C・S・ルイス『四つの愛』


はじめに

 名作『ナルニア国物語』で知られるC・S・ルイス(1898〜1963)は、熱心なキリスト教徒として、数多くの宗教的著作も残している。

 本書もその一つ。

 ルイスは本書で、「愛着」「友愛」「エロース的愛」そして「恵愛」の4つの愛について論じる。

 キリスト教的愛(神の愛=恵愛)が理想化されすぎている嫌いはあるが(当然のことだが)、全体として、愛についてのすぐれた洞察が展開されている。

 中でも「友愛」についての考察は、古今の数ある「友愛」論の中でも一級品と言うべきだろう。


1.「与える愛」と「求める愛」

 よく言われるように、愛には「与える愛」(アガペー)と「求める愛」(エロース)の2つがある。

 ルイスは、当初、前者の「与える愛」こそが尊く、「求める愛」は異教的であると考えていた。

 しかしその後、考えを改めるようになったと彼は言う。

「実際問題としてわれわれが互いを必要としているのは確かであるから(「人が一人でいるのは良くない」創世記18節)、この必要性が心のうちに「求める愛」として現れないことは、言い換えればわれわれが一人でいることは良いことだという錯覚をもつことは、精神的に良い兆候ではあり得ない    

 「求める愛」は、蔑まれるべき異教的な愛ではなく、むしろキリスト教の神によって人間たちに与えられたものであるとルイスは言うのだ。

 さらに彼は次のように言う。

「人が神に対して持つ愛は、神に対する愛である以上、「求める愛」としての性格を強く持たざるをえないだろう。」

 人間は、神に愛を求めないわけにはいかない。だから「求める愛」は、「与える愛」とともに、人間にとって本質的な愛の形態なのである。


2.評価愛

 さらに、愛には3つめのものがあるとルイスは言う。

 それを彼は「評価愛」と呼ぶ。

「愛には第三の要素があり、それは他の二つと同様に重要であることが判明する。〔中略〕あるものが極めて良いという判断、そのものに注目すること(むしろ敬意を払うこと)が一種の義務であるという感情、われわれ自身がそのものから快楽を得ることはないとしても、それが存在し、そのままで存在し続けることを願うこと、これらの感情は事物に向けられるだけでなく人間にも向けられ得る。」

「求める愛」はわれわれの窮乏の底から神に向かって叫びを上げる「与える愛」は神に仕えること、あるいはそれ以上に神のために苦しむことを切望する評価愛」は神に向かって「あなたの大いなる栄光のゆえにあなたに感謝を献げます」と言う「求める愛」はある女性について「私は彼女なしでは生きることができない」と言う。「与える愛」は彼女に幸福と安楽と保護を――できれば富も――与えることを熱望する。「評価愛」は見つめ、固唾を呑み、沈黙する。そのように素晴らしい人が存在することが彼のためではなかったとしても喜び、彼女を失うことになっても完全に落胆することはない。彼女を失うことを悲しむよりも、彼女と出会えたことを喜ぶ。」

 「求める愛」や「与える愛」とは異なり、「評価愛」は対象の存在そのものをただ受け入れ、喜び、感謝する。そうルイスは言うわけだ。

 なるほど、確かに愛にはそのようなものもある、と思わされる。


3.愛着(Affection)

 以下、ルイスは4つの愛について述べていく。

 まずは「愛着」について。

 愛着とは、なじみあるものについての愛情のことだ。

 しかしそれは、時にその対象をないがしろにしてしまうこともある。

 たとえば、教師が生徒をいつまでも自分のものと考えてしまうような場合だ。

 これについてルイスは次のように言う。

少しでも良い教師であるためには、われわれの生徒たちがわれわれに対する批判者、好敵手として独立する瞬間を目指して働き続けるのでなければならない。その瞬間が来るとき、われわれは喜ぶべきである。あたかも、フェンシングの指南が教え子に突かれ、剣を打ち落とされる時が来るのを喜ぶように。    


4.友愛(Friendship)

 続いて、友愛について。

 先に言ったように、このテーマについてのルイスの洞察は傑出している。

 まず彼は次のように言う。

「「友愛」はすべての愛のうちで最も「自然的」ではない(だから悪いと言っているのではない)。それは少しも本能的ではないし、有機的生物学的ではない。集団形成的ではないし、生命維持のために必要なものではない。」    

 議論の余地がある気もするが、この観点からルイスはさらに続けて次のように言う。

「「友愛」が持つこの(言わば)「非自然的」特質は、「友愛」が古代や中世では称賛されながら現代では軽視されるようになったのはなぜかを、充分に説明している。古代社会や中世社会を最も深く長く支配した思想は、禁欲的思想、世界否定的思想であった。自然や感情や肉体はわれわれの魂にとって危険なものとして恐れられた。あるいは人間の身分・品位を貶めるものとして蔑視された。」   

 友愛は、古代においては称揚されたが今日では軽視されている。

 なぜか? それは、まず古代人(ギリシア・ローマを指していると思われる)にとって、「自然的」であることは軽蔑されるべきことだったからだ。

 彼らにとって、人間の自然的(=動物的)な部分は、克服されるべきものだったのだ。

 だから古代人にとっては、「非自然的」な「友愛」こそが最も価値の高いものだった。

 しかし現代人の考えは異なっている。

「しかし次にロマン主義の時代になり、「お涙ちょうだいのメロドラマ」と「自然に還れ」と「『感傷』至上主義」の時代が到来した。それに続いて興奮した感情を尊ぶ運動の大きなうねりが押し寄せてきた。この運動は繰り返し批判を受けることになるが、今でもすたることなく続いている。最後に血の中の暗黒の神々、すなわち本能を高揚する時代が来た。」    

 ロマン主義は人間の自然性を称揚した。そして今日、人びとはさらに自然的な「本能」を称揚している(おそらくフロイトが意識されている)。

 こうして現代においては、自然的なものを称揚するあまり、非自然的な「友愛」が軽視されるようになったのだ。

 さらに言えば、「友愛」とは単なる「同性愛」のことであるとさえ考えられるようになってしまった。

 しかし「友愛」と「同性愛」とは似て非なるものであるとルイスは言う。

 なぜなら、「エロース的愛」と「友愛」は、それぞれ異なる本質を持ったものであるからだ。

「愛し合う者たちは通常顔と顔を向き合わせ互いに相手に夢中になている「友人」は肩を並べ共通の関心事に夢中になっている。何よりも「エロース的愛」は(継続する間は)必然的に二人だけの間にしか存在しないしかし「二」という数字は「友愛」にとって必然的は数字でないだけでなく、最良の数字でもないその理由は重要である    

「チャールズがいなくなた今、私はロナルドを「独占」しロナルドをより多く楽しむことができるということには全然ならないチャールズがいなくなってしまった結果ロナルドは私にとって小さくなってしまったつまり真の「友愛」はすべての愛のなかで嫉妬心の最も弱い愛である。二人の友人は第の友人が加わること、またその三人に第四の友人が加わることを喜もちろんその新参者が真の友人になる資格を有する人であることが前提されるが。その時彼らはダンテが描く祝福された魂と共に「われらの愛を増し加えることのできる者が現れた」と言うことができる。    

 エロース的愛(恋)は、排他的な二者関係において生ずるものだ。

 それに対して「友愛」は、仲間が増えることに喜びを覚える。

 なぜなら「友愛」とは次のようなものであるからだ。

「「友愛」が成立するときに交わされる典型的言葉は、「何だって? 君も? 私だけだと思った」のようなものであろう。」    

「友愛」が生まれるのは、人々がおいを発見し合いヴィジンを共有するときである

この種の愛においては、エマンがうように「君は私を愛するか」と問うことは「君は私と同じ真理を見ているか」と問うことである。あるいは少なくとも「君は私と同じ真理に『関心を寄せる』と問うことである

 友愛、それは同じ「真理」を見る者同士の間に抱かれる感情なのだ。

 もちろん、この友愛が「エロース的愛」へと発展することはある。あるいは逆に、「エロース的愛」が友愛へと展開することもある。

秘密を共有することを発見した二人が異性同士である場合には、彼らの間に生じる友愛はすみやかにエロス的愛に移行するであろう(恐らく初めの三十分以内に)実際二人が互いの容貌を嫌悪するのでない限り、あるいはどちらかに既に愛し合う人がいるのでない限り、早晩エロ的愛をもって愛し合うようになることは確実であるまた逆にエロス的愛が愛し合う者たちの間の「友愛」に発展する場合もあるしかしこのことはこれら二つの愛の間には違いがないということを意味しないむしろその違いをはっきりさせることになるもしある人が初めは深く十全な意味において「友人」であったのに、徐々に、あるいは突然に愛人でもあることが分かったときには、この「最愛の人」のエロース的愛を第三のいかなる人とも共有したいとは思わないに違いないしかし最愛の人」との間にある「友愛」を他の人と共有してもまったく嫉妬を感じないだろう。    

 エロース的愛の中にもし友愛があったなら、私たちはその友愛部分に関してのみは、排他的な二者関係であることを必ずしも望まない。

 友愛は「真理」の共有拡大を求めるものなのだ。

 彼は続ける。

「友愛」は「エロス的愛」と異なり詮索好きではないあなたがある男の「友人」になるとき、彼が結婚しているか独身か、あるいは何を職業としているかなどを調べたりしない。これら「どうでもよい事柄、散文的な事実」が、核心的な問いつまり「あなたは私と同じ真理を見ているか」に何の関係があろうか。真友人」たちの交わりにおいては各人はあくまで自分自身であり、何かほかのものの代弁者ではない。誰も「友人」の家族や職業、階級、収入、人種、あるいは履歴などについて何の関心も持たない。」   

 エロース的愛は、相手のすべてを所有することを欲する。

 それに対して、友愛にとって重要なのは、ただ「真理」を共有することのみなのだ。


5.エロース的愛(Eros)

 続いてルイスは、エロース的愛(恋)について筆を進める。

 このテーマについてのルイスの論述は、やや平凡な感を免れない(恋については、竹田青嗣『恋愛論』がすぐれた哲学的恋愛論になっている)。

 と、それはともあれ、まずルイスは、恋につきもののエロティシズムを「ヴィーナス的愛」と呼んで次のように言う。

 多くの人が、人間がもともと持っているのはこのヴィーナス的愛(エロティシズム)の方であり、エロース的愛(恋)はその結果であると考えている。しかしそれは間違いである、と。

「男によっては、女を見て初めは単なる性欲を起こし、後の段階で「その女と恋に落ちる」という経験をする者もあるだろう。しかしそれが普通一般であるとは思えない。ほとんどの男の場合、最初に起こることに単純に心奪われることである相手の女性全体について曰くい難いほど全体的に心を奪われることである。このような状態にある男には性行為について考える余裕はな。」    

 男は、女性にエロティシズムを感じる前に、相手に心のすべてを奪われてしまうことがある。

 この時、私たちは、恋の相手はほかならぬこの人でなければならないと思う。

 この点、ある一定の条件さえクリアしたなら、どんな人に対しても抱けてしまうエロティシズム(ヴィーナス的愛)とは対照的だ。

「男は「エロス的愛」によって女を欲するのではなく一人の特定の女性を欲する。    

 しかし恋において、わたしたちは「ヴィーナス的愛」(エロティシズム)もまた同時に抱く。

 それは実に不思議なことだとルイスは述べる。

「エロース的愛」のように天翔ける激情が、そして見るからに超越的な激情が、肉体的欲望と切っても切れない関係で結ばれているということは、神が楽しまれる冗談だとしか私には思われない。〔中略〕「エロス的愛」に燃えるときわれわれは空を飛んでいるかのように感じる。しかし「ヴィーナス的愛」はそんなわれわれをぐいぐい引っ張って、われわれが紐付きの風船であることを思い起こさせる。それはわれわれが複合的な生き物であって理性と動物性とを兼ね備えており、一方では天使に似ていながら、他方では猫に似る存在であるという事実を繰り返し明らかにする。    

 ルイスの、エロース的愛とヴィーナス的愛の関係についての考察は、私には非常に物足りない。この点、やはり竹田青嗣『恋愛論』が深く掘り下げて考えているので、ご興味のある方には参照していただきたい。


6.恵愛(Charity)

 本書の最後に、ルイスは「恵愛」について述べる。

 端的に言えば、これは「神の愛」のことだ。

 まずルイスは、神は私たちに「与える愛」と「求める愛」を与えたもうたと述べる。

 まず「与える愛」についてから。

神はご自分の「与える愛部を人間に分け与え給うこれは神が人間の本性のうちに組み込んでくださった諸々の「与える愛」とは異なる。〔中略〕神の「与える愛」――人のうちに働き給う愛なる神ご自身――は完全に無私のものであって、愛の対象にとって最善のことだけを欲する。」    

 ルイスによれば、私たちは絶対的に無私な「与える愛」を持つことが可能なのだ。

 しかもそれは、「愛されるに値する人たち」への「与える愛」だけではない。

「神の「与える愛」が人に与えられるとき、自然的観点から見るとまったく愛らしくないものを愛することを可能にする。人から忌避される病者、犯罪者、敵、愚か者、捻くれ者、お偉方、自大主義者等々を愛することを可能にする。」

 ルイスはさらに言う。

「最後に、これは逆説の極みであるが、神は人間がご自身に対して「与える愛」を向けることを可能にしてくださる。」    

 私たちは神に対しても「与える愛」を向けることができる。

 もっとも、神は完全であるので、別段何を与えられることを望むわけでもない。

 ここでルイスの言う「与える愛」とは、私たちが神が望むことをなすことなのだ。

われわれが見知らぬ人に食べ物を与え着物を着せるとき、その見知らぬ人はキリストである(マタイによる福音書253140)。これはわれわれが自覚していてもいなくても、明らかに神に対する「与える愛」である。    

 さて、ルイスによれば、神は私たちに、「与える愛」だけでなく「求める愛」をも与えたもうた。

 まず神に対する「求める愛」がある。

 私たちは神の恩寵を求めざるを得ない。この恩寵(愛)を求めない者は傲慢である。そうルイスは主張する。

 次に、人々に対する「求める愛」がある。

「神はわれわれ人間同士が互いを必要とする「求める愛」をも変革してくださる。そこではすべての人々の間に平等な変革が要求される。「恵愛」は「愛なる神」ご自身であるから、愛すべからざる者を愛する。現実社会において、われわれは誰でもこの「恵愛」を他の人々から受けることを求めるときがある。」    

 最後にルイスは次のように言う。

われわれが持つ諸々の自然的愛を「恵愛」に転換せよとの誘いに事欠くことはない。〔中略〕目が曇らされているとき、われわれはそれらの摩擦や挫折について理不尽なことを考える「もし私の子どもたちが良い子だったら(日ごとにあの子たちは父親のようになっている)、私は完全にあの子たちを愛することができるのに」〔中略〕れらの徳を実践する必要性はまずわれわれを駆り立て強制し、われわれの愛を「恵愛」に転換する努力に向かわせる(より厳密に言えば、神が転換してくださるのを願う)ものである。    

 私たちの中には、「愛よ、完全なものであれかし」という願いがどこかしらあるものだ。

 恵愛の求めは、まさにこの願いの内にこそあるのだ。

(苫野一徳)

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