スザンヌ・リラール『愛の思想』


はじめに

 現代において、愛は単なるエロティシズムに堕してしまっている。

 あるいは、取り替え可能などこか「軽い」ものとして扱われている。

 しかし、愛(恋愛)とは本来、愛し合う二人の肉体的・精神的な融合であり、情熱とその持続を同時に可能にするものだ。

 そのような愛の「聖性」を、本書でリラールは蘇らせようとする。

 読み物として、抜群に面白い。ルーベンスの結婚エピソードに始まり、プラトンディオンの恋や、ソクラテスの性的自制のエピソード、そしてアリストテレスのこき下ろしなど、読み応えある文章にあふれている。

 もっとも、本書後半の主張には、いくらかの陳腐さも感じないわけにはいかない。

 愛の「聖性」を教育によって教えていこうとか、男性の愛ではなく女性の愛こそが救いであるとか、安易な提言が述べられている。

 必要なのは、こうしたアジテーション的・スローガン的な提言ではなく、愛の聖性を可能にする「条件」の解明なのではないか。

 と、それはともあれ、本書で紹介される興味深いエピソードの数々を見ていくことにしよう。


1.愛の二つの典型

 17世紀オランダの画家、ルーベンス

 彼の一度目の結婚は、「理性的」な結婚と言われている。

 それに対して、二度目のそれは「情熱的」な結婚とされている。

 一人目の妻の名は、イザベラ。

 ルーベンスは、彼女に強くたくましかった母の面影を見ていたという。

「彼は、愛する母を失うや否や、母と生き写しの女を見つけることしか考えなかった。そしてイザベラはまさしくそのような女であった。強くて同時にやさしく、生活を、家庭を、生涯を、仕事を、安んじて託せるような女であった。一言にして言えば、「伴侶」であった。」

「これは理性的な愛である。それは「生活に(つまり、日々の生活に)参与する」という言葉にいみじくも表現されている。忘れてはならなしが、ルーベンスの生涯は成功の星の下にあった。彼が必要としていたのは、家庭的で、うるさくなく、偉大な芸術家の規律――朝は四時に起き、一日じゅうデッサンや絵を描き、午後五時には精悍なスペインの馬に乗って城壁をめぐり、翌日の仕事に備えるために質素な夕食を早目にとる(いく人かの友人と一緒に。彼は彼らに絵や瑪瑙の蒐集を見せたりする)――の邪魔をしない妻であった。」
   
 そのイザベラが亡くなってしばらくして、ルーベンスはヘレーナと結婚する。

 36歳も年の離れた夫婦だった。

 イザベラと違って、ルーベンスはヘレーナに美しさ以外の何も求めなかった。


「老いゆく男が前後の見境なく肉欲に溺れていったことを絵は物語っている。」

 ここに、私たちは愛の二つの典型的な姿を見ることができるとリラールは言う。

「愛の二つのタイプ、カップルの二つのタイプ、協力し合う二人と愛し合う二人。さらに、女の二つのタイプ、情婦と家政婦。永遠に重ならない二つのタイプ。大昔からある偽善的な二枚舌の論理によって男は、第二のタイプの女性の利点を失うことなく、第一のタイプの女性を楽しむことができる。」    

 情婦と家政婦。男は常に、このどちらをも求めているのだ。

 しかしリラールは言う。本書で私は、このどちらかに偏るのではない愛、いわばどちらの愛も融合した、真の愛を再生したい、と。

「男はどう考えるにせよ、愛は、完成するためには永続的なものでなければならないからである。本書においてわたしが擁護したいのは、まさにこのような愛のあり方である。わたしは、エロティシズムに反対し、エロスに賛成であると言えば十分であろう。」

 「再生」と言ったのは、リラールによれば、それは過去の歴史においてただ一度、古代ギリシャにおいて実現していたものであるからだ。


2.古代ギリシャ(プラトン)における愛

 プラトンは、40歳の時、20歳の美少年ディオンに恋をした。

「ディオンは、最高度に高貴の生まれであり、容貌と肉体の美しさと精神の美しさを併せ具えていた。また彼は、プラトンが愛したかの真面目さと重々しさのみならず、謙虚と恥じらい、そしておそらくある種の気の弱さをももっていた。その気の弱さのために彼の両頬に赤味がさすときは、彼は「なおさら魅力的に見えた。」彼は二〇歳であった。」    

「二人の結びつきは、最後の瞬間まで、ギリシャ固有の愛の理想に忠実であった。プラトンは絶えずディオンを教育し、陶冶し、ディオンも絶えず師の教えにもとづいておのれを鍛えた。二人の関係が通常の少年愛の枠を越えていた点は、この愛の体験が、はじめて相互理解にまで成長していったことである。このエロスは、エロスの哲学にまで高められた。そこに精神的受胎のテーマが見出されるのは何ら驚くに足りない。」

 「精神的受胎」。ここに、古代ギリシャにおける愛の理想がある。

 先にリラールは、エロティシズムを否定しエロスを肯定すると言ったが、ここで言われるエロスを彼女は次のように定義する。

「人間は、「神々しき顔、美の絶妙な模倣、または、同じく立派な肉体に出会うと」、真の美の想い出にとらえられ、それを所有したいと思うようになる。この忘我の状態がエロスである。」    

 このような美を前にした忘我状態は、それが最高度に達した時、「精神的受胎」への欲望形式を取ることになる。

 「肉体的受胎」への欲望は、その一歩前の欲望にすぎない。エロスの最高潮において、人は「精神的受胎」を求めるのだ。

 古代ギリシャにおいて、高貴な人々の間における少年愛が一般的だった理由はここにある。

「肉体によっておのれの不死を求める者のみが女性を求める。逆に、魂のなかに生殖欲をもっている「真に神々しき人」は、子どもをつくりたくなると、美青年を探し求め、これを教育しようとするだろう。」    

 この時代、精神的な高貴さを備えた女性はそれほど多くはなかった。だから彼らは、少年愛に最高のエロスを見出したのだ。

「女嫌いが少年愛を招いたのか、それとも、少年愛が女性蔑視を惹き起こしたのかという問題がしばしば論じられた。そのいずれでもない第三の説明もある。すなわち、男は、本来は女嫌いでないのだが、水準の高いエロティシズムを求めるので、その水準に女がついてこれないと、女から離れてゆくことになるのだというわけである。」    

 このような「精神的受胎」を理想とするエロスの哲学こそ、プラトン主義の真髄だ。

 よく知られているように、プラトンのエロス論は、個別の肉体美への欲望から、個別を超えた美、さらには肉体を超えた魂の美、そしてついには美のイデアへの希求に到達するというストーリーになっている(プラトン『饗宴』のページ参照)。

 これは、いわば肉体を叡知的なものへと「改宗」させる思想であるとリラールは述べる。

プラトン主義とは、本質から言って、感性的なものから叡知的なものへのこの移行のことである。それを肉体的なものに根づいていると見なすことは、肉体的なものから切り離すのと同様、大きな誤りである。


プラトン主義に固有な考え方は、(肉体を「恥の衣服」と見なすマニ教やグノーシス派のように)肉体を軽蔑することではなく、絶えず乗り越えられ、絶えず再生する二元論の弁証法的運動のなかに肉体を引き入れることによって肉体を宗させる(convertir)こと、貞潔を感性的なものを支配するための最高の段階と見なすことである。


3.アリストテレスにおける愛

 しかし、プラトンの弟子アリストテレスは、このような愛の聖性を全く理解しない人だった。

 リラールは、アリストテレスを次のように批判する。

「この人物を好きになるのはむずかしい。彼の女性蔑視は非常に深く、彼の科学理論に重くのしかかっている(雌は「不毛な雄」「不具になった雄」でしかない。雄だけが生殖能力をもっており、雌は物質に過ぎない。雄は「神々しく」、その精子はたましいの原理を含んでいる。雌が不具になった雄だというのは、その精液のなかにたましいが存在しないからである。だから雌だけでは子をつくれないのである。本質的に何かが欠けているというのが雌の本質である、等々)。」

「アリストテレスは、愛が排泄と同じ器官を用いていることを恥ずべきことだと見なした者の一人である。彼がこの事実にいかにこだわっていたかはよく知られている。彼が生殖器や、生殖の様式、態位の研究をとくに好んだこと、生殖機能と排泄機能の比較に熱心だったことは、彼の科学的探究心だけでは十分に説明がつかない。」

「こうした連中が、一見同じように見える何らかの行為について、他の人たちよりも恥ずかしがるのは、彼らの魂が高尚だからではなく、彼らのなしていることが低俗で平凡であり、しかも、彼らはそこから抜け出せないからである。」
    
 このようなアリストテレスが唱えたのは、「協力結婚」なるものだった。

人間が結婚するのは子どもをつくるためであり、また、経済的理由のためでもある。すなわち、生活に必要なものを一緒に求め、仕事を分かち合い、なかんずく「おたがいの利点を一つにまとめる」ためである。」

「したがって、アリストテレスが結婚愛を再興したなどと言う人があれば、強く抗議しなければならない。彼が再興したのは、理性的愛でさえなく、協力結婚である。」

 肉体愛と精神愛の高次の融合といった愛の聖性は、ここにはかけらも見られないのだ。


4.キリスト教の愛

 キリスト教の時代に至って、愛の聖性の否定は極地に達する。

 肉の罪は、パウロによって罪の中の罪とされることとなる。

「聖パウロは、女性に原罪の責任を背負わせ、女性をきびしくとがめ立てた。女は男を堕落させる誘惑者であるというテーマは、女性の地位を低くするための口実に使われるようになった。誘惑されたのはアダムではなく女である。だから女どもは口をつぐみ、ヴェールをかぶっていなければならない。なお、男が女のために創られたのではなく、女が男のために創られたのである。」    

 それゆえ結婚は、悪魔の誘惑から逃れるための消極的な手段という位置づけになる。

 時代が下ると、この思想はさらに極端なものになっていく。


聖ジェローム、聖アンブロシウス、クリュソストモスの聖ヨハネは、聖パウロのひどさにさらに輸をかけてひどくなり、結婚するよりも童貞、処女、やもめでいる方が絶対に正しいことを認めさせようとやっきになった。」

 以上のような、エロスの聖性を否定するキリスト教的愛を、リラールは次のように批判する。

「偉大なギリシャのエロスの哲学は何を教えていたのだろうか? すなわち、すべての愛は、潜在的に神への愛だということである。したがって、宗教は、エロスを取り戻すことによって、その本質を取り戻すのである。宗教がエロスとの血縁を否認していたということ、これ以外のことで宗教を責めることはできない。」

 エロス的聖性を否定するところに、宗教の本質はない。

 リラールはそう言うのだ。


5.再聖化へ向けて

 そこで彼女は、現代における愛の聖性の回復を主張する。

 キリスト教的愛の思想に加えて、リラールは現代における2つの愛の思想もまた否定する。

 1つは、バタイユ的エロティシズムの思想。もう1つは「取り替えのきく愛」の思想。

 バタイユは、エロティシズムの本質を「禁止とその侵犯」として提示した(バタイユ『エロティシズム』のページ参照)。

 しかしそこにとどまる限り、「精神的受胎」にまで高められた愛の実現は不可能である。


「「わたしは罪という観念がもつ無限のものを必要としている」とバタイユは言った。罪という手段が一つのであることは疑いない。それは、偉大な文明(インド、中国、ギリシャ)が認識し、容認していた左手の道である。〔中略〕それは、同性具有のテーマ、あらゆるレベルで体験されたその相補性の否定であるだけでなく、愛そのもの、愛に付随するさまざまな情緒――やさしさ、尊敬、感謝。これらは愛のすべてではないのはもちろんだが、これらがなければ愛は長つづきし得ないであろう――の否定でもある。」

 もう1つの「取り替えのきく愛」について、リラールは次のように言う。


「「抽象のエロス観」とでも呼び得るもう一つのエロス観も排除しなければならない。愛の関係においては、パートナーが最高に重要であり、情熱愛によってパートナーを神々しきものへと高めるべきなのに、この方法は、関心を払わなくても済む、取り換えの利く複数のパートナーを相手にしようとする。」

 バタイユ的エロティシズムも、「取り替えのきく愛」も、いずれも愛の聖性から遠ざかるものなのだ。

(私自身は、バタイユのエロティシズム論はむしろ聖性の哲学にほかならないと考えているが、それについてはここでは割愛する。バタイユ『至高性』のページなどを参照されたい。)

 では、回復されるべき愛とは一体どのような愛なのか?

 リラールは次のように言う。

「そのような愛は、個人を抽象化するのではなく、具体的存在として認める愛でしかあり得えない。それは、「絶対的力をもち、生涯にわたってつづくことを願い、その対象をただ一人の存在のなかにしか認めない愛」であり、ブルトンの言う「狂恋」、バンジャマン・ベレーの言う「崇高な愛」、練金術者たちの言う「完全な愛」、プラトンの「人間を神々しきものに近づける愛」、われわれの言う「全面的な愛、不条理な愛」である。」

 それはどうすれば可能なのか?

 リラールは言う。目を向けるべきは、女性の愛である、と。

「結婚や恋愛に、女は情熱と持続性とを同時に求めるが、男は、両者を両立できないものと見なしている。これは、エロティシズムに関する根本的に異なった二つの見方であり、両性の誤解のもっとも明白な形態である。女は、愛を長い発展の過程と見なし、男は、一旦女を所有すれば愛は完了したと考える。男の愛は、所有にはじまり、所有に終わる。この過程は何度でもくり返されるかも知れないが、とにかく、そのたびごとに愛は意味を失う。ところが、女にとっては、愛はつねにその意味を増してゆくのである。」   

 男が一瞬のエロティシズムに賭けるのに対して、女はその持続と増大を求める。

 このような女性の愛を、現代社会は「教育」によって広げるべきである。リラールはそう主張する。そして本書を次のような言葉で締める。

「女性の恋愛観によってのみ、われわれは、愛を夢見る代わりに愛を生きることができ、最初の波瀾のあと、あらゆる年齢を通じて、かつての愛のすばらしいやさしさの、汲めども尽きぬ想い出とともに、新しい愛を知ることができる。」


「女性は、浄化するだけでなく、教育する。性の儀式でイニシャティヴを取るのは男かも知れないが、性のもつ意味、愛によってのみ解明される意味を開示するのは女の役割かも知れない。」

(苫野一徳)

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