カント『道徳形而上学原論』


はじめに


 カント三批判書の1つ、『実践理性批判』の前段をなす本書。(ちなみに三批判書は、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』。)


 『純粋理性批判』において、カントは、わたしたち人間には、世界の始まりは何かとか、神はいるかとかいった、形而上学的問い(経験を超えた問い)に答えることは決してできないということを“証明”した(カント『純粋理性批判』のページ参照)。 

 それが、わたしたちの「理性」(純粋理性)の限界なのだ。だから、こうした形而上学的問いをめぐって争い合うのはやめにしよう。

 しかしわたしたちは、やはりわたしたちの「理性」をとことん使って、何が「道徳」的に正しいことかを考え抜くことはできるはずである。そうカントは主張する。

 『実践理性批判』のページにも書いたように、カントが出した答えは、その非現実性と論理の飛躍のゆえに、やや説得力に欠けるようにわたしには思われる(カント『実践理性批判』のページ参照)。

 わたしの考えでは、カントを批判し乗り越えた、ヘーゲルの哲学こそが道徳哲学の最高峰と呼ばれるにふさわしい(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ参照)。

 しかしそれでもなお、「道徳法則」というものがあるとするなら、そしてそれを理性によってギリギリまで考え抜いたなら、それはカントのいうようなものとなる。そのように言えるようにも思う。

 カント以前、ヨーロッパにおいて、道徳と言えばキリスト教道徳だった。そこにおいて、「正しいこと」「道徳的なこと」は、神によってすでに定められていた。

 しかしカントは、神によって決定されている「道徳法則」ではなく、人間がその理性を使って、とことん自分で考え抜いた「道徳法則」を見出そうと考えた。

 まるで精密機械のような、きわめてロジカルな文章を書くカントだが、本書からは、むしろ彼のそのような“人間的”な情熱が伝わってくる。

 近代という新しい時代の、新たな道徳哲学の幕開けがここにある。


1.道徳哲学を打ち立てる

「私が本書で意図しているのは、もともと道徳哲学を建設することである」

 カントのいう道徳哲学、それは、経験的なものを一切含まない道徳哲学のことだ。それはつまり、およそいっさいの経験的動機にかかわりなく、まったくア・プリオリな〔実践的〕諸原理にもとづいて規定される」ようなもののことである。

 時と場合によって変わるようなものは、道徳哲学と呼ぶに値しない。個々別々の経験を超えて、絶対的に当てはまる「道徳法則」を見つけ出す必要がある。カントはそう主張するのだ。

 現代の感覚からしてみれば、そのような絶対的な「道徳法則」を見出そうとする企て自体が、成り立たないように思われる。

 しかしカントは、わたしたちの理性によってそれは可能であると主張する。

 なぜか?その理由は、また後で(4節で)紹介することにしよう。


2.善を「意志」すること

 わたしたちは、理性など持たず、余計なことを考えることなく、本当は本能のままに生きていた方が幸せだったんじゃないだろうか?

 カントはまずそのように問う。

 でも、自然はわたしたちに、本能だけでなく自ら何かを「意志」する力を与えた。

 ということは、自然はわたしたちに、自らの「意志」によって「善」を目指せと命じているということではないだろうか?

 じゃあその「善」とは何か?わたしたちはこれを、わたしたちの「理性」によって見出す必要がある。カントはそう主張する。

「理性は、実践的能力――換言すれば、意志に影響を及ぼす能力として我々に与えられているのである。すると自然が自然的素質を遍く頒与するに際して、例により合目的な方法を採ったとすれば、理性の真の使命は、何かほかの意図を達成する手段としてではなくて、それ自体善であるような意志を生ぜしめることでなければならない、そしてこのことのためにこそ、理性が是非とも必要であったのである。」


3.道徳的とはどういうことか?

 では、この「善」を見出し「善」に従うこと、つまり「道徳的」であるとはどういうことか?

 カントは言う。

およそ傾向性にかかわりなく、ひたすら義務にもとづいて行動するならば、そのときこそ彼の行為は、正真正銘の道徳的価値をもつことになるのである。

 「傾向性」とは、わたしたちの欲求や衝動のことだ。カントは、こうしたものにとらわれることなく、ただそれが「義務」であるという理由だけで、その「義務」に従うことこそ「道徳的」であると言う。

 ――このあたり、かなり強引な理屈のように思われる。

 ちなみにヘーゲルもまた、こうしたカントの「義務」論を、単なる「お説教」にすぎないとして批判している。

 道徳的であるとはどういうことか。ヘーゲルは、カントが言うように、それは「義務のための義務」に従うようなものではなく、人びとの間に「相互承認」が成立しているところにあると主張する。そしてこの反論は、わたしにはかなり妥当なものであるように思われる。


 しかしともあれ、先に進もう。



4.現実にはあり得なかったとしても

 この「義務」について、カントはさらに次のように言う。

「ここで問題になるのは、あれこれの行為が実際になされるかどうかということではなくて、およそ理性がいっさいの現象にかかわりなくそれ自体だけで、何が為さるべきかを命令するという信念である、従ってまたこの世界が、恐らくこれまでにたった一つの実例をも示さなかったような行為を、それどころか、経験をいっさいのものの基礎と見なす人であれば必ずやその実行の可能を疑うような行為を、理性は仮借なく命じるという信念である

 わたしたちは、それが現実に可能かどうかに関係なく、「理性」によって絶対的な「義務」を見出すことができる。カントはそう主張するのだ。

 なぜか?

 わたしたちが備えている「理性」は、経験を超えた究極の答えを見出そうとする本性を持ったものであるからだ。

 『純粋理性批判』において、カントは、この「理性」が、経験を超えた世界の真理を知ることは決してできないということを“証明”した(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 しかし「道徳法則」については違う。カントはそう主張する。

 なぜか?

 簡単に言うと、自然世界の究極の真理はわたしたちには知り得ないが、「道徳法則」は自然世界に属するものではないからだ。

 それは、自然世界を超えた、わたしたちの自由な「意志」の世界に属するものなのだ。

「理的存在者は、――第一に、感性界に属する限りでは自然法則に従っているし(他律)、また第二に、可想界に属するものとしては、自然にかかわりのない法則――換言すれば、経験にもとづくのではなくて理性に根拠をもつような法則に服従しているのである。

 だからわたしたちは、自然世界の限界を超えて、わたしたちが「意志」すべき絶対的な「道徳法則」を見出しうるのだ。カントはそう主張する。


5.定言命法

 ではその「道徳法則」とはいったい何か?カントは言う。

「君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格律と〕同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ」。

 「格律」とは、わたしが自分自身に課している約束事のことである。

 カントは、「このわたし」の「格律」が、だれにとっても「格律」であることを欲しうるかどうかを吟味し、そしてそのような格律にのみ従って生きろと言う。

 これを「定言命法」と言う。いっさいの仮借なき、絶対的な道徳法則という意味だ。

 ちなみに『実践理性批判』では、これは次のような「定言命法」として言い表されている。

「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」


6.具体例

 この「定言命法」に従って、カントは次のような例について考察する。

 1つめは「自殺」について。カントによれば、「自殺」は道徳法則に反するものである。なぜなら、わたしはこれがすべての人の格律となることを欲さないから。

 2つめは、返すつもりもないのに借金をすることについて。カントによれば、これも道徳法則に反するものである。理由は上と同じだ。

 3つめは、才能があるのにこれを発揮しようとしないこと。これもまた、同じ理由で道徳法則に反するものだとカントは言う。

 4つめは、困っている人を助けないこと。これもまた、やはり同じ理由で道徳法則に反するものである。

 どれもやや強引が気がしないでもない。カントにかかれば、この世に道徳的なことなんてないようにさえ思えてしまう。

 実際カントは、先述したように、「道徳法則」は、それが現実に可能かどうかなど関係なく理性によって見出されるものなのだと言っている。

 その観点からすれば、先の「定言命法」は、確かに理性によってとことん考え抜いたらこうなります、と言えるもののように思えなくもない。

 しかしそれは、やはりあまりにも非現実的な命令と言うほかないだろう。

 きわめて立派な理想ではある。しかしその非現実性において、カントの道徳哲学には大きな難点があるようにわたしには思われる。


7.手段ではなく目的として

 カント道徳哲学の最も有名な命題は、人を「手段」としてではなく「目的」として扱えというものだ。

「およそいかなる理性的存在者も、目的自体として存在する、すなわちあれこれの意志が任意に使用できるような単なる手段としてではなく自分自身ならびに他の理性的存在者たちに対してなされる行為において、いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない」

 人を「目的」として見ること、これをカントは、人を「人格」と捉えることであると言う。

 単なる手段として扱われるものは、「物件」と呼ばれる。人間は「物件」ではない。「人格」なのだ。そうカントは主張する。

 この観点からすれば、先ほど例として挙げた、「自殺」も「偽りの約束」も「才能の浪費」も「人を助けないこと」も、どれも人を「人格」として見なしていないという意味で、やはり道徳的とは言えないことになる。カントは改めてそのように主張する。


8.目的の国

 カントが打ち立てたいのは、以上述べてきたような、だれもがこの「定言命法」に従って生きる「目的の国」である。

 しかもここにおいて、人びとは、「定言命法」(道徳法則)にいやいや従っているのではなく、自らの意志によって従っている。

 そこにこそ、人間の崇高さがある。カントはそう主張する。

「なるほどこの人格が、道徳的法則に屈従しているというだけなら、彼になんら崇高な点を認めがたいが、しかし彼はほかならぬその道徳的法則に関して同時に立法する者であり、それ故にこそ件の法則に随順しているのであるというところに、崇高を認めることができる。」

 文字通り、きわめて崇高な理想ではある。しかしやはり、これは非現実的というほかない理想だろう。

 この非現実性を、後に徹底的に批判したのがヘーゲルだ。そして先述したように、わたしの考えでは、このヘーゲルの哲学こそが、カントの弱点を乗り越えた、道徳哲学の最高峰と呼ばれるにふさわしい(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ参照)。

 しかしそれでもなお、カントの見出した「道徳法則」は、人間が理性によって考え抜ける、ギリギリのラインにまでたどり着いているようにも思われる。

 神の命令ではなく、自身の「理性」の命令に従おう。

 カントの哲学こそが、近代における新しい道徳哲学の道を切り開いたのだ。



(苫野一徳)

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アリストテレス『ニコマコス倫理学』


はじめに

 アリストテレスの息子、ニコマコスらによって編纂された本書。

 人間は、ただ生きるのではなく「よく生きたい」と願う。それはつまり、「幸福」に生きるということだ。

 では「幸福」とはいったい何か?本書でアリストテレスは、この問いに答えることを試みる。

 人が「よりよく」また「幸福」に生きられる政治のあり方を探究した、後の『政治学』の前段をなす著作である(アリストテレス『政治学』のページ参照)。


1.最高善=幸福の探究

 本書の目的は、「最高善」の内実を克明に描き出すことにある。

 「最高善」とは何か。それは「幸福」であるとアリストテレスは言う。

 「幸福」、それは、わたしたちが「それ自身のゆえに願望し、その他のものを願望するのもこのもののゆえであり、したがってわれわれがいかなるものを選ぶのも結局はこれ以外のものを目的とするのではない、といったような」ものである。


 わたしたちは、「幸福」を、他の何かのためではなくそれ自身のために求める。その意味で、幸福こそが「最高善」である。そうアリストテレスは言うわけだ。

「総じて、幸福をそれ以外のことがらのために選ぶひとはない。」
 

2.幸福とは何か?

 しかしそもそも「幸福」とは何か?

 アリストテレスは、この問いに人間の「機能」の観点から答えようと言う。

「というのは、笛吹きとか彫刻家とかその他あらゆる技能者、総じて何らかその固有の機能とか働きとかを有しているひとびとにあっては、かかる機能を果たすことにその善とそのよさがあるごとく、人間についてもまた、何らか「人間の機能」なるものが存在するかぎり、これと同様なことがいえると考えられるからである。」

 笛吹きや彫刻家が、自らのその「機能」(役割)を十分に果たしている時に「よし」(善)とされるのと同様に、人間もまた、その「機能」(役割)を十分に果たしている時に「よし」(善)と言えるはずである。アリストテレスはそう言うのだ。

 では人間にとっての「善」とは何か?

 それは、「ただ生きている」ことにはない。それなら動物や植物と変わらない。

 それは「よく生きる」ことにある。これは、本書の続編(むしろ本編)である、『政治学』で強調されたことだ(アリストテレス『政治学』のページ参照)。

 ただ生きるのではなく「よく生きる」こと。それは、動物や植物にはない「魂」(精神)にかかわることだ。魂の卓越性(アレテー/徳)、それこそが、人間の「幸福」の本質なのだ。

「「人間というものの善」とは、人間の卓越性に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる。」
 
 その意味で、わたしたちは、魂なき動植物(やまた子ども)のことを、「幸福」な存在であると言うわけにはいかない。そうアリストテレスは主張する。

「かくして、われわれが牛や馬やその他いかなる動物を目してもそれが幸福だとは決していわないのは適切である。これらのいかなる動物もこのような性質の活動にあずかることはできないのであるから。同じくこの理由によって子供も幸福ではない。彼はその年齢のゆえに、いまだかかる性質のはたらきをなしえないからである。


3.中庸

 魂の卓越性とはいったい何か?アリストテレスは、それはまず「中庸」にあると言う。

 たとえば、節制が徳(アレテー)と言われることがあったとしても、もしそれが行き過ぎれば単なるケチ、あるいは臆病ということになる。勇敢が徳(アレテー)であったとしても、それが行き過ぎれば単なる無謀ということになる。

「節制も勇敢も「過超」と「不足」によって失われ、「中庸」によって保たれるのである。」

 それゆえ、真の教育とは、この中庸に子どもたちを導くことにあるとアリストテレスは言う。


「プラトンのいうように、まさに悦びを感ずべきことがらに悦びを感じ、まさに苦痛を感ずべきことがらに苦痛を感じるよう、つとに年少の頃から何らかの仕方で嚮導されてあることが必要である所以である。事実、これこそが真の教育というものであろう――。」


4.知性と欲求

 以上のように、アリストテレスによれば、幸福であるとは魂の卓越性(アレテー)を有していることである。

 では、それはいかにして可能なのか?アリストテレスは言う。

「いま、われわれの魂において、われわれの実践真理認識をつかさどるものに三あり、感覚(アイステーシス)・知性(ヌース)・欲求(オレクシス)がすなわちそれである。しかしながら、これらのうち、感覚はいかなる実践の端初ともならないものなのであって、このことは、獣類は感覚を持ってはいても実践にあずからないということに徴して明らかである。」

 幸福のための実践、あるいはその真理を認識するための方法は、「感覚」「知性」「欲求」の3つがある。しかし「感覚」はあまりに原始的なので、ここでは考察するには値しない。

 わたしたちが探究すべきは、「知性」「欲求」についてだ。そうアリストテレスは主張する。そして言う。

 (幸福のために)「実践する」とは、まず何をおいても「選択する」ことだ。つまりわたしたちは、幸福のために「正しい選択」ができる必要がある。

 では「正しい選択」はいかに可能か?

 それは、知性と欲求が正しくあることだ。

「「選択」がよくあるためには、ことわりも真であることを要するし、欲求もまたただしくあることを要する。」


5.技術、学、知慮、智慧、直知


 では正しい知性とはいったい何か?

 ここでアリストテレスは、知性について次の5つを考察する。

「すなわち、技術(テクネー)・学(エピステーメー)・知慮(フロネーシス)・智慧(ソフィア)・直知(ヌース)がそれである。」

「学」とは何か?アリストテレスは言う。

「「学」の関わるところのものは必然的なものごとにほかならない。したがってまた、それは永遠的なものごとである。」

「技術」とは何か?それは、自然にはない「物を作り出す」ことだ。

「技術のかかわるところは「必然的に生成ないし存在するもの」でもないし、また「自然的に生成し存在するもの」でもない。」

「知慮」とは何か?それは、自分にとって何が善悪(損得)かを判断できることだ。

「「知慮あるひと」(フロニモス)の特徴と考えられているところは、「自分にとってのいいことがら・ためになることがらに関して立派な仕方で思量(ブーレウエスタイ)しうる」ということにある。」

「直知」とは何か?それは真を認識せしめ決して誤った認識に導くことのないもの」だ。今のわたしたちにはあまりなじみのない概念かもしれないが、「真理」を直接的に認識できる力のことと考えていいだろう。

 最後に、「智慧」とは何か?


 アリストテレスにとっては、これこそが最も尊いものだ。「智慧」、それはつまり「哲学」のことである。

「「智慧」(=哲学・第一哲学)というものは、もろもろの学のうち、最も厳密なものでなくてはならないことは明らかであろう。したがって、智者(=哲学者・第一哲学者)と呼ばるべきひとは、単に根源から導出されるところを知るにとどまらず、根源それ自身に関してもまた、その真を認識しているのでなくてはならぬ。かくして智慧とは「直知プラス学」なのであり、最も尊貴なものに関しての、いわば頭首を具備した学でなくてはならぬ。」


 哲学は、真理を直知すると共に、それを根源的に考究するものである。だからそれは、単なる「知慮」とは違う。なぜなら「知慮」は、損得勘定にすぐれた知性であるにすぎないから。


「だからこそ、ひとびとは、アナクサゴラスとかタレスとかその他この種のひとびとは「智者(ソフォス)ではある、知慮あるひと(フロニモス)とはいえないが」と――これらの智者が彼ら自身の功益に対して無知であるのを見て――いうのであり、また「彼らは珍しいことがらや驚くべきことがらやむずかしいことがらや超人間的なことがら(ダイモニア)を知ってはいる。どれもこれも、しかし、役に立たないことばかりを」と――彼らが人間的なもろもろの善なるものを探求しないからというわけで――いいたてるのである。


6.愛について

 本書でアリストテレスは、幸福の1つの究極である「愛」についても論じている。

 幸福が卓越性である以上、最も善き「愛」もまた、ここに存する。アリストテレスはそのように言う。

「究極的な性質の愛は、善きひとびと、つまり卓越性において類似したひとびとのあいだにおける愛である。」

 卓越した人のあいだにおける「友愛」とはどのようなものか?アリストテレスは言う。

 友人を、自分の苦しみのゆえに苦しませないこと、そしてまた、自分の喜びのゆえに、喜ばせること。しかし同時に、苦しみの中にある友人のもとには、すぐに駆けつけること。これが卓越した人のあいだにおける「友愛」のあり方である。


7.快楽について

 快楽は人間を不幸にする、としばしば言われる。しかしアリストテレスは、快楽にも色々あり、よき快楽は人間の幸福に欠かせないと主張する。

快楽は各人にとっての「生きる」ということ――それは好ましきものである――を究極的に完璧たらしめるものなのだからである。


8.観照的活動

 ではよき快楽とは何か?

 それは知性的快楽である。そして知性的快楽とは、観照的活動にほかならない。

「なぜかというに、この活動はわれわれの最高の活動である。知性はわれわれのうちに存する最高のものであるし、知性のかかわるところのものは知識されるものの最高のものなのだからである――。」

 それは真理を観る活動であるから、きわめて「神的」な活動である。だから人は、そんなことは人間には不可能だと時に言う。

 しかしアリストテレスは言う。「できるだけ不死にあやかり、「自己のうちなる最高の部分」に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならないと。



(苫野一徳)

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