アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』



はじめに

 「懐疑主義」は、哲学史上あらゆる場所・時代に登場した。

 本書が取り扱う古代ギリシアしかり、古代インド、古代中国、そしてまた、現代哲学にもその発展系がある(たとえば、大乗仏典『認識と論理』のページなどを参照。現代においては、デリダ『声と現象』などのページを参照に挙げておきたい)。

 古代ギリシアにおける3大懐疑主義者は、ピュロン(前4〜3世紀)、アルケシラオス(前4〜3世紀)、アイネシデモス(前1世紀)(右絵)。

 本書は、古代哲学の権威アナスとバーンズが、アイネシデモスが体系化したとされる「判断保留の十の方式」を紹介するものだ。

 この十の方式は、2世紀のセクストスという哲学者が、『ピュロン主義哲学の概要』という本を出版して広く知られるようになった。

 もっとも、当時この本はほとんど注目されることがなかった。しかし、セクストスの死後1400年、この本はヨーロッパで「再発見」され、突如として脚光を浴びることになった。デカルトヒュームカントら、近代哲学者たちに与えた影響はきわめて大きい。

 以下に紹介する懐疑主義の言葉は、主にこのセクストスの著書から引用している。


 わたしの考えでは、どの時代、どの場所においても、懐疑主義の論法はまったく変わらない。

 ひと言で言うなら、それは「帰謬論法」。つまり、相手の主張は「絶対に正しいとは言えない」と言い続ける論法だ。

 「これこそが絶対に正しい」と言い立てる思想に対して、懐疑主義は一定の意義をもつ。絶対の真理を掲げる思想は、きわめて危険な思想になりうるからだ。

 しかし帰謬論法は、相手をただ否定するだけの論法だ。「それも正しいとは言えない」「それも思い込みの可能性がある」。ただそう言い続けるだけだ。

 しかしすぐれた哲学は、必ず、絶対の真理などないことを踏まえた上で、わたしたちはなお何を主張し了解し合えるかと問う。

 哲学を大きく展開し、哲学史に残ったのは、帰謬論法(懐疑主義・相対主義)を徹底的に反駁しこれを乗り越えた哲学者たちなのだ。

 その最上位にいるのが、わたしの考えではフッサール現象学だ。帰謬論に対する反駁とその乗り越えを、フッサールがどのように成し遂げたかについては、フッサール『現象学の理念』などのページを参照にしていただきたい。

 と、それはともかく、以下では、古代ギリシアの懐疑主義者たちが、どのような論法でドグマティスト(独断主義者)たちを論駁しようとしたのか、その十の方式を見ていくことにしたいと思う(ちなみに、大乗仏典『認識と論理』には、その方法は16あるとされている)。


1.第1方式:動物相互の違いに基づく方式

 先述したセクストスの著書によれば、第1方式は次のように述べられる。

「第一の議論としてわれわれが挙げたのは、動物相互の違いのために、同じ事物に由来するからといって同一の表象(現われ)が感取されるわけではないことを示す議論である。」

 わたしがよく用いる例で言えば、犬やネコやカラスが見ている世界は、人間とはおそらく異なっている。

 犬やネコは人間のように色が認識できないと言うし、カラスは、人間には認識できない紫外線を認識できるらしいから、お互いを黒色としては見ていないという。

 それゆえ、わたしたちが見ている世界が、絶対に正しい世界だとは言えない。

 懐疑主義者はそのように主張するわけだ。


2.第2方式:人間同士の相違に基づく方式

 セクストスは続ける。

「次に第二の方式として挙げたのは、人間相互の違いに由来する方式である。」

 人それぞれ物の見方は違っている。だから、だれの見方が正しいなどとは決して言えない。懐疑主義者はそのように主張する。


3.第3方式:感覚器官の異なる構造に基づく方式

 第3方式は、感覚もまたそれぞれ異なっているという主張。

「絵画は、視覚上は引っ込んだり出っ張ったりしているように思われるが、触覚にもそう思われるわけではない。また蜜は、ある人たちの場合、舌には快いものとして現われるが、目には不快なものとして現われる。したがって、蜜が無条件に快いものであるか、あるいは不快なものであるかを言うことは不可能である。」


4.第4方式:情況に基づく方式

 第4方式は、その時々の情況によって、物の見方は変わってくるという主張。

「われわれの主張では、この方式は次のそれぞれの情況において観取される。すなわちそれは、自然に適った状態にあるか自然に反した状態にあるか、目覚めているか眠っているか、年齢はどうか、動いているか静止しているか、憎んでいるか愛しているか、欠乏しているか満腹であるか、酔っているか素面であるか、先行する状態はどのようであるか、大胆であるか恐れているか、苦しんでいるか悦んでいるか、等の情況である。」


5.第5方式:置かれ方と隔たりと場所に基づく方式

 第5方式は、角度によって見え方は違うという話。

「例えば同じ柱廊が、一方の端から見ると、先に行くほど細くなっているように現われるが、中程から見ると、全体にわたって均整がとれているように現われ、また同じ船が、遠くからだと小さくてじっとしているように現われるが、近くからだと大きくて動いているように現われ、さらに同じ塔が、遠くからは円いものとして、川近くからは四角のものとして現われる。」


6.第6方式:混入に基づく方式

 第6方式は、どんなものも混ざり合って認識されているという話。

「例えばわれわれの肌の色にしても、温かい空気のなかにいるときと、冷たい空気のなかにいるときとでは別様に見えるのであって、われわれは、われわれの肌の色が自然本来的にどのようなものであるかを言うことはできず、ただ、それらのそれぞれといっしょにどのようなものとして観取されるかを言うことができるだけであろう。」


7.第7方式:存在する事物の量と調合に基づく方式

 第7方式は、量によって認識のされ方は異なるという主張。

「一粒ずつばらばらにまかれた砂粒は、ざらざらしたものとして現われるが、砂の堆積に構成されると、感覚に及ぼす作用は穏やかなものとなる。」


8.第8方式:相対性に基づく方式

 第8方式は、いわば懐疑主義の根本原理と言うべきものだ。

 すなわち、あらゆるものは相対的である。

「第八の方式は、相対性に基づく方式であり、この方式に従ってわれわれが導出するのは、あらゆるものは相対的であるから、それらが無条件に、また自然本来的に何であるかということについてわれわれは判断を保留するであろう、ということである。」


9.頻繁に遭遇するか、稀にしか遭遇しないかに基づく方式

 第9方式は、稀少性のあるなしで見え方が違うという主張。

「太陽とほうき星とでは、太陽のほうが確かにずっと驚愕すべきものであるだろう。ところが、太陽のほうは頻繁に目にするが、ほうき星のほうは稀にしか見ることがないため、ほうき星に出遭うとわれわれは驚いてしまい、何かの前兆ではないかと思いさえするであろう。しかし、太陽に出遭ってもまったくそういうことはない。」


10.第10方式:習慣と法律

 第10方式は、習慣と法律の違いによって、物の見え方は違うという主張。

「エチオピア人の一部の者たちは、生まれたばかりの赤ん坊に入れ墨を施すが、われわれはそんなことはしない。またペルシア人は、きらびやかで足まで届く衣服を着るのを上品なことと考えているが、われわれは見苦しいことと考えている。そしてインド人は公衆の面前で女と交わるが、他の大多数の民族はそれを恥ずべきことと考えている。」


 以上のようにして、懐疑主義者は、さまざまな主張をどれも徹底的に相対化しようと努める。

 「確かなものなど何もない」

 これが懐疑主義者の主張なのだ。

 しかし哲学史を見れば、この論法は、デカルト、カント、フッサールらのリレーを通して、原理的に封じ込められてきたことが分かる。

 その詳細については、ぜひそれぞれの哲学者のページを参照していただければと思う。


(苫野一徳)

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