バタイユ『エロティシズムの歴史』


はじめに

 『呪われた部分』3部作の、第2巻として構想された本書。バタイユの生前には完成せず、死後になってその草稿が発表された。1950年から51年にかけて書かれたと考えられている(『呪われた部分』第1巻については、『呪われた部分』のページ参照)。

 代表作『エロティシズム』の出版は、1957年。内容的には、本書と重複している部分も少なくない(『エロティシズム』のページ参照)。

 この本の目的について、バタイユは次のように言う。

「本書が追求しようと努めているものがなにであるかというと、それは人間たちの活動を、自らの諸資源の無益な消尽、という目的以外の他の諸目的へと服従させるようなさまざまなイデーを全般的に批判することである。」

 経済合理性や有用性・効率性ばかりが尊ばれる現代社会だが、実は人間は、そのようなものに服従しうる存在ではない。

 むしろ人間は、自らのエネルギーを、ただ爆発させるためだけに無益に「蕩尽」する、そのような本質をもった存在なのだ。

 この人間の本質を考えることなしに、私たちは人間や社会について考えることはできない。


 バタイユは、第3次世界大戦を怖れ、何とかこれを回避したいと考えていた。

 「蕩尽」存在としての人間は、方向性を誤れば、これを大戦争という形で実現しようとしてしまう。

 そこでバタイユは、『呪われた部分』3部作や『エロティシズム』等で、「蕩尽」存在としての人間の本質をまずはとことん明らかにし、そしてそのことを通して、来るべき大戦へのエネルギーを、別の方向に向かわせる方途を考えようとしたのだった。

 その具体策を、バタイユは結局のところ提示することはなかった。

 後世の私たちに引き継がれた、重要な課題と言うべきだろう。


1.近親婚の謎

(1)レヴィ=ストロース理論

 本書でバタイユがまず挑むのは、「近親婚」の謎である。

 「近親婚」は、基本的に、世界中で普遍的に禁止されている。

 それはいったい、なぜなのか?

 バタイユはまず、それは遺伝性疾患などを予防するためであるという、「合目的主義的な理論」を批判する。

「このような信仰を確証するような観察デタは、なにもないのである    

 レヴィ=ストロースの人類学が明らかにしたところによると、未開社会における近親婚の禁止には、きわめて多様で複雑なルールが存在している。

 しかし基本的に、親子間、および兄(弟)妹(姉)間の結婚は禁止されている。

 また、平行いとこ婚よりは交叉いとこ婚が、そして、父系の交叉いとこ婚よりは、母系の交叉いとこ婚の方が好まれることも、ある程度共通している。

 平行いとこ婚とは、男の子が自分の父母の兄弟(オジ)の娘と結婚すること。交叉いとこ婚とは、男の子が自分の父母の姉妹(オバ)の娘と結婚することを言う。

 レヴィ=ストロースは、これは「女性の交換(配分)」を最も効率的に行うためだと主張した。

「その回路のなかではあらかじめ権利が決定されているような交換の回路だけが、女を必要としている多様な男たちの間に女たちを均衡のとれた形で分配することに、おそらく不都合が生じることもしばしばあったであろうが、全体として見れば首尾よく成功したのである。」    

 未開社会の人びとにとって、子孫を残すことは、人生における最も重要なことの1つである。そのため彼らは、誰もができるだけパートナーを平等に得られるように、その最も効率的な交換(配分)ルールを考え出したのだ。


(2)レヴィ=ストロース理論の展開

 このレヴィ=ストロースの理論に、バタイユは基本的に賛成する。

 しかし彼は、レヴィ=ストロースがある程度は分かってはいたものの、しかし十分には洞察できなかった次の点を指摘する。

自分の娘を妻とする父、自分の姉妹と結婚する兄弟は、いわばシャンペンを所有している者なのだが、けっして友達を招待せず、自分ひとりで酒蔵を飲み干してしまう者と同様なのである父は自分の娘がそうであるを、また兄弟は自分の姉妹がそうであるを儀式的な交換の回路へと参入させねばならないつまり身内の女を贈り物として与えねばならない。」

「交換による婚姻」について語ろうとするならば、このように商業主義的精神――値切ることや、利益の計算――に対立する性格を強調すべきである    

 婚姻を通した「女性の交換」は、単なる経済合理的な発想によって行われたものではない。

 それはむしろ、自らの財産を蕩尽するという仕方での交換、つまり「贈与交換」の性質を持つものなのだ(「贈与交換」については、モース『贈与論』バタイユ『呪われた部分』のページを参照)。

 男の子にとって、自分の母親や姉妹は、本来最も身近な性の対象になりうる相手だ。つまり男の子にとって、彼女たちはきわめて重大な「財産」である。

 しかし人類は、あえてこれを禁止し、むしろ気前よく「贈与」する道を選んだ。

 これはいったい何を意味するのか?

 バタイユによれば、人間はこのことによって、動物的自然の世界を否定したのだ。

 人間は、その本質から言って、自らの動物性を否定する存在である。そしてバタイユは、近親婚の禁止に、その最も原初的な動物性の否定を見出すのだ。

 「近親婚」の禁止、それはつまり、人間が人間であるための根本条件なのである。

 ところでバタイユは、エロティシズムの本質を「禁止の侵犯」に見る(バタイユ『エロティシズム』のページ参照)。

 禁止されているものを破りたい、覆いをはぎ取りたい。これがエロティシズムの心性の本質である。

 であるならば、近親婚が「禁止」されたことで、私たちは本当は、その禁止を侵犯したいという欲望を抱いているということなのだろうか?

 バタイユの答えはイエスだ。

「精神分析が証明したとおり、近親婚的な関係へのノスタルジーこそ共通に認められるのである。もしそうでないとしたら、なぜこれほど厳格にその禁制が生じるであろうか?    

 近親婚は、これが禁止されることで、私たちにそれへの欲望を抱かせるのだ。

 しかしその上でバタイユは言う。

しかしながら結婚のそうした侵犯という側面は確実に薄れてしまった。最終的には、結婚はむしろ性活動と〔中略〕畏敬との妥協の産物となったのである    

 近親婚への欲望を、私たちはその深層心理において、実は抱いてしまっている。しかし長い歴史を通して、婚姻が慣習としてあまりにも一般化したために、私たちは今日、そのことにあまり目が向かなくなってしまっているのだ。


2.性と排泄物

 続いてバタイユは、排泄物についての考察を進める。

 性のタブーについては多くの人が語るのに、排泄物のタブーについては、ほとんど誰も語ってこなかった。バタイユはそう言う。

 しかし同じタブーである以上、ここには何か重大な人間的秘密が隠されているはずだ。

 排泄物に対する極度の嫌悪感は、人間だけに見られるもののように思われる。この嫌悪感、嘔吐感は、動物はもちろんのこと、子どもにもあまり見られない。

 ということは、これはおそらく、教育を通して獲得されたものであるということだ。

 バタイユは言う。排泄物への嫌悪感の底には、死への怖れが関係しているのではないか、と。

 死とはすなわち腐敗である。その意味において、死と排泄物には密接な関係がある。

 バタイユによれば、このことが、私たちに排泄物への嘔吐感をもたらしているのだ。


3.死とエロティシズム

 同じように、エロティシズムもまた、バタイユによれば死と密接な関係にあるものである。

死者への怖れとは無関係にエロティシズムを想像することは、たしかに可能であるしかし実のところは、こうした独立性は存在しない。    

 『エロティシズム』の冒頭において、バタイユは、「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」と言っている。

 エロティシズムには「度外れな喜び」があるが、これは、いわば「もう死んでもいい」と思わせるほどの喜びだ。

 しかし同時に、「なお死ぬことなしに」というのが、エロティシズムにおいては重要だ。死の一歩手前にあるほどに、度外れな喜び。それがエロティシズムの喜びなのだ。

「結局のところ、破滅の追求が祝祭において行き着くのは、破滅そのものではない、いわんや死ではない。それは喜びなのだ。われわれは虚空に接近するが、それはそこに落ちるためではない。われわれは眩暈に陶酔することを欲しているのであり、それには落下の想像だけで十分なのだ。」    

 このようにバタイユは、エロティシズムと死を密接に関係させることで、その本質をあぶり出そうとした。

 しかしなぜ、エロティシズムと死とは密接に結びつくのか?

 先述したように、バタイユによれば、人間は死や動物的自然を否定することで人間になった存在である

 その観点からすれば、排泄物への嘔吐感は、この動物的自然への嫌悪感なのだと言うことができるかもしれない。

 しかしだからこそ、人間はその「否定」「禁止」を破りたいと思う。ヘーゲル弁証法が言うところの、「否定の否定」への欲望である。

 エロティシズムの欲望は、この「否定の否定」の欲望だと言える。つまりエロティシズムは、一度は否定された「死」を、その禁止を再度否定することで、死ぬことなしに死ぬという魅惑的な世界へと自らを向かわせる欲望なのだ。
(宗教もまた、本質的には同じような欲望のあらわれであるとバタイユは論じている。この点については、バタイユ『宗教の理論』を特に参照されたい。)


4.売春

 売春についても、本書には詳しく論じられている。

 まずバタイユは言う。

「売春ほど、われわれの心の奥底を忠実に表わすものは、なにもない。」

 売春の本質は何か?

欲望は可能なかぎり大きな喪失を求めるという原則に立ち戻ってみよう

あのようにきらびやかなアクセサリーとおしろい、あのような宝石と香水、豊かさをしたたらせ、物になり、奢侈と淫蕩の中心になるあれらの顔と肉体は、もろもろの財産やもろもろの価値として現れるが、人間の労働の一部を、空しい光彩のなかで蕩尽する。」

 エネルギーを、奢侈的に爆発させる以外何ものも目的としない、ただ蕩尽するための蕩尽。それが売春の本質だ。

 したがって売春は、本来「蕩尽」存在である人間の本質をあらわすものなのだ。バタイユはそのように言う。

 さらにバタイユは、ここで奢侈的に浪費される「美」は、何らかの目的を持ったものではなく、ただ消費されるためだけに消費される美でなければならないと言う。

このような女性らしさの成就にあって無為が大きな意味を持つ。もしかすると最大の意味を持つかしれない〔中略〕娼婦は、その原則そのものにおいて、論理からして無為でなければならない唯一の人間存在である。    

「工場での労働に縛られた女性は、欲望を幻滅させる粗野さを持っている。同じことは、女性実業家のはきはきした物腰についてもしばしば言えるし、ひとつの美が完全に女性的であるために不可欠な深い無気力が、潤いのない様子や表情の活発さによって損われているような、すべての女性についても言える。    


5.罪

 さらにバタイユは、サドについて考察を加えながら、エロティシズムにおける「罪」の重要性を次のように言う。

「他者の価値を認める者は、必然的に制限を受けることになる。彼は他者への尊重によって限られ、自分の内部でみずからの物質的な、あるいは精神的な資源を増大させようとする欲望に唯一服従するのではないような願望が意味するものを知ることから逸らされてしまう〔中略〕すなわち他者との連帯は、人間が「至高性」という名で指し示されている場所を占めることを妨げてしま    

 エロティシズムが禁止の侵犯であるとするなら、それは徹底的に侵犯するのでなければならない。他者の価値を尊重する精神は、「至高性」への到達を邪魔してしまう。

「つまりエロティシズム的な世界の本質は単にエネルギー消尽ということだけではなく、極限まで推進された否定なのである。」    


6.戦争を避けるために

 とは言えバタイユは、そのような「否定」のエネルギーを、ただ野方図に、徹底的に爆発させよと単純に言っているわけではない。

 むしろバタイユは、人類がこれを戦争の形で爆発させることを怖れた。

「超過するエネルギーの総量は、いつの日かある破局的な戦争のなかで蕩尽されるだろう。」

 ではこの戦争への道を、私たちはどうすれば回避することができるだろうか?

 その道筋を、バタイユは直接は示さなかった。彼はただ、次のように言うだけである。

「世界のなかには、次のような決断に結ばれた平和のチャンスが残っているの決断とは、あらゆるものに逆らってでも、諸個人の資源を平準化する政策が無条件に価値を持つ、と断定することであり、またさらにはそういう政策は、冷戦がただちにつきつける必然的な要求に絶えず答えていきながら、しかも可能なかぎりでまさに追求されることがありうる、と付け加えることである。」    

 バタイユは、生産性を向上させれば人類は平和になる、などとは考えなかった。それは結局、経済合理性にからめとられた発想である。

 むしろ本質的なのは、富の奢侈的な蕩尽の方である。なぜならそれが、人間の本質、つまりその「呪われた部分」であるからだ。

 だからこそ、そのための資源が、すべての人に十分配分されていることが重要である。

 バタイユはそのように考えていたように思われる。

 ではそれはどうすれば可能なのか?

 先に言ったように、バタイユはその具体的な方途を見出すことはなかった。彼はただ、最後に次のように言うだけである。

「もし世界がどうしても破裂しようと片意地を張るならば、われわれは世界にその権利を認めてやる、おそらく唯一の者となろう。ただし、その権利を認めると同時に、われわれ自身にも一つの権利を、すなわち空しい言葉を語ったという権利を認めることになるにせよ。    

 バタイユの提起した問題は、現代の私たちに、今もなお深刻な問題として突きつけられている。

(苫野一徳)

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