アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』




はじめに

 アーレント(19061975)が23歳の時に出版した博士論文。

 この若さで、すでにこれほどの晦渋な文章を書いていたとは驚きだ。ラテン語が随所に散りばめられた、かなり難解な本である。

 もっとも、以下のまとめを読んでもらえれば分かるように、本書の内容は実はきわめてシンプルだ。

 簡単なことをわざわざ難しく書こうとする、若きアーレントの気負いのようなものも感じられなくはない。

 指導教授は、ハイデルベルク大学のカール・ヤスパース

 その前は、フライブルク大学にて一時期フッサールに師事していた。そのさらに前、10代のころには、フッサールの弟子のハイデガーに師事していた。

 このハイデガーとアーレントが、一時不倫関係にあったことはよく知られている。

 本書にも、あるいはこの時の経験がかすかににじんでいるかもしれない。現世的な愛は、「失うことの恐れ」を抱かせる。本書でアーレントはそのように述べる。

 「アウグスティヌスの愛の概念」と名づけられてはいるものの、アウグスティヌスの著作をアーレントなりに読み解いた、彼女自身の愛についての思索である。


1.欲求としての愛(Amor qua appetitus

 愛、それはわたしたちにまず「欲求」としてイメージされるものである。

 しかしそれはどのような欲求なのか?

 「善きもの」を所有したいとする欲求。それが「欲求としての愛」である。

 アーレントはまずそのように言う。

 しかしこの愛はきわめて不安定なものだ。

 なぜなら、もしそれを得られたとしても、わたしたちはこれを失うかもしれない恐れにつねにさいなまれるからだ。

「「欲求」、つまり「愛」とは、人間が自らの「善きもの」を確保する可能性にほかならない。
 この「愛」は「恐れ」metusに転化することがある。」

「要するに、所有し保持したいという「欲求」から、失うことへの恐れが生じる。」

「人間は、「一時的なもの」res tempralesを渇望するかぎり、つねにこうした脅威のもとにあり、「失うことへの恐れ」と「所有への欲求」とが不断に対をなしている。」

 それゆえ「正しい愛」は、そのような「失うことの恐れ」を抱かない愛だと言うことができる。


2.カリタス

 アウグスティヌスはそのような愛を「カリタス」と呼ぶ。

「正しい「愛」とは、まさに正しい「愛の対象」を保持することに存するのである。〔中略〕アウグスティヌスは、世界に固執し、それによって同時にこの世界を構成する――すなわち、現世的な――この誤った「愛」を、「欲望」cupiditasと呼び、永遠と絶対的未来を追求する正しい「愛」を、「愛」caritasと呼ぶのである。」

 「欲望としての愛」と「正しい愛」(カリタス)とは、いったい何が違うのだろう?

 それは、それぞれの愛が追い求める対象である。アーレントはそのように言う。

 「まちがった愛」が求めるのは、現世的なものすべてである。

 それに対して、「正しい愛」(カリタス)が求める対象は、言うまでもなく「神」である。

 神を愛した時、わたしたちは永遠を手に入れる。それは「恐れなき状態」である。

 それゆえ、そこにあるのはまったき「自由」だと言える。わたしたちは、もはや何ものにもとらわれることはないのだ。

「この恐れなき状態とともに自由が獲得される。この自由は、失うことへの恐れから自由にされた存在のあり方にほかならない。」


3.愛の秩序

 ひとたび神への正しい愛(カリタス)を見出したなら、わたしたちは愛の秩序を見出すことになる。

「人間は、絶対的未来とともに、原則的に世界の外に立脚する視点を獲得する。人間はこうして、この世界の外の視点から、世界および自己自身の世界との関係を秩序づけることが可能になる。この秩序づけに対して、統一的指導原理を付与するのは「最高善」であり、その秩序づけの対象となるのは現存する世界である。」data-blogger-escaped-comment-EndFragment    

 ひと言で言えば、その秩序は「神への愛隣人愛身体への愛」となる。

「その秩序にしたがえば、「われわれを越えたもの」supra nosは至上価値として最も多く愛すべきであり、「われわれ」nosと「われわれのそばにあるもの」iuxta nos――つまり、「隣人」proximus――は、同一の度合いにおかれるべきであり、「われわれより下にあるもの」infra nos、すなわち「身体」corpusは、「秩序づけられた愛」ordinata dilectioの最後、つまり最下位におかれるべきである。」


4.「創造者」(Creator)と「被造者」(creature

 「創造者」(神)は「被造者」(人間)の起源である。

 しかしこの「被造者」は、自らもまた世界を創造し、その世界に生きる。

「人間は、「神に造られたもの」から、つまり、所与の被造世界から、世界を作り上げるのであり、自己自身を世界に帰属する存在者たらしめる。」

 ここに「罪」がある。人間は、自分が「被造者」であることを忘れ、まるでこの世が自分のものであるかのように錯覚してしまうのだ。

「「貪り」は、「被造者」がまずもって作り上げた世界を愛する。ここにこそ、その固有の「罪」peccatumがある。」

「「被造者」は自分自身が「創造者」であると信じ込むが故に、ここに「高慢」superbiaが生まれる。」

 ここからわたしたちを逃れさせるのは、神がわたしたちに与えたもうたわたしたちの「良心」である。アーレントはそのように言う。

 しかし、どれだけ人間が良心によって罪から逃れる可能性を持っていたとしても、救いを真にもたらすのは「神の恩寵」だけである。

「たとえ起源への立ち帰りの要求が、「良心」の要請として「われわれの内に」in nobis根拠を持っているとしても、「神の恩寵」gratia Deiである「権能」の授与は、外側からなされる。」

 ここに、キリスト教における「自己否定」がある。一切は「神の恩寵」にゆだねられているのだ。

「つまり、被造者は、世界、それとともに自己自身――それが「世界に帰属しているde mundo限りにおいて――とを否定したのである。この自己否定において、被造者は被造的存在の本来の真理と意義とを獲得する。」


5.隣人愛

 「隣人愛」は、この自己否定の現実化にほかならない。

「被造者は、自己自身を放棄すると同時に、すべての世界的な関係をも放棄する。被造者は、「神によって創造された」a Deo creata者としてのみ、自己自身を理解し、彼は自らの手で初めて作り上げられたものすべてを、また自ら打ち立てたすべての関係を拒否する。したがって、他者ないし隣人は、彼の世界の中の具体的実存における意味――例えば、友としての、あるいは敵としての意味――を被造者に対して失なってしまう。こうした「神が[愛する]ごとくに」愛する「愛」において「愛する者」diligensにとっては、他者ないし隣人は、神の「被造者」としてのみ存在するのであり、「愛する者」は神の愛から生まれた人間と、「神に創造された」者として出会うのである。」
 
 自己を否定し、すべてを神にゆだね、それゆえ神が愛された世界と隣人を愛すること。これこそ「隣人愛」の本質なのだ。


6.罪を背負った人類

 このように、人間は本来、一個の個人として、神へと帰り、神の愛された隣人を愛すべき存在である。

 ところがその一方で、人間は一個の個人であると同時に、罪を背負った「人類」の一人としても存在している。

 アーレントはそのように言う。

「つまりアダムという共通の始祖Abstammungを持つという事実であり、さらにまた万人相互の平等性――明確で拘束力を持つ平等性――に関する事実である。」

 人類は皆平等である。しかし何をもって平等なのか?

 ――罪をもった人間として平等なのだ。アーレントはそのように言う。

 ここにおいて、「隣人愛」はもうひとつの本質をもつことになる。

「隣人は、二つの異なった仕方で理解することができる。一つには隣人は、神がすでに思寵をもって働きかけた人間としてのみ、つねに理解される。〔中略〕あるいはまた、隣人は、罪に依然として巻き込まれた人間として理解することができる。〔中略〕他者は根本的にあなたと均一であるので、つまり、他者はあなたと同様に罪ある過去を持っているので、それ故にあなたは彼を愛すべきである。」

 要するに、わたしたちは隣人を、神に愛される者として愛すべきであると同時に、わたしたちと同じ罪を背負ったものとしても愛するべきなのだ。

 こうして、アーレントは本書を次のように締めくくる。

「他者は、「人類」に帰属する者「として」隣人なのであり、彼はまた、個々の人間の孤立化の実現から生じる経験、つまり、この人類の中から召し出されたとの召命、およびその明確な自覚のもとで隣人なのである。」


(苫野一徳)

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W.ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(2)

はじめに

 前巻で、ジェイズムは宗教的経験の本質を「神的なものとの関係性の悟りの経験」として描き出した。

 この経験は、何らかの精神病的な潜在意識によってもたらされるものである。

 しかしだからと言って、それはくだらない幻想・幻影であるというわけではない。なぜならわたしたちは、そこに確かな「意味」「価値」を感じとることができるのだから。

 ではその「意味」「価値」とはいったい何なのか?

 本書でジェイムズは、この問いに答える。


1.狂信

 まずジェイムズは、禁欲主義、心の強さ、清らかな心、慈愛といった「聖徳」を数え上げ、これらを分析する。

 そして言う。これらは、度を超した時攻撃的な「狂信」になってしまうのだと。

 そのひとつの典型が「十字軍」だった。

「熱狂的な帰依者は、〔中略〕自分の神がどれほど僅かに侮辱を加えられでも、無視されることがあっても、憤慨せずにはいられないし、自分の神に敵するものには恥をかかしてやらずにはいられないのである。」

「こうして、いくたびも十字軍遠征が説かれ、大虐殺がおこなわれたのであって、その理由は、自分たちの神が軽んじられたものと想像して、その侮辱を一掃するというにほかならなかったのである。」

 では、どのようなタイプの人が「狂信者」になってしまうのか。

「狂信というものは、専横で攻勢的な性格の人にのみ見いだされる。信心が強くて知性の弱い、おとなしい性格の人の場合には、神の愛の思いに心は夢中になって、ためにあらゆる実際的な人間的利害が排除されてしまう。」

 専横で攻勢的な人が「狂信者」になりやすい。そうジェイムズは言うのだが、そもそもなぜ人はそうした専横的で攻勢的になるのか、ジェイムズはここでもう一歩深めて考察する必要があったのではないかとわたしは思う。

 たとえば、その奥底には、自意識の過剰さと、それが満たされなかったり認められなかったりしたルサンチマンなどがあるのかもしれない。

 ないものねだりとは分かりつつ、個人的には、人が「狂信者」になる条件を、ジェイムズにもっと克明に論じ尽してほしかったと思う。


2.行為の「よさ」「正しさ」について

 続いてジェイムズは、(宗教的)行為の「よさ」について次のように言う。

 いかにもプラグマティズムにふさわしい、そして妥当な考え方だ。

「完全な行動というものは、三つの条件の間の関係である。すなわち、行為する人と、彼の行為の目的と、行為を受ける人々との間の関係である。行動が抽象的に言って完全であるためには、意図と遂行と受容との三条件が相互に適合していなければならない。最善の意図でも、間違った方法でおこなわれるか、間違った受容者に向けられるかすれば、失敗に終わるであろう。このように、行動の価値を批評したり評価したりする人は、行動がおこなわれるための他の二要素を除外して、ただ行為者の意図だけで判断するわけにはゆかない。」

 行為の妥当性は、彼の目的と他の人びととの関係性において決まる。そうジェイムズは言うのだ。

 それ自体において「正しい」「よい」行為などというものはない。たとえばどれだけ信仰に篤い人も、望まない人に行きすぎた「布教」をすれば、単なる独善になってしまうだろう。

 当たり前のことではあるが、常に心にとめておくべき重要な指摘だ。


3.聖者の価値

 以上のように、「聖徳」と言っても絶対に正しい聖徳などないし、行きすぎればそれは「狂信」にさえなってしまうものだ。

 しかしそうは言っても、さまざまな「聖者」の存在は、わたしたちにとってやはり大きな希望だ。

 彼らがいるから、わたしたちは世界には救いがあると思うことができるのだ。

「けれども、私同様、諸君も確信されていることと思うが、もしこの世の生活がそういう頑固で、冷酷で、けんか腰の方法ばかりでいとなまれるとしたら、まず即座に兄弟に援助の手をさしのべて、その兄弟が援助に値するかどうかを考えることなどはあとまわしにするというような人が一人もいなかったら、加害者に対する同情から自分自身に加えられた害を喜んで忘れるような人が一人もいなかったら、いつも他人を疑って暮らすよりも、むしろ何回でも喜んでだまされているような人が一人もいなかったら、思慮分別という一般の規則にのっとるよりも、むしろ情熱的、衝動的に人間を扱うことを喜ぶような人が一人もいなかったら、この世はいまよりも無限に住みにくい場所になってしまうことであろう。黄金律が当然のことになるような日が、過去においてでなく将来いつか、来るだろうという楽しい見込みが、私たちの想像から奪われてしまうことであろう。」

「この観点から私たちは、すべての聖徒たちのうちに見いだされる人間的な慈愛、またある聖徒たちに見られる過剰な慈愛こそ、真に創造的な社会的力であり、或る種の徳の実現が彼らの人的な慈愛によってのみ可能になるものであることを、認めることができるのである。聖徒たちこそ善の創造者であり、作者であり、増進者である。」

 その意味において、聖者を激越に批判したニーチェは偏りすぎている。ジェイムズはそう言ってニーチェを批判する。

 ニーチェは、博愛だとか利他だとかいった聖職者の道徳を、力弱き者のルサンチマンが生み出した「奴隷道徳」であると批判した。

 それにかえて、われわれは「貴族道徳」を持たねばならない。強き者が自らの価値を認め、また他者にもそれを認めさせうる、そのような「貴族道徳」を、と(ニーチェ『道徳の系譜』のページ参照)。

 これに対してジェイムズは言う。

「あわれなニーチェの反感はそれ自体がいかにも病的である。」

「ある意味では、そしてある程度まで、両方の世界の世界が認容されなければならないし、考慮されなければならない。」

 聖職者の道徳も、貴族道徳も、わたしたちはどちらもバランスよく持つ必要がある。

 さすがはプラグマティズムの哲学者、実にまっとうな、バランスのとれた批判だと思う。

 ジェイムズは言う。

「すべての人間が同じように侵略的であるような社会は、内部の摩擦によって自滅するであろうし、また、一部の人々が侵略的であるような社会では、そこに何らかの秩序を保つためには、他の人々が無抵抗でなければならない。これが現在の社会状態なのであって、この混合のおかげで、私たちは多くの恵沢に浴しているのである。」


4.神秘主義

 続いてジェイムズは、宗教的「神秘主義」について考察を進める。

 神秘的な精神状態について、ジェイムズはまず次の4つの特徴を挙げる。

 1.言い表しようがない、2.知的状態、3.暫時性、4.受動性

 1については説明は不要だろう。

 2は、神秘状態というのは、単に気分が高揚しているだけでなく、ある「真理」を知ったという知的状態でもあるということだ。

 3は、しかしその状態は長くは続かないということ。

 そして4は、この状態は意志によってつかむものではなく、向こうから「やってくる」ものであるということだ。

 この神秘状態を、ジェイムズはやはり潜在意識のたまものであると説明する。

 その証拠として、ジェイムズは次のような経験を物語る。

「亜酸化窒素とエーテル、ことに亜酸化窒素は、十分に空気で薄められると、異常なまでに神秘的意識を刺激する。〔中略〕数年前、私自身もこの亜酸化窒素による中毒をこの観点から観察して、その観祭を印刷して報告した。そのとき私の心には自然に一つの結論が生まれたが、この結論が真理であるという私の印象はそれ以来ゆるがずにいる。それは、私たちが合理的意識と呼んでいる意識、つまり私たちの正常な、目ざめているときの意識というものは、意識の一特殊型にすぎないのであって、この意識のまわりをぐるっととりまき、きわめて薄い膜でそれと隔てられて、それとはまったく違った潜在的ないろいろな形態の意識がある、という結論である。」

 ジェイムズ自身そのようなトリップ体験をしたのかどうかは定かでないが、彼は続けて次のように言う。

「私自身の経験をふり返ってみても、それらの経験はすべてが相寄って、私が何か形而上学的な意義を認めずにいられないような種類の洞察に集中するのである。その基調はきまって和解である。世界にはさまざまな対立があって、この対立するものの矛盾と葛藤から私たちのあらゆる困難や苦労が生まれてくるのであるが、その世界における対立物がまるで融け合って一体となってしまったかのような気がするのである。」   

 神秘体験は、ある種の「合一体験」なのである。

 ちなみに、唐突な話だが、わたしもこの「合一体験」をかつて存分に味わったことがある。それはまさに、宗教的経験・神秘体験と言うほかないものであり、そのためわたしは、ある時期「人類愛教」という宗教を実際に創設し、教祖さまになってしまったことがある。

 だからこのジェイムズの本は、わたしにとっては、かつての自分の体験がそのまま描かれているようなリアリティがある。読んでいる間はずっと身につまされているようだった。

 ジェイムズもまた、同じような体験をしたことがあったのではないか。わたしにはそんな気がする。

 ちなみに、この時の体験は、『子どもの頃から哲学者―世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!』(大和書房)という本にくわしく書いたことがある。お恥ずかしいエピソードだが、ご興味のある方がいらっしゃれば、笑い飛ばしながらお読みいただければ幸いだ。




5.宗教と哲学

 さて、ジェイムズは最後に、宗教と哲学の関係性について論じる。

 ここで言う哲学とは、もちろんプラグマティズムのことだ。彼は言う。

「簡単に言えば、信念とは行動のための規則である。〔中略〕したがって、或る思想の意味を明らかにするためには、私たちは、それがどんな行動を生み出すのに適しているかを決定しさえすればよい。」

 プラグマティズムの考え方にしたがえば、絶対に正しい「信念」などというものはない。先に見たように、わたしたちの「信念」は、自分の行動をよりよいものに導いてくれるかぎりにおいて、「よい」とか「妥当」とか言うことができるものなのだ。

 それゆえ、宗教や宗教的経験の「よさ」も、プラグマティックな観点からすれば、どれだけ行動に「役立つ」かという点からはかられる(この点については、ジェイムズ『プラグマティズム』のページも参照されたい)。

 とそう考えたなら、宗教における「形而上学」的テーゼは、ほとんど何の役にも立たないものと言わなければならない。

「例えば、神の自存性、あるいは神の必然性、神の非物質性、神の「単一性」、あるいは私たちが有限な存在のなかに見いだすような種類の内的な多様性や継起に対する神の優越性、神の不可分性、および、本在と活動性、実体と偶有性、可能性と現実性などのような内的区別の欠如、一つの類への包含に対する神の拒絶、神の現実化された無限性、それが伴なうもろもろのふさわしい道徳的な性質とは別の神の「人格性」、許されてはいるが積極的ではない惑に対する神の関係、神の自己充足、自己愛、自己自身における絶対的幸福、――率直に言って、これらもろもろの性質がどうして私たちの生活と何か一定の関係をもちうるのであろうか?」

「これらの属性のどれかが真であるとして、それが私たちにとって宗教的にほんの僅かな意義でももっていようなどとは私には考えられない、と私は率直に告白せざるをえない。いったい、神の単一性により善く適応するために、私はどんな特別の行為をすることができるというのであろうか?」

 では、哲学的に言って意味ある宗教的経験の本質とは何だろうか?

 ジェイムズは言う。それは、「より高いものとの交流を通した、不安感とその解決である」と。

 そして繰り返し述べてきたように、それが神の恩寵であるにせよないにせよ、この経験は、潜在意識の媒介によって可能になるものなのだ。


6.科学も哲学も、宗教には取って代われない

 最後にジェイムズは言う。

「諸君はアル-ガザーリー(イスラーム神学者―引用者)が神秘主義に関する講義のなかで私たちに語ったことを記憶しておられるであろうが、――酩酊の原因を、意志が理解するように理解するということは、酩酊していることではない。科学は宗教のいろいろや要素についてあらゆることを理解するようになり、そして、どの要素が、他の知識部門とあまねく調和することによって、真であると考えられるべき資格をもっているかを決定することさえできるかもしれない。けれども、この科学における最大の学者が、みずから敬虔であることの困難をもっとも強く感ずる人であるかもしれない。」

 宗教的経験を頭で理解することと味わうこととはまったく別のことである。

 その意味で、科学や哲学が宗教に取って代わることは決してできない。

 そしてまた、科学や哲学が、宗教よりもすぐれていると言うこともできない。

 ジェイムズは言う。

「私たちの経験の世界は、いつの世においても、客観的な部分と主観的な部分とのこつの部分から成り立っていて、そのうち客観的な部分のほうが主観的な部分よりも量りきれないほど広大ではあるけれども、しかし主観的な部分も見のがされることも無視されることも決してできない。〔中略〕内的状態は私たちの経験そのものである。〔中略〕このような具体的な個人的経験は小さなものであるかもしれないが、しかし、それは存続しているかぎりは実質のあるものである。」

 わたしたちは、科学があつかう客観的世界と同時に、わたしたち自身の主観的世界を生きているのだ。 

 この主観的世界を、客観的観点からだけ分析し論じることはできない。なぜならそれは、わたしたちの観察対象である以上に、まさにわたしたちがそれを生きているところのものであるからだ。

 だからジェイムズは言う。現代の宗教を、今は通用しない荒唐無稽な神話と同じように否定してしまうべきではない、と。

「だから、私は宗教の遺物説を、とんでもない誤謬の上に立っているものとして、躊躇なく排斥する。私たちの先祖が多くの事実誤認をして、その事実誤認を彼らの宗教と混合したからといって、だから私たちは宗教的であることを全然やめるべきである、という結論は出てこない。」

 現代科学がどれだけバカにしようが、宗教的経験には、「より高きものとの交流を通した、不安感とその解決」というすぐれた意味があるのだ。

(苫野一徳)

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W.ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(1)


はじめに

 プラグマティズムの哲学者、ウィリアム・ジェイムズによる宗教論の名著。

 本書は、ジェイムズがアメリカの学者として初めて、イギリスのエディンバラ大学でのギフォード講演に招聘されて行った講演をもとに書かれたものだ。

 20世紀初頭においてはまだまだ学問後進国だったアメリカだが、パースジェイムズデューイらが提唱したプラグマティズムの哲学は、その後世界中に広まっていくことになる。

 本書の主題は、「宗教的経験」の本質的特徴を描き出すことにある。

 それは多分に、わたしたち自身の「潜在意識」のたまものである。

 しかしだからと言って、意味のない幻想というわけでもない。

 自身が味わった鬱体験に駆動されながら、ジェイムズは宗教的経験の本質にせまっていく。

 それはいったい、わたしたちの人生にどんな意味をもたらすものなのか?

 ジェイムズの洞察が光る名著である。


1.宗教的経験の「意義」「価値」を考える

 本書冒頭で、まずジェイムズは「医学的唯物論」を批判する。

 医学的唯物論とは、「神の啓示」や「神秘体験」といった宗教的経験を、身体器官の欠陥などによって説明する考え方だ。

「医学的唯物論は、聖パウロがダマスコへの途上でキリストの幻影を見たのは、彼が癲癇病患者であったからで、大脳皮質後頭葉の放電傷害のせいだといって、片づけてしまう。また、聖テレサはヒステリー患者であり、アシジの聖フランチェスコは遺伝性変質者であるとして片づける。ジョージ・フォックスが彼の時代のインチキの横行に我慢しきれなかったことも、彼が精神の誠実を切に求めたことも、結腸障害の徴候だと見なすのである。」    

 しかしジェイムズは言う。たとえそのような理由が人びとに宗教的経験をもたらすのだとしても、そのことによって宗教的経験を一笑に付すのはまちがっているのだと。

 重要なのは、人びとの宗教的経験が、人間の生にとってどのような「意味」「意義」をもっているかを明らかにすることだ。

 なぜならそれは、人間にとって、確かにあるかけがえのない価値をもった経験であるからだ。

 医学的唯物論は、哲学が古くから陥ってきた「単一起源」探究の現代版であるとジェイムズは言う。

 この世界の絶対の根拠。「単一起源」説は、そのような絶対の起源を見つけ出すことを夢見る。

 しかしそれは、どこまで言っても「独断論」であることをまぬがれない。

 形而上学(絶対を追求する学)は不可能である。これはカント以来哲学の常識だ(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 しかし人びとは、いまだにこの世の絶対の起源をめぐって論争を続けている。

 ジェイムズらのプラグマティズムは、そうした「絶対」をめぐる争いをやめ、人間にとって何が価値あるものかを考えようと訴えたのだ。


2.主題は「個人的宗教経験」

 続いてジェイムズは、本書の主題を個人的な宗教経験に限定すると述べる。教会制度の歴史や、宗教の社会学分析は対象外にして、あくまでも個人的な「宗教的経験の諸相」を叙述しようと言うのだ。

 そこで、ジェイムズは宗教(的経験)をまず次のように定義する。

私たちは宗教をこういう意味に解したい。すなわち、宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあってかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生ずる感情、行為、経験である、と。

 ここで言われる「神的存在」について、ジェイムズは次のように言う。

「ここで用いる「神」という言葉は、単に根源的、包括的、実在的なものだけを意味するのではない、ということを断わっておく。というのも、狭い意味に制限しておかないと、神という言葉の意味が事実あまりにも広くなってしまいかねないからである。私たちは、個人が、呪詛や冗談によってではなく、厳粛で荘重な態度で、応答せずにはいられないような根源的な実在という意味においてのみ神を用いることにしたい。」

「厳粛で荘重な態度で、応答せずにはいられないような根源的な実在」。宗教的経験は、必ずそのような実在との関係を伴った経験である。ジェイムズはそう言うのだ。


3.健全な心の宗教

 このような宗教的経験には、大きく2つのタイプがあるとジェイムズは言う。

 「健全な心の宗教」と、「病める魂の宗教」だ。

 「健全な心の宗教」から見ていこう。

 ジェイムズが例として挙げるのは、19世紀アメリカの思想家ラルフ・ウォルドー・エマソンや、エマソンの同時代の詩人ホイットマンなどである。

 彼らは「悪を感じることができない」人である。

 「健全な心」の持ち主は、2つの仕方でその宗教をもつ。

 1つは、「健全な心」を文字どおり無意識にもつ仕方で。もう1つは、「意志」によって。

 「意志」によって「健全な心の宗教」をもつ者は、同時に楽観論哲学へと足を踏み入れるとジェイムズは言う。

 その心理分析は非常に興味深いものだ。

「悪をもみ消すということが、まったく率直で誠実な人の場合には、故意の宗教的政策、あるいは、偏見にまで成長することがあるのである。」

それらの事実の悪を認めることを拒否せよ、そのもつ力を軽蔑せよ、その現存することを無視せよ、諸君の注意力を他の方面に転じよ。そうすれば、たといそれらの事実は依然として存しようとも、とにかく諸君自身にとっては、その事実のもつ悪は、もはや存在しないことになる。

 不幸から目をそむけ、悪をもみ消したいという欲望が、わたしたちを「健全な心の宗教」へと向かわせる。そうジェイムズは言うのだ。

 つまり、この信仰は、いわば苦しみからの反動によって抱かれるものなのだ。


4.病める魂

 「健全な心」とは対照的に、「病める魂」は世界のあちらこちらに悪を見出さずにはいられない心である。

 彼らが経験する宗教的経験は、「健全な心」の持ち主のそれとは当然異なったものになる。

 ここでジェイムズは、次のようなきわめて興味深いことを述べる。

ふつう、苦痛閾の一方の側で暮らしている人が、他方の側で暮らしている人とは違った種類の宗教を必要とするのは、当然なことではあるまいか。ここに、要求の型が違うとそれに応じて宗教の型も異なるのではないか、というこの両者の相対関係の問題がおのずから生じてくる」   

 世界にはさまざまな宗教がある。その教えは、時に対立的であったりする。

 しかしそれは、人間の性質や求めるものが違う以上、当然のことだ。

 1つの絶対に正しい宗教があるのではない。求めるものに応じて、その人にとってのよりよい宗教があるにすぎないのだ。

 プラグマティズム宗教論の、基本テーゼと言っていい考えだろう。


 ところで、「病める魂」の最良の例として、ジェイムズはロシアの文豪トルストイを紹介している。

 よく知られているように、トルストイは、世界的な大成功をおさめたにもかかわらず、その後突如としてそれまでの自分の芸術を否定し、何もかもを捨てて放浪し、その挙げ句野たれ死んでしまった。

 晩年のトルストイは、宗教による解決に満足を見出そうとした。

 このことについて、ジェイムズは言う。

ここで私たちが注意しなければならないことは、ただ、彼にとって日常生活が魅力をまったく失ってしまった、という現象であり、また、トルストイほどの有力な、才能にあふれた人間にも、それまでいつも価値多いものと思われていた一切のものが、ぞっとするような嘲笑のように見えるにいたった、という事実である。    

 世界から意味がなくなるという経験。これが、「救い」を求めるものとしての宗教の本質を浮き彫りにするのだ。


ここに、助け給え、助け給え、という宗教的問題の真の核心がある。

ある性質の人々はあまりにもそういう宗教を必要とするのである。


 続けて、ジェイムズはここで驚くべきことを言う。

 今日、「健全な心」と「病める魂」の双方を見比べた時、相手に対して不寛容なのは「健全な心」のほうであろう、と。

健全な心の人から見ると、光の中で生きることをしないで、鼠の穴を掘り返したり、恐怖を捏造して、あらゆる不健全な種類の悲惨事にのみ心をわずらわしているそれら怒りの子たち、第二の誕生を熱望する者たちは、鼻もちのならないものといってよいようなものなのである。もしかりに宗教上の不寛容、絞首、焚刑がふたたび行なわれることになったとするならば、過去はどうあったにせよ、今日では、健全な心のほうが、二者のうちより非寛容な側に立つであろうことは、疑いない。

 「健全な心」は「病める魂」を理解することができない。だから彼らは、その理解できないものを攻撃することになる。そうジェイムズは言うのだ。

 さらにジェイムズは、宗教的により深いのも、「健全な心」ではなく「病める魂」のほうであると言う。

「注意を悪からそらせて、ただ善の光のなかにだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。〔中略〕しかし、憂欝があらわれるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。〔中略〕なぜなら、健全な心が認めることを断乎として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。」

 もっとも、この点についてはやや異論の余地があるようにも思われる。

 悪こそ真の実在。ジェイムズはそう言うのだが、それこそジェイムズにならって言えば、人それぞれの「気質」による見方ではないか。この点、ジェイムズは自身の「気質」に不当に肩入れしすぎていると言えなくもない。実際、なぜ「悪こそ真の実在」と言いうるのか、ジェイムズはこれ以上まったく説明していない。

 さらに、彼が次のように言うにいたっては、やはりかなり偏見を帯びたものと言わざるをえないように思われる。

したがって、もっとも完全な宗教は、厭世的要素がもっともよく発達した宗教であるように思われる。もちろん、そういう宗教のなかで私たちにもっともよく知られているのは、仏教とキリスト教である。


5.分裂した自己とその統合

 ジェイムズによれば、「健全な心」の人は「1回の誕生で足りる人」である。

 対して「病める魂」は、「2回の誕生を必要とする人」だ。

 「健全な心」がただ楽観的世界を信じていればいいのに対して、「病める魂」は、その挫折の絶望と、宗教による復活という2回目の誕生を経験するのだ。

 「病める魂」は、自己分裂の苦しみをしばしば味わう。

「人間の内心は、現実的自己と理想的自己という、不倶戴天の敵として対立しているものと人間が感じる二つの自己の戦場なのである。

 なりたい自分と、現実の自分。この分裂が、わたしたちをひどく苦しめるのだ。

 ジェイムズによれば、宗教はこの分裂を統合へともたらしてくれる最も力のある救済である。

「トルストイがそれを人々がそれによって生きるところのものと言っているのは正しい。」


6.回心

 続いてジェイムズが取り上げるのは「回心」の経験だ。

 彼はそれを、人格的エネルギーの習慣的中心の移行」と定義する。

 回心には2つある。1つは意志的な回心、もう1つは自己放棄的回心だ。

 意志的な回心は、文字どおり自分の意志によって回心を決意するものだ。

 本書にとって重要なのは、2つめの自己放棄的回心のほうだ。これは意志によるものではなく、思いがけずわたしたちにやってくる回心なのだ。

 ジェイムズは、この自己放棄的回心は2つの経路をとってやってくるという。

 1つは「罪の意識」にさいなまれている時。もう1つは激しい「理想」に燃えている時だ。

 さらにジェイムズは続ける。このような回心経験が訪れるには、3つの条件が必要になると。

 1つは鋭い「感受性」をもっていること。2つは、無意識的なヴィジョンが見える「自動現象」が起こること。3つは「被暗示性」が強いこと。

 要するに、宗教的経験は、人びとの潜在意識が作用して訪れるものなのだ。

 ここでジェイムズは、本書にとってきわめて重要なことを述べる。

 ある人びとは、宗教的経験を「神の恩寵」であると言う。

 ジェイムズは、そのこと自体を否定しはしない。

 しかしこの恩寵にアクセスできるためには、人間の内面、すなわち潜在意識の条件が整っている必要があるのだと。

 こうして彼は、宗教と哲学や科学との調停をつけようと考えたのだ。

 その上でジェイムズは言う。

 哲学者や科学者の中には、宗教的経験を非合理なものとして一笑に付す者がいる。それはひと時の狂騒にすぎないと言うものがある。

 しかしジェイムズは言う。

人間はどの高さからでも堕落する――それを示す統計など私たちは必要としない。たとえば、愛は、よく知られているように、変わらぬものではないが、変わらぬものにせよ変わるものにせよ、愛はそれが続いている間は、飛躍し到達すべき新しい理想を啓示する。このような啓示が男にとっても女にとっても愛の意義をなしているのであって、その愛がどれだけ持続するかは問題でない。回心の経験も同じことである。すなわち、たとえ短時日間の経験であっても、回心の経験は、人間にその精神的能力の高水位がどれだけであるかを示すものであって、これが回心の経験の重要性をなすのである。

 回心の価値は、それが一瞬のものだからと言って減ぜられるものではない。

 むしろ、この一瞬のうちに、いわば世界や人生のすべてを悟ったと思えてしまうこと。そのような体験にこそ、宗教的経験がもっているきわめて独特の「意味」があるのだ。




(苫野一徳)

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