ニーグレン『アガペーとエロース』(3)


はじめに

 キリスト教における「愛」の概念の歴史を研究する本書。

 物語は、ついにアウグスティヌスからルターに至るまでの時代に突入する。

 ニーグレンによれば、キリスト教神学の超大物アウグスティヌスは、キリスト教本来の愛の概念を見誤ってしまった人だった(アウグスティヌス『神の国』のページ参照)。

 彼が提示した愛の概念、すなわち「カリタス」は、結局のところアガペー・モティフとエロース・モティフとの融合に過ぎなかった。

 彼以降、中世神学はこの融合の呪縛から逃れ得なかった。

 この呪縛を解き放ち、キリスト教の愛の概念を純粋なアガペーとしてついに描き出した人こそ、マルティン・ルターにほかならない(ルター『キリスト者の自由』のページ参照)。

 大著『アガペーとエロース』のクライマックス。


1.アウグスティヌスにおけるカリタス綜合

 キリスト教が愛の宗教であるという通念は、明らかに5世紀の偉大な神学者、アウグスティヌスの功績に負っている。 

 しかし彼の愛の概念は、キリスト教の本来のアガペーとは異なっているとニーグレンは言う。

 これまでに見てきた通り、アガペーとは神の絶対的な愛である。

 それに対して、アウグスティヌスの言う愛、すなわち「カリタス」が意味しているのは「神への愛」なのだ。


「アウグスティヌスがカリタスについて語る時、彼はいつでも第一に、神への愛を考えていることは疑いのないことだ。」

 ここにあるのは、アガペーとエロースとを融合しようという試みだ。

 しかしそれは、キリスト教においては致命的な矛盾となる。

「われわれは、アウグスティヌスの愛の見解において、大きな致命的な矛盾に出会う。彼はエロースとアガペーとの両者を同時に維持しようとした。彼はそれが相互に正反対に対立していることと、両者の間の関係はあれかこれかでなくてはならないこととに気づかなかった。」   

 それにしても、なぜアウグスティヌスはアガペーとエロースとを融合しようとしてしまったのか。

 その理由は、彼がすべての愛は「奪う愛」であると考えたところにある。

 それはつまり、愛とは基本的に自分の幸せを願っての行為であるということだ。

「アウグスティヌスに生ける哲学的関心を最初に起こした書物、キケロの『ホーテンシウス』の中で、彼は次の言葉を見つけた、「確かにわれわれはみな幸福であることをのぞむ」。この言葉は、最も頑固な懐疑論者でさえ承認しなければならない事実として、キケロの議論の中で重要な役割をしている。それは議論の余地がない。だから、哲学的討議にとって特によい出発点である。」    

 人は己の幸せのために誰かを愛する。

 しかし本当に幸せになりたいのであれば、その対象は神でなければならないのだ。

「彼は次のように言うことができた。君は君自身の幸福を望んでいるが、それは君が求める場所で見いだされることはない。キリスト教が与える幸福のみが君の必要に十全に応じる。君自身の幸福を目指すことにおいて、君は知らずしてキリスト教の方向に向いている、と。」    

 つまりカリタスとは、アウグスティヌスにとっては神を愛する「正しい愛」「秩序づけられた愛」である。

 それに対して、一般的な愛、すなわちクピディタスは、「誤った愛」「不秩序な愛」なのだ。

 とはいえ、これら二つの愛は、その作用としては同じものである。

 異なっているのはその対象だけなのだ。

「カリタスとクピディタスとの差異は、種類の差異ではなくて、対象についての差異ということである。本質的にはカリタスとクピディタス、神に対する愛と世に対する愛とは実に緊密に符合する。愛はこの世のものに向けられようとも、あるいは神と永遠に向けられようとも、いずれにしても欲求であり切望である。」    

 こうしてアウグスティヌスは、アガペー・モティフとエロース・モティフトを融合してしまった。

 要するに彼は、カリタスを神に向かう「上昇的な愛」としたことで、エロースにおける上昇的な運動をキリスト教の愛の概念に取り込んだのだ。


2.エロース・モティフの中世への移行

 アウグスティヌス以降、中世の神学は、その愛の概念に必ずエロース・モティフを含ませることになった。

 たとえば5世紀の神学者プロクロスは、プラトンとプロティヌスを継承してエロースを上昇する愛と捉えたが、それにとどまらず、神からの下降する愛としても描き出した。


「彼とともにエロースの教理は新しい局面にはいったのである。」

「エロースはその方向を変えた。それはもはやただ上昇する愛ではなくて、また主として下降する愛でもある。」


「エロースの観念は、くまなく結合されるほどにアガペーの観念に接近しているように見える。」

 あるいは5〜6世紀のシリアの神学者、偽ディオニシオスもまた、すべてのものを結合させるエロースの力を論じた。

 彼がなぜ偽ディオニシオスと呼ばれたかと言うと、パウロの弟子、アレオパゴスの裁判人ディオニシウスの名を騙って自らの著作を発表したからだ。

 今ではそれが偽物であったということがわかっているが、当時のキリスト教会に、彼の著作は大きな影響を与えることになった。

 彼もまた、エロースの重要さを力説した。

「プロクロスと同様にディオニシウスは、エロースが生起するのは神自身からであるという。それは上から存在の極限にまで流れ降って、全ての被造物を神の神秘的な力に参与することを許すが、同時にそれは全ての被造物の切望を上へと向ける。」    


3.中世における愛

 アガペー・モティフとエロース・モティフの融合は、中世においてもその通奏低音を響かせていた。

 たとえば、13世紀イタリアの偉大な神学者、トマス・アクィナスにおいても、愛はアウグスティヌスと同様、基本的に「奪う愛」だった。

 そこで彼は、これがいかに正しい愛と結びつくかを考えようとした。

 出した答えが「友愛」だ。

「しかし、そうかと言って、彼はすべての愛を、利己的なものと考えることを正しいとは考えない。われわれは二種類の愛を区別しなければならない。奪う愛と友情の愛である。カリタスは後者の種類の愛である。キリスト者は神と自分自身とその隣人とを、友情あるいは仁慈の愛をもって愛する。これが中世後期において重要な「神との友情」の教理の基礎を置くものである。」    


4.ルネサンスにおけるエロース・モティフ

 その後、ヨーロッパにはルネサンスの波が押し寄せ、古代ギリシャ・ローマの文化が再び流れ込んできたのをきっかけに、エロース・モティフが華々しく前面に躍り出ることになる。

 メディチ家の後援を受けて設立された「フローレンス・プラトン・アカデミーの指導者マルシリオ・フィチーは、人間には神が宿っていると主張した。

 この思想自体は、もちろん何の新しいものではない。

 しかしそれでも、フィチーノの思想には、ルネサンスにおけるエロース・モティフが生き生きと刻み込まれているのだ。


5.ルターの革命

 以上のように、キリスト教の愛の概念の歴史には、絶えずアガペー・モティフとエロース・モティフとの抗争や融合があった。

 しかしついに、ルターにおいて、両者の関係の問題に終止符が打たれることになる。

 ルター思想の根本は、何をおいても神中心主義である。

「宗教改革において起こった偉大な宗教革命のもつ最も深い意味は、この出来心事において神中心的な宗教が明らかにされたと言うことによって、簡単に要約されるであろう。カトリックのキリスト教に対する反対運動において、ルターは完全に一定の傾向に支配されていた。出発点として何をとっても、彼の宣義の思想、彼の愛の概念、そのほか何でも——われわれはいつも同じ事柄につれ返される——すなわち、ルターは宗教の自我中心的形態全部に反対して、神に対して純粋に神中心的な関係を主張していることである。」

 したがって愛の概念からも、エロース・モティフは徹底的に取り除かれることになる。


「中世のキリスト教解釈は一貫して上昇運動の風潮によって特徴づけられていた。」


「この上への風潮、すなわち、上昇に反対してルターは抗議した。」

 ニーグレンは次のように結論する。

「キリスト教の愛は本来、人間の愛とは全く別のものであること、またその原型は、神のアガペー以外の何物でもないことを、ルターは真剣に取っていたのである。このように、愛は自発的で他によって動かされない、底のない創造的なものである。これだけのことが語られてしまえば、ルターによってキリスト教の愛について語らるべきことは、大体において皆語りおえられたのである。」    

 ニーグレンによれば、キリスト教における愛の概念は、ルターによってついに完成を見たのだ。




(苫野一徳)



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