ブローデル『文明の文法』(1)


はじめに

 20世紀歴史学の巨人、フェルナン・ブローデル。

 本書は、フランスのリセの高校生たちのために、1963年にブローデルが書いた世界史の教科書だ。

 と言っても、内容はそうやさしいものではない。全編を通してブローデル節が炸裂する、いわばブローデルによる世界史批評のような作品になっている。

 この第1巻で論じられるのは、イスラム世界ブラック・アフリカ極東アジアについて。

 第2巻では、ブローデルの専門のヨーロッパ、そしてアメリカが論じられることになる。 


1.文明とは何か

 本論に入る前に、ブローデルは、「文明」とは何か、「歴史学」とは何かという問いに、まず読者の注意を引きつける。


(1)「文明」とは何か

 この問いに答えるためには、地理学社会学経済集合心理学の力を借りる必要があると彼は言う。

 まずは地理学の観点から文明を捉えてみよう。

「文明は(その規模がどういうものであれ、大文明も中くらいの文明も)、つねに一枚の地図上に位置づけることができる。」

 当然のことだが、文明は、その地理的な条件に左右されて展開するのだ。

 中でもとりわけ重要なのが「交通」だ。

各文明が豊かになるのは、実り多い近隣関係から生まれる交流や衝突によるのである。

 続いて社会学の観点から文明を見てみよう。

「文明は、階層化された社会――つまり、集団間に大きな格差があり、したがって緊張関係が変化しやすく、社会的紛争や政治闘争がおこり、たえず変化してやまない社会――にその基盤をおいているのだ。」    

 「文明」の基盤は、「階層化された社会」にある。これもまた、「文明」について考える際に欠かせない観点だ。

 次に経済学の観点から。


「人間は、長いあいだ、人間が自由に使える唯一の道具、唯一の原動力であった。したがって、人間が物質文明の唯一の立役者であった。人間は全力をふりしぼって物質文明を建設したのである。」

 したがって、ここで重要なのは「人口増加」という観点だ。諸文明の発展は、つねに人口増加によってもたらされたのだ。

 しかし、続いて起こる人口の過剰は、やがてカタストロフィを生み出すことになる。経済成長が人口増加に追いつかなくなるからだ。

「そのような状況にたちいたると、いつの日かついには飢餓に加えて疫病が流行し、過密状態にある人間を間引くことになるのだった。」

 最後に、集合心理学の観点から。

「それぞれの時代において、社会全体に浸透し、社会全体を動かしているのは、世界と事物についてのある表象、つまり支配的な集合心性なのである。一社会の態度を決し、選択を方向づけ、偏見を根づかせ、動きに影響を与えるこうした心性は、すぐれて文明の一事象なのである。」    

 これは宗教に顕著だ。それぞれの文明には、それぞれのあるまとまった宗教心理、宗教精神を見出すことができる。これもまた、文明を考える時に欠かせない観点なのだ。

 こうしてブローデルは、文明を次のように定義する。

「文明は連続性、はてしない歴史的連続性なのである。」

 これだけではやや言葉足らずな感はあるが、ブローデルが言いたいのは、文明というのは、ある連続性をもった「構造」(長期持続)として立ち現れてくるものであるということだ。

 だからブローデルは、「文化」と「文明」を区別する。「文化」は、いわば短期持続の社会においても成立するものであるからだ。


(2)歴史学とは何か

 以上を踏まえて、ブローデルは歴史学の意義を次のように書く。

「一文明の歴史学とは、古い座標の中からこんにちもなお有効であるような座標を探究することである。これは、ギリシア文明や中国の中世に関して知りうることをすべて語るということではなく、そうしたかつての生から現代においてもなお西欧にも毛沢東の中国にも有効でありつづけるようなものすべてを語ることなのである。それによって過去と現在が時には何世紀もの時代をとびこえて直接結びつくようなものすべてを語ることなのである。」    

 過去の座標の中から、今日なお有効な座標を探究すること。それが歴史学の本質なのだ。

 もっとも、こうした長期持続の構造化という歴史学の仕事は、安易な歴史の一般化に陥る危険性も持っている。そうブローデルは言う。

「危険にもなりうる短所というのは、こういう歴史が、歴史哲学という一般化、つまり、歴史の認識や立証よりも歴史の捏造という安易な一般化に陥る可能性があるということである。」    

 ここで「歴史哲学という一般化」と言われているのは、おそらく暗にヘーゲル歴史哲学のことをさしている。ヘーゲルは、歴史とは「自由の展開である」というテーゼを掲げ、そこから歴史と未来を読み解いた(ヘーゲル『歴史哲学講義』のページ参照)。

 こうした「歴史哲学」には、その後ランケブルクハルトら歴史学者からの激しい批判が寄せられることになるが(ブルクハルト『世界史的考察』のページ参照)、ブローデルもまた、歴史を過度に一般化する「歴史哲学」には批判的なスタンスを取っていたのだろう。

 もっとも、私自身は、ヘーゲルの歴史哲学には今日なおきわめて重要な意義があると考えている。そのことについては、ヘーゲルの著作についての各紹介・解説ページを参照していただければと思う。


2.イスラム教とイスラム世界

(1)前イスラムの近東

 さて、以上の長い前置きに続いて、本書ではまずイスラムが取り上げられる。

 イスラムが世界史に登場するのは、7世紀。しかしそれは、それ以前の近東の悠久の歴史の上に成立したものである。

 近東は、前745年、アッシリ人たちによって統一されたのち、アケメネス朝ペルシアキュロスカンビュセスダレイオスによって、長い年月をかけて征服・統一された(前546〜前486年)。

 しかしその2世紀後、アケメネス朝はアレクサンドロス大王に屈し、崩壊する(前334年〜前331年)。ギリシア人の支配の始まりである。

 続いてこの世界を支配したのは、ローマ帝国である。しかし5世紀にローマ帝国が崩壊してビザンティン帝国がローマにとってかわると、ビザンティン、すなわちギリシア文明がこの地に再び興ることになる。

 近東は、このビザンティンの植民地となった。しかし近東の人びとは、この支配者たちを好きになることはなかった。

 前248年からは、アルサケス朝パルティア王国が、ついで226年からはササン朝ペルシアが、インダス河からシリアにまでおよぶ大国家を建設した。彼らは、ローマやビザンティンと激しい戦いを繰り広げた。

 しかし彼らはまた、西からやってくる文明をある程度受け入れもしたのだった。

 ローマのユスティニアヌス帝によって追放されたギリシア人哲学者たちは、大主とクテシフォンに避難所を見いだした。ビザンティン帝国に迫害されたキリスト教の異端、ネストリウス派は、イランを経由して中国に伝わったのだ。

 以上が、アラブの侵略者たちがやってくるまでの、近東の大まかな状況だった。ブローデルは言う。

「このためらいがちな近東、ギリシアの影響力と戦い、キリスト教に改宗し、たえざる激しい宗教的混乱に動揺する、この近東において、アラブによる初めての征服(634年〜642年)にさいしては、あっというまに共謀関係ができあがった。」

 シリア、エジプト、そしてペルシアまでもが、この新来者を受け入れた。

 これほどにもすばやく、イスラムが近東に浸透していったのはなぜだったのか。ブローデルは言う。

「きわめて古くから宗教的・精神的親縁性が存在したことこそを根本的に問題とすべきではないだろうか。〔中略〕イスラムの運命はいわばこの古い文明を新しい軌道のうえにおきなおし、それに新しい諧調をつけることになるのである。」


(2)ムハンマド(マホメット)とイスラムの猛攻

 マホメットの決定的な活動は、610年ないし612年から、その歿年の632年までのあいだに位置づけられる(ムハンマドとイスラムについての詳細は、エリアーデ『世界宗教史5』のページを参照)。

 この初期のイスラム教においては、信仰の中心は都市にあった。その後ベドウィンたちがイスラムの強力な戦闘力になっていくが、それにも長い時間がかかったのだった。

 こうしてイスラム教は、アラブ、北アフリカのベルベル人、モンゴル系トルコ人の間へと浸透していく。誤解を恐れず言うならば、この時期はイスラムこそが「世界史」だったのだ。

「アメリカが発見されるまで、イスラムは旧世界を支配し、当時のその「世界の歴史を律してきた。くりかえしいうが、イスラムだけが、旧世界のさまざまな文化圏、極東、ヨーロッパ、ブラック・アフリカという大文化圏を接触させることができたのである。イスラムが同意しなければ、あるいは少なくともイスラムが目をつぶるのでなければ、何も通りはしなかった。イスラムは媒介者だったのである。

 地中海、紅海、ペルシア湾、カスピ海、インド洋といった海もまた、かつてはイスラムのものだった。シンドバッドの冒険の舞台は、インド洋である。

「おそらくイスラムはかなり早い時期からキリスト教徒の海賊行為に遭遇していたであろう。〔中略〕世紀ころには、富める者はイスラムであり、海賊はキリスト教徒であった。

 しかし、まずは十字軍を経て、そしてその後1571年のレパントの海戦によって地中海の覇権を失うと、イスラムは海から徐々に姿を消していくことになる。


(3)イスラムの盛衰

 そこで次に、イスラムの盛衰について見ていくことにしよう。

 イスラムの絶頂期は、8〜12世紀のこと。その決定的な衰退は、18世紀、ヨーロッパが産業革命を通して、イスラムを大きく引き離す時に始まる。

 750年ごろ、イスラムは対外的限界に達した。イスラムの拡大・膨張が、そのころ外部からの反撃にあって阻まれたからである(718年のコンスタンティノープル包囲は失敗、732年もしくは733年とされるポワティエの戦いでのヨーロッパに対する敗北、マグリブであいついだ暴動など)。

 しかしそれが、逆に平穏状態をもたらし、イスラム社会は急速に経済成長を遂げていくことになる。

 820年ごろ、カリフの収入は、ビザンティン帝国の当時の年間収入の5倍にも上ったという。

「こうした莫大な富は、中国、インド、ペルシア湾、エチオピア、紅海、イフリーキーヤ、アンダルシアまで結びつきが広がった早咲きの商人資本主義がもたらしたものであった。

 資本主義という言葉を用いたが、これはそれほど時代錯誤ではない。世界に広がるイスラム領域の隅々にまで行きわたっていた商品投機は、まるで限度というものを知らなかったからである。」

 都市なくして交易なし。したがってイスラムには、バグダードをはじめとする巨大都市がいくつも建設された。

 こうした都市においては、コーランの言語と伝統的な詩を出発点として、いわゆる「文学語」のアラビア語がつくられ、あるいはつくりなおされた。

 これはキリスト教世界におけるラテン語のように、すべてのイスラムの国々における共通語となった。

 この言語が、文化の爆発的な発展をもたらすことになる。

「この言語という道具から、文化は実に大きなさまざまな利益を引きだすことになった。かの有名なハールーン・アッラシード〔『千夜一夜物語』に登場するアッバース朝全盛期を代表する第五代カリフ〕の息子マームーンは、膨大な数の外国語文献、とりわけギリシア語文献を、アラビア語に翻訳させたのである。そうして手が届くようになった知識の普及はきわめて速かった。イスラム世界には羊皮紙よりもずっと安価な紙が非常に早い時期から知られていただけに、なおさら迅速であった。」

 科学や医学も、この時期急速に進歩した。

 哲学も同様だ。哲学においては、古代ギリシアのアリストテレス哲学が復活し、イスラム教の人間解釈の基盤となった。

 イスラムの重要な哲学者は、アルキンディーアルファーラービーアビセンナアル・ガザーリーアベロエスの5人である。

 中でもアベロエスは、アリストテレスのギリシア語をアラビア語に翻訳し、詳細な註をつけ、自身の議論を書き加えた哲学者だが、これが13世紀になってラテン語に翻訳され、ヨーロッパで大革命を起こすことになる。

 イスラムの衰退は、12〜13世紀の十字軍、そして13〜14世紀のモンゴルの侵入によって徐々に始まっていく。さらにここに、当時の世界的な経済不況も重なった。

 しかし16世紀になると、世界的な好況が訪れ、イスラムもその恩恵にあずかることになる。

 1453年、オスマン・トルコはコンスタンティノープルを陥落させるが、その後16世紀には、トルコは地中海最大の強国の1つに数えられるようになるのだ。

 しかしその勢いも徐々に衰え、19世紀になると、トルコはヨーロッパに完敗を喫していくことになる。


(4)イスラムの今と明日

 今日、イスラム諸国は経済的困難の中にいる。避けがたい民族主義(汎アラブ主義)は、それゆえの現象だ。

 この民族主義は、古い社会構造を打破する原動力にはなるだろう。しかしその上でブローデルは言う。


「とはいえ、イスラムは、どんな犠牲を払ってでも近代化しなければならないし、こんにち世界中の生活の基礎となっている西洋さまざまな技術大部分をとりいれなければなない。

実際に、イスラム世界はみずからをとりまく現代世界をすでにもう受け入れているのであり、したがって、さらにいそう受け入れることは可能であろう。

 しかしイスラムの宗教的非寛容はどうか?これが、イスラムの近代化の遅れをもたらしているのではないか?

 これについて、ブローデルは次のように言う。

イスラムには宗教に関して他には見られないような非妥協的なところがある、柔軟性が絶対的に欠けている、とする見方があるが、これはイスラムには数多くの異端があることを忘れた意見である。

 すぐれた慧眼と言うべきだろう。


3.ブラック・アフリカ

(1)地理

 続いてブローデルが取り上げるのは、ブラック・アフリカ、すなわちサハラ砂漠以南のアフリカだ。

 まず地理の確認をしておこう。

「地中海沿岸からスーダンのサヘル地域〔サハラ砂漠南縁部〕までは、アフリカの住民は白色人種である。この白人アフリカにはおそらくエチオピアも加えなければならないだろう。エチオピアにはあきらかに白色人種の要素が入っており、これが融合して混血住民となっているからである。」

 さらに、中間アフリカとも言うべき東アフリカがある。

「その中心はエチオピアであり、北はナイル河流域地方(六番目の瀑布まで)まで、東は変化に富んだソマリアの砂漠まで、南はケニヤ、さらにはそれを越えて広がる、そういう地域である。これは、白人アフリカでもなく、ブラック・アフリカでもなく、同時にそのいずれでもあり、白人アフリカと同じく文字(したがって歴史)と文明をもった、中間アフリカである。その文明は、北の光り輝くさまざまな大中心地と結びつき、あきらかにアジアと地中海とヨーロッパの間をめぐる壮大な冒険のなかにくみこまれていた。」

 そうして、南アフリカがある。ここは白人によって支配された地域である。

 例外として、マダガスカルがある。

 マダガスカルの住民には、アフリカ大陸からやって来たバントゥー系黒人と、東方から数次にわたって波状的に到来したマレー系種族とがある。

 アフリカ大陸の西側は原生林である。ここには原始的なピグミーが住み、一種の避難所のようにもなっている。

 北や東では牧畜が行われていて、それゆえそれなりに豊かな土地である。

 民俗構成は大きく4つに分けられる。「未開のピグミー」「コイ=コイとサン」「スーダン人」「エチオピア人」の4つである。このうち、スーダン人とエチオピア人が二大グループをなしている。


(2)ニジェール川大湾曲部の諸帝国

 この大陸に最初の曙光がさしたのは、東岸部だった。

「こうした都市は、奴隷・象牙・金の交易によってかなりの大活況を呈した。〔中略〕。この交易はすべてモンスーンを利用してインドとの間でおこなわれ、インドからは鉄や綿花が運ばれてきた。」

 他方、ニジェール河大湾曲部にも帝国が栄えた。


 最初に創建されたのはーナ王国である。ヨーロッパではシャルルマーニュ(カール大帝)が活躍していた、800年頃のことだ。

 しかし首都ガーナは、イスラム教徒の攻撃をうけて、1077年占領され、破壊されることになる。

 続いて、イスラム教の影響を受けたリ帝国が登場する。さらに東方への新たなる進出は、ソンガイ帝国の繁栄をもたらした。

 しかしこれら諸帝国の栄光の時代も、ポルトガル人が新たな海路を発見してからは衰退してしまうことになる。


ポルトガル人によって海路が発見されてのち、黒人の国々の金は大西洋の方へと吸いよせられるようになり、サハラ砂漠の交易路は、消滅しないまでも、著しく衰退してしまったからである。


(3)奴隷貿易と植民地支配

 アフリカを語る際に、忘れてはならないのは奴隷貿易である。15世紀、16世紀は、奴隷貿易の世紀であったと言っても言いすぎではない。アフリカの黒人奴隷は、総数1400万人にものぼったと推計されている。

奴隷貿易という悪魔のような思いつきは、ヨーロッパが考えだしたものではなかった。奴隷貿易をはじめて大規模におこなったのはイスラムだったのである。〔中略〕しかし、人身売買そのものは、あらゆる未開民族にとって一般的なことであった。

 奴隷貿易とともに忘れてはならないのは、植民地支配の問題だ。ブローデルは言う。

「植民地化のゆゆしい問題は、アフリカをフランス領、イギリス領、ドイツ領、ベルギー領、ポルトガル領というように分割したということである。」

 さらに彼は続ける。

「さらに次のようなもっときびしい批判もできるだろう。すなわち、植民地化は、黒人たちに国際的かつ近代的な共通言語という有用な道具を与えるにさいして、ひどい仕業をおこなった、フランス語と英語という少なくとも二つの言語を与えてしまったのだ、と。なぜならば、言語というものは教育や思考習慣に大きな影響を与えるものであるから、フランス語と英語というこつの言語を与えられたアフリカは、再統一に努めようとしても、一方でフランスへ、他方でイギリスへというように、二分されてしまうおそれがあるからだ。」


4.極東(中国)

(1)植物の文明と専制的社会

 本第1巻最後で論じられるのは、極東アジアについて。

 まずブローデルは、この文明はもっぱら「植物の文明」であると言う。


「あるスペイン人は、一六〇九年に、日本人は野禽獣以外の肉は食べないと書いているし、あるドイツ人医師は、一六九〇年ころに、日本人はミルクもバターも知らないと記している。」
「中国人はいまでもまだあいかわらず菜食主義者である。その摂取カロリーの九八パーセントは植物性食物によるものなのだ。」

「この食生活において現在変貌をとげつつある唯一の国は、日本である。魚の消費量をけたはずれにのばし、とりわけ肉を食べるようになっているのである。」

 こうした食生活は、まず何よりも大きな人口増加をもたらすことになる。というのも、たった1ヘクタールの土地だけで、6人か8人の農民を養うことができるからだ。

 また、稲作の文明は、必然的に厳しい労働規律や服従規律をともなうことになる。歴史学者ヴィットフォーゲルも言うように(これには異論も数多く寄せられているが)、稲作こそが、専制的・官僚的体制を極東の人々にもたらしたのだ。

 ブローデルは、西洋と東洋の、次のような相違とその理由について述べている。


「集約農業が成功しているかぎり、極東の文明人が占有するのは空間のごく小さな部分にすぎない。残りの部分――とくに高地地方や、飛び地、島など――は未開の住民や未開文化の隠れ家となっているのである。

それとは逆に、西洋はきわめて早くから未開民族を同化することができた。〔中略〕キリスト教の教理を教えこみ、都市にまで連れだし、その活力をとりこんだのである。

極東においてはこのようなことは何もおこらなかった。西洋と極東のこの大きな差異こそが、中国においてあれほど多数の「中国化されない」民族が存在することを、そしてインドにおいてカスト制度とそれによる禁止との外部(いわばインド文明の外部)にあれほど多数の部族が存在することを説明してくれるのだ。

 またブローデルは、遊牧民たちの度重なる攻撃が、極東と西洋とのギャップを生み出した一つの要因だったのかと問う。

遊牧民たちの戦闘的な世界が膨張するたびに、中国とインドは、その首都にまでおよぶ甚大な被害をこうむることになった 。〔中略 そうなると、侵入者たる蛮族が大きく広がる西洋とのギャップの責任の過半を負わねばならないということになるのだろうか。       

 しかしブローデルは言う。確かにインドについては、そう言えるかもしれない。しかし極東の遅れを、すべてステップの侵入者のせいにしてしまうわけにはいかないだろう、と。


「西洋においては断絶と新しい文明の誕生とを意味した侵入は、中国とインドにおいては物質的な大破局をもたらすものとはなったが、しかし、それが中国とインドの思考形式や社会構造を真に変化させることにはならなかったのである。中国とインドにおいては、古代文明をギリシアからローマ、ローマからキリスト教世界へと向かわせたような飛躍にくらべられるようなもの、あるいは近東からイスラムへの移行にも比すべきようなものは、何一つとして一度もおこらなかったからである。

「極東は何世紀も何世紀もかつてと同じ状態にとどまりつづけたのだった。そのあいだに、世界の残りが見る見るうちに進歩し、日に日にますます極東をひきはなしていったのである。」


(2)宗教

 西洋では、人間的なものと神的なものとは厳しく区別されている。しかし中国では、これらは一体化されている。

 したがって、儀式を遵守すること、秩序を守ることは、神の秩序に従うことでもある。ブローデルは言う。

「そのようなところにおいてどうして改革をおこなたり間社会を問題にしたりすることができようか。」  

 さらに中国は、どのような宗教も吸収してしまう。

「最も重要で、最もとらえがたい最初の側面、それが中国の宗教生活という側面である。この宗教生活には明確な輪郭がなく、西洋の宗教も含めていくつかの体系を受け入れているが、そうした体系が相互に排除しあうということはない。」    

 儒教も、道教も、仏教も、中国は自らのうちに取り込んできたのだ。


(3)官人(マンダリン)の支配

 中国の専制政治においては、官人(マンダリン)が重要な位置を占めていた。ブローデルは言う。

「彼ら官人とは、中国社会の旧套墨守、事勿れ主義に大きな責任がある。というのも、彼らは、大土地所有者と小地主と貧しいがそれでも自分の貧弱な土地を所有した農民とのあいだの均衡を保ち、商人や金貸し、成金など、資本家といってもよい者たちを監視下においたからである。そうした商人たちは、そのような監視にも、また官人の威光そのものにも、屈服させられた。いずれいつの日か、富裕になった商人の子孫たちは、教養あふれる生活と権力の魅力に、そして、かの名高き選抜試験に、心を惹きつけられることになる。中国社会が資本主義体制に向けて西洋のようには発展しなかったということは、このように――少なくとも部分的には――説明されるだろう。中国社会は家父長主義と伝統主義の段階にとどまったのである。    

 官人の支配は、能力ある者を資本家へと育て上げることを阻んだのだ。

 また、その科学技術の遅れについては、次のように考えられる。

中国においては、技術が科の後につづかなかった。技術は足踏みをしたまま立ち止まったのである。そのいちばんの理由は、おそらく労働力の過剰であろう。中国は人間の労力を軽減するために機械を考えだすという必要がなかったのである。


(4)中国の今と明日

 中国は、1839年から1949年まで、列強からの屈辱を味わわされ続けた。

 これは中国にとってきわめて大きな経験だった。あの長らく変化することのなかった中国が、大きな変化を迫られたのだ。

「中国は長い試練の果てに、あ稀有な時期のひとつに遭遇しているわけである。すなわち、一文明が、自己を壊し、それまで自己にとって本質的であった構造のいくばくかを犠牲にすることによて、自己を新する、そういう稀有な時期である。中国にとってこの危機は、問題の構造何千年もつづいてきたものであるだけに、よりいっそう空前のものである。」

 しかしその上で、ブローデルは言う。

「それでもやはり、そうした構造の破壊は全面的なものとはならないだろうし、またなりえないであろう。そしてまたとりわけ、再建にあたても、中国はやはり自己固有の思考や感性の形式に忠実でありつづけるだろう。懐胎期にある新しい中国文明がくっきりと姿をあらわすには、おそらくまだ数十年を要するであろう。    


5.インド

(1)インドの3文明

 続いて、インドについて。


 インダス文明(紀元前3000年から紀元前1400年)を除けば、インドには3つの文明の変遷がある。

)紀元前1400年から7世紀までのインドーリア文明いわゆるヴェダ文明

中世ヒンドゥー文明(ヒンドゥー教)。これは先行文明を発展させて13世紀までつづく。

イスラム=ヒンドゥー文明。これはイスラムの征服者によって拘束衣のようにおしつけられたもので(13世紀〜18世紀)、このイスラムによる旺盛な楠民地化は延々とつづき、18世紀からはイギリスがそれをひきついでゆくことになる。

 ブローデルは言う。

こうした文明のうちいかなる文明も、また、そうした文明がかわるがわる担うことになった数々の「世的」大帝国のうちいかなる帝国、この亜大陸全体おおいつくすということはなかった。」

 ブローデルは、以下でヴェーダや仏教、ヒンドゥー教について解説していくが、これについても、詳細はエリアーデ『世界宗教史2』『世界宗教史4』のページを参照していただきたい。


(2)インドの今と明日


 イギリス領インドは、1757年のプラッシーの戦いから1947年インド独立まで続いた。

 その後インドとパキスタンとに分離すると、ヒンドゥーとイスラムの一致を見出そうとしたガンディーは、狂信的なヒンドゥー教徒に、それはヒンドゥー教の大義に背く行為だとして暗殺される。

 ガンディー亡き後、その非暴力主義は、インドの社会改革の原動力になっていない。と言うより、そもそもガンディー主義は、社会革命とはやや縁遠いものなのだ。

「こんにちのインドがガンディーよりはむしろネルーの方に傾いているということ、これはガンディーの弟子ヴィノーバ・バーヴェの挫折をとおして確認することができるだろう。」

 しかしこの挫折は、インドの近代化の目覚めであるとも言える。

「聖者のこの挫折〔中略〕、それはおそらく、疲弊した旧体制に抗する、合理的かつ近代的な真の解決を求めてのインドの目覚めなのであろう。」


6.インドシナ、インドネシア、フィリピン、朝鮮、日本

 最後に、インドシナ、インドネシア、フィリピン、朝鮮、日本について。


(1)インドシナとインドネシア

 まず、インドシナの歴史を読み解くためには、中国、インド、イスラム、ヨーロッパの、4つの勢力の影響を理解する必要がある。


 次にインドネシア。

 インドネシアにおいては、最初に王国が建てられたのはスマトラ島だったが、最も重要で最も強力な王国が栄えたのはジャワ島だった。
 
 そしてついに13世紀末には、ひとつの「全体的な」ヒンドゥー帝国、すなわちマジャパイト帝国が登場する。

 しかし15世紀にはイスラムに支配され、その後は16世紀ポルトガル、17世紀オランダに支配されることになる。

 1942年、日本軍が上陸するが、日本の敗戦後、オランダはインドネシアに対する主権を放棄した。しかしインドネシア人は、今なおオランダへの憎悪を忘れてはいない。

 インドネシアには、きわめて多数の民族がいる。そのため、共通語としての「マレー語」がつくられた。

 オランダ語は、インドにおける英語のようにはインドネシアでは浸透しなかった。それは、インドネシアの人びとを支配し続けたいと考えたオランダ人が、オランダ語の教育をしなかったからである。


(2)フィリピン


 フィリピンには、新石器時代から人間が住んでいた。鉄器製造も、紀元前数世紀も前から知られていた。

 やがてマジャパイト帝国の最盛期には、フィリピンはこのインド=マレー文明のなかにくみこまれた。

 15世紀には、大きなミンダナオ島にイスラムがあらわれた。16世紀には、スペイン人がフィリピン群島を発見し、スペインの支配下に入る。そして19世紀末にはアメリカの支配が始まった。その独立は、1946年のことである。


(3)朝鮮


 新羅、高句麗、百済の三王国のはるか昔(紀元前1世紀から7世紀)は、中国文明の伝播による半島征服の歴史でもあった。

 この3つの王国は、50年たらずの間に次々と登場してきた。

 三国のうちで最も武力に長けた新羅は、他の二国に打ち勝ち、668から935年にかけて朝鮮全体を支配下においた。おそらく唐の栄華の輝きを映すようにして、新羅は繁栄を誇ったのだろう。

 大新羅の崩壊後、再統一がなされ、新しい統一国家が出現した。これが高麗(913〜1392年)である。

 しかし、モンゴル族の中国が朝鮮攻略に成功し、1259年から1368年まで、1世紀以上ものあいだ朝鮮を支配することになった。

 朝鮮は独立を回復すると、最後の王朝の統治時代に入った。これが1910年の日本の朝鮮占領まで存続する李朝である。

 戦後、朝鮮は周知のように南北に分断された。


(4)日本

 最後に、日本。


 日本の工業化は、ひとつの奇跡だった。

「というのも、工業化が突然におこったこと、とりわけその途方もない成功は、経済学者たちの通常の考察だけでは説明しきれないものだからである。」

 その理由を、ブローデルは次のように述べている。

それはおそらく次のようなさまざまな理由によるものであろう。まず、日本社会が規律正しい統制社会であったということ。〔中略〕この従順で位階制を尊重する社会は、ほんの一握りの人間にしか贅沢が許されていないことを、不平もいわずにずっと受け入れてきたのである。」

 1942年の戦争が始まるまで、多くともせいぜい15家族が日本の総資本の80パーセント以上を握っていた。すなわち、三井三菱住友安田などの財閥である。

 もっとも、皇室はこうした大富豪一族よりもはるかに抜きんでて富裕であったという。

 戦後、アメリカ占領軍当局はトラストの復活を許可した。そのことで、いくつもの大企業が誕生することになったのだ。

 これが、日本の経済成長の1つの大きな要因となったのだった。




(苫野一徳)

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