ブローデル『物質文明・経済・資本主義(3)—世界時間②』


はじめに


 ブローデル歴史学の集大成、ついに完結。

 前巻で、イタリア、オランダ、イギリスへと世界=経済の中心が移行していく様を見たが、本巻では、15〜18世紀を中心とした、ヨーロッパ以外の世界=経済について、そしてまた、長いプロローグを伴った産業革命についてが語られる。

 本巻の最後には、今後の世界=経済のブローデルなりの見通しが示される。

 今日なお、世界は「資本主義」一色に染まっているわけではない。これまでつぶさに見てきたように、経済は常に、物質文明市場経済資本主義という三階建ての構造を持っているからだ。

 資本主義が死滅することはないだろう。ブローデルはそのように言う。

 しかしそれでもなお、この特権的な資本主義の問題は、何とかして克服されなければならない。

 そのためには、経済の一階部分(物質文明)と二階部分(市場経済)を、三階部分(資本主義)と共存させることが必要だ。

 ブローデルが明示した課題に、後世のわたしたちはどう答えていくことができるだろうか。


1.南北アメリカ大陸

 16〜17世紀、先住民インディオが激減したのちのアメリカ大陸には、アフリカから大量の黒人奴隷が連れてこられた。

 彼らは頑健で、1人でインディオ4人分の働きをすると言われた。

 さて、このアメリカ大陸の植民地支配者たちは、本国に奉仕するよう義務づけられていた。

 しかしやがて、植民地は独自にその富を蓄積するようになる。本国への反発の時は近づいていた。

 最初の反発は、1773年の有名なボストン茶会事件である。周知のように、その後北米はイギリスから独立することになる。

 一方の南アメリカは、いつまでもヨーロッパに従属することになる。1822年、および1824年ごろから、スペインやポルトガルからの独立が達成されたが、その後見には常にイギリスが立ち、さらに1940年以降は、アメリカ合衆国がイギリスに取って代わったのである。

「世界=経済の域内での縁辺化という観念を採用しよう。つまり、他人に奉仕させられながら、有無を言わさぬ国際的分業によっておとなしく任務を指示される身分に落とされたのである。」    

 なぜ南米はそのような運命を辿ることになってしまったのか?

 1つめの理由は、ブラジルにせよスペイン領アメリカにせよ、海洋国ではなかったという点にある。それゆえ通商に出ていくことができず、ヨーロッパに搾取される立場になった。

 もう1点、南米には金銀が埋もれていたことにある。

「ヨーロッパがアメリカ大陸の金銀を断念するわけがなかったではないか。

 それにしても、この地では、なぜこれほどにも大量の奴隷売買が可能だったのだろうか?

 実を言うと、アフリカ大陸における奴隷売買は、ヨーロッパが介入する以前から習慣化されていた。

「アフリカで人身売買が行われていたのは、いかにもヨーロッパがそれを望んで強制したからである。しかしそれはまた、アフリカにはヨーロッパ人到来のはるか以前から、イスラム圏、地中海・インド洋方面に奴隷を売り出すという、例のよからぬ習慣があったからでもある。」    

 しかしそれにしても、ヨーロッパ人による奴隷売買は桁違いの規模で行われたものだった。ヨーロッパ人の非道の責任を棚上げするわけではないが、と前置きした上で、ブローデルはその理由を次のように言う。

わたしの感じでは、これだけの売買記録が可能だったのは、つきつめて分析するに、黒人大陸が自明なまでに生物学的生命力に溢れていたという理由によるとしか考えられない。    


2.ロシア

(1)農奴制のはじまり

 続いて、ロシアの「世界=経済」について。

 ロシアは、13世紀前半から3世紀にわたって、いわゆる「タタールのくびき」、すなわちモンゴルの支配下にあった。

 このくびきを打ち払ったのち、モスクワ大公国のイワン雷帝は、旧貴族階級を排除し、自分に奉仕する新貴族を作り出した。

それが《pomechtchikiの貴族であって、雷帝は彼らに、旧貴族か没収した土地や彼が放棄した土地を、あるいはさらに無人の空白地を終身の資格で払い下げた。そして新《貴族》は、何人かの農民、ひいては何人かの奴隷とともに〈南〉の草原を開発していったのである。    

 これが、ロシアにおける農奴制のきっかけとなった。

 新貴族に支配された農民たちには、その支配から逃げることも合法的に許されていた。

 しかしそのために、領主社会の根底は崩れそうになる。

 そこでついに、この移動の自由は禁止されてしまうことになる。

「一五八〇年にイワン四世の政令が出て、とりあえずいっさいの移動の自由を《臨時に》 停止した。〔中略〕最後に行き着いたのが一六四九年の法典であって、これはすくなくとも理論的には不退転の決定であった。」    

 こうして、ロシアでは農奴制が強固なものとなる。

 しかしその一方で、実は農民は市場に近づける可能性があった。というのも、農民の地代は、金銭で支払われる傾向が強まっていったからである。


「逃げ口があったのは事実であり、隷従が不思議な自由と同居していた。ロシアの農奴はパートタイムでか、それともフルタイムでか、私用の職人仕事に従事する許可を頻繁にもらえた。そんなとき、彼は自分の労働の所産を自分で売るのであった。〔中略〕やはりよくあったことだが、農民が主人から旅券を出してもらって、自分の村から遠く離れたところで商工業の仕事に就いたりもした。」

    もちろん一部に限られていたが、中には農奴にして成金のような者も現れることになった。つまり農奴は、「地域の経済との接触を失うことなく、暮らしを立てながら一旗揚げる可能性をそこに見いだしていたのである。


(2)シベリアの掌握

 1637年、モスクワにシベリア庁が創設されるとともに、ロシアのシベリア掌握は確固たるものとなった。


 シベリアの産出物は、「やわらかい金」と呼ばれた大量毛皮だった。密輸も多かったが、国家はこれを厳重に管理した。

 しかし1730年代以降、北アメリカの安い毛皮の登場とともに、シベリアは衰退する。

 代わりに発展したのは、鉱山だった。しかしそのために、ここでは大勢の土着民が強制的に労働させられることになったのだった。


(3)ロシア世界=経済の弱さ

 ロシアの経済は、中国、イスラム商人、ヨーロッパ商人の前に、その脆弱さを露呈し続けた。

 中国については、ネルチンスク条約(1689年)により、アムール河流域におけるロシアの拡張が阻止された。

 ピョートル大帝によってロシアは開かれるが、これは逆に言うと、ヨーロッパの侵入を招き入れることでもあった。

「とりわけサンクト・ペテルブルク建設――おかげでロシア経済の重心が移動し――により、たしかにバルト海およびヨパへの窓ないは玄関が開かれはしたところがこの玄関か、ロシアが国外へ出やすくなった一方、逆にヨーロッパはロシアといに踏み込みやすくなて、その交換にあたて自分たちの分け前を広げることで、ロシアの市場を征服し、これを自分たちに有利に整備し、できるかぎり方向転換を行わせた。」

 ヨーロッパの侵入は、いつもの手で行われた。


「なによりもまず、信用を柔軟に用い――前金で買い――そして現金という決定打を加えた

ヨーロッパの商人たちは、レヴァントの寄港地やインド諸国においてと同じく、ロシアでも《貨流失》を受け入れた。得られた結果は同様で、ロシア市場を徐々に制圧していったのである。真利潤は帰港してから西ヨーロッパで商品を再配分したり転売したりしたときにものにする、という仕掛けである。」

 ロシアの市場は、こうしてヨーロッパの貨幣によって支配されていくことになる。

 しかしこの貨幣がまた、ロシアの近代化を押し上げることにもなったのである。


3.トルコ

 次にオスマン・トルコを見てみよう。

 15世紀末のアメリカ大陸の発見と喜望峰航路の発見により、トルコはヨーロッパに遅れを取り始めるようになる。

 そして1571年、トルコはレパントの海戦に敗北する。

 しかし18世紀になっても、トルコの世界=経済は衰えを見せはしなかった。

 ラクダによる隊商は、今なおその力を誇っていたのだ。

 しかし19世紀初頭に入ると、さしものトルコも衰えを見せ始める。ブローデルは言う。

最終的に帝国に打ち勝つこととなったのは産業革命であった。    


4.極東

(1)3つの経済圏

 続いて、極東の世界=経済について。

 これはもともと、三つの経済圏からなっていた。すなわち、イスラム圏、インド、中国である。

 しかし15〜18世紀には、極東はインドを中心に、東(中国)と西(イスラム圏)がシーソーのように位置する、巨大な単一の世界=経済であった。

 ここへ、ヨーロッパが第4の世界=経済として闖入してくることになる。

 インドについては、これは「自分から征服されてしまった」ようであった。

 ヨーロッパ人たちは、自分たちのために働く、セポイという現地人部隊を調達することができた。

「同様にして、商社が事業を始めると、極東の人たちはそのただなかに群れをなして顔を出した。ヨーロッパ人のもとへ、何千人もの現地の仲買人が押しかけて、無理にでも使ってもらおうとした。」    

 先述したロシアにおいてと同様、ヨーロッパは、貨幣によって極東の市場を支配するようになる。

「とりわけ中国とインドとは、すでに何度となく語られてきたとおり世界を流通する貴金属のための墳墓となった。金銀はこの両国に入ったきり、もう出て行かなかった〔中略〕ーロッパはこの点でアジアよりも弱かったと考えたがる向きもあるが、わたしはと、すでに語ったとおり、ヨーロッパ人はこをしばしば手段にしたのだと見ている。つまりアジアばかりか他の土地、さらにヨロッパ内部においてさえも、金銀を挺子にして、とりわけ利益の高い市場を開かせたのである。そて十六世紀にはアメリカ大陸が発見されて〈新世界〉の鉱山が躍進したおかげでこの手段は未曾有の規模を帯びるにいたったのである。    


(2)ムガル帝国の衰退

 インドのムガル帝国は、18世紀ごろから衰退を見せ始める。

 そもそもこの帝国は、もともと傭兵隊長だった貴族(オメラー)たちの行動によって建国された国だった。

 しかし彼らは、皇帝の絶大な力のもとに治められていた。

オメラ》は日に回皇帝のご機嫌伺いをしたヴェルサイユでと同様、阿諛は絶対に必要であった    

 しかし、そもそも出自が傭兵隊長である彼ら貴族(封建領主)は、結局は自分の利益のことしか考えない連中だった。

 ムガル帝国においては、その強大な皇帝の命令により、与えられた領地は世襲することができなかった。が、貴族たちはやがてこれをかすめ取ろうと考えるようになる。

「ムガル帝国の終身貴族のなかには、彼らが死ぬときに法的には皇帝に返還すべき土地から個人財産の一部を掠め取ろうと努める者が出てきた。同時期のトルコ帝国でも見られたことだが、みずからの終身財産を世襲所有地に変えてしまうことさえあった。体制の腐敗のもうひとつの兆候として、すでに十七世紀中葉に見られたことだが、皇族の男女、ハーレムの女たち、領主たちが実業に身を投じたのであった。」    

 ムガル帝国は、19世紀には明らかに衰退する。もっともその経済においては、フッガー家に匹敵するほどの大商人もいた。「ある種の資本主義がムガル帝国のシステムの一部をなしていたのである。」

 しかしそれでも、インドの経済は衰退していく。

 内的理由としては、全世界が、インドのきわめて高い技術力で作られたとりわけ織物を求めていたが、インドにはその需要を担うのに十分な、何百万という職人がいたことが挙げられる。

 万事うまく行っているのだから、そのままでよい、というわけだ。

 逆に、そこから刺激を受けたのは脅かされたヨーロッパ産業だった。

イギリスは手始めに十八世紀の大部分をつうじて国境からインド織物を閉め出し、これをアメリカ大陸とヨロッパとに再輸出した。そのあとイギリスは、こうまでうまい汁が吸えるのだから、この市場をわがものにしようと努めた労働力を徹底的に節約する以外に、そうする道はありえなかった機械革命が木綿産業から始まったのは偶然であろうか    

 外的理由としては、当然、イギリスがインドの資源を奪い去ったことが挙げられる。

「イギリス人はインドとその資源とを奪た、と語るだけでは言い足りない。彼らはインドという道に入れたおかげで、インドよりもさらに広い空間掌握アジア超世界経済を支配した。    


(3)東南アジア諸島

 極東の世界=経済においてとりわけ重要なのが、その中央に位置する東南アジア諸島である。

 ここには、まず紀元最初のころのインド、続いて中国が5世紀ごろに侵入をした。

 交易の十字路になった東南アジア諸島では、まず7〜13世紀にスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国が、ついで13〜15世紀に、ジャワ島のマジャパヒト帝国が発展した。

 しかし東南アジア諸島に中心をおいた世界=経済ができあがるのは、1402年に建国され、1511年にポルトガルに支配されるまでの、マラッカにおいてである。

 それにはまず地理的優位さがあった。

マラッカはたんに二つの大洋の合わさる地点であるばかりか、通りの大気の流れ、すなわち風帯がそこで出たのである。すなわち、西にはインド洋の季節風帯、南と東には貿易風帯があった。〔中略〕そのおかげで船舶は、あいついで貿易風に向かったり季節風に向かったりしながら自由に航行できるのである。

 マラッカは、インドと通商するようになってますます発展していくことになる。

 もっとも、前巻で見た16世紀におけるアンヴェルスがそうだったように、マラッカもまた、その力によって繁栄したというよりは、インドのおかげで繁栄したというべき国だった(アンヴェルスの繁栄はポルトガルのおかげだった)。

 さて、マラッカは、1511年アルフォンソ・デ・アルブケルケ率いる小艦隊によって征服される。そしてさらに1641年、オランダがこの国を奪取する。

 オランダは、マラッカをたちまち二流以下の役割に引き落とした。

 代わりに台頭したのが、バタヴィアである。

「新興都市バタヴィアはオランダの優位の輝かしい象徴であった。」

 しかし早くも18世紀初頭には、オランダの優位も影を見せ始める。

 代わりに台頭するのは、イギリス。それゆえ極東の中心地も、インドのカリカットへと移行していくことになる。


5.産業革命

(1)産業革命の条件

 いよいよ、産業革命について。

 ブローデルはまず次のように言う。

ギリスがその革命に成功したのは、それが世界の中心に位置し、世界の中心そのものだったからである。」

 今日、多くの途上国がまだ産業化を成し遂げられていないが、それは経済的に縁辺化されてしまっているからである。

「〈第三世界〉が進歩したければ、世界の現今の秩序をなんらかの仕方で叩き壊すほかないのである。」

 このことを傍証するために、ブローデルは、産業革命以前に見られた、いわば叶わなかった産業革命について述べる。

 まずは、何と紀元前100年から50年ごろの、プトレマイオス朝エジプトについて。

 このころ、すでに蒸気による機械が発明されていた。

「それは一種の蒸気タービンで、玩具ではあったが、遠くから神殿の重い扉を開閉する力のある機械仕掛けを働かせた。」    

 しかし、この発明はそれ以上進歩することがなかった。

 最大の理由は、奴隷の存在だろう。この大量の労働力が、技術の進歩の必要を生み出さなかったのだ。

 しかしもう1点、ブローデルは次のような理由を挙げる。

「これらの発明の直後に続いたロマによる征服にも、それなりの責任があったのではあるまいか。ヘレニズムの経済と社会とは数世紀にわたって世界に向かって開かれていた。ロマはそれとは逆に、地中海の枠のなかに閉じこもって、カルタゴを破壊し、ギリシア、エジプト、オリエントを服従させることによって、外界へ抜け出てゆく道を三度も塞いだのであった。〔中略〕言い換えれば産業革命というものは、開かれた世界経済のただなかでしか起こりえないのではなかろうか    

 次に、第1次ヨーロッパ産業革命について。

 第2巻でも見たように、11〜13世紀、ヨーロッパは、馬を使った農耕と、水車という技術革新を成し遂げた。

 しかし、ペストを象徴とする14世紀の危機の中で、それ以上の進歩は止まってしまう。

 その理由は、この危機の中における封建社会の混乱にある。社会が無秩序に陥ると、技術革新どころではなくなってしまうのだ。

 次に挙げられるのは、この危機のあとに起こったドイツの産業発展。

 ドイツはそれまで二流地帯だったが、金・銀・銅・錫・コバルト・鉄などの鉱石採掘につれて、一連の技術革新が生じることになる。

「この時代にしては巨大だった装置を設置して、浸み出してくる水を汲み上げたり、鉱石を運び上げたりするようになったのである。」

 ブローデルは、この頃のドイツの産業発展に、イギリスの産業発展のプロローグが見られるのではないかと言う。

のちにイギリスはこうした実現を模倣することになるのだが、そのなかに後代の〈産業革命〉の真のプロログを見てとるのは、心を惹くことではなかろうか。

 このドイツの発展は、商業をも発展させ、「フッガー家の世紀」が到来することになる。

 しかしこの発展も、アメリカ大陸の大量の銀の到来によって終わりを告げる。

 ドイツで産業革命が起こらなかったのもまた、ドイツがいまだ二流地帯であったからである。

「ドイツ経済が二流だったのは、それが従属的な地位にあって、時のヨーロッパ経済の真の中心地だったヴェネツィアやアンヴェルスの需要と関連して築かれたことにあたのではなかろうか。 」

 さらにブローデルは、1450年ごろからのミラノの科学的・技術的進歩について述べる。

 しかしこれもまた、産業革命には結びつかなかった。やはりミラノは、世界=経済の中心にはいなかったからである。

ミラノの不幸は、なによりもヴェネツィアに近すぎて、しかもヴェネツィアと覇権を争うには遠く及ばなかったことにあるのではないか。〔中略〕おそらくミラノの失敗から立証できるのは、産業革命を地球的規模の現象として見るなら、それはただただ内部から経済のさまざまの分野の調和した発展のみによって築きうるものではなかったのだろう、ということではあるまいか。それはまた、必要不可欠な条件として、対外市場の支配によっても支えられなくてはならなかった。十五世紀には、すでに見たとおり覇権を握っていたのはヴェネツィアであり、さらにスペイン方面について言うとジェノヴァであった。    

 ではイギリスはどうだったのか?

 16世紀、イギリスは後進国だった。しかし17世紀には、第1次産業革命(ジョン・U・ネフ)と呼ぶべき現象が見られた。

 なぜイギリスだったのか?

 ブローデルによれば、それはまず、木材の減少に伴って、石炭利用が高まったことによる。その採掘技術を、イギリスは先述したドイツの鉱夫たちから教わったのだ。

 さらに、イギリスの河川は流れがあまりに遅かったので、迂回路を作って水車に水を落とさなければならなかった。

 そのため、その動力としての蒸気の研究が盛んになった。

 こうしてブローデルは次のように言う。

「イギリスの〈革命〉は、十八世紀に確固たるものとなるのだが、十六世紀にはすでに開始していたのであり、そのあと段階を踏んで進行していったのであった、と。そしてこの説明の教訓を覚えておかなくてはならない。」    

 産業革命は、一夜にして起こったものではないのだ。

 ブローデルはさらに言う。

しかしヨロッパについても、同様なことが言えるのではなかろうか。ヨロッパでは十一世紀以来、幾多の経験があいつぎ、たがいに連係し、そしていわば蓄積していったのではないか〔中略〕イギリスの役割がいかに華やかで決定的だったにせよ、この国が〈産業革命〉を実現したのは事実だが、イギリスだけがその担い手でありその発明者だったわけではないそれにまさにそれだからこそ、この革命定着するとすぐ、決定的成功を収めないうちから近隣のヨーロッパになんの苦もなく波及し、てそのまずまずの速度でつぎからつぎと成功を収めていたのであった。    

 ヨーロッパ各国が、産業革命を準備していたのである。


(2)農業の進歩

 産業革命の条件には、農業の進歩もまたあった。そのおかげで、産業化して増大した人口を養うことができたのだ。

 ではこの農業の進歩はなぜ起こったのか?

 それにはまず広大な農地を必要とする。そしてそのためには、古い領主体制が破壊されていなければならない。

 イギリスでは、その改革がすでに終わっていた。


「大地主はすでに年金生活者となってい自分の土地を社会的威信の道具とみなすとともに生産ともみなしていたから、これを有能な小作農に委ねるほうが有利であった。

このような経路を辿って、あるいは《enclosuresシステム――これによって共有地は廃止され、再配分が容易になった――を辿って、適応性がより高くて生産性優れた大土地所有がすこしずつ農地を結集していき、地主貴族、大型の《マン》、小作農がそこか利益を得た。」

 これはフランスとは正反対のことだった。

フランスでは所有地の資本主義中がわずかに輪郭を見せかけていたおりもおり一七八九年八月四日の夜〔議会が封建的諸特権の廃止を決定した〕《封建》挙に崩壊してしまったそのとき、土地は農と有産市民とのあいだで取り返しようもなく細分化されたのであった。


(3)木綿革命、鉄の革命、通商革命

 産業革命の発端は、先述したようにインドの織物に対抗して起こった木綿革命にある。

 機械によって、イギリスはインドの職人たちに打ち勝ったのだ。

 続いて起こったのが、鉄道、蒸気船などの鉄の革命だ。

 この膨大な資本を必要とする革命の元手になったものこそ、木綿革命で得られた資本であった。

「ひとつのサイクルがつぎのサイクルを押し出したのである。」    

 さらに通商革命がある。

スが自分の島の外側で盛運を享受できたのは、非常に広い商業帝国を作りあげたからである。すなわち、英国経済が世界一の、もっとも広大な交換単位に向かって――カリブ海からインドまで、中国まで、そしてアフリカ海岸まで……――開かれていたからである。    

 ちなみに、もう1点忘れてはならない要因として、「国民市場」が充実していたということもある。


(4)苦しい労働者

 農民や職人たちは、もともとは家族で仕事を営んでいた。それゆえ工場ができた時、家族まるごとそこで働くようになったのも当然のことだった。

 しかし機械化によってすべては変わる。

「そのとき工場内部での家族のまとまりが消滅して、児童労働にまるきり別の文脈と意味とが与えられたのである。」    

 さらに労働者は、かつては有していた農村での副収入を失い、固定した労働時間を受け入れるようになる。

 こうして、追いつめられた労働者たちの運動が頻発することになる。

「あの一八一五年一八四五年の歳月ほど、イギリスで社会的不満が深刻だった時期はない。その時期には、機械を打ち壊したラッダイト運動とか、できればすすんで社会破壊に乗り出したい政治的急進主義とか、労働組合運動とか、ひいてはユートピア社会主義とか、数々の運動があいついで出現したのであった。」    


(5)実業家の登場

 分業は社会の上層部においても起こった。商人や銀行家等とは分離された、実業家の登場である。


「それまでの通則としては、イギリスでも大陸でも、主要な任務は分割されることがなかった。卸売り商人はすべてをその手中に握っていた。つまり、同時に商人であり、銀行家であり、保険業者であり、船主であり、実業家等々であった。」

「しかし十八世紀末期から十九世紀にかけて、《実業家》という、以前にはいなかった、新しい、活動的な人物が現れて、〔中略〕政界に、それも下院そのものに登場することとなる。」


6.結論

 以上、15〜18世紀の物質文明・市場経済・資本主義を描き出したブローデルは、次のように本書の結論を述べる。

 まず、資本主義とは、ある時期に突然出てきたものではないのだということ。

 それは、16世紀や18世紀になって現れたものではない。たとえば、インドが1世紀頃に東南アジア諸島を掌握した時から、あるいはローマが拡大した時から、さらに、中国が9世紀に紙幣を発明した時から、西ヨーロッパが11〜13世紀にかけて地中海を再征服した時から、いわば潜在的資本主義として脈々と存在していたのである。

 それゆえ、通説のように、資本主義は、商業資本主義、産業資本主義、金融資本主義へと展開していったというのも誤りである。

 いつの時代にも、いくつかの資本主義が共存していたのである。

 さて、この資本主義は、これからもまだその威力を発揮し続けるのだろうか?

 ブローデルは言う。1970年代、資本主義は1つのピークを迎え、衰退を見せ始めている(明言はされていないが、石油危機のことを指していると思われる)。


「しかしシステムとしての資本主義は、この危機を乗り越えて生き延びる確率がおおいに高い経済的に語るなら(イデオロギー的とは言わない)、それはここか脱出するときには強化されているばあいすらありうる。」

 なぜか?ブローデルは言う。

「前産業時代のヨーロッパにおいて、ふつう危機の役割がどのようであったかは、すでに見たところである。小企業(資本主義の尺度から見て小さい企業)、経済の好況に浮かれていた時期に創設された脆弱な企業、あるいは逆に、老化した企業を消滅させるのである。――つまり競争を軽減することで、激化させることではなく、また経済活動の大部分を数人の手のなかに集中させることである。この見地から見ると、今日なお、なにひとつ変わってはいない。一国の水準でも国際的水準でも《新規まき直し》してカードの配り直しが行われているが、ただしそれは強者が得をするためなのである。」

 危機の時代に生き残るのは、いつの時代も強者なのである。そして彼らは、自分の都合のいいように再びカードを配り直すのだ。

 革命はおそらく不可能である。なぜなら資本主義は、国家や文化と癒着しており、したがってもしも革命を起こすのであれば、金銭の階層制度ばかりでなく、〈国家〉の階層制度ばかりでなく、もろもろの社会的特権ばかりでなく、さらにまた過去と文化との不揃いな重荷をも打倒しなくては」ならないだろうから。

 それに、たとえこれらすべてを打倒したとして、なおそこに人びとの「自由」を担保しうるシステムを作り出すことができるだろうか?

 それゆえブローデルは、資本主義の打倒は不可能だと考える。

 代わりに何を考えるべきか?

 それは、経済を資本主義一色に染めるのではなく、これまで述べてきた「物質文明」「市場経済」という、経済の1階部分と2階部分を守ることにある。

 2階部分の好例として、ブローデルはフィレンツェの「プラト」を挙げる。


「フィレンツェに近い繊維業界の大中心地であるプラ卜は、わたしの知るかぎり最高の好例である。こく小さい企業からなるまことのポリープ母体と言ってよい。活力があって、その労働力はどんな任務にも、また必要などんな変化にも適応することができ、流行や重合局面の流れにすぐさま乗ってゆき、しかもときとして一種の《フェアラークスジュステーム》〔問屋システム〕を想起させる旧式の慣行を保った企業群なのである。イタリアでは大規模な繊維会社は現今の景気後退に軒並み喘いでいるのに、プラトはいまなお完全雇用を行っている。」

 経済は、そもそも資本主義一色ではあり得ないのだ。

 しかし今日、政府はこうした小企業を取り潰そうとしている。

「第二次世界大戦以来、ヨーロッパのいくつかの国では、ニューヨークでもそうだが小企業排除を狙った政策を意識的に実行してきた。小企業を、経済の立ち遅れの残存ないしは兆候とみなしたからである。」    


「その一方で、銀行は上からの指示により、弱小企業への貸し付けを締めつけている。――その結果、小企業は細々と生きながらえるか、また消滅するかせざるをえない。」


 「これ以上に危険な政策はない」とブローデルは言う。

 最後の最後に、ブローデルは言う。

 今日の難点、それは、国際的にも国内的にも、支配グループが、ゲームの親であることを降りないことにある、と。

 この問題を解決し、独占的な資本主義を、フェアで透明な市場経済といかに共存させていくか。

 ここに、ブローデルが後世のわたしたちに託した課題がある。




(苫野一徳)

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