ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(3)


はじめに

 ショーペンハウアーと言えばペシミズム、と言われるが、本邦訳第3巻において、ショーペンハウアーは彼のペシミスティックな世界観と、そこからの「解脱」の仕方について述べていく。

 相も変わらず、むちゃくちゃなことばかり言っている。どれだけむちゃくちゃかは、以下の解説をお読みいただきたい。

 わたし自身は、これはショーペンハウアーの求道の書だったのではないかと考えている。

 苦悩に満ちた人生から、彼は逃れたかったのだ。

 「解脱」するには、「禁欲」「苦行」「意志の否定」などが必要だ、などとショーペンハウアーは言い、前巻で見たような、純粋なイデアの鑑照の境地などについて述べるのだが、彼自身は、そのような涅槃寂静の境地にはおそらく到達していなかった。

 伝記などを読むと、ヘーゲルをはじめ、先輩哲学者たちにかなり嫉妬していたことがうかがえる。実際、彼はヘーゲルの足元にもおよばないとわたしは思う。

 いずれにせよ、彼はそのような苦悩の人生から、何とか救われたかったのではないだろうか。

 『意志と表象としての世界』という、このあまりにむちゃくちゃで独りよがりな形而上学的物語は、そのために彼が精一杯創作した世界なのだ。

 よく言われるように、ショーペンハウアーの哲学は仏教のそれに近い。

 しかしわたしは、そう言っては仏教2500年の歴史に失礼なんじゃないかとさえ思う。

 仏教哲学には、人間が考えうる限りのあらゆる形而上学的世界観がある。その意味で、ショーペンハウアーの哲学は、その広大な世界に吸収されてしまういわば小さな系でしかないとわたしは思う。(「仏教の思想」シリーズのページ参照)。


1.人生は苦悩である

 ショーペンハウアーはまず次のように述べる。

「人間の生活というものはすべて、終始一貫して願望と達成というこの二つの間を流れつづけているものである。願望はその本性のうえからいって苦痛である。その願望が達成されると今度はたちどころに飽きがくる。目標は見せかけにすぎなかったからである。所有は魅力を奪い去ってしまう。そうするとまたしても願望や欲求が装いを新たにして出現することになるであろう。」

 人生は、願望(苦痛)とその達成と倦怠の繰り返しである。そうショーペンハウアーは言うのだ。

 そのような人生から歓喜を得られるとしたら、それは何といっても芸術によってである。

 しかし芸術は、一部の選ばれた人間にのみ可能なことだ。だから普通の人は、どうしても苦悩としての人生を生きるほかにない。

 ショーペンハウアーはそのように述べる。


「個々の人間の生涯についていえば、これは誰の一生の歴史にしてもけっきょくは苦難の歴史であろう。いかなる人の生涯も、たいていは大小さまざまな災難の連続である。」


2.苦悩の量は決まっている

 続けてショーペンハウアーは、またもお得意のむちゃくちゃな論を振りかざす。

「ところで、苦痛は避けがたく、一つの苦痛を追い払えば次のが現われ、前の苦痛が退けば新しいのが引き寄せられてくるというようなことを考え合わせれば、われわれは次のような仮説へ、すなわちそれぞれの個人において彼の本質をなす苦痛の量は彼の本性を通じて初めからちゃんと確定的に定まっているのであり、たとえ苦悩の形式がいろいろに変わっても、苦悩の量そのものはなんの過不足もなく一定しているのではなかろうかという、逆説的ではあるがしかし辻棲がまったく合っていないとも言い切れない仮説へと導かれるであろう。」

 一人ひとりの苦悩の量は、あらかじめ決まっているとショーペンハウアーは言うのだ。

 その論拠を、彼はたとえば次のように言う。

「もしわれわれの胸をしめつけていたなにか大きな心配がついに幸福な結末をつげてわれわれの胸からとり去られたとなると、今度はそれに代わってただちに別の心配が立ち現われてくるであろう。この新しい心配の種子は全部すでに前から同じ場所にあったはずなのだが、意識はまだそれを受け入れる収容力に当時余裕を残していなかったのでこれを心配として意識するにはいたらず、かくて新しい心配の種子はしばらくは意識の地平線のはるか遠いはずれに気づかれない暗雲としてひそんでいたままであった。ところが今やその場所が空席になったのだから、すでに待ちかまえていた新しい心配の種子はただちに近寄ってきて、その日を支配する心配という名の玉座を占めることになるのである。」

 まったく論証になっているとは思えないが、とにもかくにも、ショーペンハウアーに言わせれば、各人の苦悩の量はあらかじめ決まっているのだ。


3.意志の肯定

 さて、このような苦悩の背景には、わたしたちの「意志の肯定」が潜んでいるとショーペンハウアーは言う。

 意志とはすなわち「生きんとする意志」のことだが、これが最も顕著に見られるのは「性欲」だ。

「性行為のうちに、生きんとする意志のこのうえなく決定的な肯定が、まじりけなく、しかも余計なつけ足し〔たとえば他の個体を否定すること〕などまったくなしに表わされていることを、欲望の自覚と激しさとがわれわれに教えてくれる。」

 しかしこのような「意志の肯定」を続けているかぎり、人間に幸福は訪れないとショーペンハウアーは説く。


4.意志の否定

 「意志の否定」をせよ、とショーペンハウアーは言う。

 そのためには、まずは性欲を自発的に断念する必要がある。


「したがってこの性欲の満足を断念すること、自発的に、いかなる動機にももとづかないで断念することは、それだけで生きんとする意志の否定である。」

 ここへ来てそんな単純な禁欲を説くのか、と、ちょっと苦笑してしまう。


5.愛

 さて、人間が幸福になる(解脱する)ためには、この「意志の否定」に加えて、もう一つ「愛」という道があるとショーペンハウアーは言う。

 愛とは何か? それは「同情」(Mitleiden/共苦)にほかならない。

「善、愛、高潔な心を動かして善い行為や愛の黙をおなわせることができるのは、つねにただ他人の苦悩に対する認識にほかならず、これは自分の苦悩から出てこそ直かにわかるのであり、他人の苦悩を自分の苦悩と同一視しているものなのでる。そこで、純粋な愛〔アガペー、カリタスはその本性のうえからいって同情Mitleiden(共に苦しむこと。以下同情はこの共苦という原義に関わる)である。」    

 愛が同情であるとするなら、そこにあるのは相手と自分との同一視である。

 それゆえショーペンハウアーは、愛は相手のために自分を犠牲にすることはないと言う。

「愛が完全になっていくと、他人の個体ならびにその運命を自分自身の体や運命とまったく同一視するようになるであろうが、愛はそれ以上にはけっして進み得ない。自分の個体よりも他の個体を優先させるいかなる理由も存在しないからである。」

 ただし、相手が多数いた場合は、自分を犠牲にすることもあるとショーペンハウアーは述べる。

「ただし多数の他の個体の幸福や生命の全体が危殆に瀕しているような場合には、この多数の方が個人ひとりだけの幸福への顧慮よりも上まわるということはおそらくあり得よう。こうした場合、最高善と完無比な高潔心に到達した性格者は、自分の幸福ならびに生命を他の多数者の幸福のためにすっかり犠牲に供することであろう。」 

 あまりにむちゃくちゃな叙述で、これで本当に哲学者と呼んでいいのかとあきれてしまう。

 さらに続けて、ショーペンハウアーは次のように言う。

「喪にある人が泣くのは、自分の大切な人を喪ったためなのではない。そんな利己的な涙だったら、人はそれを恥とするであろう。〔中略〕してみると彼の心を主としてとらえているのは、人類全体の運命に対する同情なのである。全人類は有限性の所有に帰している存在であり、どんな勤勉な生涯も、またどんな活動的な生涯も、この有限性のゆえにしょせんは消え去って無と化するほかはないものであろう。」

 いったいどこまでむちゃくちゃなことを言えば気が済むのか。

 わたしたちが愛する人の死を泣いて悲しむのは、その人を失ったからではなくて、すべての人類がやがては死すべき運命を担っているということに同情(感情移入/共苦)するからである。ショーペンハウアーはそう言うのだ。

 「そうそう、まさにその通り!」などと思う人が、いったいどれだけいるだろう。


6.鎮静剤(断念、捨離、寂静)

 先述したように、苦悩からの解脱には、「愛」ともう一つ「意志の否定」という道がある。

 先に、その一つの方途として性欲の自発的断念をあげたが、ショーペンハウアーは本書の最後にさらに本質的な道を説く。

 「物自体」としての「意志」を、しっかりと認識すること。ここに解脱の鍵がある。ショーペンハウアーはそう言うのだ。

「物自体の本質が、万象のうちに現われる同一の意志であるとして、直かに認識されるにいたれば、そしてこの認識のなかから意欲を鎮める普遍的な鎮静剤が生じてくるようになれば、そのときいちいちの動機は無効果になってしまうだろう。」    

 インド哲学が、ブラフマン(梵)アートマン(我)とが一如であることを悟れば解脱できると説くのとよく似た論法だ。

 こうして「意志の否定」にいたったわたしたちは、人から侮辱されようとも動じなくなる。

「わが身に現象している意志自体を彼は否定してかかっているのだから、他の人が彼の意志を否定してきても、つまり彼に不正を加えても、彼は抵抗しないであろう。 」   

 死も喜んで受け入れる。

「死がついにやってきて、自分というこの意志の現象を解体してしまうと、彼の場合、身体に生命を与えるものであった微弱な残滓を除いては、意志の本質は、これまでにもうとっくに意志自身の自発的な否定によって死滅していたはずなのであるから、今や実際の死は、待ち望んでいた救済としていたく歓迎され、喜んで受け入れられるだろう。」

 ただし、自殺はまた別である。自殺者は、結局のところ生きんとする意志にとらわれているのであり、だからこそ、それに満足できないことを苦に自殺するのだ。

ただし意志のこの否定は、自殺、すなわち意志の個別現象を自分勝手に廃棄してしまうこととは、厳密に区別されなければならない。自殺は意志の否定であるどころか、むしろ意志の強烈な肯定のひとつの現象である。〔中略〕もともと自殺者は生を欲しているのだ。自殺するのはただ、現在の自分の置かれている諸条件に満足できないというだけの話なのである。


7.無

 こうして、「意志の否定」はわたしたちを寂静の境地に到達させる。


意志の自由な否定、放棄とともに、この世界を成り立たせていた混乱錯雑――あらゆる段階の客体性のうちに現われる終局も休息もないあの不断の混乱錯雑――もなくなり、段階的に相次いで現われた諸形式の多様性もなくなり、意志がなくなるとともに意志の現象全体がなくなり、しまいにはとうとうこの現象の一般形式であるところの時間と空間もなくなり、さらにはまた現象の究極の根本形式である主観と客観もなくなってしまうのである。意志がなければ、表象もないし、世界もない。」

 とすれば、残るのは「無」のみだ。

「われわれの前にはただ無だけが残っている。」

 ただひたすらに無に生きよ、とショーペンハウアーは述べ、最後にはご丁寧にもインド哲学や仏教を批判し、まるで自分の哲学の方がすぐれているかのごとく言う。

「あのインド人たちにしてからが、神話だとか、意味のからっぽな言葉をつかって、梵(ブラフマン)への参入とか、仏教徒たちの涅槃(ニルヴァーナ)への帰入とかいって、無を回避しているのであるが、われわれはこれを回避することすらしてはならないのである。」

 冒頭にも書いたように、わたしの考えでは、仏教哲学には人間が考えうる限りのあらゆる形而上学的世界観がある。その意味で、どれだけ自身の優位を説こうとも、ショーペンハウアーの哲学は、仏教に吸収されてしまういわば小さな系でしかない。

 それはともかく、ショーペンハウアーは本書を次のように締め括る。

「意志を完全なまでになくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。しかし、これを逆にして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、これほどにも現実的にみえるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河をふくめて――無なのである。」



(苫野一徳)


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