ラウダン『科学と価値』


はじめに

 現代を代表する科学哲学者、ラリー・ラウダンの1984年の著作。

 邦訳の副題は「相対主義と実在論を論駁する」。文字通り、科学哲学における相対主義と実在論に異議申し立てをした作品だ。

 私自身は、この問題はフッサール現象学が最も原理的に解いたと考えているので、現象学的還元の発想のない本書の主張は非常に中途半端なものと考えている。

 しかしこの点を論じると長くなるので、ここでは割愛して、本ブログにおけるフッサールの『イデーン』『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のページなど参照していただきたい。

 とまれ、以下、ラウダンがどのようにして相対主義と実在論の問題を克服しようとしたか、見ていくことにしよう。


1.同意説とその問題

 まずラウダンは、科学研究はこれまで、科学における「同意」か「不一致」のどちらか一方ばかりを強調してきたという。そして、そのどちらをも説明する理論を持ってこなかったのだ、と。

 まず同意説から見てみよう。

非常に長期にわたって、哲学者たちは一般にライプニッツ的理想と私が呼ぶものを受け入れる傾向にあった。簡潔に言うなら、ライプニッツ的理想は、事実に関する全ての論争は証拠に関する適切な規則を導入することによって公平に解決されると主張する。

 要するに、正しい科学的方法に則れば、科学は同意に向かうと考えるのだ。

 しかしこれは事実に反する。

 トーマス・クーンが明らかにしたように、科学のパラダイムは時に急速に転換する。そして異なるパラダイム同士は、どうがんばっても折り合えない「共約不可能性」の問題を抱えているのだ(クーン『科学革命の構造』のページ参照)。


2.不一致説とその問題

 しかしだからと言って、科学の不一致説を唱えることも誤りだ。

 クーンや、さらにラディカルなファイヤーベントらは、科学の不一致を強調するあまり、なぜ科学者たちがあるパラダイムからパラダイムへと移動するのか、その合理的な理由を説明することができなかった。


3.正当化についての階層モデル

 そこでラウダンは、まず科学における正当化についての「階層モデル」を振り返る。

 それは、事実→方法→目的(価値)の階層からなるモデルである。

 ここにおいて、「事実」の不一致は「方法」によって解決され、「方法」の不一致は「目的」によって解決される。

 しかし「目的」の不一致は、それ以上の審級がないため解決不可能となる。

事実についての不一致は方法論的なレベルで解決され、方法論上の意見の相違は価値論的レベルにおいて取り除かれる。価値論的なレベルでの意見の相違は、(科学者たちが同一の目的を共有すると想定されることを根拠として)存在しないとされるか、あるいは、もし存在するのであれば、解決不可能であるかのどちらかであると考えられている    

 これは標準的なよくできたモデルだが、いくつかの欠陥がある。

 まず、このモデルは、「目的(価値)」を達成するための方法は必ずしも1つではないことを見逃している。また、「目的」が方法を完全に規定するわけではないことも見逃している。

 要するに、どのような「目的(価値)」をめざそうとも、科学の方法は一つではないのだ。

「ずっと追い求められてきた、唯一の「科学的方法」なるものはかなわぬ望みであるだろう。    


4.クーン批判

 しかしだからと言って、ファイヤーベントのように科学の方法は「何でもあり」というわけにはいかない。

 ここで、ラウダンはファイヤーベントほどには過激ではないが、同じような相対主義的傾向を持つクーンを批判する。

 まず、クーンによれば、上述した「事実」「方法」「目的」は、パラダイム転換の際、すべてパッケージになって一気に変わるとされる。

 しかしラウダンによれば、そんなことはあり得ない。

「二人の科学者がちょうど同じ認知的目標にしたがっていながら、それでも宇宙に何が備わっているかについて根本的に異なった見解を支持するかもしれない、と考えることは全く可能なのである。」 

   「科学者たちは、認知的方法や目的に関する完全な一致が存在しない場合でさえも、事実レベルのどの理論を受け入れるべきかに関しては、ほぼ満場一致に到達することができるし、またしばしば到達してきた。価値論に関する同意は、それゆえ、事実に関する同意の必要条件でも十分条件でもない。」

 要するに、科学者たちは、同じ目的を持ちながらも方法や事実認識において異なることはあるし、目的が同じでなくても、事実認識や方法論が一致することはあるのだ。

 さらにラウダンは、クーンの相対主義を次のように批判する。

 上述モデルにおける「目的(価値)」は、これを異にする者同士がいた場合、それを調停するより上位の審級を持たない。したがって、クーンによれば、どの「目的(価値)」(ひいてはパラダイム)を持つかは、究極的には人それぞれの好みによるということになる。

「悪名高いことに、彼は、新しいパラダイムを受け入れることを、「回心の体験」と表現している。」    

 しかしそんなことはないとラウダンは言う。科学者は、どのような「目的」やパラダイムを受け入れるかについて、ちゃんと合理的な判断をしているのだ。


5.網状モデル

 そのことを理解するために、階層モデルから「網状モデル」へと転換する必要がある。

「網状的描像が階層的描像と最も根本的に異なるところは、相互調整、相互正当化の込み入った過程は、科学的なコミットメントの三つのレベルすべての間で進行する、と強調する点にある。正当化は、階層の中で下向きになされるのと同じだけ上向きにもなされ、目的、方法、事実に関する主張を結び付けている。もはやわれわれは、これらのレベルのどれか一つが、特権的であるとか、第一義的であるとか、あるいは他のレベルと比べてより根本的であると考えるべきではない。」    

 要するに、「事実」「方法」「目的」は、階層ではなく、相互に作用し合った入れ子構造の関係にあるのだ。

 そう考えると、「目的」のレベルで食い違いがあった場合にはこれを調停する審級がないとする「階層モデル」の主張は成り立たなくなる。

 「事実」や「方法」の次元との相互作用が、科学者たちがどのような「目的」を持つかを合理的に選択させるのだ。

 たとえば、「目的」があまりにユートピア的すぎる場合、科学者はその目的を棄却するだろう。

「もし誰かが私に、彼の根本目標は光速よりも速く移動することであるとか、あるいは同時に二つの場所にいることであるとか言うならば、私の反応は次のように言うことだろう。すなわち、世界とその法則が許す可能性に関する、われわれの知識の現状からすれば、彼は達成不可能なことを目指している、と。」    

 公言された目的と、実際の目的とが食い違っている場合も、科学者は目的それ自体を見直すことになるだろう。

 その好例に次のようなものがある。

 18世紀における科学の「目的(価値)」は、「観察不可能なものは科学の対象から排除しなければならない」というものだった。

 しかしすでにその頃から、この目的ではうまく説明できないものがたくさん現れていた。

「実際に成功をおさめている、電気の理論、発生学、一八世紀中ごろの化学は、観察不可能な存在者の措定に決定的な仕方で依存しているように思われたのである。」    

 こうして科学者たちは、科学の「目的(価値)」それ自体を見直すようになったのだ。

「観察不可能なものを含まない科学という古い明示的目的は、そのような存在者を措定した理論の著しい成功の餌食となった。」    

 以上が、ラウダンによる相対主義批判だ。科学は、それが同意を押し進めるだけの合理的な理由を持っているのだ。


6.実在論批判

 最後に、ラウダンはもう一方の実在論批判を行う。標的は、パトナム、ポパー、セラーズ、ボイドらだ。

 多様な仕方で彼らを批判するラウダンだが、その最大のポイントは次の点にある。


実在論者は、科学の目標は自然的世界についてより真であるような理論を見出し続けることだと主張する。

実在論の擁護者のうち誰もまだ、近似的真理についての首尾一貫した説明で、近似的に真な理論はそれらをテストしうる範囲にわたって予測に成功するだろうということを含意するようなものをまだ明示できていない。

 要するに、われわれは何が実在的な「真」であるかを確かめるすべを持たないのだ。したがって、「真」にどれだけ近づいているかを知ることもできない。

 この意味において、実在論は根本から論駁される。


(苫野一徳)

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トッド『家族システムの起源』(2)


はじめに


 前巻で、中国、日本、インド、東南アジアの「家族システムの起源」を明らかにしたトッドは、続く本巻で、ヨーロッパおよび中東の解明に挑む。

 まるで推理小説を読んでいるように、圧倒的に面白い。

 ただし、前巻の中国や日本に比べると、本巻で取り上げられるヨーロッパや中東は、周辺地域との影響関係があまりに複雑すぎて、トッドのような解釈で本当にいいのか、判断しづらいところもある。今後の検証が望まれるところだ。

 いずれにせよ、本書は、トッドの集大成にして最高傑作と言うべきものだ。

 こんなにもスケールの大きな知的興奮を味わわせてくれる本は、そう多くはない。


1.直系家族ヨーロッパ

 ヨーロッパもまた、その原初における家族システムは「双系制」の「核家族」だった。

 ところが10世紀末になって、この地にも直系家族が登場し始める。

 フランク王国に、長子相続が現れたのだ。

 前巻で見たように、中国で直系家族が現れたのは殷や周の時代のことだった。だから、ヨーロッパの家族システムの進化は中国に2000年遅れていたということになる。


 14世紀、ヨーロッパは「満員の世界」を経験することになる。

 要するに、農地の定員が超過するのだ。

 前巻でも見たように、こうなると農民は遺産を兄弟姉妹に分割することができなくなる。

 かくして、直系家族が登場することになる。


2.父系制ヨーロッパ

 実を言うと、ヨーロッパはそれ以前から「父系制」の波にさらされていた。

 世界史を通して、その波は過去4回訪れている。

①古代の中東
5世紀のフン人13世紀のモンゴル人
7世紀のアラブ人
15世紀からのトルコ人

 この外部からの強い父系制の侵入の歴史が、ヨーロッパにおける父系制地域を生み出すことになったのだ。

 その最も強固な極は、ロシアバルカンスカナだ。以下、父系制の強弱という観点からヨーロッパを眺め渡してみることにしよう。

 まずは、その強度が極めて高いロシアについて。

 この地においては、父方居住が95%である。圧倒的な父方居住共同体家族だ。

 とはいえ、女性のステータスは中国ほど低いわけではない。それは、両国が父系制になってからの歴史の長さの違いによると考えられる。

 ロシアに近いフィンランド内陸部やバルト諸国を見てみると、やはり父系制共同体家族が多いが、双処居住の共同体家族や、さらには直系家族などもまざっている。これは、ロシアの影響が薄まり直系家族のドイツの影響をこうむったものと考えられる。

 ウクライナルーマニアになると、一時的父方同居の核家族が主流になる。

 ここでは高度に形式化された末子相続が見られるが、これはモンゴルの侵入の名残と考えられる。前巻で見たように、モンゴルのステップ遊牧民は、末子が相続において特別の権利を有する〈サイクルα〉の家族システムをとっていた。

 ウクライナのステップにこのような家族システムが残っているのは、何ら不思議ではないだろう。

 ルーマニアを超えると、バルカン半島だ。ここはロシアと同じく父系制共同体家族。

 しかしその周辺部に行くと、再び父系制は弱まっていく。

 すなわち、スロヴェニアではたまに双方的家族構造を取り、クロアチア中部は一時的双処同居を伴う核家族。そしてハンガリースロヴァキアは不確実な父方共同体家族となる。

 イタリアに目を向けると、南部は平等主義核家族、北部は一時的同居・近接居住の核家族だが、中部はロシアと同じく強度の父系共同体家族となる。


 そこからエーゲ海の島嶼部・沿岸部へと進むと、珍しい母方居住の直系家族が見られるようになる。

 中心的家族システムに対する周縁部の反動という、前巻で見た通りの現象が観察できるのだ。

 以上をまとめると、東部ヨーロッパはアジア的父系制の影響が濃く、これがバルカン、イタリアの一部にも影響している。しかし西・中央ヨーロッパにまでは影響が微弱で、ギリシャの島嶼部では反動が起こったと考えられる。


3.古代ギリシャ・ローマ

 では、以上のようなヨーロッパの家族システムの分布はいったいどのように広がっていったのだろうか?

 歴史をさかのぼってみよう。

 まず、古代アテネは父系制核家族だった。

 古代ローマも、少なくとも共和政時代においては父系制核家族だった。

 トッドは、ギリシャにもローマにも、直系家族は存在しなかったのではないかと言う。特に、どちらも大量の移住者が出現したことを考えると、それを可能にするのは2つの家族システムしかなかったはずだと言う。

 1つは、一時的同居を伴う核家族。そしてもう1つは、戦争共同体としての、父方居住共同体家族。

 ローマが後者であったことは疑いを入れない。

マの軍事的で系統的な領土拡大は、父系のクランに他ならないゲンスの存在の結果であるゲンスは左右対称化されており、兄弟とイトコが左右対称の位置を占めているマのゲンスは、モンゴルのクランと同じように戦争と征服にうってつけの制度であった

 さて、このローマ、家族システムの変遷においてはきわめて特異な姿を見せている。

 これまで見てきた中国や日本、インドなどは、双処から単線(父方か母方)になるのが基本だった。

 しかしローマは、むしろこの後父系制から双系制へと変化するのだ。

 さらに、これまでは核家族から共同体家族への変遷を遂げるのが一般的だったのに、ローマは共同体家族から核家族へと変わっていくのだ。

 それはいったい、なぜなのか?

 トッドは言う。

「この双方性と核家族性への逆行は、二つの要因で説明がつく。まずローマの父系制が当初は脆弱であったことと、世帯の次元で稠密な父方居住共同体主義が不在であったこと。次いで、ローマが、蛮族の地か否かを問わず、女性のステータスの高さを特徴とする広大な空間を征服したこと。〔中略〕敗れた者が破った者に作用を及ぼしたのだ。」

 ローマは、もともと父系制も共同体家族もそれほど強かったわけではなかった。それゆえ、女性のステータスの高い地域を征服するにしたがって、その地の影響をこうむることになったのだ。

 こうして、共和政末期から後期ローマ帝国までの6世紀間において、ローマでは女性のステータスが上昇していく。

 そして後で見るように、これがやがてヨーロッパにおける平等主義核家族の原型になっていくのだ。

 しかしその後、ゲルマン民族の大移動によって、ローマには再び父系制の波が押し寄せることになる。

 前巻で見たように、戦争民族フン人は強固な父系制だった。

 同じく、イタリアに侵入したランゴバルド人も父系制だった。

 こうして、双系制に変化しつつあったローマにまだ残っていた父系制の上に、ランゴバルド人の父系制が折り重なることになる。

イタリアの父系制の起源がランゴバルド人であるとする仮説には信憑性があるが、しかしながらこの父系制は、イタリアの中央部に残ったローマの残留性の父系制の残滓の上に重ね合わされたと想像することができる。

 ではバルカン半島の方はどうか。


バルカン半島における父系原則の勢力の強さにオスマン帝国の貢献が皆無であったとみなすのは、穏当ではなかろう。トルコによる征服によって父系制が強化されたことは、想像することができる。この征服は、すでに当地に根付いていた価値体系を強化するということをしただけであるから、効率的であった。」

「逆に、エーゲ海地域での母方居住の出現の原因は、トルコによる征服であったと、進んで主張したいところだ。その征服は、その地では表面的なものに留まったのである。」

 今日のバルカン半島の父系制は、トルコの征服によって強められ、エーゲ海地域での母方居住は、その反動だったと考えられるのだ。

 
4.ロシア

 次に、ロシアの家族システムの歴史を見ていこう。

 9〜10世紀の、キエフ・ルと呼ばれた最初のロシアは、まだ父系制ではなかった。

 その後、1251年からはキプチャク・ハン国がロシアを支配するが、ノヴゴロド共和国だけは例外で、この国はバルト海を通してヨーロッパと接触することができていた。

 1478年、頭角を現したモスクワ大公国が、ノヴゴロド共和国を滅亡させ、次いで1480年にキプチャク・ハン国の宗主権を拒絶する。トッドは言う。

「ロシア人が本物の父系原則を獲得したのは、モンゴルの宗主権の下で過ごした二世紀半の間であるとするのは、特に大胆な主張とも独創的な主張とも言えない。」

 やはりここでも、モンゴルの父系制が大きな影響を及ぼしたのだ。

 こうしてヨーロッパは、5世紀のフン人やランゴバルド人の、そして北部は13世紀のモンゴルの影響によって、徐々に父系化されてきたのだ。


5.母系社会についてのヨーロッパ人の誤り
 
 さて、ここでトッドは、ヨーロッパの学者たちが長らく侵してきた誤りを2つ指摘する。

 1つ目は、起源的な家族システムは「母系制」であったとする幻想だ。

 バッハオーフェン、マクレナン、モーガンらが典型だ。

 しかし繰り返し述べてきたように、原初的な家族システムは「母系」ではなく「双系」である。

 ヨーロッパの学者たちは、少しでも母権が強い社会を見ると、反射的に「母系」と思い込んできてしまったのだ。

 トッドは言う。

「こうした混同が生じてしまうのは、現在の母系制社会と未文化社会の現実を観察した者にとってはまったく単純なある事実を知らないからである。すなわち、女性のステータスは、実際は母系社会よりも未分化の親族システムにおける方が高いのである。この真理は、母系制システム――中国のナ人、ケーララのナーヤル人あるいはスマトラのミナンカバウに見られる――が、征服的な父系制に対する反動にすぎないことを理解すれば、より容易に認められるようになる。」

 もう1つの幻想は、インド・ヨーロッパ語族がもともと父系制だったとする考えだ。メイン、クーランジュ、バンヴェニスト、そしてデュメジルらがその典型だ。

 しかし、ヨーロッパもまた、実はもとは双系制家族だったのだ。


6.中央および西ヨーロッパ

 中央および西ヨーロッパでは、2つの要因によって直系家族が進行していった。

 1つは、おなじみの「満員の世界」。限られた土地を相続するためには、長子相続が最も合理的だと考えられるようになった。

 もう1つは、貴族階級にとって、長子相続が安定した権力保持の方法になったということ。

 こうして、フランスやドイツで直系家族が進行していく。

 このことは、十字軍の記録によっても観察することができる。


「数次にわたる十字軍という、弟たちが各地に四散して行く動きは、不分割というものが大陸の西から東へと伝播普及していくさまを示すかなり確実な指標である。第一回十字軍(一九六—九九年)の主要な出発点――ということはつまり、参加者が募られた地点――はフランスであった。〔中略〕しかし半世紀後の第二回十字軍(一一四七—四八年)では、フランス人と並んでドイツ人が登場する。」

 遺産相続されない弟たちは、十字軍遠征に加わったのだった。

 イングランドにおいても、フランス・ノルマン人の影響によって、直系家族的な長子相続の考えが根づくようになる。

 さて、しかしパリやイングランドにおいては、それまでの歴史的伝統のゆえに、結局直系家族が根づくことはなかった。

 なぜか? トッドは言う。

カロリング期の荘園は、領主保留地が定の規模を超えており、農民保有地が小さい場合には、きわめて容易に大規模農業経営に変貌することができる。「農民」は庭を持つ農業労働者になるわけである。この単純化のメカニズムは、早期に北フランスとイングランドのかなり広い部分に及んだ。こうした地域、こうした農地制度の中に、直系家族は定着することができなかった。

土地を耕す労働者〔中略〕の小さな家と庭は、その相続に関して、不分割の規則が確立されるほどの十分な争奪の的となるには、小さすぎたのである。

 パリやイングランドの農民たちは、相続できるほどの農地を持っていなかったのだ。

 さらにパリの場合は、ここにローマ起源の平等主義の発想が重なることになった。

 こうして、パリ盆地周辺は平等主義核家族になっていったのだ。

 一方のイングランドは、ローマからの影響がほとんどなかったため、平等主義の発想は生まれなかった。

 遺産の平等な分配に代わって、ここでは遺産相続の自由の観念が発達することになる。

「へンリー八世(在位一五〇九年から一五四七年)から、遺言の自由が肯定されるようになる。〔中略〕革命下にあって、〔中略〕長期議会は一六四五年に遺言の完全な自由を確立する。〔中略〕遺言の自由は、比較的近年の歴史の生産物なのである。」

 こうして、パリが平等主義核家族になったのに対して、イングランドは絶対核家族へと変化していくことになる。

 直系家族との対比において、トッドはヨーロッパの核家族の特徴を次のように言う。

核家族は部分的には、同居と不分割という直系家族的原則に対する反動であり、平等主義核家族は同居と不平等という直系家族的原則に対する反動であった    


7.近年の中東

 次に中東を見ていこう。

 まず近年の中東の家族システムを確認しよう。

 その特徴は、強い父系制と内婚にある。

 いわゆるアラブ婚と呼ばれるイトコ婚は、アラブ圏の中心部諸国、すなわち、サウディアラビア、イラク、クウェート、イエメン、カタール、オマーン、シリアなどにおいて30%以上に達している。

 しかしその外縁では、イトコ婚はそれほど多くない。


 パレスチナでは29%、ヨルダンでは27%、アラブ首長国連邦で26%、バーレーンで23%、イランは23%である

 エジプトにいたっては、2005年の時点で18%まで下がっている。ヨルダンも同じくらい減少し始めている。

 トルコにおいては地域差が目立つ。東は23%だが、西は8%だ。

 ただし、さらに周縁部まで行くと、また内婚率が上がってくる。

 モーリタニアのアラブ人で40%、スーダンのアラブ人で40%、イラン東部の遊牧民、バルーチュ人で40〜50%である。


8.古代メソポタミア

 では、このような家族システムはいかにして広がったのか。

 中東の気の遠くなるほど長い歴史をひもといてみよう。

 メソポタミアの歴史は、次のように見ると分かりやすくなる。


3000年紀=シュメール、アッカド
2000年紀=バビロニアによるメソポタミア統一、ヒッタイト
1000年紀=アッシリア、新バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、パルティア

 これほど多くの民族が入り混じった地において、家族システムの起源とその変遷を追跡することなどできるのかと思ってしまうが、トッドは果敢にもその謎に挑んでいく。

 一つの基軸は、古バビロニア王国だ。

 この王国は、父方居住の核家族であったことが確認されている。

 そこで、ここを軸に歴史をさかのぼってみることにしよう。

 シュメールは、おそらく長子相続の直系家族だった。

 このことは、シュメールの神話「ギルガメシュ物語」からも伺える。

「レイモン=ジャック・トゥルネとアーロン・シェーファーが、この叙事詩の校訂版で指摘したように、三分の二が人間であるというギルガメシュの本性は、象徴的に調子相続制文化を参照しないと、理解できない。この分割には、三分の二 対 三分の一という均衡が姿を見せるわけだが、それは頻繁に〈長子の取り分は二人分〉の定めの結果として現われる均衡に他ならない。」

 聖書の記述からも、シュメールが直系家族であったことが伺える。

「強い印象を与えるのは、聖書における初子〔最初に生まれた者〕という概念の宗教的な中心性である。

聖書は、メソポタミアの周縁部のそのまた周縁部でずっと後になってから書かれたものであるから、シュメールの古い相続制の痕跡を残しているのである。」

 そこへ、父系制で兄弟間が平等な遊牧民、アムル人がやって来る。古バビロニア王国の始まりだ。

 ここにおいて、シュメールの直系家族と、アムル人の兄弟が平等な父系制家族とが融合することになる。

 できあがったのが、父系制の共同体家族である。

 これは、中国における直系家族が、兄弟な平等な父系制家族の匈奴と出会ったことで父系制共同体家族に変貌したのとまったく同じだ。

 それゆえトッドは次のように言う。

「秦の始皇帝はハンムラビ王の意識せざる反復者であったということになるだろう。」    


9.古代エジプト

 メソポタミアに比べると、エジプトの歴史は平坦である。

 しかしそれでも、その家族システムにはいくつかの劇的な動きがあった。

 古代エジプトの家族システムの特徴は、未分化の核家族と女性の高いステータスにあった。


 初期ファラオは一夫多妻だったが、子供はその王位を母親のステータスに応じて継承していた。女性の地位は高かったのだ。

 新王国時代、および末期エジプトにおいては、女性のステータスはさらに上昇している。なぜか?

 新王国時代には父系制のメソポタミアとの接触があった。前1600年頃のことだ。

「新王国の女性尊重的屈折の中に、エジプトのアイデンティティの再確認、すなわち、メソポタミアの父系的・反女性主義的な社会との接触から生まれた否定的分離反動を見ないわけにはいかないではないか。」

 おなじみの「反動」理論だ。メソポタミアへの反動から、エジプトの女性のステータスはさらに強化されることになったのだ。

 末期エジプトも同様だ。アッシリア、ペルシャ、そして最後にギリシャがエジプトに侵攻するが、この強固な父系制民族に対して、エジプトの家族は自らのアイデンティティをかけた反動を経験することになったのだ。

 さて、このギリシャの侵攻、すなわちアレクサンドロスによるエジプト征服が、この地に内婚をもたらすことになる。

 ギリシャ人たちによるプトレマイオス朝(ラゴス朝)エジプトのヘレニズム期において、内婚が広がることになったのだ。

「これについて、ギリシャ人の役割は根本的に重要である妹の結婚の慣行は、古王国以来ファラオ族の中で行なわれたことが証明されているが、ギリシャ人の到来までは、つねに王家だけに限られていた。それは主権者たる王の本性が部分的には神であるということの表現だった。〔中略〕〔姉〕妹の、オジと姪の、イトコ同士の結婚が真に優勢になって、王家が徹底的に内婚化するのは、ギリシャ人のラゴス朝からなのである。

 ギリシャ人入植者たちは、周囲のエジプト住民集団に対する優越性を主張するために、王の慣習を採用したのだ。


10.アラブの内婚の起源

 さて、このギリシャ発の内婚が、アラブに影響を及ぼしていくことになる。

ベドウィン・アラブ人が広範に居住していたナバテア王国は、〔共通紀元前〕三世紀からラゴス朝エジプトと強い歴史的相互作用を繰り返していたが、この王国こそ、内婚がこのように台頭するための坩堝となったに違いない。」

 なぜ、アラブ人は内婚を取り入れるようになったのか?

 もともと、ベドウィン・アラブ人は、アルカイックな双系制だった。

 彼らは、女性のステータスがきわめて低いアッシリア帝国との接触に、息苦しさを感じていたに違いない。

 その後、アラブ人はプトレマイオス朝(ラゴス朝)エジプトと接触し、その内婚を知る。

 したがって彼らが内婚を取り入れたのは、あまりに強固な父系制への反動であったと思われる。

内婚というものはつねに、女性は重要であり、商品のように交換することはできず、女性の血もまた生まれ来る子供が何者であるかを定義するのだということを合意する。


アラブ人によって発明された内婚は、父系制の最も極端な帰結から逃れ、きわめて暴力的な父系性、過激な反女性主義という環境の中で、双方的つながりを保持するための一つのやりかだったのではなかろうか?」

 アラブにおける内婚は、強固にすぎる父系制の緩和装置だったのだ。



(苫野一徳)

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