる。

 ところが、「自己意識」が次の段階へと展開する契機(きっかけ)は、実は「奴隷」の方にあるのだとヘーゲルはいう。

 労働を通して、自己意識は自分の欲望を抑えることを覚え、また対象世界を自分の思いのままに「形成」することができることに気がつくからだ。

 つまり、奴隷は労働を通して、自分は主体的に「自由」な存在なのだ気づくことができるのだ。

労働を媒介とすることによって意識は己れ自身に至るのである。〔中略〕しかるに主の欲望は対象の純粋な否定を自分のために取っておき、これを独り占めにし、またそうすることによってまじりけのない自己感情をうることをも独り占めにしたが、だからこそ、この満足はそれ自身ただの消失であるにすぎない。なぜなら、この満足には対象的側面或は存立が欠けているからである。これに対して労働は欲望の抑圧であり消失の延期である、言いかえると、労働は形成するのである。」


(2)自己意識の自由

 こうして、「自己意識」は自分の「自由」を知ることになる。

 しかしそれは、実はまだまだ素朴な段階だ。

 本書はこのあたりから断然面白さを増していく。

 自分が「自由」であることを知った「自己意識」は、しかしその自由を、ただ自分の中だけで守り満足しようと努める。


①ストア主義

 その最初の類型が、「ストア主義」だ。

 これは簡単にいうと、「俺は誰がなんといおうと俺なんだ!」と強弁する意識のことだ。

 しかしこれは、実はただ自分の内に閉じこもっているだけで、何ら現実的でない。

この自由は思想のうちにおける自由であるわけであるが、かかる自由はただ純粋思想だけをもって真理とし、そうしてこの真理は生活のうえでの中身を欠いているから、「自由」と言っても、ただ自由の概念であるにすぎないのであって、生き生きとした自由自身ではない。


②スケプシス主義

 そこで「スケプシス主義」が登場する。

 これもまた簡単にいうと、他人を否定することで自分の優位を保とうとする意識のことだ。

こういう自覚的な否定によって自己意識は自分の自由の確信を自分で自覚的につくり出し、この確信の経験を生み出し、そうすることによってこの確信を〔客観的〕真理にまで高めるのである。

 しかし「スケプシス主義」は、実は大きな矛盾を抱えている。人を否定する自分自身が、結局はその否定の論理のうちに搦めとられてしまうからだ。

この意識の言行はいつも矛盾しており、またこの意識は自分でも不変性及び自己同一の意識であると共に全くの偶然性及び自己との全くの不問の意識でもあるという矛盾した二重の意識をもっている。


③不幸な意識

 そこで登場するのが、「不幸な意識」だ。

 これも簡単にいうと、何か「絶対的なもの」を崇めて、自分(だけ)はそれを知っている、と信じることで自分の価値を守ろうとする意識だ。

 それはまずは、何か「絶対的なもの」(ヘーゲルはキリスト教の神を念頭に置いている)への「思慕」である。

 もうちょっと意識が進むと、自己意識は、「ほんとう」の世界は自分の中にではなく「あちら側」にあるのだと考えて、それに「感謝」を捧げるようになる。

「個別的な意識は感謝し、即ち己れの自立性の意識を満足することを自ら拒否して、行為の本質は己れにあるのではなく彼岸にありとする。

 でもそうはいっても、この意識は「自己意識」である以上、「ほんとう」の世界は「あちら側」にあるとずっといってはいられない。それは実は「自分の中」にあると気づいてしまっているからだ。

 こうして「不幸な意識」は、一方では絶対的な存在を信じようとしながらも、他方ではそれが自分の欲望だということを知っており、そしてまた、自分がその存在に値しないということを知っている。この分裂のゆえに、これは「不幸な意識」と呼ばれるのだ。


3.理性

 こうして「自己意識」は、自分の中だけで自分の価値を守ることが、実は不可能なのだということに気づくようになる。自分の価値は、関係性の中でしか見出すことができないのだ。

 これに気づいた境位を、ヘーゲルは「理性」と呼ぶ。

 理性には、「観察する理性」「行為する理性」がある。

 「観察する理性」は、まず自然を観察しその中に自己を見出そうとする意識だ。この理性は、自然を「記述」したり「分類」したり「法則」を見出したりする。

 他方の「行為する理性」は、現実の他者関係の中で、他人からの承認を得ようと行為する意識のことだ。

 最終的には、この「行為する理性」が「人倫」の世界を形作る。つまり人間の共同体における「倫理」のあり方を形作る。(この点についてはヘーゲル『法の哲学』のページを参照)

 ヘーゲルは、この「行為する理性」にもまた3つの類型を描き出す。


(1)快楽(けらく)と必然性(さだめ)

 最初の類型は、「快楽」を求める意識のあり方だ。具体的には恋愛を求める意識だといっていい。

「自己意識は快楽の享受に、自立的であるかのように見えるひとつの意識のうちに自分を現実化するという意識に到達する」

 しかし、人はただ快楽だけを求めて生きることはできない。そこには世間の「必然性」(さだめ)、つまり現実の壁があるからだ。


(2)心胸の法則(むねののり)と自負の錯乱

 そこで登場するのが、「心胸の法則」だ。

 これはいわば、「みんなの幸せがわたしの幸せ」と主張する意識のことだ。

「この個体性はもはやただ個人的な快楽だけを意志した先行の形態のごとき軽薄なものではなく、高貴な目的をいだいている真摯なものであって、快楽を求めるにしても、これを己れ自身の卓越せる本質を発揮することのうちに求めるのであり、また人類の福祉を生み出すことのうちに求めているのである。

 ところがこの意識は、それが実は不可能だということをやがて知る。「わたし」の思う「みんなの幸せ」は、他人が思う幸せとは結局のところ異なっているからだ。

「見出すのはむしろ自分たちとはちがった或る他人の法則である。」

 こうしてこの意識は「錯乱」していくことになる。自分は「みんなのため」を思っているのに、何でそれが実現しないんだ!と。

だから人類の福祉のためを思うて高鳴る心胸の鼓動は狂い乱れた自負の激昂へと移って行き、また意識が自滅に対して己れを保とうとする焦燥の念へと移って行くが、このさい意識が激昂し焦燥するのは、自分自身が顛倒であり、逆しまであるのに、これを自分から投げ出して、自分とはちがった他者のことであると見なし、またそう言明するのに汲々としているからである。」


(3)徳と世路

 そこで登場するのが、この「わたし」の思う「みんなのため」を、絶対に実現してやるぞ!と意気込む「徳の騎士」だ。この騎士は、「みんなのため」を妨げる他の人たちを正してやろうと行為する。

徳の意識にとっては法則が本質的なものであって、個体性は撤廃せらるべきものである。」

 しかし現実はそんなに甘くない。どれだけ「世直し」を叫んだところで、それは一人よがりな「正義」に過ぎないからだ。この世には「世間」というものがあり、こちらの方がいっそう現実的なのだ。

だから徳は世路から敗北を蒙るが、これは徳の目的とすることがじっさいには抽象的な非現実的な本質だからであり、また現実性という観点からしでも、徳の行為がただ言葉のうえだけでしか成りたたないところのもろもろの区別に基づいているからである。


(4)事そのもの

 こうして「理性」は、ついに気がつくようになる。

 快楽に身をやつしても、みんなの幸せを漠然と空想しても、そしてそれを素朴な行動によって実現しようとしても、どれも現実性を持たない空しい意識だ。

 だからわたしたちは、何らかの「行動」「仕事」「作品」を世に示すことで、それが他者からの承認を得られるかどうかたえず検証しなければならない。

 この「行動」「仕事」「作品」が、ほんとうの「事そのもの」になっているか、他者に向かって投げかけなければならない。

 この「事そのもの」を自覚することこそが、「理性」のいわば最高境位だ。

 わたしなりにいうと、「事そのもの」とは、わたしにとってのほんとうの「事」が、他者にとってもほんとうの「事」たり得たものということだ。つまり一定の普遍性を獲得した行為のことといっていい。そしてまた、この「事」を投げかけ合う、一種の制度性のことだ。

意識の経験するのは、事そのものが本質的な実在であり、そうしてこの実在の存在は個別的な個体の、またすべての個体の行為することであり、またこの本質的な実在の行為することも直ちに他の人々に対するものであり、言いかえると、事であり、しかも事であるのは、ただすべての人々の、またおのおのの人の行為することとしてであるということ、〔要するに〕事そのものがすべての人々の実在であり精神的な本質であり実在であるということである。」

そうして事そのものはまた普遍的なものであるが、この普遍的なものはかくすべての人々の、またおのおのの人の行為することとしてのみひとつの存在である。さらに事そのものは現実であるが、しかしこれが現実であるのは、これをもって「この」意識が自分の個別的な現実であり、またすべての人々の現実であると知っているという意味においてのことである。」

 わたしにとってほんとうの「事そのもの」が、他者にとってもほんとうの「事そのもの」たり得ているかどうか。一切の「よい」「正しい」「ほんとう」は、この観点からしかはかることができない。

 このことに気づいた意識こそ、この後の章で論じられる「良心」であり、そしてそれが、ヘーゲルいうところの「絶対知」なのである。





(苫野一徳)

Copyright(C) 2013 TOMANO Ittoku  All rights reserved.